2013年3月31日日曜日

25年

3月ももう終わり。
期末であり、年度末でもある3月が終われば、また新しい年度。
今年も多くの新入社員が社会に出てくるのだろう。
ふと気がつくと、明日1日で社会人になって26年目となる事に気がついた。
もう四半世紀働いている事になる。

銀行員として25年。
すっかりプロの銀行員(と自負している)として定着したが、これが天職だっただろうかと考えると、どうだろうかと思えてくる。数字を扱う商売なのに、細かい数字は嫌いときている。
しかし決算書などの数字をあれこれと眺め、そこから何らかの意味を見出したりするのは好きである。企業の特徴は数字にきちんと現れるから、そんな数字を読みとったりするのは好きだったりする。仕事は面白いかと尋ねられたら、迷いなく面白いと答えられるから、まぁ良いと思う。

大学に入る時、将来は弁護士になろうと思って法学部の門を叩いた。しかし3年になって法律の勉強を専門的に始め、そして1年やってみて自分には向いていないと思った。その結論には満足しているが、何せその時はもう就職活動が始る時。方向転換するにも時間がない。今でも「教養課程」と称する1~2年の大学の授業のあり方には疑問に思うところである。

就職活動にあたっては、マスコミ(報道記者)と銀行と二つに絞った。
マスコミの方は、就職活動中に何となく自分の中のイメージと現実の姿がずれてきて、結局やめにした。その後、湾岸戦争時に真っ先にバクダッドから避難した日本のマスコミを見て、自分の出した結論は間違っていなかったと実感した。もしも日本にCNNがあったら入っていたかもしれないし、入らなかったら後悔していたかもしれない。

銀行を思い描いたのは、4年まで就職など考えてもいなかったので十分な企業研究ができなかったのと、法学部卒で経済もわからないのに社会に出てやっていけるのかと不安になったからだ。その点、お金という社会の“血液”を扱う銀行ならば、ある程度勤めれば社会の基礎がわかるだろうと考えたのである。もしもついて行けなくなって辞めたとしても、経理の知識ぐらいつくだろうし、どんな業種のどんな企業だろうと経理のない会社はないだろうし、何とかなるのではないかと考えたのである。

それから25年働いた今となってみると、たぶん経理でも財務でもどちらだろうとどこでも人並みにはこなせると思うから、贅沢さえ言わなければ仕事はできると思うし、思った通りにはなったわけである。銀行の中でも企業財務と接点のある部署をこなしてきたから、門前の小僧よりは経を習ったと言えるわけである。

何の職業にしてもそうかもしれないが、銀行も良いところと悪いところがある。
その中で、自分としてどんなやり方で仕事をしていくかというのは、途切れなく続く自分の課題のような気がする。

明日から26年目の始り。
キャリアに恥じない仕事をしたいと、改めて思うのである・・・

【本日の読書】

吾輩は猫である - 夏目 漱石





2013年3月28日木曜日

卒業式

月曜日は娘の小学校の卒業式であった。
期末の忙しい時期であったが、半日休暇をとって参列。
一般に卒業式と言っているが、正式には「卒業証書授与式」となっていた。
そうだっただろうか、と記憶を辿ってみるも思い至らない。
まあそんなものなのかもしれない。

早いもので、入学したのがついこの間のような気がする。
子供の成長は早い、と昔から言われているが、最近その通りだと実感する。
ランドセルに隠れていたような後ろ姿も、いつのまにか同じランドセルが小さくなっている。
今年は桜の開花が早く、入学した時と同じ桜の花の下での卒業式となった。

卒業式が近付くにつれ、「寂しい」と事あるごとに娘は漏らしていた。
幼稚園の卒園の時はニコニコしていたものだが、当日の娘は妙に神妙な表情。
おニューの洋服なのに、あんまり嬉しそうでもなかった。
やっぱり6年生ともなると、感情もそれだけ豊かになるのだろう。

