2020年11月29日日曜日

論語雑感 公冶長第五(その9)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。

【原文】
宰予晝寝。子曰。朽木不可雕也。糞土之牆。不可杇也。於予與何誅。子曰。始吾於人也。聽其言而信其行。今吾於人也。聽其言而觀其行。於予與改是。

【読み下し】
宰(さい)予(よ)、昼(ひる)寝(い)ぬ。子(し)曰(いわ)く、朽木(きゅうぼく)は雕(ほ)るべからず。糞土(ふんど)の牆(しょう)は杇(ぬ)るべからず。予(よ)に於(お)いてか何(なん)ぞ誅(せ)めん。子(し)曰(いわ)く、始(はじ)め吾(われ)、人(ひと)に於(お)けるや、其(そ)の言(げん)を聴(き)きて其(そ)の行(おこな)いを信(しん)ぜり。今(いま)吾(われ)、人(ひと)に於(お)けるや、其(そ)の言(げん)を聴(き)きて其(そ)の行(おこな)いを観(み)る。予(よ)に於(お)いてか、是(これ)を改(あらた)む。

【訳】
宰予が昼寝をしていた。すると先師がいわれた。
「くさった木には彫刻はできない。ぼろ土の塀はうわ塗りをしてもだめだ。おまえのようななまけ者を責めても仕方がない」
それから、しばらくしてまたいわれた。
「これまで私は、誰でもめいめい口でいうとおりのことを実行しているものだとばかり信じてきたのだ。しかしこれからは、もうそうは信じていられない。いうことと行なうこととが一致しているかどうか、それをはっきりつきとめないと、安心ができなくなってきた。おまえのような人間もいるのだから」

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 なんとなく論語に書かれていることはいい事ばかりのような気がしていたが、ここではどうにもダメな男が出てきて、さすがの孔子も匙を投げているように思える。ダメな人間は本当にどこまで行ってもダメだとさすがの孔子も認めているというのは、なんとなく孔子も普通の人だという人間味を感じさせてくれる。孔子でさえそう思うのであるから、私のような凡人であればなおさら、であろう。

 日頃、人と接していて、「ダメな人だ」と思うことはしばしばある。ただ、「ダメ」と言っても種類があって、仕事や勉強やスポーツのような「何かができない」ということと、「人間としてダメ」ということである。孔子がここで語っているのは後者の例であるが、私の場合、前者のタイプと接することが多い。映画や小説では前者の場合が多いが、幸いなことに私の身の回りには前者のタイプがいない。もっとも、そういうタイプとはたとえ接点があってもすぐ距離を置くからそうなるとも言える。

 後者のタイプからは逃げられない。職場の同僚だったり取引先だったり、いろいろである。この場合、人間性は別であり、仕事以外ではいい人なんだろうなと思わされることが多い。いくら性格が良くても仕事ができるとは言えないからである。性格は良くても、何事につけ指示されることに慣れてしまっていて、「自分の意見を言ってくれ」と問うても、あるいは「考えてやってくれ」と言っても思うようにはできなかったりする。

 よく「指示待ち族」と言われるサラリーマンがいるが、それは今の学校教育の結果だと主張する人がいる。実際、指示されればきちんと仕事はするが、指示されなければ自分から積極的にやろうとはしないスタンスは、学校で真面目にやるタイプ(先生には逆らわないタイプ)の姿勢そのものと言えなくもない。私などは、ついついプラスαを求めてしまうから、指示されたことをやって、できましたと報告して終わりということで満足したくはない。

 これはスポーツでも同じで、全体練習が終わったらそれで終わりというタイプと似ている。私などは、ラグビーでも学生時代から練習前に部室に行って1人ベンチプレスをあげたり、終わった後にパスやキックの練習をしたりとプラスαをやっていた。自分のテリトリー以外でも意見を言ったり、自分の仕事でなくても、自分の方がうまくできそうだと判断したら「やりましょうか?」と代わりにやったりしてきた。だから今は「指示する立場」に変わっている。

 だが、やっぱり同じようにできない人はいるものである。そもそも指示されないことをやるという発想がない人もいる。それに指示された通りにやる発想しかない人もいる。その仕事の目的はなんなのか、そのやり方はどうしてなのか、他にもっといいやり方はないのか、そうした観点から仕事を工夫できたら違う世界が開けると思うが、そうできない人もいる。それを無能というつもりはないが、発想の練習が足りないとは言える。

 取引先には、どうにも致命傷的な担当者もいて、言われてやるならまだいい方で、言ってもやってくれないレベルになるとどうしようもない。よその会社の人であるから叱るわけにもいかない。相手の会社の上司を巻き込んでなんとかしてもらうようにしているが、なんでそんなにダメなのか、個人的にはとても興味がある。ただ、ではダメ人間かと言うとそんなことはないと思う。プライベートではいい人かもしれない。

 学校でも勉強もスポーツもよくできる生徒がいる一方、どちらもダメな生徒もいる。その差はなんなのかと問われればよくわからない。人間の能力は基本的に皆ほとんど差はないと思うが、結果として大きな差がつく理由には興味がある。幸い、「朽木は雕るべからず」と言うほどの人にはあまりお目にかかれていない。仕事においてはうまくリードしてあげればいいだけの話。きちんと指示をしてあげればいいだけの話であり、孔子のようにバッサリ切って捨てるほどではない。

 孔子の言うことは大げさ過ぎると思うが、そう思えるほどダメ人間に接していないとも言える。何はともあれ、それはそれでありがたいと思うようにしたいと思うのである・・・

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【今週の読書】
  



2020年11月26日木曜日

プラチナチケットをもらったら

 先日読んだ本(『キラッキラの君になるために ビリギャル真実の物語』)の中で、恩師である塾の先生が著者の弟にしてくれた質問として次のものが紹介されていた。

「あなたの前に、今、神様が現れたとします。そして、光る銀色のプラチナチケットをくれました。そこにあなたがしたいことを書けば、実力や環境、そして希望の結果をもたらしてくれる。そんなすごいチケットをもらったあなたは、そこに何と書きますか?」

