2018年7月29日日曜日

死刑は廃止すべきか

EU 日本に死刑の執行停止求める
欧州連合(EU)の駐日代表部は6日、加盟国の駐日大使らと連名で、日本政府に執行停止の導入を訴える共同声明を発表した。死刑撤廃を加盟の条件とするEUは国際社会でも死刑廃止を目指している。
毎日新聞201876 1851(最終更新 76 2344)
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 今月は、オウム真理教の元幹部に対する死刑執行が2回に分けて行われた。「一気に13人」というところはさすがに衝撃的であったが、個人的には死刑執行そのものは当然だと思っていてまったく違和感がない。死刑制度については反対論もあることは知っているが、国内の反対論者はどちらかと言うと「狂信的」とでも言うような行動が目につくせいか、個人的には耳を傾ける価値すらないと思っている。ただ、EUの声明となるとそうもいかない。

世界の趨勢では、EUはもちろんのこと、死刑制度を廃止している国が大半で、先進国で死刑制度を維持しているのはアメリカと日本くらいらしい。そういう事実を前にすると、やっぱり死刑制度というのはおかしいのだろうかと考えてしまう。ただ、多くの日本人はそうだろうと思うが、我々には違和感がない。逆に死刑廃止を唱える人に対しては、国内の死刑裁判と言えば、大挙して駆けつけ何が何でも何を主張してもとにかく死刑判決を回避させようとする輩を例に取るまでもなく、「ちょっと異質の人」「エセ人権主義者」というイメージしかない(私の偏見かもしれないが・・・)。
その感覚を見直さないといけないのであろうか。

確かに、いかに正当性があろうと、いかに国家によって適切に行われようと、やはり「人を殺す」ということは良いことだとは言えない。それは否定しないが、ただそこには死刑囚のやった犯罪行為に対する意識が薄れているような気がしてならない。目には目をではないが、人を殺した人間に対しては、「死をもって償え」という感覚がなんとなく自分には根付いている。それはその昔、「腹を切って責任を取った」文化の名残りなのかもしれないとも思う。
 
EUはその声明で、「死刑に犯罪抑止効果はない」と主張している。これは例えば子供なんかに、「人を殺すと死刑になるよ」と脅すことでそんな犯罪を起こさせないようにしようというものだろうが、抑止効果など大したものではないと思う。なぜなら人を殺す時に「死刑になるかもしれない」などと考える人は、そもそも殺人などしないだろう。それどころか、人を殺しても「最悪でも終身刑、うまくいけば仮釈放もあるかもしれない」と開き直る可能性は大いにあるだろう。EUの声明はどこか的外れに感じる。

個人的に死刑制度が必要だと思うのは、むしろ「仇討ちの禁止」という観点である。かつて山口県光市母子殺害事件というのがあった。映画『なぜ君は絶望と闘えたのか』によく描かれているが、この事件で印象的だったのは、被害者の夫が一審で無期懲役判決が出た際、「司法に絶望しました。控訴、上告は望みません。早く被告を社会に出して、私の手の届くところに置いて欲しい。私がこの手で殺します。」と語ったことである。この気持ちはよくわかる。個人が勝手に復讐をやり出したら大変なことになる。国家が代わって死刑に処することによって、私人間の仇討ちも否定される。これこそが死刑制度が必要な理由だと、個人的には思う。

死刑反対の根拠の1つに「冤罪」がある。EUもそれを主張しているが、ただそれもいかがかと思う。オウムの事件は冤罪の可能性などないし、そういうものに限って、「執行」していけばいいように思う。少年犯罪に対する死刑判決で揉めた「光市母子殺害事件」もまだ執行はされていないようだし、冤罪を主張していた帝銀事件の平沢死刑囚は、刑を執行されることなく獄中で死亡した。中国では判決が出るとすぐ執行してしまうらしいが、我が国ではそのあたりの節度は現行制度でも守られているだろうからこれで良いのではないかと思う。

余談だが、オウム幹部の死刑執行については、「これで事件の真相が永遠に解明できなくなった」といった意見を耳にするが、事件から一体何年経っているのかと思うと呆れてしまう。この間、解明できないものがこれから解明できると本気で思っているのだろうか。笑止である。こういう的の外れた意見を聞くと、死刑廃止論を唱える人に対しては、「どこかズレている」と感じ、ますます賛同しにくくなってしまう。

死刑制度をめぐっては、議論を続けていくことは必要だと思う。ただ、その際、反対論者には「まともな意見」を期待したいと思う。山口県光市母子殺害事件の弁護団のような行動は、逆効果にしかならない。死刑を廃止するとしたら、それに変わる納得のいく刑罰が必要になる。刑務所で優雅に余生を送るようだと、いかがなものかと思ってしまう。かと言って、視力を奪ったりするような刑は「残虐刑」として問題になるみたいだし、それなら誰とも話をさせない独居房で一生過ごさせるとか、死ぬまで続く遺族の無念にあわせて、死ぬまで罪を後悔するような刑があれば納得するかもしれない。

何事も「代替案のない反対」には辟易としてしまう性格ゆえ、代替案の提示は必須だろう。納得のいく代替案が出てきた時にこそ、死刑制度に対する私の考えも変わる時だと思うのである・・・