式は「君が代」とともに始る。
こういう時は私もしっかり歌う。
そしてすぐに「授与式」。
130人が一人一人壇上で卒業証書をもらう。
娘の番の時は、漏らさぬようにビデオを構える。
あちこちで鼻をすすりあげる音が聞こえる。

お母さんたちも、子育ての一つの節目を迎え感無量なのだろうと、ふと目をやれば何とお父さんがハンカチを目に当てていた。
最近はついにここまで来たかと思う。

授与が終わると、校長先生の挨拶。
それは良いのだが、来賓の挨拶で指名されたのは、練馬区の文書なんとかの課長さん。
区長、教育委員長の代読だと断っての挨拶。
それを聞きながら、区長とか教育委員とかは区立の小学校の上部団体に当たるのではないかとふと思う。校長からすれば、「上司」ではないか、と。「上司」が主賓って言うのも変ではないのか、とくだらないことが脳裏を過る。たぶん、あの場でそんな事を考えていたのは私だけかもしれない。

130人みんなが順番に言葉を交わす。
そう言えば、自分も小学校卒業の時にやったよなと思う。
しかし、残念ながら「蛍の光」と「仰げば尊し」は歌わなかった。
これも時代なのだろうか。

退場する娘は涙顔。
乱暴者で有名なクラスメイトも何だか神妙な顔つき。
私も自分の小学校の卒業式では、あんまり好きでもなかった担任の先生に最後に握手してもらいに行った事を、ふと思い出した。
やっぱり当時の乱暴者も先生と握手していた。
そういう雰囲気があるのかもしれない。

「次は息子だな」と呟くと、「その前に中学の卒業式よ」と妻に言われた。
そうだ、息子はまだ1年。
その卒業前にもう娘は中学を卒業だ。
次もあっと言う間だろう。
あんまり急いで大人にならなくてもいいのだがと思う親父の立場なのである・・・

【本日の読書】

考える野球 角川SSC新書 (角川SSC新書 123) - 野村 克也 ルーズヴェルト・ゲーム (講談社文庫) - 池井戸潤





     

2013年3月21日木曜日

税金

 先日、丸源ビルのオーナーが脱税容疑で逮捕されたとニュースでやっていた。都内各所に賃貸ビルを所有し、莫大な資産を築きあげたオーナーは、「脱税ではなく節税だ」と容疑を否認しているという。聞くところによると、「節税(脱税?)はゲーム」と言っているらしい。 

 ネットビジネスで巨額の年収を稼ぎだすある人物は、昨年家族ともどもシンガポールへ移住した。かの国の方が税金がはるかに安いというのがその理由。何でも家一軒建つほど違うらしい。日本の国に住むというメリットを放棄する価値があると言うことなのだろうが、アメリカなどでも話題となっている富裕層への課税はこういうリスクをはらんでいる。

 豊かになればなるほど、あの手この手と節税策を工夫する事になる。節税か脱税かは微妙なところである。当然バカじゃないだろうから、税理士などが総力を結集して「節税」に取り組んでいる事は間違いないだろう。税理士にしても、いかに納税額を少なくするかが顧客を繋ぎとめる生命線となるから、あの手この手と工夫を重ねる。あれこれ研究して法の網の目をくぐり抜けると、くぐり抜けられた網の目はすぐにふさがれ、そしてまた次の網の目を探す。まさにイタチゴッコの世界だ。

 我々のこの世界は当然税金で成り立っている。だから納税は市民の義務であるし、積極的に納めるべきものであるし、高額納税者は世間の尊敬を集めても当然だと思う。とは言え、そうした総論はともかく、実際に自分が納めるという各論になれば、「出来る限り少なく」と思うのは人の常、総論賛成各論反対の場となる。

 サラリーマンは源泉税として否応なく持って行かれるから逃れようがないが、自営業者や会社経営者は日頃から節税意識が鋭い。ただ実際に本当にわかっているのかどうか怪しい人もいる。例えば「税金で落ちるから」と領収証をもらう行為。本当に使わないといけないなら仕方ないが、「(税金で)落とせるから」と使わなくてもいいお金を使うのは問題だ。