 前後の文脈とは別にして、ふと、自分だったら何と書くだろうかと考えた。先っぽが三角の尻尾をはやした悪魔が突然現れて3つ願い事をかなえてやると言ったり、いろいろなことを妄想するのが好きなタチなのである。これはドラえもんのポケットに頼る系ではないので、現実的にできることが前提になっていると思う。ちなみに出題された弟は「何もない」と言って泣いてしまったそうである。

 それはそれとして、自分だったら何を書くだろうか。考え始めてしばしフリーズしてしまった。仕事は6年前に銀行を辞めて今の中小企業に転職してきた。それ以降は、会社を動かす仕事を任せてもらえているので、やり甲斐も感じているし、満足している。ただ、いかんせん中小企業であり、しかも厳しい状況にあり、1年は何とかなるがその先となると心許ない。この先、本当に大丈夫だろうかと不安に襲われることしばしばである。

 不安に襲われる最大の理由は、まだ下の子供が中学3年ということだ。高校・大学と普通のルートを辿るとしたらあと7年は収入を維持しなければならない。住宅ローンも半分以上返済したとは言え、まだあと14年残っている。自分一人ならカップラーメン啜ってもやっていけるが、家族を養うということを考えるとそこそこの収入は維持し続けたい。そんなことを考えると、逃げ出したくなるような不安に襲われるのである。

 しかし、だからと言ってもっと安定した大手企業に転職したいとは思わない。それは今の会社のメンバーと悪戦苦闘したいと思うからである。仮に最終的にダメになったとしても、最後までやり尽くしたというレベルには達したいと思う。左団扇の安定した会社だったらどんなに良かっただろうと思うが、自分の巡り会わせとして今の会社に辿り着いたし、自分の選択なのであるから、そこはプラチナチケットに頼らず最後まで背筋を伸ばしていたいと思う。

 週末にはシニアラグビーに参加し、楽しく練習している。ずっと慣れ親しんだフォワードから、いつかはやってみたかったバックスにポジションチェンジし、試行錯誤を重ねながら練習している。思うように動けなかったりダメだしされると凹むし、うまい選手と比較すると気後れするが、だからと言ってプラチナチケットに頼って上手くなりたいとは思わない。楽して上手くなるより、自分で創意工夫し努力してうまくなりたいと思う。その過程もまた楽しいと思うからである。

 資格はもう取ってしまったが、マンション管理士の資格は試験が無茶苦茶で、受かる気がしなかった。大して意味がある資格でもなく、名刺の肩書にしかならない(それでも名刺の肩書が欲しくて取ったのであるが・・・)のに、難しすぎるのである。根を上げたくなったが、それでも実力で取った方が気分がいいし、「意味がない資格」だと言い放てるのも実力で受かったからこそである(受かると逆に意味のない難しさも意味があるように思えてくるのであるが・・・)。

 そう考えると、チケットをもらっても何に使うとなってしまう。望む結果は手に入れたいが、それはプラチナチケットによって叶えてもらうのではなく、自分の力で叶えたいと思うからである。結果はほしいが、プロセスを踏んで手に入れたいというところだろうか。それでもそんな風に考えられるのは、まだ余裕があるからだろう。本当に会社が立ち行かなくなって収入を失ったら、そんなことは言っていられないだろうと思う。

 今の職を失ったら、果たして収入は確保できるだろうか。アルバイトぐらいは何とかなっても、掛け持ちしたところで家族を支えるのは無理だろう。そうなると、「神様、仏様」となるかもしれない。それは考えるだけでも恐ろしい未来である。その時そのタイミングでチケットが手に入ったら、また違う答えになると思う。結局、チケットの話は、今自分に何ができるか、自由にやるとしたら何をやるかという問い掛けに他ならない。そういう意味では、現状は「やれている」と言えるかもしれない。あとは結果がついてくるかどうかである。

 それでももしも本当にそんなプラチナチケットが手に入ったらどうするだろうか。その時はたぶん、それを欲する人に高く売って一儲けしたいと不純にも思うのである・・・


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【本日の読書】
 



2020年11月23日月曜日

言葉の力

初めに言葉があった
言葉は神と共にあった
言葉は神であった

(ヨハネによる福音書)

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 今さら言葉の持つ力を力説するつもりはないのだが、やはり言葉は偉大だと思う。人類がなぜ他の動物たちとは異なって文明を築き上げることができたのかと言えば、それはやはり言葉があったからだろう。人間と生物の1番の大きな違いは、「言葉を持っているかいないか」の差だと思う。言葉と、そしてそれを表す文字こそが人類最大の発明なのではないかと思えてならない。

 生物の中にはある種の言葉を持つものもいるという。ミツバチはダンスで蜜のありかを伝えるというし、イルカの超音波なども「情報を伝える」という意味では言葉と言えるかもしれない。その他にも匂いや音などを利用した情報伝達手段を持っている生物は数多くいるのだろう。ただ、それらと人類の言葉との大きな違いは、「時間を超えられない」ことだろう。人間の言葉は1年後も100年後も1000年の時間さえ超えて伝えることができる。

 ミツバチのダンスもイルカの超音波も、およそ人間以外の生物の「言葉」はその時限りのものである。それに対して、人間の言葉は時間を超えられる。保存ができるというのが最大の特徴だろう。だから今でも1000年前に書かれた『源氏物語』を読むことができるし、鎌倉時代に成立したと言われる『平家物語』を読むこともできる。それどころかディケンズやトルストイなど時間どころか距離も超えて見も知らぬ人の文章を読むことができる。これはすごいことだと思う。

