2023年4月30日日曜日

遺伝子操作は是か否か

 先日、ウォルター・アイザックソンという人が書いた『コード・ブレイカー』という本を読んだ。2020年のノーベル化学賞を受賞したジェニファー・ダウドナという女性科学者の自伝である。もともと著者は『スティーブ・ジョブズ』という自伝も手がけており、それが面白かったことから、他の著作も読んでみようと思ったところがある。ところでそのジェニファー・ダウドナであるが、何をしてノーベル賞を受賞したのかというと、「クリスパー」という遺伝子のゲノム編集ツールになるものを発見した功績らしい。タイトルもそんなところから来ているようである。


 内容的には興味深く読んだが、このクリスパーが発見されたことにより、遺伝子編集が可能になり、それによって遺伝子由来の病気の治療がいくつか可能になったという。DNAと言えば、直径が2nm(ナノメートル)という小ささであり、そんなミクロの世界のものを編集するというイメージなど湧かないが(どうやってやるのだろうかと思ってしまう)、それをやる事によって病気の治療ができるのであれば、それはそれで素晴らしいと思う。しかし、そこに「倫理」の問題が入ってくる。


 それはある中国人科学者の行為。両親がHIV陽性患者である者に対し、受精卵の遺伝子を編集してHIVに感染していない赤ん坊を誕生させたのである。それ自体、何が悪いのかという感じがするが、人間の遺伝子を編集するという神の行為に等しい行為を問題視する意見が当然のように出てくる。病気の治療ならまだしも、知能を高めたり、運動能力を高めたり、あるいはナチスのように優れた民族だけが残るような目的に利用されたらとか、深く考えていくとその指摘もよくわかる。


 果たして、遺伝子操作は人類が手を出すべきではない神の領域なのであろうかと疑問が湧く。そう言えば、よく「遺伝子組み換え作物」などというものが騒がれている。遺伝子を組み換えることで病気に強かったり、農薬に強くなって収穫量が増すというメリットがある作物である。先日観た『ジュラシック・ワールド新たなる支配者』という映画でも、あるバイオ企業が開発したの遺伝子操作作物が巨大化したイナゴの被害を免れるというエピソードが紹介されていた。そんなメリットの反面で、不自然な行為により健康被害が生じる可能性があるという指摘がある。


 そういう指摘は確たる根拠があるわけではなく、「何かあるんじゃないか」的な心配のように思うが、人間のDNAを操作する事についてもそんな部分があるように思う。もっとも、著者は富裕層が優秀な遺伝子を買ってそれを自分の家系に根付かせる事で、新たな格差が生まれるのではないかという危惧を挙げている。個人的にそうした遺伝子編集によって生まれた「スーパーマン」がオリンピックで金メダルを独占したりするとなれば違和感を感じるだろう。


 また、作中である聾唖夫婦が、「自分達は聾唖であったからこそ障害を乗り越えて今の自分になれた」として障害を肯定的に捉え、我が子にも障害を持って生まれるように遺伝子を操作するとしたらそれは認められるかを問う。これは思考実験であるが、もしもそんな理由で障害を持って生まれたのが自分だったら、たぶん両親を恨むように思う。遺伝子操作については、病気を治すという意味では肯定的に考えられるが、それ以外の部分ではやはり手を出すべきものではないように思う。


 では、美容分野もそうだろうか。今は美容整形もかなり普及している。あらかじめ豊満な胸を持ち、痩身になるとか、鼻筋が通った顔立ちになるとかのDNAを持って生まれれば、我が子も幸せな人生を送れるかもしれないと考えた親が、そうしたDNA編集を自分の受精卵に施すのはどうだろうか。ダメだとしたら、整形美人は良くて遺伝子整形美人がダメな理由はなんだろうか。「不自然である」ことがダメなら体外受精も不自然と言えば言えなくもない。遺伝子を編集する事について否定する考えは、「何があるかわからない」的な未知の不安であるに過ぎないように思う。


 そもそもであるが、なぜこの世界に生物の多様化が起こったのかと考えてみると、それはすべて遺伝子が完全コピーできなかった結果だろう。自然界でも遺伝子編集は行われているわけであり、それを人間がやってはダメだという理由はないと思う。植物や動物で異種交配はすでに行われており、人類は自然には生まれなかった種をすでに作り出しているわけである。人間でなければOKで、人間ではダメだという理由はなんだろうか。確かに富裕層だけが、美と健康を手にできるというのは問題かもしれないが、いずれ技術が進歩すれば世の中に広く普及することになるかもしれない。金持ちだけでなく、誰もが体外受精のように利用できるようになったとしたら、それでも認められるべきものではないのだろうか。


 個人的に胸にシリコンを入れた豊胸美人と遺伝子操作による豊胸美人とどちらがいいかと聞かれたら、私なら後者を選んでしまう。いずれにせよこの本に書かれていない問題が他にもあるのかもしれないから、今の時点ではなんとも言えない。我が家の子供も1人は体外受精であるが、その技術があって良かったと思っている。遺伝子編集ベビーは我が子か孫の時代の問題になるのかもしれないが、幸せになるための技術であるならそれはそれでいいのではないかと思うのである・・・


