2018年8月30日木曜日

クレーム対応

 クレーム対応はハッキリ言って誰もやりたいとは思わない仕事だろう。私も経験があるが、あまりいい気がしないものである。だが、クレームを「受ける方」から時折「する方」に回るときがある。もちろん、それなりに理由はあるのだが、相手の対応によってますます腹が立ったり、あるいは満足したりする。「する方」に回った時、相手の対応はいい勉強の機会でもある。そんな「する方」の経験を先日した。

 それは東京電力で、仕事で会社の所有する不動産において作業をすることがあり、前日に通電を依頼しておいた。「朝7時から使えます」と言う説明だったが、実際に10時に現場に着くと電気が来ていない。すぐに電話連絡を入れる。例によって「サービス品質向上のため通話を録音させていただきます」という案内とともに幾つかプッシュボタンを押させられ、忍耐強く待ってオペレーターと話をする。どうやらシステム障害でスマートメーターが働かなかったらしい。

 そんな説明よりこちらの要求は「すぐに通電してほしい」ということ。電気が来ていないと仕事にならない。ところが「現場作業員が順次巡回している」との説明で、いつになるのかハッキリしない。こちらは多少計算もあって「それでは困る、仕事にかかれないと損害が発生する」と言って粘った。世の中、大きな声が通ることはしばしばであり、「困った感」を出しつつ、なんとかしてくれと粘る。相手も「申し訳ございません」「いつになるかわかりかねます」と繰り返すのみ。そこで上司に代わってくれと要求した。こちらは声に怒りがこもるよう演技しつつ、少しでも優遇してもらえないかという腹積もりである。なにせその日に終わらなければ予定が大幅に狂うのである。

 代わった上司にも同じやり取りを繰り返し、「では現場の状況を確認してすぐに折り返し連絡します」との言質を得た。それも怪しいと思ったので、上司の名前を確認するとともに「直通の電話番号を教えてくれ」と要求した。また音声案内でイライラさせられるのはたまらない。しかし、それは「ありません」の一言で断られ、「とにかく連絡させていただきます」とのことだったのでこちらも電話を切った。それから電気が来ていなくともできる作業を優先していて、ふと気がつくと2時間が経過している。

 そこで再度音声案内を我慢しつつ、オペレーターを待ち、先ほどの上司を指名で呼び出した。ところがこれが要領を得ない。「履歴を確認しますのでご住所を教えてください」と繰り返すのみ。「いやいや○○さんにつないでくれればいいんですけど」と伝えると、「どこのコールセンターで受けたかわからない」とのこと。どうやら電話番号は1つでも、受けるところはいろいろな場所に分散しているようである。諦めてそれではとその人の上司を呼び出す。ところが、「履歴を確認」したはずなのにまた説明することに。このあたりからだんだん「怒っているフリ」から本当に腹が立ってくる。

 「すぐに電話をすると言われたが、そちらのすぐは何分くらいのことなのか」と尋ねると、「確認取れ次第すぐということです」との答え。そうか、それで確認が取れなかったから2時間経っても音沙汰なしなのか。どうやら確認が取れなければ3日後でも「すぐ」と東京電力では言うらしい。それでまた、次の責任者は「現場の作業員に確認を取ってすぐにお電話します」と宣う。やれやれ、まだあと2時間はかかりそうだと気が重くなる。これ以上粘っても時間の無駄だとわかり諦めることにしたが、「では20分後に電話をくれ」と要求した。少しお説教をしたが、その甲斐あって「では20分後に確認が取れても取れなくても一度お電話いたします」との答えが返ってきたので納得して電話を切った。

 一般的に顧客サービス重視を標榜していても十分にできていないことは多々ある。今回の東京電力カスタマーセンターの対応もしかり。こうしたクレームの電話ではお詫びも大事だが、もっと大事なのは「この後どうするか」だ。システム障害と聞けばこちらもある程度仕方ないと思う。されどそれを錦の御旗にするのは違うだろう。こちらは電気が通じていなくて困っているのである。言い訳して「仕方ないでしょう」と自らを納得させることではなく、「早く復旧すること」が大事であり、それができなければ「いつ復旧できるのかの目処を示すこと」が求められているのである。

 「確認してすぐに電話をする」と回答したのなら、すぐに現場に確認し、「いつぐらいに回れそうなのか」を確認して連絡をくれればこちらも「本当に」腹を立てたりしないのである。責任者なら時計を見ていて、遅いと感じたらもう一度現場とやらに確認して回答を促すくらいはしないといけない。さらには「すぐと申し上げましたが、もう少しお時間をください」と区切るのも効果的だ。そこは大変だろうが個別対応だ。こうしたトラブル時にはお詫びだけで済まそうとするのではなく、「情報提供」の方がむしろ大事である。相手のニーズを確認して対応することこそが顧客サービスのイロハである。

