2011年10月30日日曜日

これもボランティア

昨日は私がお手伝いさせていただいている教育財団の、社会人向け講座の開催日であった。
もうかれこれ参加して6年目となる。母校である高校をバックボーンとした教育財団であるが、ひょんなことから声をかけられて参加する事になったのである。
この他に高校の卒業生全体の同窓会にも幹事という形で参加している。

どちらも声をかけられてお手伝いさせていただいているうちに、“仕事振り”が評価されたのか、いつのまにか中心部に近い立場になっている。何にせよそうして評価していただき、任せていただけるのはありがたい事だと考えているので、できる限りの事はしている、という感じである。

始めてみると、こうした活動というのは、自分の“居場所”を一つ作る事になるのだと思える。仕事と家庭とに続く“居場所”である。
仕事と家庭だけではなく、それ以外の場所があるというのは心地良いものである。
だから今のところは義務感などではなく、楽しみながらやっている。

居場所を作ると、それなりに大変でもある。
事実、仕事を早く切り上げて会合に参加したり、家に帰ってからメールでのやり取りがあったり、時には仕事の合間を縫ってランチミーティングに行ったりと、なかなか手間と時間とを取られるのである。そうした手間と時間はかなり大変であるが、今のところそれでも得るものの方が大きいから続けているとも言える。

こうした活動をいつまで続けるかと問われれば、それはわからない。
必要とされなくなったり、楽しく続ける事ができなくなるまで、という事は言えるだろう。
内心煙たがられながら残るのも嫌だし、楽しくなくなってストレスだけ抱えてやるべきものでもない。そういう状況になったら、もともと地位には執着しない性格なのでさっさとやめるだろう。迷惑はかけたくないので引き継ぎだけはきちんとするだろうが、その決断と実行は早いと思う。

やめたら居場所を失う事になるが、それならそれでまた作ればいい。
今でも大学のラグビー部のシニアチームの活動には魅力を感じているし、地元の消防団などの地域活動にも興味はある。参加したいという気持ちはあるのだが、あまり手を広げると“家族”という居場所がなくなってしまうので、手を出していない。
うまくバランスを取りながらやっていかないといけないところである。

好きな読書は、読みたい本を常に積み上げている。
映画も録画したものを積み上げている。
そうして「まだまだこんなにある」という感覚が好きな性分であるらしい。
3の活動場所も、「まだまだやりたい事がこんなにある」と積み上げているのが良いのかもしれない。

いずれにせよ、まだまだ当分は続ける事になるだろう。
やる以上はなるべく貢献したいと思うし、楽して手を抜くのも嫌だし、楽しみながら一所懸命やっていくつもりだ。それ以外については、子供が大きくなって“家族”という居場所で必要とされる割合が減ったら、という事になりそうである・・・
 

【本日の読書】
     

2011年10月27日木曜日

押すべきか押さざるべきか

先日、キャメロン・ディアス主演の「運命のボタン」という映画を観た。
ある日突然、家の前に置かれた箱。
翌日訊ねてきたなぞの男が語るには、箱の中の装置のボタンを押せば、どこかで知らない誰かが死ぬが、その代わり無税の現金100万ドルをあげようというもの。
キャメロン奥様は夫とどうするか相談する・・・
さて、こういう時、自分ならどうするだろうといつも考える。

知らない誰かという事だから、家族でも親兄弟でも友人知人でもない。
だったら・・・と考えるか。
映画の時代設定は1976年だから、まだ1ドル300円くらいの時代。
100万ドルといっても今やだいぶ輝きを薄めたが、まだまだ夢のような大金の時代だ。
さて、どうする。

私だったら、迷わず「押さない」を選択する。
別にどこの誰かは知らなくとも人命を尊重して、というわけではない。
100万ドルを手にしてもそのあとどうなるかわからない。
不透明な「相手の土俵」で踊らされたくないからだ。

考えてみても、100万ドルを手にしたあと、その男がその装置を持ってどこか他の知らない誰かのところへ行って、同じ提案をしたらどうなる。
今度は死ぬのは自分の番かもしれない。
「どうせ知らない他人なら死んでも構わないと思ったヤツだから」と遠慮なくターゲットにされてはかなわない。

それにもしかしたら、「ドッキリカメラ」かなんかで、「この人はお金のために知らない人の命を犠牲にしました」と日本中に晒されるかもしれない。
「相手の土俵で勝負する」怖さはこういうところにある。
ある日突然、尻尾を生やした悪魔が目の前に表れて、「お前の望みを何でも3つ叶えてやろう」と言われても、「じゃあ何にしよう」とは絶対に考えない。
望みを叶えてもらったあとに、どんな「仕打ち」が待っているかわかったものではない。