 他人のものもそうだが、自分の言葉も残すことができる。だから日記を読めば10年前の今日何をしていたのかもわかるし、どんなことを考えていたのかもこのブログを読み返せばわかる。このブログを始めたのは、2008年の11月22日であり、ちょうど12年前ということになる。このブログを始めた理由は、まさに自分の考えていることを残そうと思ったことである。だからPVもほとんど意識していない。自分の書いた文章であるのに、時が経てばどこかの人が書いたもののような感じがして不思議である。

 日記の場合、読み返せば「あの時こんなことをしていたのか」という記憶が呼び起こされたりする。まるっきり記憶からなくなってしまっているのもあれば、読むことによって思い出すことがある。忘れてしまったものならともかく、覚えているのに思い出さないでいるのは何かもったいない気がする。時には覚えていたはずなのに違って記憶していたりすることもある。人間の記憶は結構いい加減なものであるが、言葉がそれを正してくれる。

 毎週末にシニアラグビーの練習に行っているが、集合時間や場所も事前に連絡取り合える。様々な意思の疎通ができるから、仕事も趣味も買い物もスムーズな日常生活が送れる。海外旅行をした時に、言葉が通じないと買い物ひとつするのにも苦労することを考えれば、それもよく実感できる(まぁ身振り手振りでもなんとかなったりするけど・・・)。コロナ対策も全国レベルで同じように行動できるのも言葉があるからである。しかしながら、そんなに便利な言葉があるのに誤解を招くのも面白いことである。

 私の嫌いな言葉に「以心伝心」がある。「言わなくてもわかる」というものであるが、昔から私はこれが大の苦手。「言われないとわからない」というのは今でも変わらない。人が心の中で考えていることなど、他人にわかるわけもない。もちろん、「以心伝心」もまったくないわけではなく、親しい間柄でお互いをよく理解していれば十分ありうるであろう。事前のコミュニケーションができている場合に初めて成り立つことであり、基本はあくまでも「不伝心」である。

 言葉を持って説明してもうまく伝わらない、曲解されるなんてこともよくある話。20年以上夫婦をやっていてもそうなのであるから、もう普通の人間同士であれば正しく伝わらなくても不思議ではない。考え方が違うのは仕方ないとしても、せめてこちらの真意が正しく伝わっては欲しいと思う。人間は言葉を生み出し、それを利用して知識を蓄え、それを伝えて蓄積し、他の生物には見られない自然の摂理に反したとも言える発展をした。言葉はその原動力であるが、それはまだ完全なものではない。

 昔、好きだった漫画に『超人ロック』というのがあった。未来の世界で活躍する超能力者の話である。もちろん、テレパシーもできる。心に思うだけで相手に考えが伝われば、いらぬ誤解も受けずに済むかもしれない。言葉はそんな空想の産物に比べると随分不自由である。想いを伝えるなら、精一杯言葉を尽くさないといけない。聞くにしても同じである。不完全だからこそ、努力を要するのだろう。キャッチボールの基本は相手の胸めがけて投げ、相手のボールは両手でしっかりと取ること。ボールであろうと言葉であろうと、キャッチボールの基本は同じだと思う。

 言葉の語呂合わせで、「いい夫婦の日」に始めたブログ。夫婦の先は長くないと思うが、言葉のキャッチボールだけは基本通りにやっていきたいと思うのである・・・


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【今週の読書】

 



2020年11月18日水曜日

いつまでアイドル?

 ジャニーズの嵐が活動休止するそうである。私は嵐のファンでも何でもなく、そう聞いても「ふ~ん」と思うだけである。ニュースが目に止まったのは、娘がその昔ファンであり(今は関ジャニである)、現在活動しているアイドルグループで私が唯一メンバーの顔と名前を知っているグループでもあるということがある。そんなわけで、なんとなく親近感を抱いているとも言える。

 華やかな人気アイドルグループと言っても、よくよく聞けばメンバーはみんな30代後半のいい大人である。もうアイドルもないだろうという感じがする。同じ人気グループでもサザンオールスターズなんかはもう還暦なのに活動しているので、アーティスト活動自体は違和感がないとしても、年齢的には若い女性に「キャーキャー」言われるアイドルという存在ではないだろう。今後、嵐の各メンバーがソロ活動に入るのかどうかは知らないが、一旦「アイドル」に区切りをつけるという意味ではいいのではないかと思う。

 それはそれとして、リーダーの大野智が週刊文春で女性とのラブラブ写真を掲載されていたようである。もう別にいい大人なんだからどうということもないが、やはり芸能人の恋愛はニュースネタとしては美味しいのかもしれない。それに関して、ジャニーズでは恋愛禁止という不文律があるとネットニュースで知った。まぁ、女性アイドルグループでもそういうルールはあるようだし、なんとなく理解できるが、それをいつまで適用するのかは興味深い。

 アイドルが恋愛禁止なのは、ファンに夢を売るからだろう。大好きなアイドルが彼氏彼女ができたとなれば、ファンはがっかりするかもしれない。しかしながら、それもある程度の年齢までであろう。アイドルだって人間だし、人を好きになるのは自然な事。ある程度の期間限定ならともかく、ずっとはあり得ないだろう。まぁ、ずっと恋愛に縁のない人も一般にはいるだろうが、アイドルとなればモテないということはないので、それはあり得ない。それを禁止するのは、大げさに言えば人権侵害である。

