論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。
〔 原文 〕
子使漆彫開仕。對曰。吾斯之未能信。子説。
〔 読み下し 〕
子、漆彫開をして仕えしむ。対えて曰く、吾斯を之れ未だ信ずること能わず、子説ぶ。
【訳】
先師が漆雕開に仕官をすすめられた。すると、漆雕開はこたえた。
「私には、まだ役目を果たすだけの自信がありません」
先師はそのこたえを心から喜ばれた。
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そう言えばいつの間にか人を呼ぶのに「呼び捨て」はあまりしなくなったなと思う。今は基本的に年齢いかんにかかわらず「さん付け」である。社内でももちろん(といってもみんな年上だから呼び捨てはできないというのもある)、週末のラグビーにおいても「さん付け」である。たとえそれが年下であっても。学生時代や社会人になっても間もない頃はそうではなかった。年下は基本的に呼び捨てであった。それが変わったのはいつ頃だろう。
いつの頃からかは忘れてしまったが、社会人になってだいぶ経ってからだと思う。キッカケは特になくて、社会人もだいぶ経つと年齢のよくわからない人が増えてくる。若いのにおっさんくさいとか、若いと思っていたら意外に年を食っていたりとか。その都度年齢を確認して言葉遣いを変えるのも大変だし、であれば最初からすべて「さん付け」で呼んでいれば苦労はない。そんな合理的な発想からであったと思う。
もちろん、逆の場合もあるわけで、年上の人から「君付け、さん付け」で呼ばれれば悪い気はしない。もちろん呼び捨てでも気にならないが、なんとなく丁寧に接してもらっている感は強い。社会人はとかくコミュニケーションが大事だし、人(年)によって態度を変えるのも面倒であるし、そんなわけで今では普通にみんな「さん(君)付け」にしてしまっている。最近知り合ったラグビーの仲間でも、若手はみんな「君」で呼んでいる。
そんな中で、たまに学生時代の仲間や、呼び捨て時代の仲間に会うと戸惑いを覚えるのである。顔を見れば名前が(呼び捨てで)浮かんでくるわけで、今更「君付け」もなんか居心地が悪い。そこで以前のように呼び捨てにするが、そうするとやっぱり親近感が強く出てくる。そんな仲間には逆に呼び捨てで呼ばれた方が居心地がいい。いわゆる「俺お前」の関係というやつだろう。それはそれでいいのだと思う。
それはそれとして、「さん付け」には丁寧感が出せるという利点がある。時に感情的になりそうになる時も「さん付け」だと感情をセーブしやすくなる。それは総じて言葉遣い全体にも通じるのかもしれない。物言いも柔らかくなるし、円滑な人間関係を築くには丁寧な言葉遣いは欠かせない。そしてそれは謙虚な姿勢にも繋がると思える。謙虚な人間は他人に警戒感を与えないし、好感を持ってもらえる助けになる。
一昔前、ボクサーに亀田三兄弟というのがいた。ボクシングをやろうとする人間は、それなりに闘争心が強いと思うが、演技なのか地なのかはわからないが、やたら強がって相手を平気で罵倒するタイプであった。ひょっとしたら演技だったのかもしれないが、本人の本当の姿はともかく、画面で見る限りにおいては嫌悪感しか覚えなかったのを覚えている。おそらく、「謙虚」という言葉は彼らの辞書にはなかったと思う。
謙虚な姿勢は、他人に好感を与えるばかりでなく、自分自身にもいい影響を与えると思う。それはやはり「努力を維持する」という部分である。「まだまだ」と思えば、もう一歩の努力につながる。「こんなもんか」と思えば油断につながるし、そもそも自分で成長しようという意識は生じないのではないかと思う。簡単な仕事でも、簡単にこなすか自分なりの一工夫ができるかでは大きな違いがある。謙虚な姿勢を保てる人であれば、その一工夫ができると思う。
【本日の読書】
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