「おいしい話には絶対裏がある」と信じてやまない私としては、素直においしい話に飛びつく事はない。もしも仮にそれが本当に美味しい話だったら、バカみたいに損をする事になるが、仕方ないだろう。チャンスを逃した悔しさと、わかっていてバカをみた悔しさとどちらを選ぶかの話だ。

映画はそんな私の考えた通りに展開する。
「ほらみろ」と一人つぶやく私。
映画に出てくる家族は3家族がボタンを押してしまう。
それもいずれも押したのは奥様だ。
なんとなく頷けるじゃないか。

我が家も自分は押さないが、奥様が押す心配は大いにある。
目の前では押さなくとも、影で押してしまうかもしれない。
果たして押さないように説得できるだろうか?

誘惑を振り切るよりも、そっちの方が難しいに違いないと真剣に思うのである・・・

【本日の読書】
                    
 

2011年10月25日火曜日

我が家のテレビ事情

我が家では、食事の時間はテレビを消す事にしている。
子供が生まれた時にそう決めて、これまで実践してきている。
生まれた時からそうしているせいか、子供たちも食事時にテレビを消すのは当然と思っていて、文句を言った事はない。食事の時は、家族4人が最も接近して過ごす一時ゆえ、これはこれでずっと我が家のルールにしたいと思っている。

ところが、最近ちょっと例外が出てきた。
いつの頃からか、日曜日の夜7時からやっている「シルシルミシルさんデー」を見るようになったのである。この番組は、食品メーカーなどの工場を取材し、日常目にする商品の製造工程を紹介したりしてくれる番組である。

何せ「生きる事は食べる事だ」と信じて疑わない妻とその血を色濃く引く娘がいる我が家だ。
食べ物に関する興味は普通のレベルではない。
製造工程を見て何が面白いという気もするのだが、面白いらしい。
「今日だけ特別」と見始めたのだが、やがて私も長男も引き込まれた。
考えてみれば、これも社会勉強。
まあそう考えて、日曜日は特別にルール緩和日となった。

ところが、このところそれが土曜日にも波及してきた。
なんとフジテレビで、「潜入リアルスコープ」という番組をやっているのを見始めたのだ。
こちらも「大人の社会科見学」をコンセプトにしているらしく、やっぱり同じような事をやっている。ちなみに先週末は、前者が明治のお菓子工場、後者がセブンイレブンのおでん工場だった。

同じような番組を敢えてやる、という事は、両方とも視聴率が良いのであろう。
最近は工場見学も大人気だと言うし、そういうバックボーンがあるのだろう。
子供たちと番組を見ながらあれこれと話をするのも、良い事かなと考えている。
時々、箸が止まっていたりするから、注意しないといけないが、まあ良しとしている。

しかし、それにしても同じような内容はいかがなものかという気も一方ではする。
「リアルスコープ」の方は完全な後追いであり、真似っこだ。
学ぶことは真似る事と言うが、それにしてもプロとしての誇りはないのだろうかという気がする。社内でも大勢の人が企画段階から関与するだろう。
「二番煎じは恥だ」という人はいなかったのだろうかと思う。

関係者が目の前にいたら、そう言ってやりたいと思う。
しかし、「そんなこと言ったって見る人がいるんだから」と言われればその通り。
二日続けて同じような番組を喜んで見ている我が家としては、返す言葉がない。
まあ社会科の勉強だと考えて、当分週末の夕食時はテレビを許容しようと思う一家の主なのである・・・
 

【本日の読書】

2011年10月23日日曜日

息子と・・・

【スポーツ和名一覧】
闘球(ラグビー)/蹴球(サッカー)/鎧球(アメリカンフットボール)/杖球(ホッケー)/門球(ゲートボール)/避球(ドッジボール)/庭球(テニス)/籠球(バスケットボール)/羽球(バドミントン)/排球(バレーボール)

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久しぶりに何の予定もない一日。
本来であれば、今週移動教室に出掛ける娘のために必要な買い物をする予定であったのだが、昨日ですべて終わってしまったのだ。
一応今日は予備日としていたのだが、その必要はなかったというわけである。
みんな昼近くまでゴロゴロしていた。

