2019年1月31日木曜日

『ラブ・ネバー・ダイ』観劇雑感

ミュージカル『ラブ・ネバー・ダイ』を観てきた。基本的に私は映画好きであり、昨年だけでも年間176本の映画を観ているが、その一方でミュージカルも結構好きであり、折に触れ観に行っている。今回は久しぶりに、そしてあの『オペラ座の怪人』の続編ということで、かなり期待しての観劇であった。

観終わった感想としては、残念ながら少々「期待値に及ばず」というものであった。まぁもともと期待値が高すぎたのかもしれないが、その期待値を大いに挙げたのは、前作がストーリーも、そして音楽も非常に素晴らしかったというところがある。才能はあるものの醜い容姿から仮面を被って人前に出ることを憚っていた怪人が、美しき歌姫に恋するという悲恋もの。醜い男の悲しい恋と、心揺さぶられる音楽とが見事にブレンドされた傑作であった。

『ラブ・ネバー・ダイ』は、その10年後という設定であったが、どうにもその10年間の断絶に、前作との違和感が拭えないストーリーなのであった。その最大のものはストーリーの連続性。前作では心を動かされたものの、ヒロインのクリスティーヌは結局ラウルという子爵を選び、怪人は傷心のまま姿を消していた。しかし、本作ではいつの間にか怪人とクリスティーヌとは、10年前に結ばれていたということになっていた。ラウル子爵はギャンブルに溺れ、借金苦を抱えたダメ男になりさがり、そこに「かつての恋」が再燃するというもの。「そうだったっけ」という違和感がずっとついて回ったのである。

醜い男と美しい女という組み合わせの物語は、『美女と野獣』を筆頭に数多いが、よくあるパターンは「醜くても心は錦」という男の姿。そしてそれに気がつく女の美しい心。だから『美女と野獣』では、最後に呪いが解けてイケメン王子に戻ってハッピーエンドというものだった。おとぎ話ならそれでいいが、現実的にはイケメンになることはない。しかも、ここに登場する怪人は脅したりするのも平気で、どうも「心がきれい」とはいい難い。それはともかくとして、前作との断絶がどうしても違和感としては拭えない。

さらに、ミュージカルであるから、ストーリーに多少難があったとしても、音楽がそれをカバーできるということもあるが、今回は音楽面でも期待値に及ばなかったと個人的には感じたのである。前作は、劇中で歌われる歌も流れる音楽も「何度も聞きたい」と思わされるもの。迷わずCDも購入して聞き込んだが、今回は怪人がクリスティーヌにたった1曲だけ歌わせようとした歌も、それほどでもなかったのである(ダメだったというわけではなく、多分期待値が高すぎただけだろうと思う)。

映画であれば、ストーリーに難があればそれまでだが、ミュージカルはそれだけではない。実際に目の前で演じる役者たちの演技や、舞台袖のオーケストラが奏でる音楽。そして様々に変化する舞台装置との動きが相まって、それは見事な舞台であった。映画であれば場面転換など問題ないが、ミュージカルは一つの舞台で、時に港、時に劇場の部屋、さらに舞台裏や海岸、夢の中まで様々表さないといけない。照明や大道具や舞台装置など、役者の演技と音楽とに合わせた動きは、舞台装置担当者もかなり大変なのではないかと想像させられる。

目の前で一体として展開される舞台は、見入っているうちに別世界へと連れて行ってくれる。これが生の舞台の迫力だと思う。映画の5倍の料金も頷けるというものである。いつもはしつこいくらいに繰り返されるカーテンコールがあっさりしたものだったのは、出演者に子供がいた(子供とは思えない演技力だった)ことが関係しているのかもしれない(終演時間は9時ギリギリだった)。これはこれで個人的にはありがたかった。

全体としては、期待値には及ばなかったものの、料金に見合う楽しいひと時であったのは確か。次はまた別の作品にしようか、それとも一度観た作品をそろそろもう一度観てみるか。いずれにしてもまた次回を楽しみにしたいと思うのである・・・




【本日の読書】
 0才から100才まで学び続けなくてはならない時代を生きる 学ぶ人と育てる人のための教科書 - 落合 陽一 蜜蜂と遠雷(上) (幻冬舎文庫) - 恩田陸





2019年1月27日日曜日

成人誌

セブンとローソン、成人誌の販売中止へ 8月末までに
朝日新聞DEGITAL2019121
 コンビニエンスストア大手のセブン―イレブン・ジャパンとローソンは21日、国内の全店での成人向け雑誌の販売を8月末までに原則中止することを明らかにした。女性や子ども、訪日外国人客らに配慮する。日本の多くのコンビニの店頭から成人誌が消えることになりそうだ。
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職場では昼のランチは主にコンビニ弁当である。ゆえに、コンビニ(主としてセブンイレブン)には多い時で週5回通っている。行けば弁当コーナーにまっしぐらなのであまり意識していないが、多分いつも行く店舗にも成人誌が置いてあるように思う。「あるように思う」という自信のない表現は、あまりしっかりと見た記憶がないからである。雑誌の類はチラ見しているが、成人誌には見向きもしないので、記憶の片隅に残っていないのである。