 私もその昔はキャンディーズが好きだったが、アイドルに憧れたのはその時だけ。以降は卒業したし、それ以降好きなタレントが結婚してもどうとも思わなかった。自分が結婚できるわけではないからである。だから竹内結子が結婚して(離婚して再婚して)も、北川景子が結婚しても満島ひかりが結婚しても、引退さえしなければ気にもならなかった。ファンも一定の年齢になればそんなものではないかと思ってみたりする。ちなみに我が娘は、中村倫也が結婚したら、「ショックは受けるけどファンは辞めない」と言っている。そんなものだろう。

 しかし、文春がわざわざ得意気に掲載するということは、それがニュースになるということだからだろう。それは恋愛禁止のジャニーズにあって禁を破ったからなのか、それともアイドルの恋愛そのものが世間の耳目を集める話題だからなのかはわからない。それはともかく、わざわざ文春に掲載されると何か後ろめたいことのようなイメージがする。何となくそれは気の毒に思える。大野智もアイドルだから若く見えるが実年齢は39歳だというから、もう恋愛の1つや2つや3つは当たり前だろう。「放っておけばいいのに」と思わざるを得ない。

 もちろん、それが不倫だとか、お遊びだとかになれば面白半分に暴き立てるのもゴシップ紙の大事な役割だろう。そうでない真面目なものなら、気がつかない振りをする「大人の対応」をしたいものだと思う。それにいつまでもアイドル扱いするのではなく、大人のタレント扱いにすればいいのではないかとも思う。彼氏彼女ができてもオープンにすれば週刊誌ごときに追いかけ回されることもないし、不自然な「神聖化」よりもはるかにいい気がする。若いファンの獲得は同年齢の新しいアイドルに任せて、ファンの年齢とともに成長するようにすればいいように思う。

 若い頃は、恋愛自体に憧れもあり、それをアイドルを対象にして疑似恋愛をするという意味合いがあるのだと思う。その意味ではアイドルに付き合っている人がいてはいけないし、ましてや結婚などダメであろう。それは疑似恋愛をしていたファンを「失恋」させることになるからである。しかしながらファンも成長するし、自分自身も実際の恋愛をするだろう。そうなればアイドル相手の疑似恋愛も卒業すると思う。ファンもそうである以上、アイドルも疑似恋愛の対象から卒業してしかるべきである。

 大野智が一般女性と幸せそうなショットに収まっているのは、ファンでなくても見ていて微笑ましいものである。週刊文春がこれを採り上げた真意はわからないが、おじさんとしては微笑ましく好感を持って眺めた次第である。活動停止の理由はよくわからないが、こういう人として自然な幸せを堪能していけるのであれば、それもいいのではないかと思う。もしも偶然レストランで2人で食事しているところに隣り合ったとしても、気がつかないフリぐらいはしたいと思う。

 ジャニーズ事務所もアイドル戦略をそろそろ見直した方がいいのではないかと、素人的には思うのである・・・

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【本日の読書】
 




2020年11月15日日曜日

論語雑感 公冶長第五(その8)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。

【原文】
子謂子貢曰。女與回也孰愈。對曰。賜也何敢望回。回也聞一以知十。賜也聞一以知二。子曰。弗如也。吾與女弗如也。

【読み下し】
子(し)、子(し)貢(こう)に謂(い)いて曰(いわ)く、女(なんじ)と回(かい)と孰(いず)れか愈(まさ)れる。対(こた)えて曰(いわ)く、賜(し)や、何(なん)ぞ敢(あ)えて回(かい)を望(のぞ)まん。回(かい)や一(いつ)を聞(き)いて以(もっ)て十(じゅう)を知(し)る。賜(し)や一(いつ)を聞(き)いて以(もっ)て二(に)を知(し)るのみ。子(し)曰(いわ)く、如(し)かざるなり。吾(われ)と女(なんじ)と如(し)かざるなり。

【訳】
先師が子貢にいわれた。 「おまえと回とは、どちらがすぐれていると思うかね」 子貢がこたえていった。 「私ごときが、回と肩をならべるなど、思いも及ばないことです。回は一をきいて十を知ることができますが、私は一をきいてやっと二を知るにすぎません」 すると先師はいわれた。 「実際、回には及ばないね。それはおまえのいうとおりだ。おまえのその正直な答はいい」

Web漢文大系

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 銀行員時代のこと、ちょうど最初の昇格が目の前にあったときのことである。同じ支店に同期がいて、次の昇格のタイミングでどちらかが昇格できるはずであった(あるいはどちらもできないか)。2人ともということはなく、かと言って私も同期を蹴落とすようなつもりはなく、ただ自分のなすべきことだけをきちんとやろうという心境で日々を過ごしていた。そんな私のスタンスが、当時の支店長には物足りないと思われていたのかもしれない。

 半年に一度の面談で、私は支店長から質問された。「お前は同期のSと比べてどちらが優れていると思うか」と。私は同期のSの方が業績には貢献していると思うと答えた。当時、Sは営業で支店の業績推進に邁進していた。私は融資担当で、役割からいえばオフェンスよりディフェンスと言えた。単純に比べることはできない。「業績」という点では確かにSの貢献の方が大きかったかもしれない。だが、融資に関しては、審査を通したりする面で私もそれなりに貢献していたと心の中では自負していた。しかし、先に昇格したのはSの方だった。

 もう20年以上前のことだし、別に今更恨み言を言うつもりはない。ただ、人にはそれぞれの持ち味があると思う。その時、営業に関しては確かにSの方が私よりも優れていたと思う。同じ土俵で勝負していたら負けていたかもしれない。しかし、融資という土俵で勝負していたら、たぶん私の方が優れた結果を残していたと思う。お互いに性格も違うし、得手不得手がある。それはエースピッチャーと4番打者のどちらが優れているかを比べるようなものだろうと思う。どちらもなくてはならないし、高校野球ならともかく、普通エースピッチャーで4番打者を兼ねられるものはほとんどいない(世界でも大谷翔平くらいだ)。