【今週の読書】
 知られざる皇室外交 (角川新書) - 西川 恵 藤十郎の恋・恩讐の彼方に (新潮文庫) - 寛, 菊池





2018年7月25日水曜日

具体的に考えること

 先日の事、不動産売買の案件の話があり、ある点を巡って議論となった。その売買にはあるリスクがあって、それを避けたいが、避けるにあたってはある手続きを取らねばならず、そうすると費用が発生するというものである。「リスクは避けたいが、余計な費用が掛かるのも嫌」というジレンマに陥っていたのである。その議論を傍で聞いていて、ふと疑問に思ったので、聞いてみた。
「費用っていくらかかるんですか?」

調べてみたところ、それは数千円の話であると判明した。すると、わずか数千円の費用でこのリスクを避けられるのであれば安いものとなって、議論はあっという間に決着してしまった。「費用」のように抽象的なイメージで話をしていて、具体的に考えたら大したことではないということは、多々経験することである。別の機会では、「キャッシュフローを確保する」という理由を挙げて議論してくる相手に対し、「キャッシュフローっていくら?」と聞いて議論を終わらせたこともある。具体的な金額にすると、そこで確保されるキャッシュフローは、全体から見れば「誤差の範囲内」であったのである。

最近は、不動産価格も高騰している。賃貸用の不動産を買うのも大変であるが、さらに先日、ある物件の購入を巡って議論した。私は、「高い」と反対しのだが、その物件は周辺相場から見れば多少安かったのである。ただし、それはあくまでも「相対的な」評価。全体が上がっている時は、絶対額で判断することも必要。バブルの頃、少しでも安いと手を出し、あとで暴落してみれば「何でこんな高い値段で買ったのか」という後悔につながっただろう。そのあたりは冷静にならないといけない。

それを主張したところ、「バブル期には収益還元法の考え方をしていなかったが、今はそれがあるから同じ失敗はしない」と相手は主張してきた。そこで、「では具体的に収益還元で考えたらいくらになるのか?」と切り返した。私も目の前で具体的に数字を弾いて見せたところ、見事に採算割れした。議論はそれで終わりである。「収益還元法」という知識は知っていたものの、ではそれを具体的に使って計算するというところまで思いが至っていなかったのである。笑い話のようだが、こういう話はやたらと目にする。

かつてある財団の活動をしていた時、ある著作の引用をしようとしたところ、「著作権の侵害になる」とメンバーから指摘を受けた。それは事実であったのであるが、私はそこで聞き返した。「侵害って、誰が誰を訴えるの?」と。実はその著作の著者はその時我々の財団内のグループのトップの方であったのである。そのトップが「自分の下で働いている我々を著作権の侵害で訴えると思う?」と聞き返し、その議論に終止符を打ったのである。

今の世の中、ちょっとした知識を持っている人は多い。そういう知識を事あるごとに切り出してくるのだが(それはそれでいいことだと思っている)、それが本当の知識として活用されているかというと疑問に思うことがある。実戦で適切に使えてはじめて「生きた知識」と言えるのである。実戦で使えるとは、個々のケースで、上記の通り具体例に即して考えることであると言えると思う。

かつていつだったか親戚の伯母と議論になったことがあり、「私は良くても世間が許さない」と言われたことがある。その時も思ったものである。「世間て誰の事だ」と。突き詰めていくと、伯母が言いたかったのは「私は反対」ということ。それを言えば直接対決となってしまうから、「世間」という盾を取り出したわけである。正確に言えば、「世間を代表して私が許さない」ということだったのであろう。具体的に考えていってそういうところがわかったのである。

また、最近は個人情報の管理が大変である。そうした個人情報の管理に意識を向けるのはいいが、親しい友人同士の間柄においてさえそれを持ち出すのはいかがかと思うことがある。企業においては、当然なおざりにはできないが、親しい友人関係であれば少し緩めることは可能だろう。そうした「力加減」は簡単ではない。自分で必死に考えないといけない。「個人情報」と木で鼻を括ったように対応するのが一番簡単なわけであるが、具体例に落としてしっかり考えれば杓子定規な堅苦しい対応をしなくても済む。

「知は力なり」はまさにその通り。しかし、その知も適切に用いられなければ何の力にもならない。そして適切に用いるにあたっては、「具体的に考える」という行為がとても大事だったりする。特にお金が絡む場合、「具体的にいくらなのか」を考えると、机上の空論を無駄に戦わせなくても済む場合が多い。「具体的に」を毎度毎度促していけば、そのうちみんなそういう風に考えられるようになるのかもしれない。

そうなってくると、議論も充実し結論も早くなるのではないかと思うのである・・・




【本日の読書】
 髙田明と読む世阿弥 昨日の自分を超えていく - 髙田 明, 増田 正造 藤十郎の恋・恩讐の彼方に (新潮文庫) - 寛, 菊池





2018年7月22日日曜日

論語雑感 八佾第三(その6)

季氏旅於泰山。子謂冉有曰、女弗能救與。對曰、不能。子曰、嗚呼、
曾謂泰山不如林放乎。



()()泰山(たいざん)(りょ)す。()(ぜん)(ゆう)()いて(のたま)わく、(なんじ)(すく)うこと(あた)わざるか。(こた)えて()わく、(あた)わず。()(のたま)わく、鳴呼(ああ)(すなわち)(たい)(ざん)(りん)(ぽう)にも()かずと(おも)えるか。