「成人誌には見向きもしない」というと、何やらカッコつけているように思われるかもしれないが、事実である。その理由は2つ。1つはもちろん興味がないわけではないが、「人前でそうしたものを眺めているところを見られたくない」という羞恥心というかプライド。やっぱりどう見てもカッコ悪いだろう。もう1つは、そうしたものを見たければ、今やネットでもっと過激なものをいくらでも見られるからである。わざわざ人前で、「規制のかかった中途半端なもの」を見るメリットはカケラもないのである。

なので今回、セブン-イレブン・ジャパン、ファミリーマート、ローソンが成人誌の販売を今年8月をめどにやめると発表したニュースは意外な気がしたものである。なぜ成人誌の販売をやめるかというと、訪日外国人客の増加や女性客、子供などに配慮したとのこと。これはつまり、「イヤイヤながら」「仕方なく」やめるということである。日常的に商品の入れ替えは行われているだろうし、いちいち発表などしないだろう。それを発表するということは、アナウンス効果も狙っているわけである。販売に対する批判への回答ということだろう。「仕方なく」やめるということは、つまり「売れている」ということなのだろう。

 事実、成人誌はコンビニ店にとっては重要商品らしい。それはまず単価が高く(コンビニで売られている成人誌は1,000円にのぼることも多いらしい)、さらに「ついで買い」も誘発するらしい。要は買う人もさすがにそれだけ買うのも気まずいのか、新聞やジュースなどと一緒に買うようである。思わず「へぇぇ」である。では一体どんな人が買っているのだろうか。それは多分、インターネットをほとんど利用しない人なのではないかと想像する。なぜなら、今やちょっと検索すれば、1冊の雑誌以上に見きれないくらいの情報が手に入るからである。
 
 インターネットを利用しない男性像といったら、おそらく年配の肉体労働系かと想像してしまう。仕事帰りにビールとツマミと合わせて買って行く姿が想像できる。それにしても、そういう人は8月以降どうするのだろうか。本屋で買うとなれば、町の本屋さんはありがたいかもしれない。ただ、「ついで買い」によるごまかしが効かないので、買いにくいかもしれない。羞恥心を紛らわせるといえば自販機だが、最近あまり見かけないが、それがよもや復権するのだろうか。

自販機と言えば、その昔、昼間は光の加減で見えないが、夜になると中身が見られる自販機があった。かくいう私も高校生の頃、酔った勢いで友達と一緒に買った記憶がある。今はほとんど見かけないが、コンビニでの取り扱いが増えて減ったのか、近所からの苦情なのかはわからないが、それが復権するというのもありえなさそうである。手っ取り早いのはAmazonだが、そもそもネットを使わないおじさんたちには論外だ。となると、もう肉体系労働者(と勝手に想像している)のおじさんたちは成人誌を買えなくなってしまうのかもしれない。

考えて見ると、成人誌というのは買うのも恥ずかしいし、持っているのを見られるのも恥ずかしい。私もかつては「保管」に苦労した口である。弟は母親にバレて怒られていたが、私は一度としてそんなヘマはしなかった。だが、買うのには苦労した。ネットではその「買う」苦労も「保管する」苦労も不要である。若者はスマホを持っているのが当たり前であるだろうから、そうすると成人誌も遅かれ早かれ廃れていく運命にあるのかもしれない。

その昔、成人誌は少年にとって禁断の入り口にあるものだった。見てみたくてもなかなか見ることができないシロモノであった。本屋でその手のコーナーを通りすがりにチラ見するのが精一杯であった。ある時、親戚の家にあった成人誌を従兄弟と2人でドキドキしながら読んだ記憶がある。登場人物の名前の読み方がわからなくて2人で頭をひねりながら見ていたのは、遠い日の懐かしい記憶である。今から思うと大した「情報量」ではなかったが、それでも少年の目には禁断の書物の甘みがあったものである。

考えてみれば、そういう雑誌を見なくなって随分久しい。一度読んでみたいと思わなくもないが、いつも行っているコンビニでそれを買う勇気はない。そう考えて見ると、今でも成人誌は近くて遠い存在なのかもしれないと思うのである・・・




【今週の読書】
 マンガーの投資術 - デビッド・クラーク, 石川 由美子, 林 康史 4歳の僕はこうしてアウシュヴィッツから生還した - マイケル・ボーンスタイン, デビー・ボーンスタイン・ホリンスタート, 森内 薫