 なぜなら税金で控除されるにしても、(交際費なら)損金算入限度額の制限があるし、その範囲内だとしても使ったお金が全額戻ってくるわけではないからである。例えば、法人税が約40%とすると、10,000円の利益で税金は4,000円。税金を払っても6,000円は手元に残るが、「落とせるから」と10,000円使えば、当然10,000円がなくなる。4,000円を「節税」するために、10,000円使うと言う事になりかねない。

 まあ本当は認められない「家族での飲食を会社の交際費にする」といったものなら、使わざるを得ない(個人の)10,000円を使ってさらに(会社の)税金4,000円も節税してしまうと言うことになるので、理屈は通る。あれこれ節税に務めるのは「年貢米」の昔からそうなのかもしれない。

 ただ、その使い道を見ていると、やっぱり納税意欲は減退する。3月ともなれば、年度末で「予算消化」のための事業があちこちで行われていると耳にすると、やっぱりそう思う。単年度会計の弊害なのだろうが、獲得した予算はその年度に使わないと次の年から不要とされてもらえなくなる。だから何が何でも使う事になる。民間のように、「無駄に使わずに貯めておいて使う」という事はできない。

 映画『プリンセス・トヨトミ』では、税金の無駄遣いをチェックする会計検査院が登場した。その仕事は重要だと思うが、「無駄使い」はチェックできても、予算通り使われていれば、「本当は工夫すれば使わなくても済んだ」というところまではチェックできないだろう。予算を使わないで済ませられたら、その分必要な時に優先的に配布されるとか、賞与に反映されるとか、そうした仕組みがないと、一歩さらに進んだ「無駄の排除」はできないだろう。

 税金でも何らかの団体の会費などでも、有益に使われていないという事は、納付のモチベーションを著しく下げる。正しく、あるいは有益に使われていると実感できれば、少しは余分に納めようと言う気にもなるが、そうでなければ例え100円でも惜しいと思う。

 丸源ビルのオーナーが「ゲーム感覚」で節税する目的がなんであるかはわからない。使い道に対する不満なのかもしれないし、それともただ単に国家に取られる事が嫌なのかもしれない。ただ、80歳を過ぎて独身で家族もいないと言う。そうすると、その莫大な資産は何もしなければ国庫へ行く事になる。だとすれば何のために節税に勤しむのであろうか。

 もしも金の亡者ではなく、ゲームとしての節税を楽しむのが目的で、貯めるだけ貯め込んで、節税するだけ節税して、最後にはすべて国庫に寄贈するつもりでやっているなら、実はあっぱれな人物なのかもしれない。願わくば、喜んで税金を納めたくなるような使い方をしてほしいものだし、いかに税金を納めたかが称賛されるような社会であってほしいと思う。

 個人的には今のままでも年収が2倍になったら、喜んで税金を払うと思うところである(たぶん)・・・

【本日の読書】

サラリーマンは、二度会社を辞める。 - 楠木 新    ルーズヴェルト・ゲーム (講談社文庫) - 池井戸潤

2013年3月17日日曜日

レ・ミゼラブル

 毎月1回は映画館に足を運んで、その時上映されている映画を観に行く事にしている。先月観に行ったのは、レ・ミゼラブル』。正直言って、ちょっと遅れた鑑賞であった。

 内容的には言うことなしで、1996年版と比べてもそれを上回る良い映画であった。そして例によって、映画を観ながらいろいろと考えた。

 舞台は19世紀前半のフランス。貧しい民衆が蜂起してなされたフランス革命によって王政が倒されたものの、庶民の生活は依然苦しいまま。主人公のジャン・バルジャンは、パン一切れを盗んで投獄され、19年を獄中で過ごす。酷い話ではあるが、パン一切れがそれだけ(19年と言っても窃盗で5年、そのあとは脱獄の罪)貴重であったという裏返しだろう。