ブランチのあと、天気も良いしで長男を外へ連れ出す。
ともすると家の中でウルトラマンと怪獣たちとで一日遊んでしまう。
まあそれもイマジネーションが豊かになっていいと思うのだが、天気の良い日は外に出たって罰は当たらない。

長女はママと服選び。
2日目に着る服をどれにしようかと、ああでもない、こうでもないとやっている。
どれだって大して変わらないと思うのだが、どうやら娘にとっては大問題らしい。
そんなわけで長男と二人、秋の日差しの中へ飛び出していく。

長男のリクエストはサイクリング。
という事で、気の向くままのサイクリングに出掛ける。
長男の乗っている自転車は、お姉ちゃんのお下がりの赤い自転車。
来年小学校に入学したら、スポーツタイプの20インチの自転車を買う事になっているが、それまでは今ので我慢である。

思えば補助輪をつけた頃は、こちらは歩いて伴走していた。
補助輪を外す特訓をしたのもこの自転車。
初めはよろよろしていたし、ブレーキは何度教えても“足ブレーキ”だったが、この頃はママチャリに乗る私にもしっかりついて来られるようになった。

近所の川沿いに走る。
その川には鯉もいるし、鴨もいる。
今日は川のほとりで、源流祭りというイベントもやっていた。
我が街界隈には東京都下ながらまだ畑も多いから、そんな畑を眺めながら自動車の少ない道を行く。畑には野菜の他にも、ブルーベリーやいちごのビニールハウスだってあるのだ。
東京23区にしてこの環境は、なかなかのお気に入りである。

ちょっと遠出して、大きな公園に辿りつく。
ここでおもむろにキャッチボール。
まだ軟式のボールは早いから、ビニールのボールだ。
初めは取れそうな球をそっとトスするのが大変だったが、この頃はようやくキャッチボールらしくなってきた。しっかりとしたボールを投げてくるし、普通にオーバースローで投げた球を両手でキャッチできるようになってきた。

もう少ししたら、野球好きの義弟の薦めるミズノのグローブでも買ってやろうかとも思う。
しかし、考えてみると軟式のボールではキャッチボールをやれる場所があまりない。
家の前ではうっかりご近所の家の壁にでもぶつけたらと考えてしまうし、公園では禁止の看板がやたらに目立つ。世の中の親子はどうしているのだろう。
道を“踏み外して”サッカーなどに行かないように、しっかりとコントロールしていくためにも、これは大きな問題だ。

時計を眺めながら、束の間のサイクリングを切り上げる。
5時からはワールドカップの決勝戦だ。
息子も「黒いチーム(オールブラックス)が強そうだね、応援しようかな」と独り言。
わかっているじゃないか、と感心する。

夕食時、8年後に娘が18になったら、妻は女二人で韓国ツアーに行こうと娘に語る。
なんだそんなもの。
お金をもらったって行きたくないこちらとしては、「じゃあ男チームはワールドカップを観に行こう!」と提案した。単純に喜ぶ長男。
だが、その8年後のワールドカップは日本だって知るのはもう少し先だろう。
別に子供を騙すわけではない。

まあその時は、ジャパンチームももう少し低いタックルをして、せめて2勝くらいはできるようになってもらいたいものである。さて、その時はどんな14歳の男になっているのだろう・・・
慌てずゆっくり成長してもらいたいものである・・・
  

【本日の読書】


2011年10月20日木曜日

松屋にて

我が家では、週末のランチはファーストフードで外食というパターンが多い。
先週末もそんな流れで外出したが、途中で妻が「今日は牛丼が食べたい」と言い出した。
子供たちも大賛成。今時の若い女性は、一人で吉野家で牛丼を食べているのも珍しくないが、今時でない妻からすると、今だ「一人では入りにくい場所」という事らしい。

吉野家・松屋・すきやの御三家から、車で行きやすく次の買い物場所にも近いという事で松屋に行くことにした。子供たちは牛丼。妻は何やらいろいろ入った牛丼。私はキャンペーン商品の「うまトマハンバーグ」とやらにした。トータル金額の安さに、妻はまず感動。私のが一番高くて490円だった。

さて和気あいあいと食べ進み、そろそろサイドディッシュのサラダが終わろうとする頃、私は自分のサラダの中に何やら妙なものが入っているのに気がついた。最初は蟻かなと思ったが、良く見ると触角の他に立派な羽がある。どうやら蜂らしいと気がついた。栄養満点の蜂入りサラダ、というわけではなく、立派な異物混入だ。それにしてもどうやって入ったのだろう。