 さらにはカスタマーセンターだけで頑張っても仕方ない。現場もカスタマーセンターから連絡があったら、「うるさいな」と思わずに真摯に対応するスタンスが求められる。直接顧客の声を聞いていない人には、聞いている人の緊張感は伝わらない。実際、現場の人間であればどのくらいで現地に行けそうかは判断できるだろう。一次対応のお姉ちゃんはマニュアル対応しかできないだろうが、責任者であればそのくらいのことはわかっていないといけない。ちょっと教育的指導をしてしまいたくなった対応である。

 もっともそんなことは天下の東京電力だからわかっているのかもしれない。その上で言葉だけ丁寧に「申し訳ございません」を繰り返し、なんとかやり過ごせば、次に電話がかかってきても受けるのは他のセンターかもしれないし、頰被りできると踏んだのかも知れない。あるいは組織として、適当にあしらえば沈静化すると考えたのかも知れない。実際、カスタマーセンターについては、「暖簾に腕押し感」が強く、最後はこちらもそれで費やされる時間が勿体無いと思って切り上げた。

 ちなみに、二番目の責任者は20分後に電話をしてきたが、回答は「やはり確認できないので現場の担当者から電話させる」とのことだった。この時点で、今日は電気が来ない前提で作業を考えようと切り替えた。その後、昼過ぎに突然電気がついた。もちろん、予想通り「現場の担当者からの電話」などかかってはこなかった。カスタマーセンターの担当者は、きっと後で「今日はつまんないクレーマーの電話を受けちゃった」とぼやいていたのだろう。

 他人の振り見て我が振り直せではないが、自分自身、今回はいい勉強になったと思った。そういう意味で東京電力カスタマーセンターの方には勉強をさせていただいた。こういう実地での経験に勝る勉強の機会はない。できることならいい見本を見せていただきたかったと思うが、「親方日の丸」の大組織ではクレームなんて気にするものではないだろうし、我々民間とは違うから難しいのだろう。

 いい見本に頼らず、真のクレーム対応のノウハウは自ら考えて勝ち取ろうと、改めて思ったのである・・・




【本日の読書】
 これからを稼ごう: 仮想通貨と未来のお金の話 - 貴文, 堀江, 哲之, 大石 (CD付き)クラシック 天才たちの到達点 - 百田 尚樹





2018年8月22日水曜日

宇宙開発の未来

 先日、週末恒例の映画で『サリュート7を観た。旧ソ連の宇宙事業で実際にあった事故を描いた映画である。軌道上のサリュート7が宇宙塵の影響で制御不能となり、このままでは地球に落下して大惨事となる可能性があるという事態が発生し、ソ連は2名の宇宙飛行士をサリュート7に送る。しかし、トラブルは重なり、その飛行士たちの生還すら危うい状況となってしまう。この状況下、アメリカはスペースシャトルを打ち上げる。

 ソ連のコントロールルームでは対応策を協議するが、残存酸素の量から「1名だけの帰還が精一杯」となる。アメリカのスペースシャトルには貨物室があり、サリュート7をそっくり回収できる。しかし、米ソ冷戦下でそれを認めれば技術が流出するのでソ連としては避けたい。そこで最悪の場合、「撃墜」という指示が出る。飛行士の生命は二の次である。実際には、飛行士の奇跡的な修理活動でサリュート7は復活し、2人とも無事帰還する。結果オーライだが、組織としては完全に命より技術を優先していた。

 一方、同じ宇宙モノのSF映画『オデッセイ』は、フィクションではあるものの、火星に取り残された宇宙飛行士を救助する物語である。こちらはNASAが懸命に救助を試みるが、救援物資の打ち上げに失敗し、絶望的状況になる。ところがここで中国が助け舟を出す。救援物資を乗せたロケットを軌道上まで打ち上げてNASAに提供するのである。中国というマーケットを意識したシーンだと言われるが、『サリュート7と比べると対照的である。

 『サリュート7でも人類の技術的にはもっと簡単に救助できたのである。スペースシャトルでサリュート7を回収してもらえればよかったわけである。だが、それを阻んだのは冷戦。逆に『オデッセイ』では、中国が手を差しのべたことにより困難な救助活動が成功したわけである。宇宙人の視点から見てみると、人類はその持てる技術力でもって火星に取り残された飛行士を救助しているわけで、違和感はないだろう。そこに温かみを感じるのは、本来対立的な国同士が協力し合って人命救助に携わっているからである。

 今は、米中間では双方が関税の引き上げ合戦を展開し、貿易戦争の様相を呈している。今『オデッセイ』を観れば、中国人はさぞかし胸のすく思いがするだろう。あくまでも映画はフィクションであるし、中国がNASAを助けるというストーリーが入ったのは、間違いなく「経済的理由」だろう。中国マネーが入ったのか、中国のマーケット向けを狙ったのかはわからないが、こういう時代が早く来るといいなという理想というよりも、現実は経済的理由の産物なのだろう。

