2018年8月5日日曜日

論語雑感 八佾第三(その7)

子曰、君子無所爭。必也射乎。揖譲而升下、而飮。其爭也君子。

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(のたま)わく、君子(くんし)(あらそ)(ところ)()し。(かなら)ずや(しゃ)か。(ゆう)(じょう)して(のぼり)(くだ)り、(しこう)して()ましむ。()(あらそい)君子(くんし)なり。
 
【訳】
孔子云う、「君子は人と争うことを好まない。もしやるとすれば、弓の競射位のものであろうか。その際にも極めて礼儀正しく、堂に上って矢を射ては堂から下りる。勝負がついたら負けた方が罰杯を受ける。勝っても負けてもこだわらない。これが君子の競争のやり方である」と。
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孔子の説く「君子」とは、いわゆる聖人君子という言葉がある通り、立派な人という意味であろう。そういう立派な人は人と争わないと孔子は語る。それはその通りだろう。他人をけなしたり、怒鳴り散らしていたりするような人は、いかにその言動が正しかったりしても興ざめしてしまって、立派な人という尊敬の念は湧いてこない。人と争わないというのは、確かに尊敬を集める人の条件の1つであると思う。

似たような例として日頃感じているのは、「金持ち喧嘩せず」である。金持ちも確かに人と争わない。ただ、これは人格面というよりも「価値観」によるものであると思う。例えばある点を巡ってお互いに対立が生じた場合、それが損得に関したものであると、金持ちはすぐに譲ってしまうから喧嘩にならないのである。「ごちゃごちゃ言い争うのは煩わしいし、そのくらいの金額なら大したことはないから譲ってしまおう」と考えるわけである。

これに対し、庶民感覚の人は、少しでも自分が損をしそうになると抵抗するわけである。何としても損を回避しようとあれこれと難癖をつけてきたりするわけである。私も銀行員時代、不良債権担当だった時にはこういう人を数多く見てきた。中にはあることないこと明らかなでっち上げの嘘を堂々と主張してくる人もいた。必死だったという見方もできるので何とも言えないが、少なくともそういう人たちは「君子」ではない。

人と争わないという点では、年齢という要因もある。人は歳を重ねると穏やかな性格になるのか争わなくなる傾向がある。もっともこれは個人差があって、いくつになっても人を怒鳴ることを躊躇しない人はいる。いわゆる頑固ジジイ系であるが、個人的にはこの頃あまり物事を気にしなくなってきたと感じている。「まぁいいか」でスルーする割合が増えてきている。知識・経験を積んでくると、この程度なら大したことはないと割り切れるようになるのかもしれない。

仕事でも印象的な経験をしたことがある。それは事務所を借りていただいていたある会社のこと。どうも業績が悪くなってきていたようで、契約の更新に際し、家賃を下げてくれないかと言ってきた。当時その辺りの家賃相場は上がっていて、むしろ上げさせてもらいたいくらいだったから、それは受けられない申し出であった。しかし、それまで滞納もないし、困った時はお互い様の精神で、更新料(家賃の1ヶ月分)を免除することをこちらから提案して実施した。

しかし、業績は思うように改善せず、その3ヶ月後に退去すると通知してきた。退去にあたっては「3ヶ月前に告知する」という契約になっていたが、その社長は「更新時に退去すると伝えた」と言い出し、挙げ句の果てには私に対し「いきなり出てきて事務的な対応をするとは何事か」と激昂してきたのである。その真の意図は明らかで、3ヶ月分家賃を取られるのが嫌で、即退去扱いにしてその分敷金を返して欲しかったのである。業績が苦しくなる中で少しでもお金を残そうとするのは人情であるが、ただ問題はそのやり方である。

実は、更新料の免除の提案を社内でしたのは私であり、もしもそこで「契約は契約だけれども、今は苦しいので何とかならないか」と相談されていたら、当然こちらも協力したであろう。我が社の社長も認めてくれたのは明らかであるが、相手の社長はそうした平和的手段を選ばず、「争う」選択をしたのである。強く言えばねじ伏せられると思ったのかもしれないし、頭を下げるのはプライドが許さなかったのかもしれない。その結果、こちらもその申し出を断固拒否し、契約通りに処理することにして事務的にきっちり清算させていただいた。電話での激しい言い争いでも一歩も引かなかったから、相手の社長も最終的に無理は通せないと諦めたのである。

もしもその社長が君子であれば、きっと素直に頭を下げてお願いできないかと交渉してきたであろう。そのようにされると、それを断ればこちらも寝覚めが悪くなるというもの。たとえ大家が我々でなくとも、交渉に応じてもらえる可能性は高かったと思う。会社は経営者の器以上に大きくはならないとよく言われるが、その会社も経営者がそんな調子だから、事務所を移転してもその先は先細りの道なのだろうと思う。君子とまではいかなくとも、相手といかにして共存を図るかという観点から考えられたら、もっと違う結果を(苦もなく)導き出せていたのにと、他人事ながら残念に思う。

 自分も「君子」とまではいかなくとも、君子のやり方くらいは意識していたいと思うのである・・・




【今週の読書】






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