一休宗純(『猪木寛至自伝』)
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小学校6年の時、今は伝説ともいうべき全日本プロレスのオープンタッグ選手権(ザ・ファンクスvsシーク、ブッチャー)を知ってプロレスを観るようになった。以来、20年くらいは熱狂的にプロレスを観ていたものである。テレビはもちろん、会場にも足を運んだ。今ではほとんど観なくなってしまったが、その手の本があるとついつい手を伸ばしてしまう。最近では、『猪木伝説の真相 天才レスラーの生涯』を読んだ。様々なレスラーが証言する中で、ちょっと興味を惹かれたのがグレート小鹿の話である。
それはアントニオ猪木とジャイアント馬場を比較してのもの。グレート小鹿は「アイデアの猪木、カネの馬場」と2人を評す。それで改めてあの頃を思い出した。プロレスのスタートは、前述の通りジャイアント馬場率いる全日本プロレス(全日)であったが、やがてのめり込んだのはアントニオ猪木の新日本プロレス(新日)の方。理由は簡単。新日の方が面白かったからである。当時、全日はアメリカのNWAを頂点としたアメリカンプロレスの世界で、確かに大物外人レスラーは多数全日に来日していた。ところが新日はそれとは違う世界だった。
タイガーマスクによる四次元空中殺法(全日のミルマスカラスのそれとははるかに次元が違った)、藤波・長州名勝負数え歌、猪木vs国際軍団抗争などは日本人同士のものだし、数少ないながらも外人レスラーもスタン・ハンセン、ハルク・ホーガンやアンドレ・ザ・ジャイアント、タイガー・ジェット・シンなど凄みがあった。それぞれの個性が光っていた。シンやハンセンなどはなぜか全日移籍後はそれほど光らなかった。かつての巨人のように4番打者をずらりと揃えても結局、その中で4番打者は1人だけという理屈である。
猪木は日本プロレスを追放されて、ゼロからのスタートで新日を立ち上げた。それに対し、馬場は崩壊する日本プロレスの資産を引き抜いて全日を立ち上げた。波乱万丈のスタートと順風満帆のスタートがその後の違いの大きな理由である。何もないからとにかくアイデアを出す。力道山の時代からの日本人対外人という対立構造を維持した全日に対し、日本人抗争を取り入れた猪木。異種格闘技戦も外人不足という懐事情のなせる技だが、それがモハメド・アリ戦に結び付く。
そうした日本人抗争も異種格闘技戦もリング上での技も完全決着試合(3カウントフォール勝ち)もブームは新日のリングで起こり、全日に流れるという形であった。新日がなければ、今も全日は日本人対外人の対立構造でNWA世界ヘビー級ベルトを巡って争い、「不透明な決着」でお茶を濁していたかもしれない。リング上での実力はともかく、「経営者」としては圧倒的に猪木の方が上だったと思う。新日はビッグマッチといえば東京ドームだったが、全日は日本武道館だった。馬場は経営とは「いい外人を連れてくる」というそれまでのセオリー(成功体験)から離れられなかったと言える。
得てして業歴が長い会社ほど、「前例踏襲」が王道となりがちなのではないだろうか。我が社も中小企業ながら業歴は20年を超え、私が入社するまでは見事に過去の成功体験の中で生きていた。というか、もはや「成功」体験ではなくなっていた。それを利益が望めるビジネスモデルに変換して行ったが、うまくいくかどうかわからないことを進めるのは非常に勇気がいることである。だから役所や大企業がリスクを取らない前例経営に傾くのである。この勇気が取れるか否かはやっぱりトップの覚悟だろう。
アントニオ猪木の新日本プロレスは、それまでの成功セオリーである「実力外人レスラーの招聘」ができなかったがゆえに、いろいろとお客さんを引きつける知恵を絞らねばならなかった。ジャイアント馬場の全日本プロレスはうまく行っているだけにそのセオリーから離れられなかった。勢いづく新日に対抗するため、馬場は日本テレビから引っ張ってきた金を湯水のごとく外人レスラー招聘に使ったとグレート小鹿は語るが、結局、全日が面白くなったのは新日流の「日本人選手同士の実力決着試合(不透明な両者リングアウト引き分け試合の排除)」だったのは皮肉だろう。
Greg MontaniによるPixabayからの画像 |