 それでもやっぱり人類の明るい未来を信じたい私としては、こういう時代がいずれやって来るはずだと思いたい。それが米露なのか米中なのか中露なのかはわからないが(あるいは米中露かもしれない)、互いに協力し合う風景である。そしてやはりそこには我が国のJAXAの名前も加わって欲しいと願わざるを得ない。先日、有人月面着陸計画をぶち上げたところであるし、是非とも宇宙開発の一角に日の丸を翻して欲しいと思う。

 その昔、私は宇宙が大好きであった。プレネタリウムにもよく行ったし、今でも宇宙空間での特殊相対性理論の考え方なんてワクワクして読んでしまうクチである。映画では特に『インター・ステラー』なんて感動モノであった。そんな自分にとっては、宇宙開発は夢があって明るいものであって欲しい。願わくば、できる限り生きている間に、そんな未来を実現させて欲しいと思うのである・・・




【本日の読書】
 遺伝子‐親密なる人類史‐ 下 (ハヤカワ文庫NF) - シッダールタ ムカジー, 田中 文, 仲野 徹 落合博満 バッティングの理屈―――三冠王が考え抜いた「野球の基本」 - 落合 博満





2018年8月20日月曜日

論語雑感 八佾第三(その8)

子夏問曰、巧笑倩兮、美目盼兮、素以爲絢兮、何謂也。子曰、繪事後素。
曰、禮後乎。子曰、起予者商也。始可與言詩已矣。

【読み下し】
()()()うて()わく、巧笑(こうしょう)(せん)たり、美目(びもく)(はん)たり、()(もっ)(あや)()すとは(なん)()いぞや。()(のたま)わく、()(こと)(しろ)きを(あと)にす。()わく、(れい)(あと)か。()(のたま)わく、(われ)(おこ)(もの)(しょう)なり。(はじ)めて(とも)()()うべきのみ。
【訳】
子夏が、「詩経に『にっこり笑うと口元にえくぼ、目元ぱっちりと美しい。その上紅白粉の化粧をして、さても艶やかな』とありますが、どういう意味でしょうか?」と質問した。
孔子は、「絵で云えば、彩色を施した後に胡粉で仕上げをするようなものだ」と答えた。
子夏は、「なるほど!礼は人の仕上げのようなものですね?」と問い返した。孔子は、「それは私にも気が付かなかった。商よ(子夏の名)、よく言ってくれた。やっと共に詩を語り合える仲間ができたかな」と云った。
新論語
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女性の美ということになると、化粧でごまかせるところはあるかもしれないが、やはり元となっているところの「笑顔」や「目元ぱっちり」がまずは重要であり、その上で化粧を施せば「鬼に金棒」という喩えはわかりやすい。孔子は「仁」の重要性を強調しているが、それが「笑顔」や「目元ぱっちり」に該当するとすれば、「礼」は化粧だということなのだろう。昔CMであったが、「美しい人はより美しく」というわけであろう(「そうでない人」が「それなりに」かはわからない)。

「礼」そのものがどういうものか、あまり詳しくはわからない。ただ、言葉通り「礼儀的なもの」と考えるのであれば、「化粧的なもの」という風に例えることも何となくわかるような気がする。それはたとえば言葉遣いであり、特に日頃職人さんと接していて感じることである。職人さんと言えば、腕一本で食っている人というイメージであるが、例えば大工さんなど建設業界で働く職人さんである。

何となく以前から感じているのであるが、職人さんは言葉遣いが悪い。と言ってもさすがに施主さんとかお客さんに対しては丁寧な言葉遣いをするが、職人さん同士の会話となるとまるで喧嘩をしているのではないかと思うような時がある。そこまではいかなくてもよく喧嘩にならないなと思うこともある。私なんかは職人さん同士の調子で会話されたらとても穏やかではいられない。内々の共通語なのかもしれないが、言葉遣いで印象は大いに変わると思う。

言葉遣いとなれば、「モノは言いよう」ということもある。同じことを言うのでも、その言い方ひとつで言われた方の気分が大きく変わるということは日常茶飯事である。私なども妻の一言で幾度となくカチンときた経験があるが、モノの言い方1つで気持ちよく頼まれたことをやれるのにと思うことはしばしばである。たぶん、同じように感じる人は多いだろうと思う。

話は飛ぶが、大学時代、ラグビーの公式戦となると、正装(当時は揃いのブレザーなんてなくて学生服だった)して臨むのが慣習であった。ジャージも公式戦の時だけ赤黒模様のチームジャージで、それは公式戦の時のみ着用となっていて、練習試合では絶対に着用しなかった。そうすることで、「公式戦」というものに箔をつけていたとも言える。相手に対しても礼を正している姿勢を示したのである。