Victoria_RegenによるPixabayからの画像 


【今週の読書】

 




2023年4月27日木曜日

秋葉原

 先日、仕事で秋葉原に行った。数年前、父にパソコンを買うので付き合って欲しいと言われてヨドバシカメラの秋葉原店に行ったが、駅前は随分と変わっていた。今回、改めてかつての秋葉原との違いを実感した次第である。東京に住んでいながら、秋葉原にはあまり行かない。そんな私には秋葉原と言えば、かつての電気街のイメージが今も色濃く残っている。そう言えば、一番古い記憶を辿っていくと、いつの頃だったかたぶん50年くらい前になると思うが、父に連れられて行ったのをぼんやりと覚えている。

 父もかつては電気製品を買うとなれば秋葉原であった。私の最初の記憶もおそらく父の何かの買い物について行ったのだと思う。記憶に残っている当時の秋葉原は、電気製品の店が軒を並べており、雑然としていたように思う。その次の記憶は中学生の頃。45年くらい前のことであるが、クラスメイトに誘われて一緒行ったのである。そのクラスメイトは、私が人生の中で初めて会った「天才」で、およそ将棋で友達に負けたことのなかった私が、初対戦で7連敗して驚かされた男である。

 そんな彼に誘われて行ったある電気店の店頭で、彼は何やら店頭のパソコンに向かってキーボードを叩き始めた。何をやっているのだろうと見ていたが、やがて出来上がったのはゲーム。インベーダーゲームみたいなものであったが、突然ゲームができてしまってやはり度肝を抜かれた。今思えば、簡単なゲームのプログラムだったと思うが、その当時そんなものに興味を持っている中学生など少なかったと思う。アルファベットを打ち込むだけでゲームが作れてしまうなんてと、当時はかなりのショックであった。

 そして時は流れ、これからはパソコンが使えないといけないだろうと何となく思い、初めてのパソコンを買いに行った。35年くらい前である。当時はパソコンを買うと言えば、秋葉原くらいしか思い浮かばなかった。家電量販店も「電気のことなら石丸電気🎵」というCMが懐かしいが、秋葉原に集中していた。そして東芝のDynabookを購入したのである。まだMS-DOSの時代である。買った店は今はなきサトームセンだったが、買い替えて不要になり、売りに行ったところは新興のソフマップであった。

 2台目のパソコンまでは秋葉原であった。その時はまだパソコン買うなら秋葉原という時代であった。駅前でオウム真理教の白装束の信者がパンフレットを配っているのをもらった記憶がある。2台目のアプティバという品名のパソコンで、OSWindows3.1であった。まだWindows95が登場する前で、30年くらい前である。それからヤマダ電機やカメラ系の家電量販店が勢力を拡張し、「家電なら秋葉原」の地位は低下。私もほとんど足を向けなくなってしまった。何となくメイド喫茶などのオタク文化が栄えているのを遠巻きに耳にしたくらいである。

 今使っているMacは我が家御用達のビックカメラ池袋店で購入したものである。今や我が家の家電のほとんどはビックカメラ池袋店である。池袋にはヤマダ電機の旗艦店があるが、我が家はビック派である。品揃えもお値段も申し分ないので、当分変わらないだろう。もう家電を買いに秋葉原に行くと言う発想は完全にない。しかしながら、ヨドバシ派の父は今でも秋葉原に行くようである。それはかつて身に染みついた「電気のことなら秋葉原」と言うDNAによるものなのかもしれない。

 そんな思い出に浸りながら、せっかくだからと帰りに周囲を散策した。すると、古い建物や大通りを一本入ったところに昔ながらの電気店がまだまだ軒を連ねているのを見つけた。かつてあった雑然とした街の雰囲気をそこだけは色濃く残していた。メイド喫茶の呼び込みと思われるお姉さんたちがニッコリ微笑みかけてくるのを横目で見ながら、昔ながらの電気店を眺めた。店だけを見ると、どうやって食べているのか疑問が湧いてくる。しかし、何かこれまでやってこれた何かがきっとあるのだろう。

 昔から電気製品に関してはこれと言った興味もなく、だから秋葉原にもそういう目的で行くこともほとんどない。ただ時代とともに変わりゆくのは仕方ないが、昔ながらの秋葉原も残っていた欲しいなと思うのである・・・

zauber2011によるPixabayからの画像 


【本日の読書】

 




2023年4月23日日曜日

就活の相談

 先日、ある就活学生から相談を受けた。彼はこの春すでに卒業したが、まだ就職は決まっていない。本人はそれを何か大きなハンディのように感じているようであった。我が社の場合は、既卒であろうがそれを理由に採用を拒否するようなことはない。ただ、大企業などでは「翌春卒業予定者」を対象とすると規定しているところもあるかもしれない。そういうところは門戸が狭まることになる。ただ、年齢的には大学生は浪人経験もあったりするからあまり関係はない。「既卒だから」と拒否する理由はまったくないはずである。