さてどうすると思ったが、ここは飲食店だし、一応事実は伝えなくばなるまい。
店員さんを呼び止めて、蜂入りサラダを見せた。
「すみません」と蚊の鳴くような声でその店員さんは返事すると、「すぐ替えます」とサラダを持って行こうとした。若い女性の店員さんだったが、ひょっとしたらアルバイトかもしれない。

大しておいしいサラダでもないし、もう残り少ないし、今からまた一皿食べる気にもならないので、交換の申し出は辞退した。さて、子供たちも食べ終わり、そろそろ帰ろうかなという時になっても、何の音沙汰もない。別に蜂が入っていたからと言って、鬼の首取ったように文句を言うつもりもないし、たかだか490円を返せと言うつもりもない。ただ礼儀として、店長あたりから「申し訳ございません」の一言くらいあってもしかるべきだろうと思っていた。

ところが、どうやらそんな気配もなく、それどころか席を立って出口に向かっても何の変化もない。厨房を見ると若い男女が合計4人働いていたが、昼時の忙しさにみんな我々には無関心。
「まあ所詮、ワンコインだしな」と納得して外に出た。文句を言えば表面上は謝るだろうが、それでどうなるというものでもないし、嫌な気分が増幅されて、下手したら一日後を引く。5,000円ならそうはいかないが、500円なら「その程度」と思った方が気が楽だ。

24時間営業のようだから、店長だって常にいるとは限らないし、ひょっとしたらみんなアルバイトかもしれない。注文に応じて決められた作業をして、ペットに餌を与えるが如く客の前に注文の品を置く。ただそれだけなのだ。ワンコインのファーストフードで、愛情あるサービスなど期待はしないが、みんな「ただの作業」をしているだけなのだと思う。下手したら飼い主が可愛がっているペットに餌をやる方が、愛情をこめて皿をだすかもしれないと思う。

最近は家計も厳しく、世の中はいかに安くを競っている。
牛丼の安売り合戦はその一例だ(ただいくら安くても松屋の牛丼は食べたいと思わないが・・・)。
コストカットは人件費にも及び、アルバイトが多いのだろう。
社員教育だって、しっかりやるはずもないからああいう対応になるのだろう。

たぶん、あの女性も心の中では「まずい」と思ったとは思う。
そういうケースでは「まずきちんとお詫びする、そしてすぐ店長に報告する、店長はただちにお詫びに行く」というルールが出来あがっていれば、たぶん躊躇せずにそうした事だろう。
そうでなかったという事は、そういうシステムが出来ていなかったという事だ。
あの店員さんはどうしたらいいかわからず、結果として頬っかむりしたのだと思う。
店員の責任というより、組織の欠点だ。

まあこの先松屋に行かなくても困らないから、行く事もないだろう。
子供たちも気味悪がっていたから、二度と行きたいとは言い出さないだろう。
ホームページを見ると綺麗に飾ってはいるが、実態は商品価格程度の企業だと言える。
「今度はすきやに行こう」と妻が言う。
まあいろいろと比べてみるのもいいのかもしれないし、松屋に行くのはこれで人生最後ということで、納得したのである・・・
    

【本日の読書】
 

2011年10月15日土曜日

明学戦

大学のラグビー部からメールで明日は明学戦だと連絡が来た。
明学(明治学院大学)と聞いて、現役時代のあの試合が脳裏を過った。
試合が終わって泣いたのは、生涯3度だけ。
高校時代の最後の試合と、大学3年の時の2試合だ。
そのうちの最後の1つが明学戦だった。

明治、早稲田、慶応ら歴史のある伝統校で構成している対抗戦グループ。
それまで準加盟扱いだった我々の大学が、明学・武蔵とともに対抗戦グループに正式加盟したのは1985年のことだ。1986年、3年になった私は晴れてレギュラーの座を手に入れて、公式戦に臨んだ。早稲田と試合をしたのもこの年だ。

明学は有望な高校生を集め始めたという情報が伝わってきていた。
我々は国立大学ゆえにそんな真似はできない。
“普通レベル”の経験者と初心者を鍛え上げるしかない状況。
肩を並べていた相手が、急速に強くなっていくのをただ眺めているしかない。

そんな中で迎えた最終戦。相手は明学。126日のその日は快晴。
苦戦続きであったが、対抗戦加盟2年目で3勝目を目指してのキックオフ。
細かい事は忘れてしまったが、戦況はほぼ互角。DAVIDの活躍もあって、前半1トライを取り、後半1トライを追加。8-0(当時は1トライ=4点だった)でリードしたまま、後半残り20分を迎えた。