【訳】
家老の季孫氏が泰山の祭をしようとした。孔子は、当時季孫氏の執事していた弟子の冉有を呼んで「泰山の祭は魯公だけに許されるもので、大夫の季孫氏がやるのは非礼極まりない。お前からそのことを申し上げて、主人の非礼を思い止まらせることはできぬのか?」と云った。冉有は「最早決まったことですので、如何ともできません!」と答えた。孔子は「ああ、泰山の神が林放にも劣るというのか。林放でさえ礼の本質を学んでいるというのに、嘆かわしいことだ」と云った。
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論語もこの『八佾第三』に入ってからどうも「秩序」が重視されている。要は「部をわきまえる」ということを言葉を変えて再三孔子は語っている(『八佾第三その1『八佾第三その2)。こうまで繰り返されると、よほど秩序が乱れていたのだろうし、孔子もそれを気にしていたのだと思う。では、なぜ人は部をわきまえなくなるのであろうか。

「泰山の祭」がどのようなものかはわからないが、それは「魯公だけに許され」た特権だったのであろう。『八佾第三その2の時は「下克上」として考えたが、もう1つ考えられるのは「憧れ」であろうか。人は誰でも他人がやっていることを見ると、「自分でもやってみたい」と思うものであり、こういう考えも李氏にはあったのかもしれない。

高校時代、我が母校である小山台高校では運動会が年間最大と言っていいほどの大きなイベントであった。中でも応援団は存在の際立つステイタスであり、誰もがとは言わないものの、やりたいと思う者は多かったと思う。私はと言えば、ラグビーをやっていたし、しかもキャプテンだったし、やりたいと言えばかなり当選は確実だったと思う。しかし、元来アマノジャッキーな私は毛頭そんなつもりはなく、やりたがっている者からは不思議な目で見られたものである(結局、3年時の運動会は校舎建て替えで中止になってしまった)。人によっては「やりたい」と思う応援団は、私には対して魅力はなかったのである。

 応援団は誰でもなれるが、世の中そういうものばかりではない。例えば車である。かつて「いつかはクラウン」などというキャッチフレーズがあったが、車にステイタスを求めるのは今でも同様で、そこそこの金を稼げばフェラーリやポルシェ、ベンツといった高級外車や国産でもレクサスなどに乗りたいと思うようになるのであろう。かく言う私は、もちろんアマノジャッキーなので迷いなく国産の大衆車を選ぶ(それ以前に高級車など買えないだろうと言う議論は置いておきたい(涙))

「泰山の祭」がどのようなものだったかはわからないが、それを身分を超えて仕切ろうとしたということは、身分は別として、自分にはそれを取り仕切る力があるということを誇示したいという気持ちが絶対あったのだろうと思う。フェラーリを買うことは、それを買いたいという「憧れ」と、買えるようになったという自信の為す表れであろう。特に金を出せば(誰でも)買えるものではなく、特別の身分の者にだけ許されたことであれば、その果実は何よりも甘美であったはずである。

さらにその果実には、「希少性」が要求されることは間違いない。誰もがそれを手にしていたらきっとそれを求めることはなくなるだろうと思う。例えばフェラーリやポルシェやベンツに乗っている人の中で、どれだけ本当にその車に乗りたがっているのだろうかと思うことがしばしばある。例えば、誰もがみんな乗っていたら、それでも乗りたいと思うだろうか。特にベンツに乗っている人は、「ベンツに乗っているというステータス」に乗っているような気がしてならない。

海外の高級車は、日本車からすると破格の高額である(フェラーリ488GTBの価格は3,000万円超である)。では日本の大衆車と比べて、絶対的な性能でその価格差である10倍以上の差があるかといったら絶対にない。性能的に言っても、我が家のプレマシーとベンツの「Mercedes-AMGS65 Cabriolet 34,700,000円」との間に、その価格差13.8倍に比する性能差があるかと言えば絶対にない。ゆえにベンツを買う人は、やはりその「ステイタス」を買っているような気がしてならない。

そういう「見栄」なのか「憧れ」なのかは悪いことかと言えば、個人的にはそうは思わない。「いつかはベンツ」という励みも必要だと思う。「泰山の祭」は、それがそうした「憧れ」にとどまらず、「下克上」の匂いが漂っていたから孔子は危惧したのであろう。乱世の世では少しでも秩序を求めるものであるから、それも当然なのであろう。

現代日本でも、そういう例があるのだろうか。ひょっとしたら権力がらみではあるのかもしれないが、幸いなことに自分は無縁である。縁があったとしても、応援団や車に興味がないのと同様、そういうものに興味を示さないような気がする。それはそれで自分の心地よい性分である。

これからもそういう自分であり続けたいと思うのである・・・




【今週の読書】
 不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したか (講談社現代新書) - 鴻上尚史 遅刻してくれて、ありがとう(下) 常識が通じない時代の生き方 遅刻してくれて、ありがとう 常識が通じない時代の生き方 (日本経済新聞出版) - トーマス・フリードマン, 伏見威蕃 知られざる皇室外交 (角川新書) - 西川 恵