もちろん、大事なのは中身であることは言わずもがなであるが、きちんと装うことでその中身に重みを与えることはできる。昔からおしゃれに無頓着で、というよりも苦手意識しかない私であるが、よくよく考えてみるとある程度のおしゃれは「化粧」と同じと言えるかもしれないと思う。一応、冠婚葬祭には礼服を着ていくし、仕事のスーツは身だしなみも考えている。ただ、普段着は無頓着だ。デートの時とは言わないが、娘と出掛ける時くらいは考えないといけないかもしれないと思えてくる。

そんなあれこれを考えると、ここで「礼」の重要性が説かれているのもよくわかる。それは確かに人の仕上げのようだとも言えるし、社会の潤滑油のようでもある。さらに言えば、相手に対する敬意もそうだと言える。「化粧」はあくまでも「化粧」であって、大事なのは中身。されどその中身を引き立たせるためには「化粧」も必要。中身良ければすべて良しではなく、「化粧」の部分も重要性は変わらないと言える。2,500年の時を経ても、社会における真理というものは変わらないものだと改めて思うのである・・・




【本日の読書】
 遺伝子‐親密なる人類史‐ 下 (ハヤカワ文庫NF) - シッダールタ ムカジー, 田中 文, 仲野 徹  落合博満 バッティングの理屈―――三冠王が考え抜いた「野球の基本」 - 落合 博満



2018年8月16日木曜日

何が大事か

何事であれ、考えてやるということはとても大事なことだと思う。仕事であれば猶更、である。ちょっと立ち止まって、「なぜこれをやるのか」を考えてみるだけで十分違うと思う。そんなことを考えたのは、最近新しい業務の事をいろいろと考えているからでもあるが、昔のことをふと思い出したからでもある。それは銀行員時代、問題先の担当をしていた時のことである。

問題先とは、貸出をしたが、その後業績が悪化して返済が苦しくなった企業のこと。A社もそんな一社で、返済を猶予している先であった。私は担当としてA社を定期的に訪問していたが、その時点でA社向けの全貸出金は一旦すべて返済を停止し、期限を区切って様子を見ながら返済条件を見直すことにしていた。こういう時、その期限は大体3か月か6か月かにするものであった。

私は事務手続きが煩雑ゆえに、期限を6カ月にしたかったが、上司は3か月にこだわった。短ければすぐに期限が来て事務手続きも大変である。もちろん、短くしなければならないケースもあるからそれはケースバイケースであるが、A社は業績改善には少し時間がかかりそうであったので、事務手続きに手間暇を取られるより、私は社長との時間を取りたかったのである。
「これから何をしようとしているのか」
「それは効果がどのくらい見込めるのか」
「どのくらいで収益が見込めるのか」
それこそが、我々の見極めるべき大事な点で、社長の考えが甘ければ尻を叩かなければならないし、うまくいきそうならフォローしなければならない。そういう話をじっくり伺いながら、様子を見たかったのである。

 A社は、資料という点でも少し問題があった。何とか遅れ遅れで試算表は作れていたが、資金繰り表は作れていなかった。上司は特に資金繰り表を作らせろとこだわった。もちろん、試算表も資金繰り表も大事である。だけど、ノウハウが乏しくて作れないものを年老いた経理部長の尻を叩いて作らせるのもいかがかと私は感じていた。作り方を教える手間暇も大変である。もちろん、私の担当もA社だけではない。

 期限が来ると、せいぜいよくて3か月ほど前の試算表を眺め、資金繰り表はまだ作れないのかと上司は文句を言ってきた。机に座ってハンコを押している上司にとってみれば、その内容はともかく、試算表と資金繰り表という「形」が大事だったようである。どちらも「過去」である。これから業績を回復して返済を再開できるのかは、「未来」である。たくさんの仕事を抱え、効率的にやろうとすれば、どちらを優先すべきかと考えればそれは明らかである。

 ただ、上司の考えもよくわかる。とりあえず「形」が整っていれば、自分は形に沿って仕事をしたことになる。十分な資料もなく期限を延長したのでは、自分の仕事として具合が悪かったのであろう。上司もまたその上の上司の手前もある。その「形」に意味があるかどうかではなく、「形」そのものが大事だということもある。思えばそんな意味のないことがかなりあったと思う。

 そんなことはよくあるのかもしれないと感じる時がある。販促と言えば、新聞に折り込みチラシを入れるものと思い込んでいて、過去はともかく、果たして今でもそれが有効なのか考えてみない。今まで続けてきたことを同じように続けることで、免罪符を得た気分になっているのではないかと思うことは、多々ある。

