【原文】
子疾、子路請禱。子曰、「有諸。」子路對曰、「有之。誄曰、『禱爾于上下神禔。』子曰、「丘之禱之久矣。」
【読み下し】
子疾む。子路禱るを請ふ。子曰く、諸有りや。子路對へて曰く、之れ有り、誄に曰く、爾を上下の神祇于禱ると。子曰く、丘之之禱るや久しかり矣。
【訳】
先師のご病気が重かった。子路が病気平癒のお祷りをしたいとお願いした。すると先師がいわれた。
「そういうことをしてもいいものかね。」
子路がこたえた。
「よろしいと思います。誄るいに、汝の幸いを天地の神々に祷る、という言葉がございますから。」
すると、先師がいわれた。
「そういう祷りなら、私はもう久しい間祷っているのだ。」
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孔子の生きていた時代には、まだ医療も十分に確立されておらず、「祈り」が有効な治療方法の1つだったのだろう。今の我々の基準からすると、「祈り」に何の効果もないことは明らかであるが、今の我々の基準でも、どうにもならない事に対しては「祈る事ぐらいしかできない」 という事もあり、当時の人たちをバカにする事はできない。何もしないより、何かをしているという充足感を得られる事から考えても、祈るという効果はあると言える。そんな祈りならとっくにやっているという師匠の回答。
何かトラブルがあり、可能な限り手を尽くしているがなかなか解決に及ばないという事は、現代の我々でもよくある。そこに後からやってきた人物が、事情を聞いて「それならこうすればいい」とアドバイスをくれるが、「そんなことはとっくにやっている」となれば、さらにイライラ度が増す事もよくある。「わかりきったアドバイスしかしないんだったら余計な口は出さないでくれ」というところである。親切心からのお節介であっても、トラブル度によっては、そんな相手の気持ちを忖度して感謝できるゆとりがなかったりする。
先日も会社でなにやら部下がトラブルらしく額を突き合わせて相談している場面に出くわした。何か事務的なトラブルのようである。私も部の責任者として知らん顔するつもりはないが、さりとて「どうしたの?」と口を出すのも憚られるので静観していた。というのも、いくら総責任者と言ってもすべてのトラブルを解決できるわけではない。特に事務的な部分では、部下の課長の方が詳しかったりする。ならば静観して任せ、もしも事務だけでは解決できない部分を相談してきたら対応するというのがよさそうだと判断したのである。
実際、責任者としてはトラブルには気を遣う。早く手を打たないといけないものも多いし、我関せずで済ませられるものでもない。ただ、モノによっては、小さなトラブルであれば部下を信頼して任せるというのも大事であろう。それで問題解決力が鍛えられる事もある。ましてや自分に解決力がないのであれば、ある人に任せるという事も大事であろう。問題解決力がないのに口を出すのは邪魔をしているのも同然である。何とか役に立ちたいという気持ちはわかるが、烏合の衆が増えるだけでは意味がない。
その昔、私が駆け出しの銀行員時代の事、内容は忘れてしまったが何らかのトラブルがあって、当時の融資課のメンバーが集まってどうしようとやっていた。初めは女性社員が若手に相談し、若手がわからずに同じ課の先輩に相談し、それでもわからずに主任を巻き込み、しまいにみんなで一塊になっていたのである。そこへ鬼上司がやってきて、「わからない者が雁首揃えても邪魔なだけ」と一喝してみんなを蹴散らした事があった。その時、「確かにな」と思ったものである。
日本人的な感覚として、困った人を放ってはおけないという気持ちがある。だから、自分が解決できないとなって先輩に相談しても、関わった以上、「それでは僕はこれで」とその場を離れるわけにはいかない。それで結局、融資課の全員が雁首揃える事になってしまったのである。子路も師匠を案じるあまりの申し出であり、それ自体責めるのも酷である。ただ、弟子の思いつくことなど、師匠はとっくにわかっているというのもある。師匠の回答に少しイラっとしたものを感じなくもないが、そんな両者の気持ちが行間から伝わってこなくもない。
親切心とよけいなお節介はコインの裏表かもしれない。自分が困難にある時は、よけいなお節介ではなく、親切心と捉えて素直に感謝できるゆとりを持ちたい。「お前がそう言うのなら、もう少し念入りに祈ってみよう」と言えるようでありたいと思うのである・・・
TumisuによるPixabayからの画像 |
【本日の読書】
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