2019年1月23日水曜日

我が国の道路政策

実家が何年も前から立退きの話で揺れ動いている。そもそも両親が現在の実家を買って引越したのは昭和55年(1980年)のこと。当時すでに道路の建設予定があるということはわかった上での購入であった。道路計画と言っても、それは昭和21年に計画されたもの(特定整備路線放射第二号)である。既に当時で30年以上経過していたし、両親の間でも、「いつになるかわからない」、「もう建設されないのでは」なんて話が出ていたのをぼんやりと記憶している。

それが何と実現に向けて動き出したのである。さて、困ったのは両親。立退きと言われてもどこに行けばいいのかという問題がある。提示された補償金については、金額的には普通に売却するよりはいい金額ではないかと思うが、それほど突出しているわけではない。代わりの家と言っても、近所で探すとなると、とうてい保証金では賄えない。郊外へ目を向ければ十分可能だが、両親(特に母親)は年老いて誰も知り合いのいないところへ行くのは嫌だと言っている。お金よりも今のまま住み続けたいというのが両親の希望である。

そもそもであるが、昭和213月に立てられた道路計画にどれほどの有効性があるのかは大きな疑問である。これには敷地内を道路が縦断することになっている星薬科大学も陳情書の中で訴えている。確かにその通りだろう。なんてったって70年も経てば周囲の状況も大きく変わっているわけで、それを「計画道路だってわかっていたでしょう」という理屈で推し進められてもという思いはする。

実家の近所では、「ゼネコン陰謀説」がささやかれている。曰く、「仕事が欲しいゼネコンが政府に陳情して仕事を作ってもらった」というものである。もっともらしいが、今はオリンピックやリニア新幹線や高速道路の補修やらいろいろある中で、この説にどこまで信ぴょう性があるかは疑わしい。ただ、70年を経て突然計画が動き出した理由は興味あるところである。もしかしたら、役所の方でただ順番として何も考えずに埃をはたいて引っ張り出して来たのかもしれない。

何回か説明会が開催され、私も両親とともに出席してきた。ただ、それはあくまでも「説明会」であって、住民の意見・希望を聞く会ではない。住民から反対意見が出ても、役所は「実施する」という前提で資料をそろえて説明し、質問に答えるべく来ているわけで、事情を聞いて考え直してくれるという立場ではない。それをわかってかわからずか、切実に移転したくないという思いを訴える人がいたのが印象的な説明会であった。

道路建設及びそれに伴う住民の立退きという問題は大きな問題であり、推進する行政側も大勢の関係者からなる組織で動いている。つまりそこに個人の感情が入り込む余地は少ないわけで、一旦動き始めると、ゆっくりではあっても確実に進むことになる。説明会に来ていた担当者たちも、切実な訴えを聞いて、たとえ心を動かされたとしても、組織の中では一歯車として全体の動きに加わらなければならない。抵抗はほとんど無駄である。

立退き条件の交渉に来た担当者も、あくまでも「立退き条件の交渉」で、「立退き交渉」ではない。立退きは嫌だと言っても、どうなるものではない。担当者の人は、さすがに年老いた両親に同情してくれたが、かと言って「では立ち退かなくて済むように上司に掛け合ってみます」なんて言ってくれるわけもない。せいぜいが、あれこれと理由をつけて立退きに伴う補償金額を上乗せしてくれる程度である。

それに住民側も一枚岩ではない。既にお金をもらって立ち退いてしまった人が何人もいて、「道路予定地」の看板が掲げられた空き地が既にあちこちにある。中には喜んでいる人もいるだろう。私も両親の住む実家だからあれこれと困っているが、空き家となった実家だという人なら、実家がなくなる寂寥感はあったとしても、現金化できて良かったと思うかもしれない。すべてはタイミングであり、それぞれが抱えた事情である。

それにしても、70年目の道路建設はやっぱり不可解である。立退きはやむを得ないとしても、実行に至る意識決定のプロセスにはとても興味がある。今度関係者に会う機会があれば、ダメもとで聞いてみようと思う。
立退き反対の両親の希望の光は、陳情に立っている星薬科大学である。個人のささやかな抵抗と比べれば、行政に対するインパクトはずっと強いだろう。何とか頑張っていただいて、両親の立退きが少しでも先延ばしできればと思うのである・・・

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【本日の読書】
 リンカーンのように立ち、チャーチルのように語れ 聞く者の魂を揺さぶるスピーチテクニック21 - ジェームズ・ヒュームズ, James C. Humes, 寺尾まち子 マンガーの投資術 - デビッド・クラーク, 石川 由美子, 林 康史 おもかげ (講談社文庫) - 浅田次郎







2019年1月20日日曜日

論語雑感 八佾第三(その17)