 今にして思えば、大企業だからそんな「形」だけの仕事をしていても良かったのだと思う。中小企業にきてそんなことをしていたら、たちまち船がひっくり返ってしまう。そう考えれば、何より「形」を重視する上司もいないし、プレッシャーはあるがストレスのない環境は望んでも得難い良い環境だと言える。そういう望ましい環境にいることに感謝しながら、これからもそういう意識で仕事をしたいと改めて思うのである・・・




【本日の読書】
 遺伝子‐親密なる人類史‐ 下 (ハヤカワ文庫NF) - シッダールタ ムカジー, 田中 文, 仲野 徹 ラグビーをひもとく 反則でも笛を吹かない理由 (集英社新書) - 李 スンイル




2018年8月12日日曜日

私の目指す働き方

 同僚の1人が腰痛で随分痛そうにしていた。自分自身、腰痛の経験はないが、実家の母などの様子を見ているとやっぱり辛いみたいである。同僚に対しては、その人でないとという仕事が終わったところで帰宅を促し、さらに翌日の金曜日も休むように伝えた。ところが、本人はどうも渋い顔。何度か促したところ、その日だけは諸々整理しておいて翌日は休むことにようやく同意した。昔気質ゆえに休むことに抵抗があるよようである。

 その気持ちは私もよくわかる。私も実は熱を出したりして、体調不良で仕事を休んだことはない(早退はある)。体育会気質とでもいうのであろうか、仕事を休むのは練習を休むのと同じくらい「あり得ないこと」といった感じがあった。だから同僚の気持ちもよくわかる。ただし、一方でメリハリもつけていたので、連続休暇など休む時はしっかり休む主義であった。しかし、若手銀行員時代はそれがうまくいかず不満山積であったのを思い出す。

 私が若手銀行員だった1990年代、「仕事を休むのは悪」という空気が蔓延していた。入行1年目の時の上司は、夏休みにも関わらず職場に出てきて、「俺は今日は休みだから」と裏にこもって仕事をしていた。最初の夏休みは、その上司が係員全員の休みを決めて本人に通知していた。月曜日から金曜日まで休めば土日を挟んで長く連続して休めるのに、わざわざ水曜日スタートの予定を示された。私は悩んだ末に、その上司と直談判し、最後は「どうしても休みたい」と主張し、月曜日からの休みを勝ち取った。

 その休み期間中も基本的に毎日職場に電話するのがルール。同僚にわからないことや困ったことがないか確認するのである。私は休んだ気がしなくて、これが嫌であった。そこである時、海外旅行に行くのをいいことに電話をすっぽかしていたら、宿泊先のホテルにまで電話がかかってきたことがある。「何事か」と驚いたが、大した用件でもなかった。こんな調子で、一体何が楽しいのかという有様である。携帯電話もない時代、外出先では公衆電話を探さないといけないし、電話をすること自体が大変な時代であったのに、である。仕事を休むことは同僚に迷惑をかけることと同義の時代であった。

 その後、状況はだいぶ改善されて、「お互い様」の精神で「休みの時は電話しない」というやり方が定着した。当たり前だが、自分も休み中に職場から電話がかかってきたら嫌だし、なら仲間が休んでいる時は、少々大変でもなんとかしてあげれば、自分の時もそうしてもらえるのである。休みも奨励されるようになってきたし、残業もしないように促されるようになった。かつては残業の申告をせずに遅くまで仕事をさせられていたものである。PCの浸透により労働時間が記録されるようになったことも大きいだろう。

 銀行など大企業は進んでそういう状況になっているが、中小企業では相変わらず昔のまま。さすがに休み期間中に電話をするルールはないが、みんな休みを取ることに後ろめたさを感じているのは変わらない。「三つ子の魂百までも」というやつだろう。ただ、休めばいいというものでもない。「休みたい時に休む」のがいいと思う。さらに、やっぱり私は昔から「メリハリ」を重視しているから、「働く時は働く、休む時は休む」という方が好きであるから、できれば「好きな時に」それができればと思う。それは、みんなにもそうであってほしいと思う。

 例えば、私は土日でも会社で唯一テレワークしている。会社は土日が休みだが、不動産賃貸業は土日が重要。我が社の場合、電話でとりあえず用は足りるのでその役を私が買っているのである。その代わり、平日の仕事中でも母親の病院送迎などは遠慮なく抜けているし、私用で抜けることもしばしばである。このメリハリが心地良い。休みを取ることを渋る同僚には、「今は歯を食いしばって働く時代ではないですよ」と言って納得してもらった。休む時は休んでもらう。その代わり、働く時は多少の不都合はあってもお客様優先で働いてもらう。これでいいと思う。