 アン・ハサウェイが演じてオスカーをとったファンテーヌは、工場で働いている。背景はわからないが、一人身で幼い娘を他人に預けて働いている。たぶん、一緒に暮らすゆとりはないのだろう。賃金は少なく、娘の預かり料を送れば残りは食べるのが精一杯の様子。それでも職があるだけマシで、外には食べ物を求める人が絶望的な列をなしている。

 そんな状況のファンテーヌは、トラブルから工場を首になる。娘の生活のためには仕送りが欠かせない。どうにもならない中、わずかなお金のために泣く泣く髪を売り、そして体を売る。前半のクライマックスであるアン・ハサウェイの歌う「夢破れて」は、こんな状況を見ているからよけいに胸を打つ。「お金で幸せは買えないが、不幸は追い払う事ができる」という言葉は、まさに真実である。

 翻って21世紀の日本。生活保護というシステムがあり、19世紀のフランスのような悲劇は起こらないようになっている。世の中の進歩という意味では誇らしいところであるが、最近は逆に生活保護の高額支給や不正受給が問題になっている。不正受給については、過去最悪の件数だと言う。

 先日の朝日新聞には、生活保護として毎月29万円を受給している女性(41歳子供2名)が、困窮を訴える記事が載っていた。住居費5万4,000円、被服費2万円、子供の習い事4万円、交際費1万1,000円、携帯代2万6,000円、貯蓄1万5,000円などとの内訳も明らかにされていた。
これを朝日新聞のように“困窮”と見なすかどうかは難しいところであるが、個人的には結構楽な暮らしができていると思う。

 働かなくても二人の子供に習い事までさせて、携帯など我が家(夫婦合わせて)の2倍も使って、少しではあると言え貯蓄までできるわけであるから、ファンテーヌから見れば天国のような国に思えるだろう。それだけ弱者を保護できる財力があるなら問題はないが、積み上がった借金が減る気配もない我が国の財政事情を考えると、やっぱり“過ぎたる”ものに思えてしまう。

 住居費などは、今は公営住宅に空き部屋がかなりあるようだからそういう部屋を使えば不要になるのではないかと思ったりするし、習い事や我が家の2倍の携帯代って何だと思うし、それにも関わらず貯蓄までできてしまうなら、この人は働きに出て生活保護を打ち切られたら確実に“困窮”すると思えてしまう。今は本当に良い社会と言えるのだろうか。

 ジャン・バルジャンは、仮出獄後の社会の冷たさに世話になった司教から銀の食器を盗み出す。
警察に捕まって司教のところに連れられてくるが、司教は「それはあげたものだ」と答える。そしてあろうことか、銀の燭台までジャン・バルジャンに手渡す。その広いキリスト教的な愛に触れ、ジャン・バルジャンは改心する。そして人々に善行を施し、子供を案じながら息を引き取ったファンテーヌの子コゼットを引き取って育てる・・・

 19世紀のフランスよりもはるかに豊かな現代の我が国。果たして心も同じくらい豊かになっているだろうか。少子高齢化がこれから益々進む。支えきれぬほどの老人と借金とを託されて、我々の子供たちは幸せな暮らしを送れるのだろうか。中国のみならず、これからインドやインドネシアなどが発展していくだろう。東京のような都市がアジアにたくさんできるだろう。いつまでも「経済大国」と言っていられるのだろうか。

 いずれやってくる老後の未来に、自分たちや子供たちが、レ・ミゼラブル(哀れな人々)にならんことを願わずにはいられないのである…


【今週の読書】               

四〇〇万企業が哭いている: ドキュメント検察が会社を踏み潰した日 - 石塚 健司 ナミヤ雑貨店の奇蹟 (角川文庫) - 東野 圭吾






2013年3月13日水曜日

それをお金で買いますか2

マイケル・サンデル教授の「それをお金で買いますか」を読んで、いろいろと考えてみた。
この本には、議会の傍聴席や病院の整理券を獲得するために、「並び屋」を使う例が紹介されている。実際に並ぶのはホームレスなどであり、「並び屋」を営む会社は彼らを雇って並ばせ、それを欲する人に売る。並ぶのが嫌な金持ちはお金を払って嫌な事を回避し、ホームレスは収入が得られ、両者を結ぶ仲介会社も潤うという三方良しの商売である。