〔 原文 〕
子貢欲去告朔之餼羊。子曰。賜也。爾愛其羊。我愛其禮。
〔 読み下し 〕
(こう)告朔(こくさく)()(よう)()らんと(ほっ)す。()()わく、()や、(なんじ)()(ひつじ)(おし)む、(われ)()(れい)(おし)む。
【訳】
子貢が、告朔の礼に餼羊をお供えするのはむだだといって、これを廃止することを希望した。すると先師はいわれた。
「賜よ、おまえは羊が惜しいのか。私は礼がすたれるのが惜しい」
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こういうケースは現代でもよくあるのではないかと思わされる。なんとなく伝統的に続いてきたことだが、今ではなんのためにやっているのかという意識が薄れ、コストもかかるからやめてしまおうというようなことである。「告朔の礼」がどんなものかはわからないが、わざわざ羊を犠牲にまでしてやる意味があるのかという弟子の問いに対し、孔子が戒めているのである。目先のコスト()に囚われて大事なことを失ってはいけないと。

ここでは弟子の子貢が愚かだったのではなく、そこにあるのは師と弟子との「視点の違い」だろう。弟子の子貢の目には、よくわからない儀式に羊を犠牲にするのはいかがなものかと映ったのであり、師にしてみれば、羊の犠牲には比較できない意義が「告朔の礼」にはあると考えていたのである。今の我々の環境において考えてみると、そこには気づかされるものがある。

まず子貢の立場から考えた場合、自分だったらまずそもそも「告朔の礼」にどんな意味があるのかを考えてみるだろう。ずっと続いてきた儀式であれば、そこにはなんらかの意味があるものだと考えるのが普通である。わからなければ分かる人に聞く。そうして問いかけてみれば、実はもう意味などなくなっていて、惰性でやっているということがあるかもしれない。そうすれば廃止を訴えればいいわけであるが、逆にきちんとした意義があることがわかるかもしれない。

私も今の会社に転職してきた際、いろいろと疑問に思うことがいくつもあった。疑問に思うものは、どんどん質問していったが、中にはベテランの人でもうまく答えられなかったり、実はもう意味をなさないものもあった。そうしてやり方を改めたものもあったし、続けるにしても改めてみんなでその意義を確認しあったりしたものもあった。そうしていろいろなものを見直してきたが、1つ例を挙げれば顧問契約である。

月々定額の顧問契約を支払っている専門家がいたのであるが、私は早々にこれについて疑問を持ったのである。「どういう効果(成果)が期待できるのか」と。会社も赤字だったし、月々の顧問料もバカにならない。いろいろとヒアリングした結果、すでに当初契約した意義は無くなっており、さらに今後も成果は期待できないと判断できたので、それは打ち切った。代わりに建築士と弁護士と顧問契約を締結している。こちらは技術的なアドバイスが期待できるし、いざ案件となった時に優先的に対応してもらえる。月によっては顧問料を払っても何も相談事項がない時があるが、だからと言って無駄とは言えないのである。

次に孔子の立場からであるが、もしも私が孔子の立場だったら、ただ黙って指示だけ出して何かをやらせるのではなく、事あるごとにその意義を伝えるだろう。人間、無駄なことをやらされていると思う時は生産性も低くなる。我が社でも期初には前期の決算の成績や今期の目標を全員に説明している。ルーティーンワークでないものを指示する場合には、なぜそれを会社としてやるのか(そしてあなたに担当してもらうのか)を説明している。孔子も日頃から「告朔の礼」の意義を子貢に説明していたら、上記のやり取りは生じなかったであろう。

結局のところ、どこに視点を合わせるかによって考え方は変わって来る。コストに目を向ければ、何も相談することがない月にも顧問料を払うのは無駄だとなる。しかし、視野を広くして、大事なところで優先して動いてもらうために親密な関係を維持するという考え方に立てば、スポットで見れば無駄な費用も無駄ではない。孔子も「礼」の維持という観点から見れば、羊の犠牲も無駄ではないと考えたのであろう。

それぞれ違う視点があるということを理解するとともに、会社のようにある目的を共通する組織においては、「視点を共有する」ということも大事であると思う。そんなことを改めて認識させてくれた論語の言葉である・・・




【今週の読書】
 リンカーンのように立ち、チャーチルのように語れ 聞く者の魂を揺さぶるスピーチテクニック21 - ジェームズ・ヒュームズ, James C. Humes, 寺尾まち子 おもかげ (講談社文庫) - 浅田次郎






2019年1月16日水曜日

役員心得

銀行員時代、多くの中小企業経営者とお付き合いしてきたが、経営者の方の多くがお悩みだったのは、「人材がいない」というものであった。実際、中小企業に転職してきて思うのは、それは能力云々というより、「経営マインドを持った人間がいない」ということだと理解できた。「経営マインド」とはすなわち、「会社を経営する立場で考える」ということである。これは何も社長だけに限ったことではなく、役員も然りである。

「人材がいない」と嘆く社長さんの会社に役員がいなかったわけでもないだろうが、形の上では役員であっても、一般社員と変わらなかったということだろう。これはつまり、役員であるにも関わらず、経営マインドを持っていなかったということである。そういう役員はどんな行動をするのかというと、「言われたらやる」「聞かれたら答える」といったレベルだろう。経営マインドがあれば、「言われなくてもやる」し、「聞かれなくても意見具申」するだろう。