2018年7月18日水曜日

合理的な意見の通る組織

今、帰りの電車の中で『不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したか』という本を読んでいる。その中で陸軍航空部隊の最初の特攻隊にまつわる話が出てくる。本の本筋とはちょっと違うところではあるが、考えさせられるものがあった。海軍の最初の特攻隊である「敷島隊」に対し、陸軍のそれは「万朶隊」。のちに隊長となる岩本大尉は、米海軍艦艇に対する効果的な攻撃方法として、跳飛爆撃という方法を研究しており、一方でそれとは別に相手軍艦の厚い甲板を貫く徹甲爆弾の開発を要求していたという。しかし、戦局が悪化する中、軍部は特攻作戦に傾いていく。

そのやり取りを読んでいると絶望的な気分になる。隊長の岩本の主張は、自身の経験に裏打ちされた実戦に基づく合理的なもの。実は航空機による特攻は、そもそも航空機の機体が軽く造られており、急降下では揚力が働いて効果があまり出ないのだとか。「卵をコンクリートにたたきつけるようなもの」との喩えがわかりやすい。しかし、軍部はその主張に耳を貸さない。さらに理屈で説明できなくなると、なんと研究所までが、「崇高な精神は科学を超越して奇跡を表す」と言って特攻作戦を押し切ってしまう。

絶望的な気分になったのは、自分たちの「合理的な主張」が認められなかった岩本隊長らの心中を察するに余りあるからだけではない。悔しかっただろうと同情はするが、絶望的な気分になるのは、それが決して当時の陸軍だけの特殊な状況なのではなく、現代社会でもよくあるケースだと思うからである。私の以前勤めていた銀行でもそういうことはあったし、おそらく日本の企業や組織ではよくある話だと思うからである。

こういう傾向は、トップ(意思決定者)との間に人が入っていたりすると顕著になる。トップから既にその意向が伝えられていたりすると、それを伝達する者が現場の者と向き合うことになる。現場からの「合理的な意見」に伝達者は返答しようとしてもできない。ならばトップにきちんと合理的な意見を伝えられればいいのだが、それをすると自身が無能扱いされると勘違いするのか、あるいは腰巾着としてはトップの意向を実施させることだけが合理性より大事だと考えるのか、いずれにしてもそこには「何が効果的なのか」という本来の目的よりも上司の指示こそが絶対となっている。

組織の中では、きちんと自分で考え、その意見を通して上に認められていく者もいれば、上司の言うことだけをきちんと実行してその覚えめでたく上に登っていく者がいる。前者ならいいが、後者の部下になると最悪である。なぜならその判断基準はすべて「上司が何と言うか」であって、自分には判断能力がない。上ばかりを見ているから、勢い「上司の意見は絶対」となってしまう。合理的な意見をもって上司を翻意させようなどとは毛頭思わない(し、そんな能力もない)

私もこういう上司に仕えたことがある。指摘されるのは些末な枝葉末節なこと。間違っているとは思わないが、それにこだわって先に進まないというのはもっと悪い。説得しようにも理屈では論破できない。なぜならその人の場合は、私の説明する合理的な理由が(理解力不足で)理解できなかったからである。ある時、あまりにもそのおかしさに耐えきれず、その上の上司を議論に引っ張り込んで3人で話したことがある。その結果は効果覿面で、あっという間に私の意見が通ってしまったのである。そのあとは何かあればその上の上司を巻き込むようになったのは言うまでもない。

翻って現在、中小企業の中に身を置いてみると、人が少ない分、縦の厚さもない。トップの社長と直に議論できるから比較的合理的な意見が通りやすい(もっともこれも結局は人によるところ大ではあるが)。上がいても上司の上司くらいまでであれば、無能な上司を跳び越すこともできるが、その上のさらに上が、となるともうお手上げである。もどかしく思いながら、不合理な命令に従わざるを得ないのは、サラリーマンのストレスの1つではないかと思う。

まぁ、現代では命まで取られるわけではないからいいとも言えるが、染みついたDNAというものは、組織が変われど時代が変われど変わらないものだと思わされる。せめて、自分が上になった時は、部下の合理的な意見を理解できるようにしていたいと思うのである・・・




【本日の読書】
 遅刻してくれて、ありがとう(下) 常識が通じない時代の生き方 遅刻してくれて、ありがとう 常識が通じない時代の生き方 (日本経済新聞出版) - トーマス・フリードマン, 伏見威蕃 不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したか (講談社現代新書) - 鴻上尚史






2018年7月16日月曜日

サピエンス

15日にNHKスペシャルで3回シリーズでやっていた「人類誕生」という番組を見た。ちょうど「サピエン全史」という本を読んでいたこともあり、息子と2人で興味を持って見たのである。3回目は「ホモ・サピエンスついに日本へ!」と称し、いかにして我々の祖先が日本列島にやってきたのかを検証していた。

番組によれば、アフリカに起源を発する我々の祖先は、地球上を移動し、まさに極東の地日本に当時大陸続きだった北海道ルートと南海の沖縄ルートでやってきたらしい。北海道ルートは極寒の中を踏破せねばならず、南海ルートは黒潮の流れが厳しい海を渡らなければならず、どちらも困難な道のりであったと推測される。見ているうちに、いつの間にかなぜそんな困難を押してまで見知らぬ土地を目指したのだろうかと考えていた。

