2024年9月11日水曜日

差別について

 差別はなぜ生まれるのだろうかと、ふと考えた。世の中には人種差別や部落差別など様々な差別がある。「その人がどういう人か」に関係なく、ただその人が差別対象に入っているからという理由で差別するのは誠に理不尽である。アメリカの人種差別については、映画化されたり、ドキュメンタリーで放映されている事もあって実態がかなり知られているが、知られている限りでも酷いものである。肌の色が明確に違うから差別しやすいということもあるのだろうが、白人が自分たちこそ最高だという思い上がりの現れであると思う。

 見た目が変わらなくとも差別は存在する。アメリカではかつてイタリア移民が差別されていたらしいし、ヨーロッパではユダヤ人が差別されてきたのも有名である。どちらも我々日本人から見ると同じ白人であるから見た目ではわからない。また、単一民族に近い我々日本人でも部落差別や朝鮮人差別というものがある。見た目で異質なものを排除するというのは何となく理解できるが、そうでないものを差別するのはどういうわけなのであろうか。私には幸いにしてそういう差別感覚がないのでよくわからない。

 私が差別について意識した最初のものは小学校の頃の朝鮮人差別であろうか。当時、朝鮮人を「チョン」と呼んでいた。私は友人たちから聞くまでまったくその存在を知らなかったので、印象深く残っている。ただ、差別と言っても「朝鮮人は凶暴」という内容で、「喧嘩をしたらまずい」というようなものであった。差別というより恐れであろうか。わけもわからない小学生のガキの話であるが、「チョン」という言葉に差別の色合いを強く感じる。幸い、私が朝鮮人から何かされるという事も、遭遇することもなかった。

 次に記憶にあるのは部落差別である。就職した銀行が関西系の銀行で、最初の研修の時に「同和問題」として部落差別はいけないという内容の話を聞かされた。部落差別については歴史の教科書にも出ていたので、いったいいつの時代の話なのかと訝しく思った。東京生まれの東京育ちのシティーボーイであった私にとって、部落差別などは歴史の教科書の中の話に過ぎなかったのである。ところがそれが現代でも注意しないといけない話だと知ってそちらの方に衝撃を受けたのである。大阪というところはそんなに前近代的な地域なのだろうかと。

 実はそれ以前にも、長野県の御代田に住む伯母から部落差別の話を聞いた事があり、田舎の方にはまだ残っているかもしれないという程度の認識はあったのであるが、大阪という都市で、都市銀行に勤めていて業務上の注意として意識しないといけない話だとは思えなかったのである。もともと差別意識などなかったが、どこで見分けるのだろう(何せ見た目ではわからない)とか、どうすればいいのだろうとか思ったが、結局、「意識などしなければいい」という結論に落ち着いた。もともと知らなかったのだし、知らないままでいればいいのだと思うに至ったのである。研修など寝た子を起こすようなものだと思ったものである。

 しかし、その後関西人の妻と結婚し、義理の祖母と話をした時に、「差別されるには差別されるだけの理由がある」という話を聞かされて驚いた。大阪には部落地域が散在しているようで、市民の間にはそういう意識が根付いているのだとわかった。関東人には無用でも関西人には必要な研修だったのだろう。ただ、出身地で分ける事も出来ないから全員一律の研修となったのだろう。私も関西に生まれていたらそういう空気に染まっていたのだろうと思う。部落差別など希薄化していた東京に生まれ育ったのが幸運だったのだろう。

 そう言えば、母に聞いた話だが、父との結婚の話が出た時、当時長野県の望月に住んでいた祖父が、父の実家をわざわざ訪ねて行ったそうである。父の実家は同じ長野県の富士見にあり、60kmほど離れている。当時は交通手段もろくになく、原付バイクで行ったそうであるが、どうやらそれは挨拶というよりも、「部落」ではないかを確認しに行ったらしい。父親とすれば、娘を嫁がせる相手の氏素性を確かめたかったのだろう。もしも「部落」だったら反対していたのだろうが、考えてみれば部落の人たちはそういう差別を受けてきたのだろうし、気の毒な事ではある。

 私はもともと理不尽な事が嫌いであり、部落差別のような理不尽な差別を受けたら我慢がならなかったろうと思う。人間がなぜ差別をするのかと言えば、人間にはもともと異質なものを排除したいという気持ちがあるからなのだろう。それは肌の色というわかりやすい違いがあれば簡単であるが、一見してもわからないものの中にも違いを見つけるのだろう。それを防ぐとしたら、「寛容」の精神しかないように思う。肌の色が違おうと、人とは違うものがあろうと、それでも相手を認める「寛容」の精神があれば、差別はなくなるように思う。逆にそれがなければ、研修をしたぐらいではなくならないのではないかと思う。

 最近ではLGBTという異質も世の中でスポットライトを浴びている。実はその昔、私は同性愛や「体は男だが心は女」という人種には虫唾が走ったものであるが、今は何とも感じない。ただ、それは「寛容」というよりも「無関心」という方が正しいだろう。「人は人であり、他人がどういう趣味を持とうがどうでもいい」という感覚で、あまり褒められたものではないかもしれない。それでも差別よりはマシだろうとは思う。自分に他人を差別する気持ちがないのは幸いである。たとえそれが無関心の結果でもいいじゃないかと思う。

 世の中に必要なのは「寛容」の精神であるとつくづく思う。それがあれば世の中の人と人との対立も差別もほとんどがなくなるように思う。だが、なくならないって事はそれだけ難しいのだろう。自分が世の中を良くできるとは思わないが、せめて自分はより寛容の精神を身につけていきたいと思うのである・・・


Melk HagelslagによるPixabayからの画像

【本日の読書】

戦争と経済 舞台裏から読み解く戦いの歴史 - 小野圭司  汝、星のごとく - 凪良ゆう






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