日本人はかなり平等という事を意識する国民であるからか、この手の話はあまり聞かない。
みんな公平に並ぶのが当然という雰囲気があり、それをお金で買うことを良しとしないところがある。むしろ金にモノを言わせるという行為を低俗な行為ととらえるところがある。
せいぜい予約してあれば優先されるのもやむなしと思う程度であろう。

そう言えばかつてアメリカのユニバーサル・スタジオに行った時、“Front of Line Pass”という行列に並ばずにアトラクションに乗れるチケットを利用した。当然普通のパスより割高なのであるが、できるだけ一度でたくさん体験したい海外旅行者にしてみればありがたいものであった。日本のディズニーランドには、ファストパスがあるが、これは一定のルールで並べばもらえるものである。「金で買う」アメリカと「金で買うのを良しとしない」日本の違いが表れていると思う。

それに連想してダフ屋が浮かんだ。コンサートや何らかのイベント会場の外で、「チケットないチケット?」、「チケットあるよ!」とガラの良くないおじさんたちが声をかけてくるアレである。条例などで禁止されているようであるが、本当のところ違法行為なのかどうかは知らないが、実際には大っぴらにやっている。ダフ屋などからチケットを買おうなどという気にはならないが、かつて一度だけ買おうと思った事がある。

あれは1995年10月9日の東京ドーム。
今や伝説とも言えるプロレスの試合があった。
絶対観に行きたいと思ったが、その日は平日。
銀行員という仕事柄、当時はやたらに休めなかった。
もちろん、そんなに早く仕事は終わらない。
泣く泣くチケットを買うのを諦めていたが、当日になってやっぱり諦めきれず、最後のメインイベントだけでも観たいと思い、仕事が終わってから東京ドームに駆けつけた。

当然当日券など残っているとは思えなかったから、ダフ屋から買おうと決めていた。
値段も構わないと覚悟して行った。そうして何とかまだあと数試合は観られるという時間に東京ドームに着いたのであるが、周りは人気が無く閑散としている。ダフ屋らしきおっちゃんは影も形もない。何とあまりの人気にダフ屋もソールドアウトだったのである。

唯一ダフ屋からチケットを買ったかもしれないチャンスだったが、残念ながら購入には至らず。ただやっぱり時としては、法外な値段を払っても買いたいという事はあるものである。
後日、当日の試合をテレビで観たが、それまで観たいろいろな試合の中でもベストと言える満足度で、当日もし生で観ることができていたら、例えチケットに正規料金の2~3倍の値段がついていたとしても満足しただろう。


日本的な平等の精神はやっぱり良いと思う。
ディズニーランドでは常にファストパスを求めて走り回るのがパパの役目だとしても、それで手に入れられるなら走り回ろうじゃないかと思う。
ただ、やっぱりせっかく行った海外旅行先のテーマパークでは、多少高くても安心していろいろなアトラクションを利用できるチケットがあるならば、お金を出して買いたいと思うし、そういうサービスも悪くはない。混雑した病院では、子供を連れて行った時などは優先して診てもらいたいものだとよく思ったものだ。

お金を出して買えるモノと買えないモノ、売り買いの対象として良いモノとそうでないモノ。アメリカ人と日本人の感覚は異なるが、その異なり具合をあれこれと考えてみると面白い。マイケル・サンデル教授の投げかける問いはいつも面白いとつくづく思うのである・・・