ここから明学の怒涛の反撃が始る。
防戦一方となった我々はゴール前に釘付けにされる。
スクラムは押され、相手は次々にゴールに雪崩れ込もうとする。
相手のバックスに綺麗にボールが渡り、フルバックが勢いよく突進してくる。
何も考えず、必死にタックルで倒した。
試合後そのタックルについて、「監督が絶賛していたぞ」とベンチにいたチームメイトが教えてくれた。

何度ももうダメだと思ったし、「1トライぐらいなら取られても仕方がない」と脳裏を過った。早くノーサイドの笛を吹いてくれと、プレーが途切れるたびにレフリーを見た。
20分間、ほとんどゴール前で防戦し、そしてついにレフリーがノーサイドの笛を吹いた。
ベンチでは大歓声が上がり、ようやく相手の猛攻から解放されたと思った瞬間、目の前が滲んで見えなくなった。

後年、70周年の記念誌が作られた時、当時のキャプテンがこの試合を指し、「あの時のみんなの涙が忘れられない」と書いていた。
その時はわからなかったが、どうやらみんな目を赤くしていたらしい。
あんなに熱く熱中していたのも学生時代ならではなのだろう。

翌年、夏合宿で明学と練習試合をした。
相手のメンバー表を見たら、4年生はキャプテン一人で残りは12年だけだった。
有望高校からのスカウトの結果だ。
その年の秋の公式戦では、残念ながら勝てずに終わった。

今年も明学は対抗戦Bグループで12を争う勢い。
我が母校の不利は否めない。
だが、やっぱり後輩たちには頑張ってほしいと思う。
勝っても負けても、思い出に残るような熱い試合をしてほしいと我が身を振り返りながら思うのである・・・
            


2011年10月14日金曜日

この頃思う事

常識とは、18歳までに身につけた偏見のコレクションである
アルベルト・アインシュタイン
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朝の通勤電車。
池袋から乗る丸ノ内線は始発だから、みんな並んで座ろうとする。
前の人たちはいいが、後ろの方の人たちは残りの席をめがけて殺到する。
その姿は浅ましく、そんな真似をするくらいなら立った方がマシだから、いつも立っている。

こんな人間にはなりたくないなと思うような例は街でよく見かける。
どうしても好きになれない人間はいるし、軽蔑したくなるような人間もいる。
どうしてそんな立ち居振る舞いをするのか、理解に苦しむ事も多いが、考えてみればその人にとってみればそれが普通の事。その人にとってみれば、それが当然の考え方なわけだし、もしかしたら私の事を軽蔑すべき人間と思っているかもしれない。

価値観は人それぞれだとよく思う。
私は親に幾度となく、「常識がない」と言われてきた。
ただ、私にはそんなつもりは毛頭ない。
いつも言い争うと、言い負かすのは私の方だ。
なぜ言い負かせる事ができるかというと、私の言い分の方が「筋が通っている」からだと思うし、常識外れはどっちだという思いもある。

しかしながらどっちもどっちなのだろう。
アインシュタインの言葉は実に的を射ていると思う。
みんな自分こそが正しいのだ。
そしてその「正しい目を通して」世界を見ているのだ。

外出する時に、一生懸命姿見を見てチェックしている人は、自分の基準に照らして、人からおかしく見えないかをチェックしている。
私は姿見こそチェックしないが、これでいいやと選んだ服装で外出しようとすると、「その恰好は一人で出掛ける時にして」と妻に冷たく言われる時がある。
その原因は大概わからないが、従っておく方が無難だという事だけはわかる。

しかし、行動についてはそれを映す鏡はない。
だからみんな自分の行動がどう世間に映っているかわからない。
内側から見る自分は常に正しい。
しかし、外側から同じように見えているかは難しい。
そこに大きなギャップがある。

野村監督は、「評価は人が下したものこそ正しい」と本に書いている。
自分の偏見というフィルターを通していない、外側から見た自分の姿だからなのだろう。
褒められれば嬉しいし、批判されれば腹も立つ。
悲しいかな、自分もそんな典型的な人間だ。

いつも外側から見える自分の姿を意識していたいと思うが、心の中の思いにかき消される事しばしば。言うは易しなのだ。
口は一つだが耳は二つ。
親に対する反論もだが、「2つ聞いて1つ話す」のがちょうどいいそうだ。

