2019年8月29日木曜日

本気!

毎週末、深夜に1人映画を観るのを楽しみにしているが、先週末観た映画は安藤サクラ主演の『百円の恋』であった。『万引き家族』を観て安藤サクラの演技力に注目し、その経緯から観た映画である。この映画もまた安藤サクラ全開の映画であった。この映画の中で、安藤サクラ演じる主人公は、32歳独身で、実家にこもっている見るからにどうしようもない女。それがひょんなことからボクシングを始めるのである。

 最近、ボクシングジムも経営の安定化のためだろうが、ダイエット目的の女性のトレーニングを受け入れている。初めはジムの人たちもそんな扱いで主人公を受け入れる。どう見ても運動音痴な主人公が教えられるまま体を動かすが、どうにもこうにも様にならない。運動音痴の人はそもそも体の動かし方がぎこちない。パンチもどうにも不格好なのである。

 それがある時、心に火が付く。猛然とボクシングの練習に身が入り始める。そうすると、頭の中はボクシングのことばかりになり、アルバイト中もそれが頭から離れない。時間があるとシャドーボクシングをしたりする。もちろん、ロードワークも精力的にこなし、みっともなくたるんでいた体が引き締まり、シャドーボクシングも実にスピーディーに華麗にこなす。これは演技でなどできないだろうから、実際に猛練習したのだと思う。ストーリーも面白い映画だったが、安藤サクラも凄い映画であった。

 映画はともかく、やっぱり何事につけ、何か事を成し遂げようとした時、あるいは極めようとする時、一番重要なのは「やる気」だろうと思う。そのものに対するPASSIONとも言えるが、これこそが最も重要である。一度火が付くと、24時間心が稼働する。何をしていてもそれが脳裏を過る。アルバイト先のコンビニで、ちょっと空いた時間に安藤サクラがシャドーボクシングを始めたようにである。

たとえば人間、道を歩いていても、意識があるなしで大いに異なる。例えば「赤」を意識すると、信号やらセブンイレブンの看板のラインやら、駐車場の車のテールランプやら、普段目にしているはずなのに気がつかなかった「赤」いものがやたらと目に飛び込んでくる。それと同様、意識のアンテナが立った途端、普段は見過ごしていたものの中に、これは使えるかもしれないとヒントになったりするものが目についたりする。

私も高校からラグビーを始めたが、本当の意味で心に火がついたのは大学に入ってからだった。それまでも練習は真面目にやっていたが、普段の練習時間に加えてやっていたのは、先輩から言われた家でのトレーニングだけであった。それが火が付くとそれだけでは満足できなくなる。練習時間の一時間半前にグラウンドへ行き、1人黙々と筋トレをするようになった。テレビで試合があればそれを見て、いいプレーがあればそれを真似ようとした。日常生活の1つ1つがトレーニングに結びついた。何一つ人に言われずにである。「好きこそものの上手なれ」という諺があるが、好きになれば(=心に火がつけば)どんどんと向上心にかられて貪欲に求めていくから必然的にうまくなっていくのである。

これは仕事でも言える。心に火がついたら、言われなくてもどんどんと吸収していく。本を読んだりセミナーに行ったり、人に会いに行ったりもする。朝早く出社し、遅くまで残業するかもしれない。当然、「9時から5時まで」の人とは差はついていく。そんな人の自伝は数多くある(そんな人だから自伝を書くぐらいにもなるわけである)。働き方改革の流れを歓迎し、アフターファイブに関心が高い人にしてみれば、「バカじゃないの」と思うかもしれないが、のめり込んでいる本人はまったく苦にしていない。

逆に言えば、子供に勉強をさせようとしたら、塾へやるだけではダメだと言うことである。大事なことはいかにして「心に火をつけるか」。子供の場合はそこまでいかなくても、そこそこ興味を持って楽しく取り組みさせるか、である。そのあたりを理解できない世の母親は、子供の尻を叩いて塾へ行かせる事しか知らない。それでうまくいくケースならいいが、そうでなければ、塾へ行っても成績は伸びない。机に座っているからと言って、頭の中に入っているかどうかはわからないのである。

 我が家の息子は来年受験生。妻は塾へ行かせ、家では机に向かわせることばかり考えているが、私としては「いかに息子の心に火をつけるか」に関心がある。それさえできれば、あとは放っておいても勝手にやるだろう。それが一番、望むべき理想の姿である。ただ押し付ければ反発もあるだろう。途中で嫌になるかもしれない。大事なのは心に火をつけることなのである。うまくできるかどうかはわからないが、コミュニケーションを取りながら導いてあげたいと思うのである・・・



 