たとえば、10人くらいでみんなでご飯を食べに行くとする。よくあるのが、「何を食べようか」となり、みんなに意見を聞くと「何でもいい」と言って顔を見合わせるような場合だ。その時、「では中華にしよう」と提案できるのが、たとえるなら経営マインドを持った人物と言えるだろう。チームの行く道を提案できることである。先の中小企業に例えると、「中華にしよう」という人がいないのである。社長は常に1人で何を食べに行くか決めている状態で、それは当然と言えば当然であるが、社長の立場からすると、「たまにはお前たちも意見くらい出せよ」と不満に思うわけである。

10人が10人、全員が「何が食べたい」というのもにぎやかで活気があっていいかもしれないが、できれば34人のコアになる人たちが意見を出し合い、出てきた意見を基に社長が判断するというのが、効率的かつ適切かもしれない。この時のコアとなるのが、役員となる人である。さらにここで、自分の意見に根拠を示せればなおベターだろう。「駅前のイタリアンは今週3周年記念でランチ半額サービスを実施しています」というような根拠である。

こういう時に提案できるためには、日頃から準備していないといけない。たとえば、家で夕食時に家族とテレビを何気なく見ていても、おいしい店の紹介などを見たら、チェーン店が近所にないかとその場で調べてみるとか。役員は9時から5時までが仕事ではない。常に常在戦場で、アンテナを張り巡らせていないといけない。プライベートだからといってボーっとしていたら、チコちゃんに怒られるまでもなく、役員失格である。

中小企業では、役員と言ったって威張っている余裕などないかもしれない。一般社員と一緒になって汗を流して働かないといけないかもしれない。ただ、だからと言って考え方まで「社員モード」になっていてはいけないのである。たとえば社長が緊急入院したとしたら、社長不在の中、社員に必要な指示を出して会社を動かしていかないといけない。その時、「みなさんどうしましょう」ではいけないのである。

社長であれば、「人材がいない」と嘆くばかりでなく、そういう人材を育てる意識を持たないといけないし、役員である人は、そういう行動が取れているか自問自答しないといけない。肩書だけで満足しているのか、あるいは何をしたらいいのかわからないのかもしれないが、根拠をもって「中華にしましょう」と提案できているかどうか、一度振り返ってみるべきだろうと思う。

人の振り見て、ではないが、自分も一応「役員」だし、一層意識しようと思うのである・・・




【本日の読書】
 リンカーンのように立ち、チャーチルのように語れ 聞く者の魂を揺さぶるスピーチテクニック21 - ジェームズ・ヒュームズ, James C. Humes, 寺尾まち子 普及版  [復刻版]一等兵戦死 - 松村 益二





2019年1月13日日曜日

子供はどう育つのだろうか

子供を持つ親なら、将来我が子がどんな大人になってほしいかということは、漠然とであっても思うものだろうと思う。そして、我が子に必要とあれば、できる限りのことをしてあげたいとも。そこに問題があるとしたら、「そのために何をすれば良いのかがわからない」ということだろうと思う。ほとんどの親は(熱心であればあるほど)、その答えを「教育」に求め、そのために手っ取り早く「塾に行かせる」ということにたどり着くのだと思う。

教育は大事だと思うが、私はそれよりももっと根本的なことを考えている。それはいかに「自立した大人たりえるか」ということである。一流高校に合格しても、途中で登校拒否になりドロップアウトしてしまう子が現実にいる。一流高校から一流大学に行っても、遊び呆けて退学になったり、少し前の就職氷河期みたいに、環境の影響で思うような就職ができなかったりすることもある。一流会社に就職しても、JALだって倒産する世の中だし、鬱になって会社に行けなくなったりする。結局、そうなった時、塾に行かせたことは何の役にも立たない。

自分のやりたいことを見つけたら、周りが反対してもチャレンジしてみようという意欲を持てる人間になるためには、親は何ができるのだろうか。困難に陥った時、必死に歯を食いしばって耐え抜ける人間に育っていけるようになるためには何をしたらいいのだろう。これといって名案が思いつかないまま、塾に行かせることが正解だと信じて疑わない妻を説得することができず、大人しく真面目に塾へと通う我が子の姿を忸怩たる思いで見つめているしかない。

自分自身を振り返ってみても、親から特にこれといった躾あるいは教育を受けたという覚えはない。日々の生活に余裕なんてなかったのかもしれないが、私も弟も育つように育ったと感じている。しかし、母親も「同じように育てた」と言うものの、私と弟とは性格はかなり違う。それはなぜなんだろうと昔から疑問に思う。もっとも、同じようにとは言うものの、弟が生まれるまで一人っ子として育った私と、生まれた時から兄貴という目の上のたんこぶがいた弟とでは、環境は異なるのかもしれない。

