最近はなんでもそれらしい名前をつけて病気にしてしまう傾向がある。なんでも病気ということにしてしまえば説明がしやすいという気持ちがあるのではないかと思うが、そういう傾向にはなんとなく抵抗感がある。「鬱は病気ではない」と考える私にとっては、もう1つ病気とは言えないと思うものが「依存症」である。「アルコール依存症」とか「ギャンブル依存症」とかいろいろとあるが、この「依存症」も実に怪しい「病気」である。
依存症には、「行為(ギャンブル、買い物、ゲーム等)」「物質(アルコール、ドラッグ、タバコ等)」「人間関係(異性、DV、共存等)」という大まかな種類があるらしい。どれも「ダメだと思ってもやめられない」「やめられない、止まらない」という症状が出るものであるが、薬物等の禁断症状の場合はまだわかるが、そうでない精神的なものは病気とは言うのには抵抗がある (もっとも何でも「お前ビョーキだよ」という種類の「病気」ならわかる)。
というのも、人間誰しも「やめられない、止まらない」はあるだろう。カッパえびせんではないが、いわゆる「ハマる」というヤツである。私も「ハマる」というほどではないが、ちょっとした隙間時間があれば、パズルや最近ではソリティアなどをちょくちょくやっている。なぜと聞かれれば「何となくやらずにはいられない」という程度だろう。今はコロナ自粛で活動停止中だが、ラグビーもその1つであり、今は禁断症状が出てモヤモヤが絶えない。解禁になったら何はさておきグラウンドへ直行するだろう。
週末の深夜は趣味の映画鑑賞だが、コロナ自粛で観始めたのがNetflixなどの海外ヒーローモノドラマ。「アロー」とか「ゴッサム」「ジェシカ・ジョーンズ」「ルーク・ケイジ」「フラッシュ」「タイタンズ」「デアデビル」と毎日ローテーションを組んで観ている。これも「やめられない、止まらない」である。そのほかにも東野圭吾や池井戸潤の作品とか読み始めたら止まらないという本もある。みんな依存症と言われれば、世の中の人はすべて依存症になるのではないだろうか。
もっとも、そんな可愛いものではなく、「寝食を忘れて」という激しい程度のものもあるだろう。ゲームに夢中になり、周りの制止も聞かずに、学校へもアルバイトにもいかなくなって一日中部屋にこもってゲームをしていたら、それは誰でも病気だと思うだろう。だが、『奇跡のリンゴ』の木村秋則さんの例はどうだろうか。無農薬のりんご作りに熱狂し、家族の困窮もよそに研究を重ねた姿はほとんど病気(狂気)とも言える。日本で最初にインスタントラーメンを開発した安藤百福さんとか、似たような例は枚挙にいとまがない。
バカと天才は紙一重とはよく言うが、まさにそれは紙一重というより同じだと思う。対象がゲームかリンゴがインスタントラーメンかの違いだけだろう。もしもゲームが高じてeスポーツでオリンピックに出場ということになったら、一転して依存症のレッテルは剥がされるだろう。実家の父親も一度始めると何事にも「凝る」性分で、昔からいろいろと手を出しては道具を買い揃えていたのを覚えている。今はそれが写真に向かっている。仕事もその1つで、だからこそ腕のいい職人になれたのだろうと思う。
人は誰でもそういう性質があるのだと思う。歴史を振り返ってみても、画期的な発明や発見をした人は、たぶん人から見たらほとんどビョーキとも言える熱狂を持っていたのではないかと思う。宇宙に関しては性能の悪い望遠鏡くらいしかなかった時代に星の運動を毎日記録し、そこから地動説や太陽系の仕組みを明らかにしたわけで、普通に生活をしていたら無理だろうと思う。アインシュタインの言う「99%の努力」とはそんな依存症的な熱狂だと思う。
ダメだと思っても「やめられない」のが人間であり、それは病気などではないだろう。明らかに「普通」と違う状態を指して何でも「病気」としてしまうのはいかがなものかと思わざるを得ない。依存症とい言われる人は、「やめよう」と思ってもその意思が続かないのであり、だからやってしまうのだろう。意思が続かないのもまた人間の性。だからいつになっても英語とダイエットビジネスは耐えることなく繁栄するわけである。
病気と分類できれば、薬を飲ませて治療するということになるが、そんなもともと病気でないものが医者に治せるわけはないと思う。何でも自分たちの理解できないものに病名をつけてしまうのは、病気ということにして安心したいのではないかと思わざるを得ない。「病気」と言われれば、人は誰でも「仕方がない」と思うもの。そんな言い訳に利用されているような気がしてならい。
Alina KuptsovaによるPixabayからの画像 |
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