 世は「働き方改革」が叫ばれている。どういう形がいいかはいろいろ議論があるのかもしれないが、私には今の「124時間、週7日間、働くべき時に働き、休むべき時に休む、そしてそれを自分で決める」というスタイルが極めて心地良い。それでしっかりと成果を出し、さらに「自由に働き、自由に休む」というスタイルにしていきたいと思う。
 働くことが楽しいと思える今、それをさらに極めていきたいと思うのである・・・




【今週の読書】

 遺伝子‐親密なる人類史‐ 上 (ハヤカワ文庫NF) - シッダールタ ムカジー, 田中 文, 仲野 徹 素敵な日本人 東野圭吾短編集 - 東野 圭吾




2018年8月9日木曜日

草津温泉

日本人は温泉好きである。かく言う私も、普段は「風呂好き」というほどではないものの、一応「温泉」となれば入りたいと思うタイプである。それに対し、最近、自分の年齢が若者から遠ざかるにつれ、「今の若い人たちはどうなんだろう」と思わなくもない。不動産賃貸業に携わっていると、近年は「湯船なし、シャワーのみ」という部屋が増えてきている。私なんて風呂好きでなくてもシャワーだけというのには抵抗があるが、若者にはないのだろう。風呂文化も変わりゆくのかもしれないと思ってみたりする。
 
それはさておき、先週は一足早く夏休みを取り、母親を連れて草津温泉へと出かけてきた。「夏場に温泉?」と一瞬思ったものの、なにより母親のリクエストであるから仕方がない。ちょうど墓参りに連れていくタイミングでもあり、母の故郷に近い草津温泉に足を延ばしたという次第である。東京からだと関越自動車道経由で4時間もかからない距離である。のんびりと道の駅なぞに寄り道しながら、そんなに疲れることもなく気軽なドライブである。

街の中心部全景
草津と言えば、「お医者様でも草津の湯でも♪」という歌が有名であるが、その他にも湯畑や湯もみ等特徴的なものがあって、国内の有名な温泉地の1つに挙げられるのも頷ける。街中には硫黄の香りが漂い、ホテルの湯船も当然ながら硫黄の香りの強いお湯で、滅茶苦茶温泉気分に浸れる。一番懸念していた「夏に温泉?」という部分も、行ってみてわかったが、日が暮れるとこの時期でも日中とは裏腹に涼しくなって温泉に適した気温になる。結果、温泉には快適に入れたのである。

街の中心部にある湯畑
着いて早々、いそいそと温泉に向かう母親を尻目に、1人街中を散策する。まずは街の中心部の湯畑に向かう。ここはなかなか壮観である。地下から滾々と湧き出でる源泉を何本もの木枠を通して流していく。あたりには硫黄の臭いが漂い、お土産物屋も元気に見える。昨年暮れには石和温泉に行ったが、温泉街としての街全体の雰囲気としては草津の方がずっと上である。「射的」の看板もあって、昭和生まれの身にはなかなか嬉しい。

行った日は、たまたまであるが、草津温泉感謝祭というのをやっていて、夜に湯畑の側を輿に乗った女神様の一行が静々と昇天して行くところを見学できた。あたりの灯を落としての行列で、母親も喜んでいた。なんでこの時期なんだろうかと考えを巡らせ、夏場に客足が落ちる対策として始めたのかなとついついビジネスモードで考えてしまったが、「第73回」となっていたから始まりは戦後すぐのようで、もっと純粋な動機なのかもしれない。

白根神社
散策の途中で地元の神社を発見(白根神社)。こういう時には必ず参拝することにしている。別に自分のことで神頼みをするつもりはないが、ご挨拶と両親の健康を祈願を兼ねて手を合わせ、頭を垂れる。自ら謙虚になるこの瞬間を大事にしている。それにしてもこの地の繁栄は何と言っても温泉なわけで、考えてみれば遥か昔から滔々と湯が湧き出ているというのも不思議な気がする。いつか枯れそうな気もするが、たぶん人間の尺度では測れない時間軸なのだろうが、やはり神様の恵みと考えたいところである。

自分から言いだしたこともあってか、母親はかなり喜んでくれた。着いた時と夕食の後と、最後は朝起きて朝食前と3度湯船に浸かり、満足そうな顔を見ているだけでこちらも満足であった。贅沢な旅とは言えないが、あとどれくらい残されているともわからぬ時間ゆえに、こうした時間を大切にしたいと思う。子供達が大きくなると、みんな夏休みのスケジュールはバラバラになる。1人暇を持て余すなら、親との時間を持つのもいいかと考えてだったが、その選択は間違っていなかったと思う。

次のタイミングは年末だろうか。今度はまた違う温泉にしようかと思うのである・・・


【本日の読書】
 遺伝子‐親密なる人類史‐ 上 (ハヤカワ文庫NF) - シッダールタ ムカジー, 田中 文, 仲野 徹 素敵な日本人 東野圭吾短編集 - 東野 圭吾





2018年8月5日日曜日

論語雑感 八佾第三(その7)