【本日の読書】
 

 

2019年8月26日月曜日

優越感

ご近所に住むAさんとBさんは互いに同じ年のお子さんを持つママ友である。両家のお子さんとも同じ小学校に通う同級生であり、ともに中学受験をした。同じ中高一貫校である。Aさんのお子さんは合格したが、Bさんのお子さんは残念ながら不合格で、そのまま地元の公立中学に進学した。その後、高校進学に際し、Bさんのお子さんは頑張って難関高校に合格した。さらに3年後、Aさんのお子さんは難関大学にストレートで合格。Bさんのお子さんは現役合格を果たせず、今年浪人中である。

何せご近所のことゆえであるが、AさんがしきりにBさんのお子さんの状況をママ友に聞きまわっているという。どうもBさんのお子さんの進学先をかなり気にしているようである。というのも、中高一貫校の受験では、見事我が子が合格したが、高校でBさんのお子さんがAさんのお子さんの通う中高一貫校より偏差値の高い難関高校に合格したことで、どうもライバル視しているようなのである。中学で感じた「優越感」を高校で覆されたというわけである。

その関心は勢い次の大学受験に向き、我が子が無事難関大学に合格したことで「ライバル」の動向が気になって仕方がないというところらしい。個人的には我が子の学歴ではなく、自分の学歴で比較したらと思うのだが、人というのは何かにつけ「優越感」を感じたいものなのかもしれない。ご近所で似たような家に住んでいるから、おそらく生活レベルでは同じようなご家庭同士。差がつくとしたら、愛しい我が子となるのかもしれない。さらに我が子の通う学校が偏差値の高い学校であれば尚更なのだろうと思う。

個人的には、「くだらない」と思う。私などは子供がどこに行こうが構わないし、たとえ優秀な学校に行っても、それだけでは大したことはないと思うから自慢する気にはなれない。しかし、人にはこうしたどこかで「優越感」みたいなものを持ちたいと誰もが思うものなのではないかと思う。個人的にはそんな「優越感」など持たないようにしようと意識しているが、やっぱり心くすぐられるところがあるのも事実であるし、果たしてどこまでできているだろうかと思わなくもない。

そうした優劣に対する感情は誰もが感じることだと思う。自分より偏差値の高い学校に行っている人には引け目を感じるし、逆に低い学校に行っている相手には優越感を感じる。それは学校だけではなく、勤務先だったり、所属するチームだったりするかもしれない。また、同じ会社でも、たとえば出世で差がついていたりしても同じかもしれない。そうした優劣の感情はくだらないと思いつつ、気にならないと言えば嘘になる。私自身、銀行員時代も後半になると、出世ではだいぶ同期との間で差はついていたし、その差には心中穏やかならぬものを感じていたのも事実である。

そういう優劣に対する感情はどうしたら克服できるのであろうかと考えてみる。特に「劣る」方である。それはとどのつまり「開き直る」しかないような気がする。下手に隠すことなく堂々とオープンにすることである。たとえば、私も銀行を辞めて従業員10名の中小企業に転職した。会社の規模から言えば大したことはないが、人に聞かれれば堂々と教えている。下手に見栄など張るから心苦しくなるからである。実際、そうして大っぴらに語っていれば、クラス会に出て大手企業の要職にある友人と会っても卑屈に感じることはない。

大事なのは卑屈にならず堂々としていることではないかと思う。そしてそうあるためには、根拠となる考え方がないといけないかもしれない。私の場合、中小企業でも社長と共に会社を動かしているという自負がある。そういうものがあると、卑屈にはならないで済む。国産車に乗っていても高級外車に乗っている人に劣等感を感じないのは、「たとえお金があっても外車は買わない」という信念だ(負け惜しみとも言うかもしれない)。世の中、国産車(大衆車)に乗っている人の方が多いわけだし、気にしないと決めてしまえばラクである。

そうした優劣感覚は、結局のところ考え方次第だと思う。下手に見栄を張れば窮屈になるし、下を見て優越感を持てても、必ず上には上がいるわけだし、そうなると上を見れば卑屈になってしまう。そうであれば、上だろうが下だろうか平常心で接することこそが解決策であり、我が子だって他所の子だって、「どこの学校に通っているか」ではなく、「どんな学生生活を送っているか」で競うべきだと思う。どんな学校に行っていようと、我が子が楽しそうに通って充実した学生生活を送っているのならそれだけで誇らしく思いたい。

 頭では十分理解しているが、それを日々実生活の中で実行できるか。なかなか難しいところではあるが、「人の振り見て我が振り直せ」ではないが、日々意識していたいと思うのである・・・




【本日の読書】