【原文】
子曰、「飯蔬食、飮水、曲肱而枕之、樂亦在其中矣。不義而富且貴、於我如浮云。」
【読み下し】
子曰く、蔬き食を飯ひ、水を飮み、肱を曲げ而之に枕す、樂亦其の中に在る矣。義しから不し而富み且つ貴きは、我に於て浮き云の如し。
【訳】
先師がいわれた。
「玄米飯を冷水でかきこみ、肱を枕にして寝るような貧しい境涯でも、その中に楽みはあるものだ。不義によって得た富や位は、私にとっては浮雲のようなものだ。」
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人にはいろいろな価値観がある。日本は儒教などの影響もあって、「商売は卑しいもの」「お金は汚いもの」という感覚がそれほどひどくはないものの、なんとなく我々の感覚の根底に残っている。もちろん、それらはいずれも「利用の仕方次第」であるが、それでも「私はお金が一番」などと言えば、あまり人には尊敬されないであろう。そう言えば、私の前職での社長は、「通帳のゼロが増えていくのが何より楽しみ」と公言していた。今にして思えばやはりそういう人物であったが、そういう人は尊敬という言葉とは縁がないだろうと思う。
「不義によって得た富や位は、私にとっては浮雲のようなものだ。」という孔子の言葉は、本心で語っているなら当然人から尊敬を集めるだろう。前述の社長など、自分の力では黒字にできなかった会社を私以下の役職員の奮闘によって累積赤字を一掃できたのにも関わらず、史上最高益を達成した時に会社を売却し、売却資金はすべて独り占めし、社員は全員解雇して引退した。きっと今頃は億の金を手にし、悠々自適の引退ライフを送っているのだろう。まさに「不義によって得た富」であるが、本人はゼロを数えて満足しているのだろう。
「そんなにしてまで金が欲しいか」というのは、我々庶民の僻みであり、本人にしてみれば「自分が持っていた権利を売って何が悪い」というのだろう。たぶん、「不義」などという感覚はないはずである。経営能力がなかったのは事実だが、そんな意識はかけらもなかっただろう。「部下に任せてやらせていた」という感覚であればそれが「経営能力」だと思っていたのだろう。人の感覚などは人それぞれであり、自分の感覚で正義を語ってもそれは所詮、独りよがりである。
そう言えば以前、「清貧」なんて言葉が流行った。歌の文句でも「ボロは着てても心は錦」なんてのもあったし、「人生において大事なのは金ではない」というのは、誰もが否定しない事だろうと思う。だが、では「玄米飯を冷水でかきこみ、肱を枕にして寝るような貧しい境涯を送ってください」と言ったら、みんなどう思うだろうか。少なくとも私はごめん被りたいと思う。もちろん、例えば学生時代のような若い頃であればいいだろうが、来年は還暦などという年齢ともなればそうは言ってられない。
「清貧」などは、はっきり言って今の私にしてみれば綺麗事にしか映らない。もしも目の前に「清貧」を説く者がいたら、「あなたは自分の子供に大学進学を諦めろと言えますか」と問うだろう。もちろん、価値観は人それぞれ。子供の進学よりも「玄米飯を冷水でかきこみ、肱を枕にして寝るような貧しい境涯に楽みがある」という価値観を否定するつもりはない。ただ、家族を持って責任が生じた身としては、なかなか真似のできない尊敬すべき価値観だと言える。
もっとも、そういう責任をすべて果たした後は、そういう心境になることもあるかもしれない。もともと私はそれほど物欲があるわけではない。例えば車にしても高級車にはあまり興味をそそられない。むしろ今、「金に糸目をつけず好きな車を買っていい」と言われたら、迷わず買うのはトヨタのスープラ70である。若かりし頃、唯一欲しいと思った車だが、憧れのまま終わってしまったのである。フェラーリやBMW、レクサスなどこれまで欲しいなどと思った事はかけらもない。
お金を否定するつもりはまるでない。「世の中には金で買うことができないものがある」という言葉は言い古されているが、私の好きな言葉は、「金で幸福を買うことはできないが、不幸を追い払う事はできる」というもの。特段、贅沢をしたいとは思わないが、家族を含めて不幸を追い払うことができるのは確かであり、そういう意味で人並み以上の金銭欲はある。どんな境遇でもその中に楽しみを見出す心掛けは必要であるが、私は清貧ではなく、お金のある境遇に楽しみを見出したいと思う。
この孔子の言葉に強く賛同したいと思うのは、「不義によって得た富や位」に意味はないという部分だろう。金は欲しいが、人に不義を働いてまでとは思わない。その最低ラインは守りつつ、最低でも住宅ローンを払い終える70歳までは、今の給料をしっかり維持できるように働きたいと思うのである・・・
スープラ70 |