番組では「好奇心」というような推測を挙げていたが、個人的には「止むに止まれず」だったような気もする。人間は何より安定を望むもの。わざわざ新天地を目指すのは、今いる土地に希望が持てなかったからではないのかと思うからである。ちょうど信仰の自由を求めてピルグリム・ファーザーズがヨーロッパを離れ、アメリカに移住したように。何かはわからないものの、たとえば人口が増えて食料の確保が難しくなったというような事情でも生じたために、移動したのではないかという気がするのである。

そうでなければ、なぜ安住の地を離れるというリスクを犯すのであろうか。我が子を公務員にしたいと願う現代の親の感覚だったら、きっとこの地に止まれと諭していただろう。番組では、当時の最東端であった台湾から見ると、日の出ずる彼方にある与那国島に対する憧れのようなものがあったのではと推測していた。確かに、「あの山の向こうに何があるのか」という好奇心は誰の心にもある。そんな好奇心を抑えられなかった人もいたのかもしれない。

事実がどっちだったのかは興味深いところではあるが、理由はどうあれ移動したのは事実であり、個人的にはそれで十分だと思う。いずれにせよ、我々の祖先はリスクを犯した上でチャレンジをし、そして新天地へと移り住んだわけである。もしも公務員志望のメンタリティだったら、日本列島はずっと長く未開の地であったかもしれない。もっとも、「公務員志向」は親の代だけかもしれない。子供はずっと好奇心旺盛で、いつも「あの山の向こう」を夢見ていたのかもしれない。そして海を渡ったのは、まさにそんな子供たちだったような気がするのである。

翻って現代に生きる我々には、もう新天地を探し求める必要は無くなってしまった。あの山の向こうには何があるのかは、直接行って見なくともテレビもYouTubeもグーグルマップだってある。少なくとも、「地理上の新天地」はもうない。あるのは「心の新天地」だけであろう。自分自身に置き換えてみれば、やはり仕事のことと被ってくる。今いるところを安住の地として良しとするか、もう一段上の新天地を目指すか。

今いるところが安住の地かと言えば、正確にいうと突っ込みどころかもしれない。下りのエレベーターに乗っている状態であると言えなくもない。だが、それは別として、やはり「昨日とは違う今日、そして今日とはまた違う明日」をモットーとする自分であれば、やはり「あの山の向こう」を常に意識していたいと思うところである。常に「あの山の向こう」の新天地を目指す意識を持っていたいと思う。そんなチャレンジャー・スピリットの欠片が、遠い祖先から受け継がれた自分のDNAにも刻まれていると信じて。

これから五十代も中盤から後半へと向かうが、いつまでもそのDNAを意識したいと思うのである・・・ 




【今週の読書】
 遅刻してくれて、ありがとう(下) 常識が通じない時代の生き方 遅刻してくれて、ありがとう 常識が通じない時代の生き方 (日本経済新聞出版) - トーマス・フリードマン, 伏見威蕃 マスカレード・ナイト (集英社文庫) - 東野 圭吾





2018年7月11日水曜日

鬱は病気なのか

中小企業に転職してからあまり身の回りに感じなくなってしまったが、銀行員時代はやたらと「出勤していない人」がいたものである。転勤で移動して座席表を見せてもらうと、なぜか「名前はあるのにいつも空席」が必ずと言っていいほどあるのである。聞けば必ず「今はお休みしている」という返事が返ってくる。さらに実は身内にも複数「休んでいる人」がいた(今は復帰している)。今は職場も寛大で、そういう人には無理に出社させたり辞めさせたりはしない。いい時代だと思う。

そんな鬱は心の病気であり、精神的にはタフだと自覚している私からすると、どうにも理解しにくいものがある。以前、銀行員時代に職場の先輩から経験談を聞いたことがある。朝、いつも通り家を出るのだが、どうしても途中で足が止まってしまったのだとか。診断を受けて休職し、その後職場復帰してそれなりに出世されていたが、その時もどうしても理解できなかった。批判を恐れずに言えば、「甘えているだけじゃないか」と思えてならないのである。

鬱になる原因はいろいろあるのだと思う。仕事上のプレッシャーだとか、長時間労働だとかいろいろあるのだろう。実は、私の父親も15の春に上京して住み込みで働き始めたが、やがて「症状」が出て帰郷したことがあるのだという。当時は長時間労働が当たり前で、朝は6時から夜中の12時まで働いたという。その間、食事の時間は休みだが、それも3食合計で1時間という状態だったという。時代とは言え、ひどいものである。そんな状態だったらおかしくなるのも理解できる。

ただ、仕事のプレッシャーはどうかと言えば、これはわからない。そんな経験したことないだけだろうと言われればそれまで。ただ、私も仕事で大きなミスをし、大損害を出して毎日針の筵状態で出勤し、「行くのが嫌だ」という思いをした経験ぐらいはある。また、悩んで眠れないまま朝を迎えた経験もある。ただ、「その程度」と言われればそれまで。本当にプレッシャーに苦しんだことがないと言われれば、それまで。そもそも私には耐性があるのかもしれず、一定以上のプレッシャーがかかると心のブレーカーが落ちて、ダメージにつながらないようになっているのかもしれない。

