哀公問曰。何爲則民服。孔子對曰。舉直錯諸枉。則民服。舉枉錯諸直。則民不服。
哀公問うて曰わく、何を為さば則ち民服せん。孔子対えて曰わく、直きを挙げて諸を枉れるに錯けば、民服せん。枉れるを挙げて諸を直きに錯けば、則ち民服せず。
【訳】
哀公がたずねられた。どうしたら人民が心服するだろうか。先師がこたえられた。正しい人を挙用してまがった人の上におくと、人民は心服いたします。まがった人を挙用して正しい人の上におくと、人民は心服いたしません
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論語に限らずであるが、格言めいた言葉や話を聞くとなんとなく自らが置かれた環境に当てはめて考えてみたくなる。今であればまず会社のことが思い浮かぶ。その次にラグビーのチームだったり、これまで所属していた組織だったりであろうか。今回の言葉からは、かつて所属していた銀行の部署が脳裏に浮かんだのである。
訳し方の問題はあるだろうが、「正しい人を挙用してまがった人の上におく」とは、要は「ふさわしいリーダーがいるか」ということだと思う。リーダーが納得のいくリーダーシップを発揮していれば、メンバーも納得して仕事ができる。そういうチームの士気は高くパフォーマンスもいいと思うが、そうでなければメンバーのモチベーションは下がり、チームとしてのパフォーマンスも下がってしまう。
そんなことを考えていたら、最近子供達が「痛快TVスカッとジャパン」というテレビ番組をよく見ていて、その中で長嶋一茂が演じる「社長のバカ息子」のコーナーを思い出してしまった。長嶋一茂が社長の息子として店長や部長などとして登場するのだが、理不尽な指示だけで自分は何もせず(できず)、部下たちが閉口するというものである。そして最後は社長に怒られてみんなスカッとするという展開なのであるが、まさに今回の言葉の典型例であると思う。
自分が思い出した銀行員時代の上司は、長嶋一茂の演じたようなどうしようもない上司などではない。流石にメガバンクとなると、みんな基本的には優秀である。ただ、いかんせん銀行というところは減点主義の組織だったせいか、よく言えば「保守的」、悪く言えば「風見鶏」的な人が少なからずいた。その上司もまさにそんな典型の人で、その人の部下時代はなかなかストレスも溜まって大変であった。
その時の私の上司の判断基準は、というと「部長がなんて仰るか」ということであった。その課長にとっては、「自分はこうすべきと思う」ということよりも、「部長がどう判断するか」ということが大切なのであった。私は、と言えば、まず「自分が(我々としては)こうすべきであると思う」ということを考え、そのようにすべきと上司には進言していたが、風見鶏課長にとっては、そんなことより「部長が何と仰るか」の方が大事なのであった。
それは今流行りの言葉で言えば「忖度」である。しかしそれが悪いかと言えばそうとも言い切れない。自分が部長の立場に立ってみれば、常日頃自分が示している考え方に沿って部下が動いてくれるのは理想である。そういう風に動いてくれる者であれば評価したくなるのも当然であろう。部下が好き勝手やって(うまくいけばいいが)、責任ばかり取らされてもたまらない。経営方針には当然全員が従わないといけないし、「忖度」も当然と言えば当然である。
ただ、風見鶏課長は大抵そんな深いところまで考えておらず、ただ単に信念のない風見鶏にしか過ぎないものだったし、部長も「チャレンジして失敗」するよりも「何もせずに失敗もしないこと」を重視する人だったから最悪であった。そういう部長・課長コンビに対しては、やっぱり「心服」できなかった。ただ、悲しいことに減点主義組織の中ではそういう行動こそが評価され、だから自分よりも上位だったのである。信念を貫いて低位に甘んじるか、信念よりも組織力学に合わせて登っていくか、これはなかなか難しい。
結局のところ、論語的に言えば「誰をリーダーにするか」という問題を考える時、ただ単に年齢が上だったり、自分のいうことをよく聞く愛い奴であったりということを基準にしないということなのだろう。多数の中から選べる環境にあればそういう者を選べば良いし、選択の余地がなければ教育するしかない。「自分から見てどうか」という視点だけでなく、「下から見てどうか」という視点を持たなければならないというのが、今回の言葉から感じられる教えである。
まったくもってその通りだと思う。思えば銀行員時代は「不器用」だった自分だが、そんな自分への慰めとしたいし、これからを考えるとそういう考え方ができなければいけないと思うし、それを心掛けていたいと思うのである・・・
【今週の読書】
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