2019年1月6日日曜日

論語雑感 八佾第三(その16)


〔 原文 〕
子曰。射不主皮。爲力不同科。古之道也。
〔 読み下し 〕
()わく、(しゃ)()(しゅ)とせず。(ちから)()すに()(おな)じくせず。(いにしえ)(みち)なり。

【訳】
射の主目的は的にあてることで、的皮を射ぬくことではない。人の力には強弱があってひとしくないからである。これは古の道である。
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これはなかなか深い言葉だと思う。弓を射るとなると、どうしても撃ち抜く方がカッコよく思えるもので、的に当てるだけだと非力なイメージがする。それを戒め、そもそもの目的をきちんと意識すべしと諭したものであろう。ただ、そこは寄って立つ思想が絡む問題だと思う。どういう思想で行うのか。それによって180度変わってくるものであると思う。

この言葉を読んですぐにイメージしたのは、ボクシングである。ボクシングの勝敗は基本的にKOであるが、もちろん判定もある。判定については詳しいことはわからないが、有効打をカウントしたり、戦意不足の減点を差し引いたりして決めるのだろう。実力が伯仲しているとKOするのも難しくなるわけで、判定勝ち狙いというのも当然出てくる。そうすると、「相手を倒す」よりも「ポイントを稼ぐ」ボクシングというのも出てくる。つまり、「当てるだけで倒せないパンチ」である。

プロはともかく、アマチュアボクシングではポイントを稼ぐことを競うもののようである。いかにKOするかではなく、いかに手数を繰り出して有効ポイントを獲得するかが重視されるわけである(たぶん)。まさに、「的に当てることが目的」で、「的皮を射抜くことではない」わけである。アマチュアボクシングではこれでいいかもしれないが、プロの、それもラスベガスで試合をするようなレベルになると、やっぱりKO力が求められるらしい。つまり、「的皮を射抜く」ことが求められるのである。

弓道ももともとは狩猟手段であったはず。そうするともちろん、「射抜く」ことが重要で、当てるだけの非力では矢が刺さったまま獲物が逃げて行ってしまうかもしれない。それでは意味をなさないわけで、本当の意味で「古(いにしえ)」というのなら、射抜く方ではないかとすら思う。孔子の時代の弓道がどんなものであったかはわからないが、現代の弓道でも的に当てること、それとそこに至る精神統一や姿勢など諸々が重視されるのではないかと思うが、それは本来の狩猟とは目的を異にするものであろう。

これはどちらが正しいというものではなく、どういう思想(立場)によるかの違いであろう。狩猟であれば、その目的は獲物を獲ることであり、多少的を外しても、例えば足を射抜いて逃げられなくしてもいいわけである。ところが、弓道では的を外すほどポイントが得られないから勝負には勝てない。まさに何が目的なのかを見極め、そこを外すと意味をなさないわけである。

仕事でも似たようなことはある。我が社でも全員が収益を上げるべく日々奮闘している。収益を上げなければ会社が存続することはできず、みんなも給料がもらえないからであるが、では収益を上げるためにどうするか。そこで顧客サービスの充実とコストの削減がある。私としては、コスト削減を軽視するわけではないが、まずは顧客サービスの充実を図りたいと考えているが、手っ取り早いコスト削減を重視する意見もある。どちらが正しいという話ではなく、どちらを「選択するか」だと考えている。

例えば先日、お客さんに頼まれごとをしたが、担当者はコストがかかるからと言って断ってしまった。だが、お客さんの立場に立ったら、やってもらえたら嬉しいだろうし、我が社の信頼度向上にもつながるだろう。コストが問題ならお客さんに説明して負担してもらうという方法がある。いくらサービスと言っても、何もタダでやらなければならない筋合いはない。その結果、「費用がかかってもやってほしい」となるかもしれない。顧客サービスを重視するなら、断るべきではなかったとなる。どういう立場に立つかによって行動が変わってくるのである。

要は、自分たちがやっているのは「狩猟」なのか「弓道」なのか。それによって、的皮を射抜かなければならないのか的に当てればいいのかが決まってくる。我が社でも今度それをきちんと決めようと考えている。立場が決まれば目的も定まるというもの。その根本的な部分をきちんと決めようと考えているが、その重要性を改めて認識させられる。的に当てることが大事なのか、的皮を射抜くことが大事なのか。何事もそこをきちんと意識したいと思うのである・・・




【今週の読書】





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