2012年11月11日日曜日

大学について

 先日、田中真紀子文科相が認可を見送った3大学だが、批判の嵐に屈したのか、あっという間に逆転認可になってしまった。そもそも手続的に不認可としてもおかしくはないし、認可前に建物は建ててしまうし、教員も募集してしまうしという話を聞くと、何のための大臣の認可だかわからない。それにそもそも新たな税金投入して、大学を増やす必要性があるのかもわからないままだ。

 大学全入時代と言われているが、それが本当に国力に結び付くならありだろうと思う。かつて鎖国をしながらも寺子屋体制で、世界一の識字率を誇った我が国である。国民すべてが大学卒であるくらいのレベルであれば、世界の中でも経済大国の地位を維持していけそうな気もする。本当に国際競争力がつくならもっと増やせばいいと思うのだが、果たして今の大学はそれに値するのであろうか。

 そんな疑問を持つのも、自らの体験談があるからである。私自身、猛烈な受験勉強を経て大学に入ったが、待っていたのは「一般教養課程」と称する“高校の延長のような授業”。法学部に入ったのに、英語や数学や体育まであった。法律の勉強は週2コマ(1コマ90分)くらいだったと記憶している。

 第2外国語のロシア語はそれなりに面白かったが、英語の授業などひたすら英文和訳だけで面白くもなんともない。ただ1年上の先輩が同じ講義を受講していて、時折指されては独創的な解釈の和約を披露してくれたのが面白かったくらいだった(なにせ先輩の和約は難しくて、英文を読まないと何を言っているのか良く分からなかったのだ)。

 すでにラグビー部の門を叩いていた私にとって、体育などはチャンチャラおかしくてやれるものではなかった。まぁそれなりに「体を動かさない」あるいは「やってみたい」と思うものから、アーチェリーやテニスを選択したが、これはこれで正解だったと言えるが、それ以外は苦痛の時間だった。こうした一般教養課程は、学生の学びたいという意欲を奪う効果がある。

 周りはみんな授業になど出ていなかったし、週12コマ授業に出ていた私は、かなり変り者の存在で、友達が少なかったから正確にはよく分からないが、知る限りの範囲では、平均の2倍以上の出席率だったと思う。それに加えて体育会のラグビー部での活動もたっぷりやったし、成果は乏しかったが合コンにもたくさん参加した。文“部”両道で満足のいく4年間だった。

 しかしそれも文系の甘さもあったようで、理系はそもそももっと授業に出ないといけなかったようなので、授業に出ない事が粋というな雰囲気は、文系大学の傾向なのかもしれない。今のこのボーダレス時代に失われた20年をもがいている真因は、こんな学生たちが社会の中核にいるからではないのかという気もする。

 個人的には大学は狭き門でも良いように思う。選ばれた人しか入れないとなれば、入るためにみんな一所懸命勉強するし、出口を絞れば入ったあとも勉強するだろう。大学側は大学側で、高校生のレベルが低いという事を問題視しているようだが、それは言い訳に過ぎないと思う。

 本当に日本の将来を考えるのなら、頑張って勉強して入ってこそであり、滑り止めで受けて他に行くところがなくてしかたなく行く大学に意味があるとは思えない。教育を受ける権利を主張するのであるならば、それなりの義務(努力)は必要だろう。それは本来、学力があっても経済的な理由でいけない人に対してこそ、満たされるべきものであるはずだ。

 せっかく不認可にした3大学を、恐らくそこで潤う人たちの思惑で、我々の税金がまた無駄に流されるのは何ともやりきれない。こんな事をしていると、本当に我が国はダメになってしまうだろう。せめて自分の子供たちは、きちんとした考え方を身につけさせ、「まともな」大学に通わせたいと思うのである・・・
      




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