同じではないといっても、それだけだろうかとも思う。人間の人格形成には様々なものが影響しているとは思うが、それはどんなものだろうか。よく刑事事件で、弁護人が情状酌量の1つとして育った環境をあげるが、親の愛情に育まれた場合には、刑事事件の被告人になるようなことにはならないのではないかと思う。それは最低限として、例えば意思が強かったり、忍耐強かったり、思いやりがあったりというのは、どうしたら育むことができるのだろうか。

自分自身の経験からいくと、私の性格形成には結構漫画の影響があるように思う。中でも松本零士の漫画の影響はかなりあると思う。しかし、弟の方は目の前に私の読んでいた漫画があったのに、それにはかけらも興味を示さず、私の趣味とはまったく異なるギャグ漫画とかバイク等の系統を好んでいた。そうした趣向の違いは何によって生じるのか、つくづく不思議に思うところである。息子にも自分と同じような意思の強さなどを持ってもらいたいが、同じ漫画を読ませればいいというものではないだろうし、そもそも弟のように興味さえ示さないかもしれない。

たまたまNHKでやっていた『NHKスペシャル 平成史 第1回▽大リーガーNOMO~トルネード・日米の衝撃』という番組を録画して息子と一緒に見た。当時、メジャー挑戦なんて誰もやらなかったことをあえて宣言し、バッシングにもめげずに自らの意思を通して成功させた野茂の物語を息子に見せたかったのである。こういうものが結構影響力を持ったりするのかもしれないと思って一緒に見たのであるが、果たしてどうだろう。

子供たちに勧めるのは、どうしても本や漫画や映画といった自分の嗜好にあったものが多い。息子は割と受け入れてくれるが、娘はそうでもない。今年高校を卒業するが、今の時期にいわゆる文豪の文学作品を読んでみたらと勧めているが、まるで興味を示さない。「親はなくても子は育つ」というが、親があれこれ世話を焼いても無駄なのかもしれないと思ってみたりする。あとはニュースなどを一緒に見て世の中の動きに対して、自分の考えを語ったりするのもいいかと思うが、家族はバラエティ番組ばかり好んで見ていて私にはチャンネル権がないとなると、なかなか難しい。

結局のところ、意図的に仕向けるということは無理なのかもしれない。ただ、子供たちには、経済的な限界はあるにしても広くいろいろな経験をさせてあげたいと思う。塾に入れて満足している親にだけはなりたくない。そんな思いを持って、これからも子供たちと接していきたいと思うのである・・・




【今週の読書】
 ふじようちえんのひみつ: 世界が注目する幼稚園の園長先生がしていること - 加藤 積一 おカネの教室 僕らがおかしなクラブで学んだ秘密 - 高井 浩章 普及版  [復刻版]一等兵戦死 - 松村 益二




2019年1月9日水曜日

自殺は良いか悪いか

昨年末、『「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義』という本を読んだ。タイトルにある通り、「死」について様々な角度から議論した面白い本であった。我々日本人的には言霊の影響だろう、死について語るなど「縁起でもない」と忌避されそうな話であるが、真正面から考えているところがなかなかである。その中で、「自殺」についての議論があり、そこは一際興味深く読んだところである。

著者のシェリー・ケーガン教授は、自殺について、「もし自殺をするのが理にかなっている状況があるとしたらそれはどんな状況だろうか」と問いかける。これも我々の感覚としては、「そんな状況などあるわけがない」と否定しそうだが、個人的にはそうは思わない。むしろ自分の人生のピリオドを自分で打つのも悪いことではないケースもあると考えている。年を取って安楽死を望むケース以外にも、「自殺をするのが理にかなっている状況」を考えてみたことがあるのである。

それは4年前に転職をした時の事。大手都市銀行から中小企業に転職するにあたり、リスクを考えてみた。一番怖いのは倒産だったが、その場合どうなるだろうと。当然、再就職を考えるが、その時点ではもはや大銀行の後ろ盾はなく、孤軍奮闘しなければならないが、年齢的にも収入は激減するだろう。その時のシミュレーションをする際、「自殺」も検討したのである(あくまでも「選択肢の一つとして」で、本当に死のうとは考えていたわけではない)。

 まずは、自殺でも生命保険がおりるか聞いてみたところ、自分の場合は大丈夫との答えだった。そこでその場合の残された家族の収支計算をしてみたのである。まず、住宅ローンは団信があるからその時点で完済となる(まことにありがたい制度である)。それ以外に生命保険があるが、計算上今の手取りの収入額と比べるとだいたい15年くらいはもつことがわかった。その時点では、働いたとしても(定年までの)15年くらいだからほぼ同じとなる。つまり、経済的には十分合理的なわけである。

