2016年10月2日日曜日

論語雑感 (学而第一の3)

子曰。巧言令色。鮮矣仁。
子曰く、巧言令色、鮮ないかな仁。(しいわく、こうげんれいしょく、すくないかなじん。)
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巧言令色とは、要は調子のいいことを言い、愛想笑いを浮かべるといったところだろうか。そういう人物は、現代でも普通にいる。時代が変わり、地域が変わってもやはり存在するということは、それが人間というものなのかもしれない。今でもそうだが、当時もやっぱり「嫌な奴」として存在していたのだろう。そうした普遍的なタイプだとしたら、なんで人は巧言令色になるのかを考えてみる必要もあるかもしれないと思う。

例えば、職場で上司に媚びへつらっている「巧言令色」人間を想像してみる。これはかなりの数存在する。考えてみれば、そういう人は、これといった自分の意見があるわけではなく、結果として上司の言うことに素直に従っているということが考えられる。学校の勉強を真面目にこなしてきて、教えられたことを教えられた通りに素直に実行することが良いと考える人間は、そうなるのが普通だろう。そしてブスッとしているよりは笑顔でいる方がいいわけで、それが悪いかというと、よく考えたら悪いとは言えないかもしれない。それを悪く言うのは、おそらくその人物、あるいは意見に反対だからに他ならない。同じ意見だったら反感は持たないであろうからである。

自分自身、そういう人に接した経験はある。ある人物は、人は良いのだが、自分で考え積極的に意見するということをしない。上司の指示には素直に従い、求められれば自分の意見を自信なさげに言うものの、上司がそれと反対のことを言えば反論せずに従う。素直に反論する私としては、自分にこっそり語ってくれた正論を見事に飲み込んで上司の意見に従う姿を見ると、それでいいのかと問いただしたくなる。だが、その人にとってはそれが心地よいスタンスなのだとすれば、一概に批判も出来ない。

また、別の「巧言令色」人間を想像してみる。なんとなく浮かんでくるのは「商売人」だ。お客さんにおべんちゃらを言い、笑顔で商品を売りつける。確かに、人間として唾棄すべき姿で、自分は絶対なりたいとは思わない。しかしながら自分がその立場に立ってみたらどうだろうと考えてみると、違うものが浮かんでくる。

例えば自分がアパレルショップの店頭に立っている。そこへおばさんが服を買いに来る。あれこれと試着し、気に入ったと思しき服を着て、私に意見を求めてくる。その時、どうするか。もちろん、自信を持ってこれがいいという商品があればそれを勧めるであろう。そうでない場合、よほどおかしくなければ、「お似合いですよ」と言うだろう。本人は気に入っているが、他人の目を気にして聞いてくるわけである。どれを着ても大差なければ、そしてそれが外を歩くのに不適切でなければ、安心感を与えるのは悪いことではないだろう。

それに笑顔はサービスだ。およそ商売であれば、気持ち良く店内で過ごしていただくのは基本である。家で嫌なことがあっても、それをお客様に見せるのはプロとして失格である。よく中国のデパートでは、店員の愛想が悪くて対応も悪いと批判がされている。買い物に来たお客さんに笑顔で応対するのは、あくまでも必要不可欠のサービスである。「巧言令色」とは違うものである。

となると、孔子の語る「巧言令色」とはどんな人であろうか。時代背景も違う中で、必ずしも現代にも相通じるとは思わないが、「仁すくなし」と言っているところがミソなのかもしれない。自分で語る言葉を持たないサラリーマンも、サービスを提供する店員さんも、その上辺だけで孔子の語る「仁」の有無を言えないということはあると思う。もちろん、信念のない、コウモリみたいな、まさしく「巧言令色」にピッタリな人物は当然として、心の中は違えども、上辺はそう見えるという人たちは普通にいる。それだけで、「仁すくなし」と言い切ってしまうことには問題があるということなのであろう。

まぁ、自分の意見を持たないサラリーマンは自らの脅威にはなりえないし、店員さんの「お似合いですよ」はあくまでもサービスであると割り切れば、心中穏やかでいられるというものであろう。いずれにせよ、「巧言令色」に「仁すくなし」は今もなお、真実であることは間違いないと言えると思うのである・・・


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