子曰、君子無所爭。必也射乎。揖譲而升下、而飮。其爭也君子。

()
(のたま)わく、君子(くんし)(あらそ)(ところ)()し。(かなら)ずや(しゃ)か。(ゆう)(じょう)して(のぼり)(くだ)り、(しこう)して()ましむ。()(あらそい)君子(くんし)なり。
 
【訳】
孔子云う、「君子は人と争うことを好まない。もしやるとすれば、弓の競射位のものであろうか。その際にも極めて礼儀正しく、堂に上って矢を射ては堂から下りる。勝負がついたら負けた方が罰杯を受ける。勝っても負けてもこだわらない。これが君子の競争のやり方である」と。
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孔子の説く「君子」とは、いわゆる聖人君子という言葉がある通り、立派な人という意味であろう。そういう立派な人は人と争わないと孔子は語る。それはその通りだろう。他人をけなしたり、怒鳴り散らしていたりするような人は、いかにその言動が正しかったりしても興ざめしてしまって、立派な人という尊敬の念は湧いてこない。人と争わないというのは、確かに尊敬を集める人の条件の1つであると思う。

似たような例として日頃感じているのは、「金持ち喧嘩せず」である。金持ちも確かに人と争わない。ただ、これは人格面というよりも「価値観」によるものであると思う。例えばある点を巡ってお互いに対立が生じた場合、それが損得に関したものであると、金持ちはすぐに譲ってしまうから喧嘩にならないのである。「ごちゃごちゃ言い争うのは煩わしいし、そのくらいの金額なら大したことはないから譲ってしまおう」と考えるわけである。

これに対し、庶民感覚の人は、少しでも自分が損をしそうになると抵抗するわけである。何としても損を回避しようとあれこれと難癖をつけてきたりするわけである。私も銀行員時代、不良債権担当だった時にはこういう人を数多く見てきた。中にはあることないこと明らかなでっち上げの嘘を堂々と主張してくる人もいた。必死だったという見方もできるので何とも言えないが、少なくともそういう人たちは「君子」ではない。

人と争わないという点では、年齢という要因もある。人は歳を重ねると穏やかな性格になるのか争わなくなる傾向がある。もっともこれは個人差があって、いくつになっても人を怒鳴ることを躊躇しない人はいる。いわゆる頑固ジジイ系であるが、個人的にはこの頃あまり物事を気にしなくなってきたと感じている。「まぁいいか」でスルーする割合が増えてきている。知識・経験を積んでくると、この程度なら大したことはないと割り切れるようになるのかもしれない。

仕事でも印象的な経験をしたことがある。それは事務所を借りていただいていたある会社のこと。どうも業績が悪くなってきていたようで、契約の更新に際し、家賃を下げてくれないかと言ってきた。当時その辺りの家賃相場は上がっていて、むしろ上げさせてもらいたいくらいだったから、それは受けられない申し出であった。しかし、それまで滞納もないし、困った時はお互い様の精神で、更新料(家賃の1ヶ月分)を免除することをこちらから提案して実施した。

しかし、業績は思うように改善せず、その3ヶ月後に退去すると通知してきた。退去にあたっては「3ヶ月前に告知する」という契約になっていたが、その社長は「更新時に退去すると伝えた」と言い出し、挙げ句の果てには私に対し「いきなり出てきて事務的な対応をするとは何事か」と激昂してきたのである。その真の意図は明らかで、3ヶ月分家賃を取られるのが嫌で、即退去扱いにしてその分敷金を返して欲しかったのである。業績が苦しくなる中で少しでもお金を残そうとするのは人情であるが、ただ問題はそのやり方である。

実は、更新料の免除の提案を社内でしたのは私であり、もしもそこで「契約は契約だけれども、今は苦しいので何とかならないか」と相談されていたら、当然こちらも協力したであろう。我が社の社長も認めてくれたのは明らかであるが、相手の社長はそうした平和的手段を選ばず、「争う」選択をしたのである。強く言えばねじ伏せられると思ったのかもしれないし、頭を下げるのはプライドが許さなかったのかもしれない。その結果、こちらもその申し出を断固拒否し、契約通りに処理することにして事務的にきっちり清算させていただいた。電話での激しい言い争いでも一歩も引かなかったから、相手の社長も最終的に無理は通せないと諦めたのである。

もしもその社長が君子であれば、きっと素直に頭を下げてお願いできないかと交渉してきたであろう。そのようにされると、それを断ればこちらも寝覚めが悪くなるというもの。たとえ大家が我々でなくとも、交渉に応じてもらえる可能性は高かったと思う。会社は経営者の器以上に大きくはならないとよく言われるが、その会社も経営者がそんな調子だから、事務所を移転してもその先は先細りの道なのだろうと思う。君子とまではいかなくとも、相手といかにして共存を図るかという観点から考えられたら、もっと違う結果を(苦もなく)導き出せていたのにと、他人事ながら残念に思う。