 となると、あとは私自身の存在である。一方、倒産して失業し、再就職するも収入激減というケースを考えると、激減した収入で住宅ローンを払うとなると、かなり生活は困窮する。妻もパートを今以上にやらないとならないし、子供たちも進学をあきらめるかもしれない。家族間にもすきま風が吹くかもしれないし、それでもなお家族は私という存在を必要とするだろうか。平和な状態で考えれば肯定的になるだろうが、本当に困窮したらわからないと思う。「私が余計なことをしたばかりに」という恨みは買うだろう。そのようなケースでは、自殺も理にかなうかもしれないと私は考えた。

バブル崩壊直後、経営難に陥った中小企業の経営者3人が一緒に自殺するという事件があった。当時銀行員として、日本経済の最前線に立っていた私は、「死ぬんだったら、死んだ気になってやれば何でもできるだろうに」と思ったのを覚えている。しかし、あくまでもケースバイケースであるが、それは自分自身だけの場合であって、(困窮の回避なども含めて)家族の幸せを考えた場合、必ずしもそうではないかもしれないと思う。「自分が死んだ方が家族が幸せになれる」としたら、それは自殺が理にかなう一つのケースではないかと思うのである。

 幸いにして、現在会社の業績は順調で、4期連続の増益決算となることが確実な状況である。今のところ定年もないので、可能な限りは働き続けようと考えているし、貴重な収入源として家族の中で辛うじて地位を確保できていると思う。ただ冷静に考えると、死んだ場合の経済的メリット(給与収入<生命保険金+住宅ローン完済)は年々大きくなるのは事実である。その事実を家族が知った時、どう思うか。経済合理性だけで判断されてしまうと厳しい状況であり、経済的メリット以上のものを示す必要がある。

 「稼いでいるから文句はないだろう」という態度ではなく、無私の愛に頼るのではなく、経済的な貢献以外の貢献も心掛けた方がいいなと、ちょっとヒヤヒヤしながら思うのである・・・




【本日の読書】
 死ぬこと以外かすり傷 - 箕輪厚介 おカネの教室 僕らがおかしなクラブで学んだ秘密 - 高井 浩章





2019年1月6日日曜日

論語雑感 八佾第三(その16)

〔 原文 〕
子曰。射不主皮。爲力不同科。古之道也。
〔 読み下し 〕
()わく、(しゃ)()(しゅ)とせず。(ちから)()すに()(おな)じくせず。(いにしえ)(みち)なり。
【訳】
射の主目的は的にあてることで、的皮を射ぬくことではない。人の力には強弱があってひとしくないからである。これは古の道である。
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これはなかなか深い言葉だと思う。弓を射るとなると、どうしても撃ち抜く方がカッコよく思えるもので、的に当てるだけだと非力なイメージがする。それを戒め、そもそもの目的をきちんと意識すべしと諭したものであろう。ただ、そこは寄って立つ思想が絡む問題だと思う。どういう思想で行うのか。それによって180度変わってくるものであると思う。

この言葉を読んですぐにイメージしたのは、ボクシングである。ボクシングの勝敗は基本的にKOであるが、もちろん判定もある。判定については詳しいことはわからないが、有効打をカウントしたり、戦意不足の減点を差し引いたりして決めるのだろう。実力が伯仲しているとKOするのも難しくなるわけで、判定勝ち狙いというのも当然出てくる。そうすると、「相手を倒す」よりも「ポイントを稼ぐ」ボクシングというのも出てくる。つまり、「当てるだけで倒せないパンチ」である。

プロはともかく、アマチュアボクシングではポイントを稼ぐことを競うもののようである。いかにKOするかではなく、いかに手数を繰り出して有効ポイントを獲得するかが重視されるわけである(たぶん)。まさに、「的に当てることが目的」で、「的皮を射抜くことではない」わけである。アマチュアボクシングではこれでいいかもしれないが、プロの、それもラスベガスで試合をするようなレベルになると、やっぱりKO力が求められるらしい。つまり、「的皮を射抜く」ことが求められるのである。

弓道ももともとは狩猟手段であったはず。そうするともちろん、「射抜く」ことが重要で、当てるだけの非力では矢が刺さったまま獲物が逃げて行ってしまうかもしれない。それでは意味をなさないわけで、本当の意味で「古(いにしえ)」というのなら、射抜く方ではないかとすら思う。孔子の時代の弓道がどんなものであったかはわからないが、現代の弓道でも的に当てること、それとそこに至る精神統一や姿勢など諸々が重視されるのではないかと思うが、それは本来の狩猟とは目的を異にするものであろう。

これはどちらが正しいというものではなく、どういう思想(立場)によるかの違いであろう。狩猟であれば、その目的は獲物を獲ることであり、多少的を外しても、例えば足を射抜いて逃げられなくしてもいいわけである。ところが、弓道では的を外すほどポイントが得られないから勝負には勝てない。まさに何が目的なのかを見極め、そこを外すと意味をなさないわけである。