そんな事をあらためて意識したいと、この頃思うのである・・・


【本日の読書】


2011年10月12日水曜日

ラグビーはタックルだ

タックルはラグビーの象徴的なプレーだ。豪快に決まれば観ている方もやっている方も気持ちが良い(やられた方はたまらない)。しかし、ラグビーをやっていれば、誰でもがタックルがうまくなるかというと、実はそうでもない。苦手としている人もかなりいると思う。

 

大概の者は、ボールを持って突進していくプレーは好むが、タックルには初めは抵抗感を持つもの。何せボールを持って勢いよく突っ込んでくる敵に、飛び込んでいくのだから躊躇もしようというもの。特に「守り=受身」と感じてしまうと、よけいである。かく言う私も高校時代はタックルが好きではなく、自分は「アタック型」の人間だと自分に言い聞かせていたものである。

 

それでも大学へ進むと、ポジション争いも激しくなり、そんな事を言っていられなくなった。

必然的にタックルの練習にも身が入り、いつのまにか抵抗感はなくなった。むしろタックルが好きになり、トライを取るよりもタックルで相手を倒す方に生きがいを感じるようになって今に至る。

 

しかし、特に体の大きなプレーヤーはこの過程を経ないままの者も多い。

体の小さな者は低いタックルをしないと大きな者を倒せない。

しかし逆は真ならず、体が大きければ捕まえるだけでも相手を倒せる。

身をかがめるのも大変だし、勢い腰の高い「抱きつくスタイルのタックル」になりやすい。

これは体が自分と同等か、あるいは自分よりも小さい相手にしか通用しないが、日本人同士だと体の大きい者はこれでやっていけてしまう。

 

ワールドカップでJapanの試合を観ていて、タックルが悪いなと感じていた。

タックル好きゆえにそういうところに目が行くのかもしれない。

しかし、何せJapanの選手は国内一流のプレーヤー。

私のような二流レベルが批判するのは、おこがましいというもの。

きっとグラウンドで実際にプレーしてみないとわからないものがあるのだろうと思っていた。

 

しかし先週末のウェールズvsアイルランド戦を観ていて、その考えは間違いだと気がついた。

予選でランキング3位の南アフリカに敗れたウェールズと2位のオーストラリアに勝ったアイルランドの準々決勝。アイルランドが勝つかと思っていたが、ウェールズの大きな選手が低いタックルでアイルランドの選手に襲いかかる。激しいプレーの連続で、アイルランドの攻撃を阻む。タックル好きの私が、画面に釘付けになってしまった。

 

結果はウェールズの勝利。

あの低くて激しいタックルが勝利を呼び込んだと言える。

それに比べるとJapanのタックルは情けない。

一流チームの大男があれだけ低いタックルをしているのに、格下のJapanがあのタックルでは勝てない。

 

思うに彼らは国内では一流で、低いタックルなどしなくともみんな格下だし通用してしまうのだ。アタックは一流だから、そこばかりが強調される。必死になって低いタックルをしなくても、「国内やせいぜいアジアでは」十分に通じる。かたやウェールズは国内で激しい競争があり、代表になってもアイルランド・イングランド・スコットランド・フランス・イタリアとの6カ国対抗戦で揉まれている。大男だって必死の低いタックルを必然的に繰り返すようになる。その差が出たのだと思う。

 

ワールドカップだって、国内の片隅で行われている草ラグビーだって、ラグビーはラグビーだ。低く激しいタックルはどんな試合だって大きな武器だ。「ボールを持っている選手」を「持っていない選手」が攻撃する方法がタックルだ。それが出来ないチームは格下相手でないと勝てない。Japanがワールドカップで勝てない理由がそこにあると思う。ウェールズのようなタックルをしていたら、少なくとも最終戦のカナダ戦は勝っていたはずだ。

 

あんなタックルではワールドカップでは勝てない。

Japanと言って威張るのなら、一流らしい低くて激しいタックルの見本を見せてもらいたいものだと思うのである・・・

2011年10月9日日曜日

最後の運動会

幼稚園に通う長男の、幼稚園最後の運動会があった。

当日朝の手伝いをすると、優先的に席を確保できるとあって、妻の指令でお手伝いに応募。

朝も早くからテントの組み立てを手伝い、パイプいすを運び、ロープを張ってとそれだけで一汗かく。その甲斐あって最前列に場所を確保する。

 