自分も「君子」とまではいかなくとも、君子のやり方くらいは意識していたいと思うのである・・・




【今週の読書】
 遺伝子‐親密なる人類史‐ 上 (ハヤカワ文庫NF) - シッダールタ ムカジー, 田中 文, 仲野 徹





2018年8月1日水曜日

LGBT

LGBTという言葉が最近定着してきている。LGBTとは、LesbianGayBisexualTransgenderの各単語の頭文字を組み合わせたもので、要は通常の男と女関係からずれる人たちを指す言葉である。ただ、これ以外にも「おかま」だとか「ホモ」だとかいろいろあって、その正確に意味するところをきちんと理解しているかというとどうも心許ない。私自身は極めてノーマルであるゆえに、またこうした人たちが周りにいるわけでもなく、したがってその気持ちを聞いたこともないからよく理解できないというのが実情である。

男として生まれた以上、男としての自覚を持ち、女性を愛するというのが通常の形。ところが「体は男だけど心は女」(トランスジェンダー)とか、「体も心も男だけど恋愛対象は男」(ゲイ)とか、普通の文脈からずれてしまっているのである。さらにトランスジェンダーの場合、恋愛対象によってはややこしくなる。己の理解のため、わかりやすく分類したら以下のようになった。

実際の性別
心の性別
恋愛対象
分類
ノーマル
ゲイ
トランスジェンダー
トランスジェンダー
&レズビアン(?)

蓼食う虫も好き好きという諺がある通り、人の趣味など所詮他人には理解できないもの。とは言え、ゲイが男なのに男が好きと言われても理解に苦しむところはある。ただ、身も心も男という点では、理解しやすいところがある。こういう友達がいたら同じ女性を巡って争うという心配はないだろうなどとお気軽に思ってしまう。そういう友達がいたとしても、普通に飲みに行ったりして付き合えると思う。

逆に難しいのはトランスジェンダーだろうか。よく街中で明らかに女装とわかる人が歩いているのを見かけることがある。単なる女装趣味とトランスジェンダーとは違うのかもしれないが(違うとしたらややこしい)、こうなると一緒に飲みに行くというのにはちょっと抵抗感がある。中には本物の女性より美人という人もいるだろうが、そこまで行けばまだしも、中途半端だと個人的には厳しい。

最近、「LGBTは生産性がない」と発言して杉田水脈議員が叩かれているが、その真意は別として世の中で一定の評価・話題性を得られるようになってきたのはいいことだと思う。一昔前なら「気持ち悪い」と言われていたであろうが、世の中に公になってくれば「そういう人もいる」という風になってくるからである。病気に例えるのは違うかもしれないが、最近はいろいろな症状に病名がつけられて認められるようになってきているし(例えば鬱病)、そう思うことによって理解しやすくなるという部分はあるかもしれない。嫌悪感を抱く前に、考え方を変えてみるという手はあると思う。

では、そういうLGBTの人と自分は友達になれるだろうかと考えてみると、想像してみるにそれにはあまり抵抗は感じない。ただし、ゲイの友達ならいいがトランスジェンダーの友達だとちょっと困るかもれない。と言うのは、やっぱり人目が気になるという部分が大きい。「可愛い女の子と歩いている」と思われるならいいが(別に可愛くなくても女の子だと思われるなら許容範囲内だし、男の格好ならなお問題はない)、「女装している」とわかって好奇の目で見られるようだと、気弱な自分としては引いてしまうからである。

人間というものは、ちょっとした違いを見つけて人を差別しようとするものだと思う。人種・思想・宗教などなど数え上げたらきりがない。狭い日本の中でさえ、部落差別なんてものがあったくらいである。根本的に人間は排他的にできているのかもしれないと思うくらいである。しかし、いまの世の中あらゆる差別・偏見は撤廃の方向に向かっている。そういう中で、LGBTも普通に付き合えるようになっていくべきものなのであろうし、自分にもそういう友人がいてもいいと思う。

考え始めると、「トランスジェンダーの男が好きになった男性が、実はトランスジェンダーの女だったなんてことになったら、表面的には普通のカップルに見えるな」、などとくだらないことにまで及ぶ。まぁノーマルな男でもナヨナヨした人はいるし、女性でもとてもたくましい人もいる。この際、「みんな違ってみんないい」なのかもしれない。

そういえばその昔、自分は「男が惚れるような男でありたい」と思っていたことがある。今でもそういう気持ちはあるが、言い方には気をつけないといけないかもしれないと思うのである・・・




【本日の読書】
 遺伝子‐親密なる人類史‐ 上 (ハヤカワ文庫NF) - シッダールタ ムカジー, 田中 文, 仲野 徹