仕事でも似たようなことはある。我が社でも全員が収益を上げるべく日々奮闘している。収益を上げなければ会社が存続することはできず、みんなも給料がもらえないからであるが、では収益を上げるためにどうするか。そこで顧客サービスの充実とコストの削減がある。私としては、コスト削減を軽視するわけではないが、まずは顧客サービスの充実を図りたいと考えているが、手っ取り早いコスト削減を重視する意見もある。どちらが正しいという話ではなく、どちらを「選択するか」だと考えている。

例えば先日、お客さんに頼まれごとをしたが、担当者はコストがかかるからと言って断ってしまった。だが、お客さんの立場に立ったら、やってもらえたら嬉しいだろうし、我が社の信頼度向上にもつながるだろう。コストが問題ならお客さんに説明して負担してもらうという方法がある。いくらサービスと言っても、何もタダでやらなければならない筋合いはない。その結果、「費用がかかってもやってほしい」となるかもしれない。顧客サービスを重視するなら、断るべきではなかったとなる。どういう立場に立つかによって行動が変わってくるのである。

要は、自分たちがやっているのは「狩猟」なのか「弓道」なのか。それによって、的皮を射抜かなければならないのか的に当てればいいのかが決まってくる。我が社でも今度それをきちんと決めようと考えている。立場が決まれば目的も定まるというもの。その根本的な部分をきちんと決めようと考えているが、その重要性を改めて認識させられる。的に当てることが大事なのか、的皮を射抜くことが大事なのか。何事もそこをきちんと意識したいと思うのである・・・




【今週の読書】
 狂王の庭 (角川文庫) - 小池 真理子





2019年1月4日金曜日

2019年新春雑感

今年も新しい年が明けた。昨年同様、1人近所の北野神社にお参りに行く。家族揃ってとはなかなかいかないものである。それでも例年同様、元旦は我が両親に会いに子供達を連れて行く。子供達はお年玉が何と言っても楽しみ。高校3年の娘はもうこれが最後かもしれない。祖父母から孫まで三代が揃い踏み。いつもながら短い時間だが、祖父母は孫の成長をどう見ているのだろうかと思う。

母のガラケーの調子が悪くなったことを機に、とうとう両親はスマホに切り替える。ここ何年か提案して来たが、ずっと拒否していたのだが、その間、叔母がスマホに切り替え、しきりに勧めるという環境の変化もあって、母も重い腰をあげた次第。「何に使うんだ」と言っていた父も、置いていかれてはとばかりに便乗したのである。年金生活の両親には格安スマホを勧める。

とりあえず電話とメールができればいいと言っていたが、基本操作も慣れるまでは大変。母も何度も同じ質問をする。だんだんとイライラしてくるが、ここで腹を立ててはいけないと心を落ち着かせる。自分にとっては簡単な操作でも、80を越えた母にはやはり大変だと思う。そういえば携帯ショップで隣に座っていたどこかのおばさんも、スマホの操作がわからなくてストレスだと語っていた。そういう気持ちを理解できるようにしたいと思う。

思えば、仕事でも自分では当然だと思っている考え方がなぜできないのかとイラつく時がある。誰もが同じ思考回路で動いている訳ではないし、理解力の差もあるだろうし、視点の違いもある。それを理解するようにしたいと思う。母のスマホは、そのいい気付きを与えてくれたのかもしれない。何事も「習うより慣れろ」。母に慣れさすためには毎日電話して、メールして、LINEしようと思う。考えてみれば、毎日母とコンタクトを取るいい機会かもしれない。続けてみようと思う。

今年は高校のラグビーOB会の役職を任されそうな感じである。既に内々に打診を受けている。正直言って、面倒だしやりたくないというのが本音である。ただ、後任を誰にしようと現幹部の人たちが考えた時、私の名前が上がったということを重く考えたい。いい加減な奴に任せようとは思わないだろう。何人もいる中で自分の名前が上がったという事実を大事にしたいと思うし、それゆえに正式に話が来たら快諾しようと思う。面倒ごとを引き受けて誰かの役に立つのであれば、自分にも何かいい運が回ってくるかもしれない。

年初にあたり、今年はどんな年にしたいかと考えると、「どんな年に」というよりも「どんな心掛けで過ごすか」ということを意識したいと思う。キーワードは「感謝」だ。面倒ごとを頼まれても、「嫌だな」と思う心を抑え、「自分が(頼まれるほど)信頼されている」と思えば、それはありがたいことのはず。ならば、そういう考え方をしたいと思う。両親もいつまでも健在というわけにもいかないし、ならば一瞬一瞬を大切にしないといけない。スティーブ・ジョブズではないが、「今日が最後かもしれない」と思えば考え方も変わるはず。そういう心掛けで1年を過ごしたいと思う。

シニアラグビーで汗を流すこともますます楽しくなって来ている。これはずっと続けたい。今年も「感謝」の心で、心と体を鍛える1年にしたいと思うのである・・・




【本日の読書】
 狂王の庭 (角川文庫) - 小池 真理子