今、帰りの電車の中で『不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したか』という本を読んでいる。その中で陸軍航空部隊の最初の特攻隊にまつわる話が出てくる。本の本筋とはちょっと違うところではあるが、考えさせられるものがあった。海軍の最初の特攻隊である「敷島隊」に対し、陸軍のそれは「万朶隊」。のちに隊長となる岩本大尉は、米海軍艦艇に対する効果的な攻撃方法として、跳飛爆撃という方法を研究しており、一方でそれとは別に相手軍艦の厚い甲板を貫く徹甲爆弾の開発を要求していたという。しかし、戦局が悪化する中、軍部は特攻作戦に傾いていく。
そのやり取りを読んでいると絶望的な気分になる。隊長の岩本の主張は、自身の経験に裏打ちされた実戦に基づく合理的なもの。実は航空機による特攻は、そもそも航空機の機体が軽く造られており、急降下では揚力が働いて効果があまり出ないのだとか。「卵をコンクリートにたたきつけるようなもの」との喩えがわかりやすい。しかし、軍部はその主張に耳を貸さない。さらに理屈で説明できなくなると、なんと研究所までが、「崇高な精神は科学を超越して奇跡を表す」と言って特攻作戦を押し切ってしまう。
絶望的な気分になったのは、自分たちの「合理的な主張」が認められなかった岩本隊長らの心中を察するに余りあるからだけではない。悔しかっただろうと同情はするが、絶望的な気分になるのは、それが決して当時の陸軍だけの特殊な状況なのではなく、現代社会でもよくあるケースだと思うからである。私の以前勤めていた銀行でもそういうことはあったし、おそらく日本の企業や組織ではよくある話だと思うからである。
こういう傾向は、トップ(意思決定者)との間に人が入っていたりすると顕著になる。トップから既にその意向が伝えられていたりすると、それを伝達する者が現場の者と向き合うことになる。現場からの「合理的な意見」に伝達者は返答しようとしてもできない。ならばトップにきちんと合理的な意見を伝えられればいいのだが、それをすると自身が無能扱いされると勘違いするのか、あるいは腰巾着としてはトップの意向を実施させることだけが合理性より大事だと考えるのか、いずれにしてもそこには「何が効果的なのか」という本来の目的よりも上司の指示こそが絶対となっている。
組織の中では、きちんと自分で考え、その意見を通して上に認められていく者もいれば、上司の言うことだけをきちんと実行してその覚えめでたく上に登っていく者がいる。前者ならいいが、後者の部下になると最悪である。なぜならその判断基準はすべて「上司が何と言うか」であって、自分には判断能力がない。上ばかりを見ているから、勢い「上司の意見は絶対」となってしまう。合理的な意見をもって上司を翻意させようなどとは毛頭思わない(し、そんな能力もない)。
私もこういう上司に仕えたことがある。指摘されるのは些末な枝葉末節なこと。間違っているとは思わないが、それにこだわって先に進まないというのはもっと悪い。説得しようにも理屈では論破できない。なぜならその人の場合は、私の説明する合理的な理由が(理解力不足で)理解できなかったからである。ある時、あまりにもそのおかしさに耐えきれず、その上の上司を議論に引っ張り込んで3人で話したことがある。その結果は効果覿面で、あっという間に私の意見が通ってしまったのである。そのあとは何かあればその上の上司を巻き込むようになったのは言うまでもない。
翻って現在、中小企業の中に身を置いてみると、人が少ない分、縦の厚さもない。トップの社長と直に議論できるから比較的合理的な意見が通りやすい(もっともこれも結局は人によるところ大ではあるが)。上がいても上司の上司くらいまでであれば、無能な上司を跳び越すこともできるが、その上のさらに上が、となるともうお手上げである。もどかしく思いながら、不合理な命令に従わざるを得ないのは、サラリーマンのストレスの1つではないかと思う。
【本日の読書】
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