ただ、どんなプレッシャーであろうと、仕事がない恐怖よりはマシだと思う。例えば今会社が倒産したらと考えると、恐怖感が湧く。たとえ再就職できたとしても、50代前半では収入も激減するだろうし、そうなると住宅ローンや教育費を払っていくことができなくなるかもしれない。そんな恐怖から比べると、会社に行けなくなるほどのプレッシャーなどあるのだろうかと思えてならない。しかし、人によって挙げられるバーベルの重さに違いがあるように、耐えられるプレッシャーも異なるということはあるのかもしれない。

理解できないとは言うものの、実際そういう人たちは苦しんでいるのだろうし、それはそれで気の毒だと思うし、心の中で「甘えているだけではないか」とは思うものの、それをぶつけるつもりはない。ただ、漠然と「自分は鬱になどならない」と思うだけである。特に仕事上のプレッシャーなどであれば、大変だとは思うだろうし、眠れなかったり、痩せたりはするかもしれないが、「会社に行けない」までにはならないという思いはある。

それはまったく根拠のない自信なのかもしれない。ただ、プレッシャーにどう耐えるかは結局、「考え方」だと思うのである。仕事がないよりプレッシャー付きの方がマシだろうし、上司からのプレッシャーなら、「プレッシャーしかかけられない無能な上司対有能な自分」という図式でも思い浮かべてみるし、そんなことでしなやかにかわせるから、これまで鬱にならなかったのかもしれない。あえて言うなら、プレッシャーを正面から受け止めて叩き壊さんとするガッツかもしれない。

いずれ我が子にもそんな「考え方」を伝授したいと思う。何事も世の中は考え方。鬱にならないのもそんな「考え方」だと思うのである・・・




【本日の読書】
 遅刻してくれて、ありがとう(下) 常識が通じない時代の生き方 遅刻してくれて、ありがとう 常識が通じない時代の生き方 (日本経済新聞出版) - トーマス・フリードマン, 伏見威蕃 マスカレード・ナイト (集英社文庫) - 東野 圭吾





2018年7月8日日曜日

論語雑感 八佾第三(その5)

子曰、夷狄之有君、不如諸夏之亡也。
()(のたま)わく、夷狄(いてき)(きみ)()るは、諸夏(しょか)()きが(ごと)くならざるなり。 
【訳】
孔子云う、「夷狄のような未開の国でも、君主が立派に治めているというのに、君あっても君なきが如くに乱れておる今の中華諸国は、一体何たることか」と。
新論語
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中華思想に溢れる中、孔子もそれに浸っていたのかもしれないが、野蛮な周辺諸国がきちんと統治されているのに、世界の中心たる中国でそれが乱れていることを嘆いているわけである。論語といえば、教訓的な教えの言葉を集めたもののように思えるが、これは何となく普通の嘆きの言葉のようである。なんだか違和感を覚えるが、考えてみれば論語は孔子の教訓集というよりも言行の記録ということであればそれも頷ける。

それにしても国を人に置き換えれば、同じようなことが当てはまることもあると思う。最近はサッカーのW杯がニュースに採り上げられることが多いが、「日本のサポーターが掃除をする」というニュースもよく目にする。マナーという言葉が適切なのかどうなのかはわからないが、自然発生的にやっているのだと思うが、だとしてもそれに連鎖して一緒にゴミ拾いに参加するという資質は、我が国の国民性の中にあるのかもしれないと思う。

自分の経験で行くと、思い出すのは学生時代の帝京大学ラグビー部の振る舞いである。今でこそ大学選手権9連覇中の絶対王者であるが、30年前はまだ発展途上のチーム。既に強豪チームとして「赤い旋風」などと騒がれてはいたが、まだ早慶明の牙城を崩すところまではいっていなかった。そんなチームといろいろな事情があって弱小国立大学である我がチームは、毎年定期戦を組んでいたのである。

今でも記憶に残っているが、1年時に先輩から聞かされたのは、前年の帝京大学の振る舞い。定期戦であるがゆえに、格下である我々のグラウンドまで対戦に来てくれたのであるが、試合が終わって帝京大学チームが帰った後の部室を見たら、驚くほど綺麗に掃除してあって、先輩たちは驚きと恥ずかしさでいっぱいになったと言う(あまり綺麗な部室ではなかったのである)。一流チームの規律というものを間近で見せつけられたのである(その後、試合前の部室掃除に力が入るようになったのは言うまでもない)。

そう言えば、我が子も小学生低学年の頃、よそのお宅に友達同士でお邪魔した際、1人「行儀が良かった」とその家のお母さんに褒められたことがあった。これは日頃から妻が口うるさく言っていた成果だと思うが、何となく口うるさいのもほどほどにと思っていた私も考えを改めさせられた思いであった。「規律」とでも言うのであろうか、人にはやっぱりそんなものが必要であると思う。

孔子が嘆いた当時の中国も、もしかしたら「規律」が緩んでいたのかもしれない。国も政権が長引けばどうしても規律は緩むものかもしれないし、ましてや春秋戦国時代であればそんなものはなかったかもしれない。帝京大学は、多分それが伝統的に維持されていて、だからこそ大学日本一の頂点に上り詰め、そしてそれを維持しているのかもしれない(もちろん、ラグビーの実力が第一であるが、それは規律に裏打ちされるものだと思う)