運動会は国家斉唱で始る。

「あの歌わけわかんない」とぼやいていた長男だが、幼稚園の時から訳がわからなくても歌わせるという事は大事な事。国旗・国家について「わけのわからない」反対をする輩は、長男の通う幼稚園にも長女の通う小学校にもいなくて幸いだ。

 

長男には「かけっこ一等賞」を義務付けていた。

私は9月から週末指導を繰り返してきたし、妻は「2等以下だったらお寿司を食べに行ってもおいなりさんしか食べさせない」と脅していた。

 

そのかけっこが始まる。あれだけ練習したのに、一人がフライングしてペースを崩し、スタートで出遅れる。4人中4位のスタート。「あちゃ~」と思ったのも束の間、二人を押しのけるようにして抜き去ると、カーブで先頭に追い付き、直線で抜き去りみごと一等賞。二人を押しのけるシーンのビデオは、後世の話題になりそうである。

 

毎年恒例の親子競技は、「おんぶ騎馬戦」。

親が子供をおんぶして、相手の帽子を奪い合う騎馬戦である。

妻がビデオを構える前を「戦闘区域」に決め、そこを中心に積極果敢に攻める。

混戦の中で周囲に気を配り、油断している騎馬に急接近して帽子を奪う「一撃離脱」作戦で、1回戦では2個、2回戦では3個の帽子をゲット。2回戦とも我がクラス連覇に貢献。私自身、「たかが幼稚園の競技」でも負けるのはプライドが許さないクチである。

 

最後の選抜リレーにも長男は出場。8人中7番手走者。

6番目がバトンタッチで転倒し、3組中最下位に転落して長男はバトンを受け取る。

最初の10メートルで2位の組を抜き、カーブから直線で追いついてアンカーにバトンを渡す。

アンカーの子は最後引き離して見事チーム優勝。8人の走る順番は各クラスの先生がそれぞれ研究して考えたらしいが、担任の先生も飛びあがって喜んでいた。

 

私も運動会は大好きだったし、かけっこはいつも一番だったし、リレーの選手にも当然のように選ばれていた。それゆえに楽しかったし、長男にもそれを求めたかったし、結果は上々で本人も大満足だったようである。まあその代りダンス系の競技は、隣の子が間違えると大変な事になるという有り様で、そんなところまで私の血を引いたようであるが・・・

 

かくして幼稚園の運動会はこれでもうお終い。

親子競技なんて小学校はないし、これが私自身参加する最後の運動会だろう。

いつか懐かしく思いだすのだろうなと、感慨深いものが残ったのである・・・







2011年10月6日木曜日

幸せはお金で買えるか

  この国に生まれて、曲がりなりにも生活できているという事は、世界的に見ればかなり幸せな事だと思う。今の生活だけでも十分満足すべきだとは思うものの、人間とはより多くを目指すもの。それに今後の事を考えれば不安要素もかなりある。
そうした今、あと何が必要かを考えると、「お金」という答えに行きつく。
よく「幸せはお金では買えない」と言われるが、今の私にしてみれば、「十分買える」と断言できる。「世の中金だ」とまでは言いたくないが、「幸せはお金では買えない」と言ってしまうのもどうかと思う。誤解を恐れずに言えば、「幸せはお金で買える」と思う。

 日本には長い儒教の伝統があって、お金というものは卑しいものとする風潮がある。
江戸時代では、商人は一番地位が低かったし、成金や拝金といった言葉は尊敬とは対角線上の先にある。そしてそのわりに、みんな熱心に宝くじを買う。
「欲しいけれど、欲しい振りをしない」のがその実態だろう。
どんなに欲しい振りをしなくても、私から見れば、宝くじ売り場に2時間も並ぶ人たちは金の亡者にしか見えない。

 正直言って毎月の収入が、それもあと何万円かのわずかであったとしても、増えれば豊かな気持ちになるだろう。(もっともたぶんそれもしばらくの間だけだと思うが・・・)
旅行に行くときだって、パンフレットをたくさん集めてきて、予算とにらめっこして溜息つかなくてもいいし、家族みんなで映画やコンサートや観劇などにちょくちょく行って、健康で文化的な生活を送れるだろう。老後の心配だってしなくていいし・・・
なんだかそんな程度の幸せで良いなんて、我ながら実に庶民的だ。