 人間の能力なんてそんなに大差はないが、範囲を狭めれば差が出てくる。走るという分野に限れば、早く走れる者とそうでない者にははっきりと差が出る。しかし、「短距離走者と長距離走者のどちらが優れているか」と問われれば答えに窮する。それは土俵が違うから比べようがないのである。勉強が得意な者とスポーツの得意な者とどちらが優れているかも同じである。いろいろな人間を集めて、それぞれ得意分野で活躍させるのが会社のいいところで、優れた営業マンだけを集めても問題のない会社が作れるとは限らない。

 当然、と言えば当然である。会社で言えば適材適所。落語で言えば十人十色。文系人間がいて理系人間がいる。一律に1つの基準で測ろうとすればどうしても測りきれないことが出てくる。4番打者がピッチャーができないからとダメ出しされたら、せっかくの打撃の才能が活かせないことになる。その場合、監督がその才能を見極めて、適切なポジショニングをしなければチームは選手の才能を活かせず、したがって勝てもしないだろう。当たり前と言えば当たり前であるが、世の中は必ずしもそうではない。

 当時、支店長の推薦枠は各支店で1名だった。したがって、私とSが同時昇格することはまずなかった。そもそもそれも理不尽だと思う。例えば私よりもSよりも劣る人間でも、違う支店であれば昇格できることになるからである。現に私もあの時同じ支店にSがいなければ昇格できていた可能性は非常に高い。実力+運が必要といううことなのだろう。今の自分であれば、日常どう振る舞えばよかったのかはなんとなくわかるので、Sではなく自分が昇格できた可能性はあると思うが、残念ながら当時の私にはそこまでの能力はなかった。

 そんなことを経験すると、ある人物の一面だけを見てその人を判断するのはいけないということはわかる。もちろん、スポーツのポジション争いとか、仕事でもある分野とか、限られた範囲内での優劣はあるだろうし、そういう評価の違いも必要だろう。だが、そこで劣っていたとしても、それはその人のごく一部の面ということになる。すべての面において劣っているというわけではないのだが、得てして人は「一を知って十決めつける」的なところがある。

 しかし、当然ながら人はどこに才能が眠っているかはわからない。あるスポーツではパッとしなかったものの、別のスポーツで開眼することはあるし、転職して成功する人もいる。「見返す」ことができるわけであり、だから1つの「低い評価」を気にすることもないわけである。子貢は回よりも一を聞いて二しかわからないという点で回よりも劣っていたが、しかし正直さという点で師の評価を得られたわけである。己のことであれば卑屈になることはないし、他人のことであれば他のいい面を探す必要があるだろう。

 そんなことを考えていくと、ある面に置ける得手不得手に惑わされることなく、自分においても他人においても、その持っているいい面を見られる人間でありたいと思うのである・・・

Frederic WillocqによるPixabayからの画像

【本日の読書】
  




2020年11月11日水曜日

創意工夫が大事だ

 仕事ができるとはどういうことかについてはいろいろあると思うが、できる人には何が必要かということについては持論がある。それは「考え方」「情熱」「創意工夫」である。仕事に対する「考え方」はあらゆるものの基本であるし、壁に行き当たった時に突破していく気持ちを奮い立たせるのは何よりも「情熱」だし、ただ闇雲に猪突猛進するのではなく、「どうしたらできるのだろうか」という「創意工夫」がなくてもダメだろう。それが仕事における三種の神器だと思っている。

 その中の「創意工夫」については、できない人が意外にも多いのだとこの頃感じさせる。その昔、初めて部下を持った時は、とにかく「どうしたらできるか考えなさい」といつも言っていた。すぐに「無理です」というのが得意な部下だったということもあるが、「なぜできないのか」、「どうしたらできるのか」、それを考えればすべてできるとは言わないが、かなりできるのではないか。そんな風に思えて、なんども指導したのである(ダメだったけど・・・)。

 たとえばここ何年も宅建の試験を受け続けている人がいる。私は2年目で合格したが、1年目に不合格となった時、なぜ合格できなかったのか、合格するまでにはあと何点取ればいいのか、何を間違えたのか、次はどんな勉強をすればいいのか、そうしたことを諸々考え、2年目は1年目の足りなかった部分を補って受験した。当然、1年目よりパワーアップしているわけで、2年目では合格した。同様にもうちょっと難しいマンション管理士は3年目で合格した。

 それは試験だけではなく、スポーツなどでも同じである。負けたのならそれはなぜ負けたのか。何が足りなくて、それはどう補えばいいのか、そのためには何を鍛えればいいのか。そうして2回目に戦う時は、1回目よりもパワーアップしているはずで、したがって勝てる可能性は高くなる(ただし、相手も努力しているから結果はわからない)。そういう「創意工夫」は、仕事では当たり前だと思ってきたし、自分でもあれこれいろいろと考えている。

 しかしながら、何年も宅建を受け続けている知人は、そうした創意工夫の形跡が見られない。同じようなことを同じように繰り返しているのだろうと思うが、したがって同じ結果にしかならない。何年も受け続ける根性は大したものだと思うが、何の創意工夫もなくただ受け続けて落ち続けているのは、まったく脳がないとしか言いようがない。仕事でも日常のルーティンを淡々とこなし続けているだけで、何の工夫も変化もないというのはこの手のタイプであるように思う。

 これが「手抜き」なら、話は別で、「どうやったら楽できるか」という工夫は割とするのかもしれない。個人的にはそれも創意工夫であり、悪いことではないとむしろ肯定的に思う。手抜きを責めるよりも創意工夫を褒める気持ちの方が強いのは、それが応用できればそれに越したことはないと思うからである。ただ、やはり何らかの目標があって、それを突破するような創意工夫が望ましいことは言うまでもない。目標でなくても困難な壁でもいいと思う。