翻って我が身を思うと、どうもこの規律とは無縁のような気がする。会社でも堅苦しく考えずに自由にやろうと思っているし、人にも言っている。「明るく、楽しく、一生懸命に」がモットーであり、人にも自分にもそうありたいと思っているが、それではいけないのかもしれないと不安になる。しかし、どうも規律と言うのは堅苦しくなる。特に我々日本人は、「苦しくて当たり前(=仕事は辛いもの)」的な発想があるから、ともすれば規律から離れて自由に振舞うことをよくないことと考えがちであるからなおさらである。

このあたりの考え方は難しいところだと思う。規律も大切であるが、自由に楽しくというのも悪くはないはず。要は両者のバランスではないかと思うところである。
「普段は自由に楽しくやっていて、いざとなったら一致団結して徹底して掃除にあたる」
こういうスタンスでいいように思う。大人なんだし。

家庭では女王陛下の絶対独裁政治下にあるから如何ともしがたいが、職場では「規律ある自由」をみんなで謳歌したいと思うのである・・・




【今週の読書】
 〈増補版〉 教養としてのテクノロジー AI、仮想通貨、ブロックチェーン (講談社文庫) - 伊藤 穰一  遅刻してくれて、ありがとう(上) 常識が通じない時代の生き方 遅刻してくれて、ありがとう 常識が通じない時代の生き方 (日本経済新聞出版) - トーマス・フリードマン, 伏見威蕃 マスカレード・ナイト (集英社文庫) - 東野 圭吾







2018年7月4日水曜日

これから住むところ

両親の住む実家が道路の拡張計画の実施により立退きを迫られている。既に何度か説明を受け、金額の提示もあって契約するかどうかという段階である。契約すれば最大でも2年以内に立ち退かなければならない。そういう状況下、重要なのは「次にどこに住むか」である。私だったら、「どこにしようかな」と半分ワクワクしながら家を探すところだが、両親の腰は重い。そこにあるのは、「動きたくない」という感情である。

両親ともに既にリタイアして、今は「毎日が日曜日」の状態である。ならば引越しするのに通勤・通学という足かせがなくて良さそうなものであるが、ネックとなるのは「知り合い」。父はともかく、母はご近所でそれなりに付き合いがある。引越してしまうと、周りは知らない人ばかりとなり、1から人間関係を築くのは辛いということらしい。私の年代ではさほど気にもならないが、齢80を越えた母からすると、それはもう煩わしいものにしかならないのかもしれない。

一応不動産屋の端くれとして、私も両親の家探しを手伝っているが、どうもこれといった物件に出会えていない。主な要因は住みたいエリアと価格とのバランスが取れないということに尽きる。立ち退きとは言え、高額補償してくれるわけではない。それなりに合理的な価格(説明の出来る価格)を提示してくるわけである。それでも担当者が汗をかいてくれて、可能な限り上乗せしてくれたものの、実家のある武蔵小山界隈ではおいそれと代わりは見つからない。

父は近所で新築物件の売り出しがあると、見に行ってはため息をついている。もとより金額的に実家の界隈は地価が高いし、買える金額となるとせいぜいが「狭小三階建て」となる。そうなると、まもなく階段を上がれなくなるリスクを考えると、息子としては勧めにくい。ならばマンションではと勧めると、今度は飼っている猫の処遇に困ると言う。あちこち話が飛んでは結局、「今の家が良い」という所に戻ってくる。

そんな状況に業を煮やして、父は生まれ故郷である長野県の富士見に家を買おうかとも言いだしている。故郷だし、何より地価も家も安い。田舎なら諦めた車の運転もできるとあって、かなり「本気モード」である。だが、息子としては勘弁してほしいところである。住みたいところに住むということに反対はしないものの、すべて現状に基づいて考えているところが問題である。父の年齢であれば、5年後のことも考えてもらいたい。

今は父も元気で車の運転もできるだろう。だが、5年後、10年後はわからない。それに父が入院でもしたら運転の出来ない母は身動きできなくなる。病院まで毎日タクシーで行くのだろうか。その間の買い物も毎日タクシーで行くのだろうか。そんな事を言ったら、今そこに住んでいる人もそうだと言えるが、長年住んでいる人と、60年以上も経って里帰りする者を同列に比較するのは適切でないと思う。

さらに息子の立場からも困ったことになる。今でこそ月に1回の母の病院への送迎は苦も無くこなしているが、富士見へ転居となればそうもいかない。気軽に会社帰りに立ち寄ることもできなくなる。遠いと言っても、中央高速で富士見まで2時間半ほどであるが、だからと言って、それは気軽に行ける距離ではない。何かあった時にすぐに駆け付けるのにはちょっとしんどい距離である。もちろん、父はそんなことは考慮していない。

引越しせざるを得ない状況は変えられない。どこへ行っても周りは知らない人ばかりなのも変えられない(まぁ妹の叔母夫婦の近くに越すという選択肢はあるが、それでも隣というわけにはいかない)。ならば「変えられないもの」にこだわってズルズル引き伸ばすより、さっさと引越ししてその先で新しい生活を始めればそれだけ新しい知り合いも早くできるというもの。だが、そんな「合理的判断」を両親に求めるのは困難である。

あと30年して、自分も両親の年齢になったらやっぱりそういう境地になるのだろうかと思ってしまう。しかし、考えてみると自分も今の自宅は結構気に入っているし、我が街も20年以上住んでみてなかなか理想的だと思っているし、やっぱり抵抗感があるかもしれないと思う。そう考えたら、なるべく両親の考えを尊重し、グズグズするのにも気長に付き合おうかと思うのである・・・