【本日の読書】

四〇〇万企業が哭いている: ドキュメント検察が会社を踏み潰した日 - 石塚 健司 ナミヤ雑貨店の奇蹟 (角川文庫) - 東野 圭吾






2013年3月9日土曜日

それをお金で買いますか

それをお金で買いますか 市場主義の限界 - マイケル・サンデル, 鬼澤 忍, 鬼澤 忍
 先日、マイケル・サンデル教授の「それをお金で買いますか」を読んだ。世の中、売り手と買い手が合意すれば、どんなものでも売買は成り立つ。もちろん、違法品の売買は論外だが、違法でなくても「そんなものまで売買するのか」と思うようなものが紹介されていて、ちょっと驚いた。

刑務所の独房の格上げ:一晩82ドル
インドの代理母による妊娠代行サービス:6,250ドル
絶滅に瀕したクロサイを撃つ権利:150,000ドル
主治医の携帯電話の番号:年に1,500ドル~
額(あるいは体のどこか)のスペースを広告用に貸し出す:777ドル
病人や高齢者の生命保険を買って、彼らが生きている間は年間保険料を払い、死んだ時に死亡給付金を受け取る:保険内容によって異なる

 アメリカを始めとした海外の例であるが、日本人的な感覚からすると、かなりの違和感を覚える。ただ、実際に自分が売買するかどうかは別として、発想としてはかなり面白いと思った。人の思いつかないようなものを発想できるかどうかは、もしも事業家になろうと考えている人であれば重要な要素だろう。事業家になるつもりはなくとも、そういう発想力は持っていたいものである。

 そう言えば、私がかねてから参加している社会人向け勉強会「寺子屋小山台」での講義で、「政治家を雇う」という発想が出て来た。三流の政治家しかいないと嘆く我が国民に対し、「有能な政治家を雇ってはどうか」という発想だった。今だったら、誰を雇うだろうか。日本人に限らなければ、海外の著名な政治家を連れてくるなんて考えてみると、結構楽しい想像かもしれない。

 また、雇うとは違うが、政治家になりたい人が票を買うというのはどうだろうと思う。もちろん、これは公職選挙法違反行為であるが、影でこっそりやるのではなく、堂々と公平にやったら問題ないような気もする。売買するとしたらいくらになるだろうと考えると面白い。まずは買収資金の総額がいくらかが重要なファクターだ。

それに当選に必要な票数。前者を後者で割れば、一票当たりの値段が出てくる。国政選挙だと百万票単位となるだろう。1票100円としても1億円。100円じゃバカらしいし、1万円くらいはと思うと資金は100億円必要になる。政治家になっても、よっぽどうまく立ち回らないとペイしないだろう。孫さんくらいなら、ポンと出せるかもしれない。

 あるいは、企業なら自社に有利な法律でも作らせようとしたら、100億、200億と出せるかもしれない。資金力の弱い人であれば、1万票クラスの市議会レベルでないと難しいだろうか。実現したら、候補者ごとに1票の価格がランキング表示されるかもしれない。選挙会場では、電光掲示板に候補者ごとの価格が表示されていて、出足の鈍い候補者が慌てて金額を釣り上げたりするかもしれない。資金力にもよるが、価格をいくらに設定するかはなかなか難しいところだろう。専門のコンサルタントが、跋扈したりするかもしれない。

 売る方はどうだろう。高ければ何でも良いと思うだろうか。自分だったら、どうするだろう。共産党あたりだったら、よっぽど高い値段を提示しないと売らないだろうな。価格の高過ぎる候補者は却って敬遠されるかもしれない。「あいつが政治家になったら危ない」と、まともな人なら思うかもしれない。そうすると、やっぱり人物本位になるだろうか。

 人によっては、堂々とお金は出しませんと言う候補者に潔さを感じて入れるかもしれない。そうすると、結局お金を出さない方に収斂されていくのかもしれない。くだらない事をうだうだと考えてみたが、マイケル・サンデル教授は相変わらず面白い示唆を投げかけてくれるものだと、つくづく思うのである・・・


【本日の読書】

サラリーマンは、二度会社を辞める。 - 楠木 新 四〇〇万企業が哭いている: ドキュメント検察が会社を踏み潰した日 - 石塚 健司