 個人的にはそれは特段難しいことではなく、当たり前の思考パターンだと思う。したがって、「できない」と言って終わってしまう人のことはよく理解できない。前述の部下も「もう無理です」と言うだけで、それ以上の努力をしようとはしなかった。代わりにやってみせても、私だからできるのであって自分には無理という考え方であった(ここでも「考え方」が重要な所以である)。

 「できない」と思えばできないし、「できるのではないか」と「考え」ればできるかもしれない。こうやったらどうだろうかとか、あるいは誰かに知恵を借りに行くのでも良いかもしれない。とにかく、「どうしたらできるだろうか」と考え続ければ道は開ける可能性がある。年齢的に覚えられなくなってきているならどうやったら覚えられるかを工夫すればいい。1時間かかるならかければいいし、1時間でダメだったら2時間かけてみてもいい。そういう工夫はいくらでも出てくると思う。

 そういう工夫をせずに、「ダメでした」、「できません」、「仕方ないです」と悪びれるでもなく、また同じことを繰り返すのは、私的には信じ難い愚行である。同業者でも10年近く宅建の試験を受けているのに受からないという人の話はよく聞く。そういう人の仕事ぶりは、見なくても想像できてしまう。人は人でそれぞれの考え方があって、仕事よりも大事なものがあって、仕事は片手間でそんなことまでやっていられないという「考え方」なのかもしれない。それを否定するつもりはないが、自分としてはただ冷ややかに見るだけである。

 人の事はともかく、自分としては、仕事であれシニアのラグビーであれ、自分で熱意をもってやることに関しては、きちんとやりたい。お金をもらうならそれなりに責任を果たしたい。「できない奴」とは言われたくない。そのためにも、これからも創意工夫し続ける人間でありたいと思うのである・・・


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【本日の読書】
 




2020年11月8日日曜日

LGBTに思う

 今、『Auオードリー・タン-天才IT相7つの顔-』という本を読んでいる。オードリー・タンは、2016年に35歳で台湾のIT大臣となった人物で、今回のコロナ禍において、台湾はいち早く封じ込めに成功したが、その一部陣頭指揮を取ったことでも注目を浴びた人物である。その人となり、および青少年時代の天才振り(IQは180だそうである)は、確かにただ者ではない。しかしながら、個人的に興味深かったのは、「トランスジェンダーである」というところである。

 オードリー・タンは、生まれた時は男であったそうであるが、今現在は女性として公式に活動しているとのこと。昨今、LGBTという言葉が市民権を得ており、すっかり違和感はなくなっている。体は男だが心は女。体は女だが心は男。そんなことを言われても、ピンと来ない。また、男なのに男が好き、女なのに女が好きというのも同様(と言っても「女が好き」という部分は理解できる)。最近は、LGBTだけではなく、もっと細かく分類できるようであるが、もう訳がわからない。

 私が若い頃、まだLGBTが市民権を得ていない頃は、「男は男らしく、女は女らしく」というのがもっと当たり前で、ナヨナヨしている男などは一段下に見られる傾向があった。「女の腐ったような奴」というのは、男に対する侮蔑言葉であったし、大人しくて声の小さい男子は、「シャキッとせんか!」と体育の先生に喝を入れられるイメージであった。もちろん、「体は男だが心は女で恋愛対象は男」というトランスジェンダーは「気持ち悪い」というのが当たり前の時代であった。

 かつてアル・パチーノ主演の映画『クルージング』というのがあって、この映画はゲイがテーマになっていた。ゲイとは「心も体も男だが恋愛対象も男」というタイプで、自らの体を鍛えた黒革レザーのマッチョの男たちが力強い口づけを交わすというイメージがある。映画『クルージング』では、ニューヨークのゲイ・エリアが背景に描かれていて、男ばかりのバーの中に黒いタンクトップ姿の主人公が入って行くのだが、店内の雰囲気が実にショッキングだったのを覚えている。

 その後、エイズが蔓延し、しかも同性愛の人たちが多く罹患したことから、一種の天罰的な風潮が流れた。ソドムとゴモラではないが、道徳に反することをやっているからそうなるのだと。今から思えばそれもエイズに対する理解不足があったからであるが、少なくとも社会の同性愛に対する批判的な雰囲気が後押ししたのは間違いがない。今、仮に同性愛者間で何らかの疫病が流行ったとしても、もっと冷静に受け止められるだろうという気がする。

 自分は極めてノーマルで、「男は男らしく、女は女らしく」という考え方を持っているが、その「男らしく」というのも考えようによっては怪しいものである。例えば我々のイメージする「男らしく」と、アフリカのどこかの種族のそれとは必ずしも一致していない。その種族は戦いの前に顔にペイントするかもしれないし、アメリカのインディアンも顔にペイントする。それは女性の化粧と目的こそ違えど変わらないだろう。つまり「らしく」というのは、文化的社会的に決まってくるもので、人間が生まれながらに備えたものではない。

 昨今は、男も毛深いのが嫌われるからと言って「お手入れ」する男も多いようだが、これとて私の感覚からいけば蹴りを入れたい部類である。松本零士の漫画『キャプテン・ハーロック』には、長い間の平和ボケで、戦うことを忘れ、化粧をしハイヒールを履く男たちを嘆くシーンがある。それもSFの世界というより現実味を帯びてきているが、それに違和感を抱くことが、もう違和感を持たれる対象になっていくのかもしれない。男女がデートで化粧品屋に寄ってお揃いのファウンデーションを選ぶのもおかしくない時代になっていくのかもしれない。

 そうなると、「男は男らしく」などと主張していると、頭の古いジジイといつか言われてしまうのかもしれない。今の流れからいけば、個人の価値観は変化していくものであり、男だから女だからという感覚は捨てなければならなくなるのかもしれない。体は男だが心は女という人が、体は女だが心は男という人と結婚して、しかし生殖機能は変えずに子供をもうけたら、「男が子供を産む」ことも現実となる。