【本日の読書】
 〈増補版〉 教養としてのテクノロジー AI、仮想通貨、ブロックチェーン (講談社文庫) - 伊藤 穰一 遅刻してくれて、ありがとう(上) 常識が通じない時代の生き方 遅刻してくれて、ありがとう 常識が通じない時代の生き方 (日本経済新聞出版) - トーマス・フリードマン, 伏見威蕃





2018年7月1日日曜日

プロセスと結果

サッカーのW杯が盛り上がっている。日本代表が決勝トーナメント進出を決めたのも嬉しいニュースである。自分はもともとラグビー派で、サッカーには興味がない。故に試合もまったく観ていない。それでも日本人であるから、日本代表が何であれ活躍するのは喜ばしいことである。そのサッカーであるが、決勝トーナメント進出を決めたポーランド戦はちょっとした議論を呼んでいる。決勝トーナメント進出権を得るため、最後の10分間は攻めることなくパス回しをして負けたのだとか。

この試合、日本は負けても1点差なら、なんでも「フェアプレーポイント」なるものの差で決勝トーナメントに進出することができるため、あえてそういう試合をしたのだとか。攻めれば点を取れる可能性もあるが、逆に点を取られるリスクもある。ならばボールをキープし続けて相手にも攻めさせない。相手も勝っているからデメリットはない。観ていないからわからないが、会場は大ブーイングだったらしいし、それを批判する海外メディアも少なからずあるようである。

「勝つためには手段を選ばない」ということなのであろう。そしてその通りに「決勝トーナメント進出」という「結果」を手に入れたわけである。「正々堂々と最後まで勝利を目指して戦う」という姿も確かに美しいが、それでもっと点を取られて決勝トーナメント進出を逃してしまったら元も子もない。要は「正々堂々と戦う」という「プロセス」より、「決勝トーナメント進出」という「結果」を重視したわけである。重視すべきは「結果」なのか「プロセス」なのかは議論の多いところであろう。

同じようなケースで思い起こすのは、2015年のラグビーW杯の日本代表対南アフリカ戦だ。日本代表は、戦前の予想を覆し後半ラストプレーまで29-32と大善戦。そしてラストワンプレーというところで相手ゴール前で、南アフリカがペナルティを犯し、日本はペナルティゴールを狙えば同点という大チャンスが訪れた。まずゴールを狙えば外す位置ではないので、「奇跡の同点引き分け」を確信して私も歓喜したが、キャプテンのリーチ・マイケルの選択は「スクラム(つまりトライをとるぞという意思)」。エディヘッドコーチはベンチから「ゴールキック(=引き分け)」を指示したらしいが、キャプテンは「勝負」を選択した。「引き分け」という確実な快挙=結果よりも、もっと大きな奇跡の大勝利を目指すというプロセスを選んだとも言える。結果は、狙い通り逆転トライにつながり、日本の勝利は世界に衝撃を与えた。

実は私にも似た経験がある。大学4年の大阪市大との最後の定期戦。やはり3点差で負けていたラストプレーで同じようにゴール前でペナルティーキックの権利を得た。ラグビーでは通常こういう時にはキャプテンがプレーを選択する。ゴールを狙えば同点で引き分けに持ち込める。だが、その時誰ともなしに「(トライを取りに)行こう!」と声が出た。キャプテンも迷わず「行く!」と決断しスクラムを選択した。だが、そこは日本代表とはレベルも違い、我々はトライを取れず3点差で敗退した。結果こそ得られなかったが、チームメイトは誰1人としてその選択を後悔してはいない。

結果が大事だということを否定するつもりはない。大舞台になればなるほど、結果が問われることになる。ビジネスの現場でも結果は何よりも大事である。そんなことは十分理解しているつもりだが、それでもやっぱり自分は「プロセス」を大事にしていきたいと思う。それはたとえ結果に繋がらなくても、必ず「次に繋がる」と思うからである。子供の教育においては特にその点が絶対だと思う。だから我が子に対しては、結果が出なかったとしても頑張った点を褒めてあげるようにしている。

決勝トーナメント進出を果たした日本代表。次回の相手はベルギーだという。FIFAのランキングはどうもよくわからないからランキングだけで判断するのは難しいが、容易に勝てる相手ではないことだけは確かであろう。テレビ観戦して応援する気はまるでないが、同じ日本人として頑張っていただきたいと思う。

勝利という結果は得られなかった大阪市大戦ではあるが、実はその試合のことはもうほとんど忘れてしまっている。ただ、あのゴール前で、みんなで「行こう!」と決めたことは今でも心に残っている。あの時、プロセスを重視して得られたものは、勝利という結果でこそなかったものの、それ以上に限りない誇りと満足感とを我々にもたらしてくれた。そういう意味では、やっぱりプロセスこそが大事だと思うのである・・・




【今週の読書】
 遅刻してくれて、ありがとう(上) 常識が通じない時代の生き方 遅刻してくれて、ありがとう 常識が通じない時代の生き方 (日本経済新聞出版) - トーマス・フリードマン, 伏見威蕃 長く高い壁 The Great Wall (角川文庫) - 浅田 次郎