2018年7月8日日曜日

論語雑感 八佾第三(その5)

子曰、夷狄之有君、不如諸夏之亡也。
()(のたま)わく、夷狄(いてき)(きみ)()るは、諸夏(しょか)()きが(ごと)くならざるなり。 
【訳】
孔子云う、「夷狄のような未開の国でも、君主が立派に治めているというのに、君あっても君なきが如くに乱れておる今の中華諸国は、一体何たることか」と。
新論語
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中華思想に溢れる中、孔子もそれに浸っていたのかもしれないが、野蛮な周辺諸国がきちんと統治されているのに、世界の中心たる中国でそれが乱れていることを嘆いているわけである。論語といえば、教訓的な教えの言葉を集めたもののように思えるが、これは何となく普通の嘆きの言葉のようである。なんだか違和感を覚えるが、考えてみれば論語は孔子の教訓集というよりも言行の記録ということであればそれも頷ける。

それにしても国を人に置き換えれば、同じようなことが当てはまることもあると思う。最近はサッカーのW杯がニュースに採り上げられることが多いが、「日本のサポーターが掃除をする」というニュースもよく目にする。マナーという言葉が適切なのかどうなのかはわからないが、自然発生的にやっているのだと思うが、だとしてもそれに連鎖して一緒にゴミ拾いに参加するという資質は、我が国の国民性の中にあるのかもしれないと思う。

自分の経験で行くと、思い出すのは学生時代の帝京大学ラグビー部の振る舞いである。今でこそ大学選手権9連覇中の絶対王者であるが、30年前はまだ発展途上のチーム。既に強豪チームとして「赤い旋風」などと騒がれてはいたが、まだ早慶明の牙城を崩すところまではいっていなかった。そんなチームといろいろな事情があって弱小国立大学である我がチームは、毎年定期戦を組んでいたのである。

今でも記憶に残っているが、1年時に先輩から聞かされたのは、前年の帝京大学の振る舞い。定期戦であるがゆえに、格下である我々のグラウンドまで対戦に来てくれたのであるが、試合が終わって帝京大学チームが帰った後の部室を見たら、驚くほど綺麗に掃除してあって、先輩たちは驚きと恥ずかしさでいっぱいになったと言う(あまり綺麗な部室ではなかったのである)。一流チームの規律というものを間近で見せつけられたのである。
(その後、試合前の部室掃除に力が入るようになったのは言うまでもない)

そう言えば、我が子も小学生低学年の頃、よそのお宅に友達同士でお邪魔した際、1人「行儀が良かった」とその家のお母さんに褒められたことがあった。これは日頃から妻が口うるさく言っていた成果だと思うが、何となく口うるさいのもほどほどにと思っていた私も考えを改めさせられた思いであった。「規律」とでも言うのであろうか、人にはやっぱりそんなものが必要であると思う。

孔子が嘆いた当時の中国も、もしかしたら「規律」が緩んでいたのかもしれない。国も政権が長引けばどうしても規律は緩むものかもしれないし、ましてや春秋戦国時代であればそんなものはなかったかもしれない。帝京大学は、多分それが伝統的に維持されていて、だからこそ大学日本一の頂点に上り詰め、そしてそれを維持しているのかもしれない(もちろん、ラグビーの実力が第一であるが、それは規律に裏打ちされるものだと思う)

翻って我が身を思うと、どうもこの規律とは無縁のような気がする。会社でも堅苦しく考えずに自由にやろうと思っているし、人にも言っている。「明るく、楽しく、一生懸命に」がモットーであり、人にも自分にもそうありたいと思っているが、それではいけないのかもしれないと不安になる。しかし、どうも規律と言うのは堅苦しくなる。特に我々日本人は、「苦しくて当たり前(=仕事は辛いもの)」的な発想があるから、ともすれば規律から離れて自由に振舞うことをよくないことと考えがちであるからなおさらである。

このあたりの考え方は難しいところだと思う。規律も大切であるが、自由に楽しくというのも悪くはないはず。要は両者のバランスではないかと思うところである。
「普段は自由に楽しくやっていて、いざとなったら一致団結して徹底して掃除にあたる」
こういうスタンスでいいように思う。大人なんだし。

家庭では女王陛下の絶対独裁政治下にあるから如何ともしがたいが、職場では「規律ある自由」をみんなで謳歌したいと思うのである・・・






【今週の読書】
  
     
     
       

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