 あるいはノーマルな男が好きになった女が、実はトランスジェンダーのゲイで、たまたまお互いの趣向が一致して同性婚で結婚して子供を産んでも同じである。生まれた子供からすれば、「僕のお母さんは(法律上は)男」となるわけである。そんな組み合わせを考えていったら暇なんかいくらあっても足りない気がする。なんだかややこしい世の中になっていくのだろうか。

 LGBTの人たちが差別されずに堂々と生きていけるような社会を作ることは大事なことだろう。私もノーマルを捨てる気はまったくないが、少なくともLGBTの人たちを認めることには抵抗はない。とは言え、自分としては自分の思う「男らしさ」をいつまでも追求し、女性の胸とお尻に魅力を感じる心をいつまでも持ち続けたいと思うのである・・・


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【今週の読書】
   



2020年11月4日水曜日

大阪都構想雑感

 先日、大阪で「大阪都構想」を巡る住民投票があり、僅差で反対派が勝利した。都民としては、よその家の出来事であり、どうこうということはない。嬉しくもないし残念でもない。大阪府民のみなさんの判断なのでどうこう言うつもりもない。ただ、新聞ではメリットばかりが報じられていたので、なんで反対なのかがよくわからない。僅差ということは、一長一短だったのだろうと思うが、マスコミにはもう少し反対の声の内容を伝えてほしかったとだけは思うところである。

 報道によれば、都構想を行う目的は2つあり、1つは大阪府・市の二重行政を解消して大阪が成長する土台をつくること、もう1つは行政を細分化することで、きめ細かな住民サービスを拡充することだという。それだけ聞けばメリットの方が大きそうで、なんで反対の人がいるのかよくわからない。投票に行くのは高齢者が多いだろうが、高齢者は得てしてよくわからないものに対しては否定的に反応する傾向があるから、もしかしたらそういう理由なのかもしれない。

 また、総論賛成各論反対的なところもあるもしれない。つまり、大阪全体としてはいいが、自分には不利益があるから反対ということである。そこで思い出すのが、私が銀行員時代のこと。時間外勤務の削減ということがずっと言われていた。銀行全体としては、時間外勤務は人件費となり経費である。より多くの収益を上げるためには経費の削減が必要であり、したがって時間外勤務を抑制し経費を抑えようという目論見である。だが、ずっと言われていたということは、掛け声に関わらずうまくいっていなかったのだろうと思う。それは当然かもしれない。

 そもそも、銀行全体としては「費用」であっても、従業員個々人にとっては給与であり「収益」である。当然、「より多く」という考えが働く。「より少なく」と考える「費用」とは違う。なんで努力して減らそうとする者がいるだろうか。もちろん、私もそう考える1人であった。そもそも銀行員は多忙であり、仕事はいくらでもある。1時間の仕事を2時間かけてやる公務員のような真似はしなかったが、かと言って30分でやろうとも思わなかった。

 もちろん、銀行全体の収益力が向上すれば、それは巡り巡って従業員への還元、つまり基本給のアップという形で1人1人に給与収入の増加をもたらしたのかもしれない。しかし、それは約束されない希望(理論)でしかない。目の前の確実な残業手当にはかなわないのである。かくして上(経営)で笛吹けど、下(現場)では踊らないという事態が発生する。いくら「収益力が向上すれば給料が上がりますよ」と言っても個々の心には響かない。傍から見れば、時間外の削減は「早く帰れるというメリットもあるのになぜ反対する(実行しない)のだろうか」となるわけである。

 また、自分の経験からいくと、「思ったように考えは伝わらない」ということもある。我が社でも「これはいい」と思ったアイディアが通らないことはよくある。「こんなに説明してもまだわからないのか」とか、「何でそんな風にひねくれた解釈をするのか」ということは日常茶飯事である。そこには「伝え方」の問題と「理解力」の問題とがあるが、こればかりはいかんともしがたい。特に「伝え方」は何とかなったとしても「理解力」だけはどうにもならない。大阪でもそういうことがあったかもしれない。

 まぁ、都民の立場から詳しくわからないことをあれこれ論じるつもりはないし、きちんとした分析は専門家がきっといくらでもしっかりやってくれるのだろう(新聞には乗らないけど)。そんなことに立ち入るつもりはないし、わかった風なことを言うつもりもない。ただ何となく身の回りの事象に当てはめて考えてみると、そんなことを感じたりするのである。

 それにしても、私はと言えば、今は中小企業と言えども役員待遇なので時間外手当はない。したがって自由に働けているという感覚である。昔は、時間外手当と言っても青天井ではなく、「年間上限360時間」という法律の縛りがあったから大変であった。何とか超えないように四苦八苦し、年間の時間外労働時間が「359時間50分」という時もあった。ただでさえ忙しいのに、そんなところにも気を回さないといけなくて、それが労働者保護になっているのかどうか疑問に思ったものである。