 もちろん、金で買えるかどうかは、「幸せ」の定義にもよる。
「好きなあの子に想いが通じたら、それだけであとは何もいらない」と思っている者には、当然当てはまらないし、医者に通ってもなかなか治らない病を抱えている人にも当てはまらない。世の中に「買えない幸せ」が多くあるのも事実。
「幸せ」というものが値札を下げて売っているわけではないから、買うと言っても間接的に買う事になる。それを買う事によって幸せになれる事が必要だし、そういうものであれば、「幸せはお金で買える」と言えるだろう。そしてお金さえあれば、今はかなりの幸せが買える。

 もっとも、宝くじを当てた人がその後不幸になるなんて話は良く聞くし、あれば良いと言うものでもないだろう。醜い遺産相続の話なんかもしょっちゅう聞く。
そういう例を持ち出してきて、「幸せはお金では買えない」というのだろうが、それは単に使い道を誤っているだけで、欲張らずに正しく使えば十分に幸せを買う事ができるはずだ。

 我が家の子供たちももう少し大きくなれば、金銭教育も必要になるだろう。
「お金で幸せは買えない」などときれい事を教えたくはないし、かと言って「世の中金だ」と思うようになってもらっても困る。汗水たらして働く事の意義をしっかり教えて、そうして手にしたお金を上手に使えばそれが幸せに繋がるはずだ。

 残念ながら残りの人生で収入はあまり増えそうもないから、せめて賢く使う事で小さな幸せを買いためようと思うのである・・・


【本日の読書】

2011年10月2日日曜日

神経衰弱

子供の頃、よくトランプをした。
いろいろなトランプゲームの中でも特に「神経衰弱」が私は得意だった。
親戚などが集まって神経衰弱をやったりした時はいつもトップだった。
大人たちは「あれっ!この数字どこかにあったな、どこだったっけ?」とおろおろしている間、私はしっかりとマークしていて、順番が回ってくるとごっそりいただいたものである。
大人たちが悔しがるのを横目に、子供心に得意になっていたのだ。

考えてみれば、トランプはかなり偶然に左右されるゲームが多い。
「七並べ」然り、「ババ抜き」然り。
手元に配られるカードはすべてコントロール不能だ。
勝つも負けるも運がかなり影響する。
しかしながら神経衰弱はほとんど実力。
そんなところも高い勝率に寄与したのかもしれないが、そんなふうに実力で勝敗を決められるからこそ、神経衰弱は好きなトランプゲームであったのかもしれない。

最近、我が家でもたまにトランプをするようになった。
Wiiで遊ぶのもいいが、昔ながらのボードゲームやトランプも無視するわけにもいかない。
それはそれで良いのだが、トランプで神経衰弱をやると娘にしばしば負けるのである。
昔取ったなんとかで、最初は余裕で相手をしてやり、時にはわざと勝たせて機嫌を取ったりしていたものの、この頃実力で負けるのである。

難しいゲームでもないし、ただ単に記憶力だけのゲームであるのだが、その記憶力が働かない。カードの種類と場所を覚えるキャパシティが減ってしまったのか、たくさん覚えていられない。ちょっと目をそらしたり、注意がそれたりするともうダメである。
そんな私をあざ笑うかのように、娘が次々と札をひっくり返して持っていく。
これが年を取ったと言う事なのであろうか、とふと思う。
きっとあの時の大人たちも同じようだったのだ。

何となく、子供相手だし、真剣にやっていなかっただけだろうと思ってはみるものの、それが理由かどうか心もとない。
夏にはプールで競争をしたが、まだ25メートル程度では余裕で負けない。
ところが50メートルとなったらわからない。
100メートルだとそもそも続けて泳げるかどうかの問題だ。
これは年というよりも体力の問題だから、挽回はできる。
たかだか10歳の娘に負けるものが出てきた事に、少なからず驚きを感じる。

思い返せば子供の頃、将棋では早々に父親を負かしていたし、神経衰弱は言うに及ばず、遊びで親に何か勝てないものがあったかと言うと、あまり思い当たらない。
それが当然だと思っていたが、逆の立場になると微妙だ。
元々負けず嫌いの性格の私だが、子供の成長は逞しくもあり嬉しくもあるが、まだまだ負けるわけにはいかない。

来週は長男の幼稚園最後の運動会。
かけっこではまだまだ私とは勝負にならないが、いずれ私よりも早くなるのだろう。
ただ、それが私が衰えたという理由ではあってほしくない。
少しずつ運動始めようかなとも思う。

神経衰弱はいずれまたそのうち機会もあるだろう。
今度は一つ真剣勝負してみようと思う。
子供相手に大人げないという問題ではなく、これは自分自身へのチャレンジだと思うのである・・・