論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。
【原文】************************************************************************************
やりたいことがあるが、一人ではできない。仲間がいればいいが、しかしいればいいというものでもない。当然、やれるだけの能力がないといけない。そしてそんな能力を持った仲間はいない・・・そんな状況は、思い浮かべてみれば身の回りに溢れているように想う。仕事しかり、スポーツしかりである。仲間がいるのは何よりであるが、物足りない。でも文句も言えない。大いなるジレンマである。
スポーツでは、特にチーム競技となると試合に必要な最低人数というものがある。野球なら9人、サッカーなら11人、ラグビーなら15人などといった具合である。もちろん、少なくてもできるが、当然穴が空いた分、戦力は落ちてしまう。ラグビーでも社会人になって以降は、そんなことがよくあった。15人集まらなくて相手チームから選手を借りたり、あるいは15人しかいなくて給水係などがいなかったりということもあったのである。やっぱり「いるだけでありがたい」というのはある。
ただ、たとえ15人揃っても、ポジションによって人がいなくて慣れないポジションをやったり、あるいは経験の少ない人を入れたり、相手チームの選手を借りた場合はサインプレーができなかったりという「戦力ダウン」の状況があったりする。いるだけでもありがたいわけで、文句を言うべきではないが、そうは言ってもという割り切れなさは残ったりする。私も年に一回、高校のOBチームで試合をするが、その時だけ集まる即席チームなので、連携プレーは満足にできず物足りなさをよく感じている。
仕事でも吹けば飛ぶような中小企業ゆえ、色々と新しい手を打つ必要がある。しかし、その時必ずネックになるのは、「誰がやるのか」と言うこと。なにせ社員数わずかの会社であることに加え、我が社では年齢層が高く、男性では私が最年少。何をやるにしてもまず自分が先頭に立って動かないといけない。しかし、私もスーパーマンではないから一人だけでできることには限りがある。通常業務を回しながらあれこれと手を広げるのにも限度がある。「もう一人、動いてくれる人がいたら」と言う思いは常にある。頭数はたりていても、「動ける人」がいないのである。
とは言え、基本的には「現有戦力で戦う」というのが私の考え方。だからダメなんだと文句を言うつもりはなく、今の状況で可能なことを一つ一つこなしていくしかないと思っている。みんな自分の仕事はきちんとこなしてくれているし、それだけでも良しとしないといけない。おそらく孔子も自分が掲げる理想の国づくりというのがあって、それが実現できないのをもどかしく思っていたのだろう。それで海外にでも行こうという気になったのだろう。人生、ままならぬことが溢れているのは致し方ないことである。
先日、読んだ本(『異端のすすめ-強みを武器にする生き方-』)に印象的な言葉が書かれていた。それは、「部下は自分のようにはできない」というもの。「自分だったらこうするのに」とか、「なんでこういう風に考えられないのだろう」とかイラっとすることは多々ある。しかし、そこは生まれも育ちも考え方も異なるわけであり、致し方ないこと。言われてみれば確かにその通り。それに逆のこともあるわけであり、イライラしても仕方がない。
むしろ、他人はすべて物足りなく見えるものなのではないかと想う。人は皆自分自身を基準に考える。自分の基準から外れればおかしいと思うわけであり、相手の基準から見れば私の方がおかしいということになっているのかもしれない。由からしてみれば、孔子は師匠ながら「分別はあるけど勇気を愛する点で物足りない」ということになるのかもしれない。そう考えてみると、他人に対して感じる「物足りなさ」も緩和されるというものである。自分は果たして会社のみんなにどんな風に「物足りなく」思われているのだろう。
そう考えてみると、イラっとする前に深呼吸して相手の立場に立って考えてみるのがいいのかもしれない。もしかしたら、自分の方がその点だけに限ればよくできているのかもしれない。それならそうときちんと説明すればわかってもらえるだろう。そういうコミュニケーションを取っていくことが、当たり前だが大事なのであろう。「人の振り見て」ではないが、意識したいと思うのである・・・
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