 最期はわき道にそれてしまったが、大阪府民の今回の決定が良かったのか悪かったのかはわからないが、つらつらとそんなことを思い出しながら考えてみたのである・・・



【本日の読書】



2020年11月1日日曜日

論語雑感 公冶長第五(その7)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。
【 原文 】
孟武伯問。子路仁乎。子曰。不知也。又問。子曰。由也。千乘之國。可使治其賦也。不知其仁也。求也何如。子曰。求也。千室之邑。百乘之家。可使爲之宰也。不知其仁也。赤也何如。子曰。赤也束帶立於朝。可使與賓客言也。不知其仁也。
【 読み下し 】
孟(もう)武(ぶ)伯(はく)問(と)う、子路(しろ)は仁(じん)なるか。子(し)曰(いわ)く、知(し)らざるなり。又(また)た問(と)う。子(し)曰(いわ)く、由(ゆう)や、千(せん)乗(じょう)の国(くに)、其(そ)の賦(ふ)を治(おさ)めしむべきなり。其(そ)の仁(じん)を知(し)らざるなり。求(きゅう)や何如(いかん)。子(し)曰(いわ)く、求(きゅう)や、千室(せんしつ)の邑(ゆう)、百乗(ひゃくじょう)の家(いえ)、之(これ)が宰(さい)たらしむべきなり。其(そ)の仁(じん)を知(し)らざるなり。赤(せき)や何如(いかん)。子(し)曰(いわ)く、赤(せき)や、束帯(そくたい)して朝(ちょう)に立(た)ち、賓客(ひんかく)と言(い)わしむべきなり。其(そ)の仁(じん)を知(し)らざるなり。
【訳】
孟武伯が先師にたずねた。
「子路は仁者でございましょうか」
先師がこたえられた。
「わかりませぬ」
孟武伯は、しかし、おしかえしてまた同じことをたずねた。すると先師はいわれた。
「由は千乗の国の軍事をつかさどるだけの能力はありましょう。しかし仁者といえるかどうかは疑問です」
「では、求はいかがでしょう」
先師はこたえられた。
「求は千戸の邑の代官とか、百乗の家の執事とかいう役目なら十分果たせましょう。しかし、仁者といえるかどうかは疑問です」
「赤はどうでしょう」
先師はこたえられた。
「赤は式服をつけ、宮廷において外国の使臣の応接をするのには適しています。しかし、仁者であるかどうかは疑問です」
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 人にはそれぞれ得手不得手がある。不思議なもので、我が家でも娘は小学校の時、算数は得意だが社会が苦手であったが、息子は逆に算数が苦手で社会が得意であった。親子でも私と息子は足が速くて野球が好きでという共通点はあるものの、私はバレーボールが苦手だったが息子は得意な方だという。私の父親は子供の頃、長距離が得意だったそうであるが、私は短距離派である。十人十色と言われるが、人は同じ遺伝子を持っていても皆それぞれである。

 それは一体何故なのか、よく考えてみれば当たり前のようであり、当たり前でないようでもある。もしも当たり前だというのであれば、今の教育システムのあり方はそれでいいのだろうかという気もする。一応、義務教育は一律でいいとして、高校から先は普通高校に加えて工業高校があったり商業高校があって、大学では文系理系の違いがあって、それぞれ得意な分野を選択できるようになってはいる。

 ただし、現実的には総合的にできるのが良しとされ、工業高校や商業高校に行くのは、普通高校に行けない「落ちこぼれ」的なイメージが根強い。そして普通高校へ進学し、文系理系の別があったとしても大学進学するのが普通と世間ではされている。それが証拠に大企業は大学新卒一括採用が中心。ルートから外れれば、まず大企業への就職はままならない。それがすべてとは言わないが、それ以外から這い上がろうとするとなかなか大変である。

 高校時代のラグビー仲間は2人を除き皆大学へ進学した。そして普通に就職してサラリーマンになっている。しかし、大学に進学しなかった高卒組は、それぞれ自分で会社を経営したり、業界の著名人になったりしてサラリーマンよりも稼いでいるみたいだ。ルートを外れてもできる奴はできるし、できない奴は底辺をさまよう。その振幅はサラリーマンよりも大きい。だから世の親は安全策をとってルートに乗るようにと考えるのであるが、どちらがいいかは人それぞれである。

 ルートに乗るのが良いのか外れるのが良いのかも人それぞれだろう。算数でも国語でも社会でもなんでも満遍なくよくできて、高校・大学とそれなりのところへ進学して、大企業にでも就職すれば親としては大満足だろう。しかしながらそれは由や求や赤の姿のようではないかと思う。孔子からみれば軍事や役人とか外交官としてはいいが、「仁者であるかどうかは疑問」と言われてしまう。「仁」は孔子が大事にしていた概念であるが、それがないとダメだと孔子は言うのである。

 私としては、人生は「考え方」だと思う。いい高校へ行き、いい大学へ行き、いい会社に就職するだけでなく、失敗しても立ち上がれること。窮地に陥ったその時、「どう考えられるか」ではないかと思う。算数が得意なら算数を利用して何かではないかと考え、それが国語なら国語、社会なら社会であるが、そうして自分ができる範囲内で何ができるかを考えてもがけるかどうか。せっかく入った大企業も辞めざるを得なくなるかもしれない。病気になるかもしれないし、人生どういう試練・不運があるかもしれない。その時、どうするかである。

 孔子は仁者であるかどうかを大事にしていたようであるが、それが他にどんな特技があることよりも大事だと考えていたのだろう。仁者でありさえすれば、そのほかのことはなんであろうと問題がないと。その通りだと思う。「仁者」は孔子の大事にしていたものであるが、私は「たくましく生き抜ける考え方」を大事に考えたい。それがあれば、なんとかなると思うからである。

 自分自身、働くことができる残り時間は短くなっているが、中小企業ゆえに会社自体が先行き不安である。もしもの時どうするか、はこの頃よく考えていることである。必死に考えてなんとなかするしかない。そしてそれは子供たちに対する手本でもあると思う。人生何があるかわからないし、たとえ失敗や不運に遭ってうまくいかなくなったとしても、そこからどう生き抜いていけるか。子供たちもいつかそんなことになるかもしれず、その時手本になれるのならそれはそれで親の役目としていいだろうと思う。

 悠々自適とは程遠いが、そんな不安と戦いつつ、人生に必要な「考え方」をしっかり持ってやっていきたいと思うのである・・・

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【今週の読書】