 ではまったく就活に影響がないかと言うとそうでもない。それはやはり「なぜ就職できなかったのか」という疑問である。それが誰もが仕方ないと思うようなものであれば問題がない。大きな経済不況とか内定取消とかであれば、企業は逆に思わぬ拾い物があるかもしれないと期待するかもしれない。だが、現在のところはそういう環境ではないから、そうなると「他の企業が見向きもしなかった魅力のない人物」と取られる可能性が高い。ただそう取られたとしても、それを覆すだけのものを面接なりで示せれば問題はないわけであるが・・・

 しかしながら、私に相談してきた彼は残念ながらあまりそれを覆せるだけのものを示せるようではなかった。それは抑えて、私が彼の立場だったらどうするだろうと考えてみた。まず彼に履歴書を見せてくれと言ったところ、「今は持っていない」とのことであった。聞けば、いろいろと機会を求めて就職サイトに登録したりハローワークにも登録しているらしい。それなのになぜ履歴書を持ち歩いていないのか。もしも相談した先で、「これから行ってみてくれ」と言われたらどうするのだろう。すぐに「ハイ!」と答えて行けないと行けない。チャンスはどこに転がっているかわからない。まず指摘その1である。

 それに、何より大事なのは「(就職に)失敗して何を学んだか」である。そもそも私なら内定を得られないのが続いた段階で、何がダメなのか面接を受けたところに正直に聞いてみるだろう。頼み込んで包み隠さず批評してもらえればそれを治す努力をしてみる。それでも卒業してしまったなら、やる気をアピールするだろう。「遅れた分は1年で取り返します!」くらいの覚悟を見せるだろう。意気に応えてくれる担当者なら採用してくれるかもしれない。私が採用担当ならそのやる気を絶対買うだろう。

 さらに卒業しているという立場は、現役の就活生と比べて有利な点は「すぐ働ける」というところである。「明日から働きます」と言えるのである。私なら「すぐに仕事を覚えたいので、無給でもいいです」くらいは言うだろう。実際、そうは言っても企業は無給で雇うわけにはいかないから何がしかの給料はくれるだろう。あるいは「アルバイト扱いで構わない」と言ってもいいかもしれない。大事なのは、現役の就活生と比較して何を自分の「売り」にできるかだと思う。私なら手っ取り早く「やる気」にすると思う。

 私も採用面接を担当しているが、新卒の場合、見る部分と言うとほとんど「人となり」になってしまうのは否めない。話してみて受け答えはどうか、ハキハキ答えれば印象もよくなるし、口ごもったり聞き取りにくかったりすると印象は悪くなる。学校の成績も見るが、「優(あるいはA)」が多いからといってそこからわかるのは、「コツコツ頑張れる人だな(もちろんそれも重要なファクターである)」ということくらいである。その学校の中での「優(A)」であり、それは他の学校の「秀(B)」と同じくらいかもしれないので、絶対視はできない。

 もっとも過剰なやる気アピールはかえって鼻について逆効果になるかもしれないので気をつけないといけない。ただ、「失敗から何を学ぶか」は大事である。「考えてみれば就活に真剣味がなかったのかもしれない」という言葉があり、「チャンスが与えられれば必死にそれを取り返す」という気持ちが相手に伝われば、採用の壁はそれほど高くはないと思う。私も「働くこと」についてはいろいろと思うところはある。そこには共通して「やる気」が重要だという思いがある。実際、そこに集約されると思う。

 考えてみれば、私も若い頃はこんな偉そうなことを言えるほどではなかったと自覚している。働いているうちに身につけた考え方であるのも事実である。とは言え、かの就活生の彼にも既卒のハンディを乗り越えて就職してほしいと思う。私の助言が少しでも役立ったのなら、それは望外の喜びであると思うのである・・・

Intelligent NetwareによるPixabayからの画像 

【本日の読書】

   




2023年4月20日木曜日

論語雑感 述而篇第七(その8)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。

【原文】

子曰、「不憤不。不悱不發。舉一隅不以三隅反、則不復也。」

【読み下し】

いはく、いきどほらばひら

もだらばあか

ひとすみこれしめすも、すみもちゐしてかへさば、すなはわれふたたび

【訳】

先師がいわれた。

「私は、教えを乞う者が、先ず自分で道理を考え、その理解に苦しんで歯がみをするほどにならなければ、解決の糸口をつけてやらない。また、説明に苦しんで口をゆがめるほどにならなければ、表現の手引を与えてやらない。むろん私は、道理の一隅ぐらいは示してやることもある。しかし、その一隅から、あとの三隅を自分で研究するようでなくては、二度とくりかえして教えようとは思わない。」

『論語』全文・現代語訳

************************************************************************************

 

 昭和の終わりの年、大学を卒業して銀行に入行した私は、研修を終えて融資係に配属となった。その時の上司は、先輩たちの間でも有名な厳しい上司で、私も最初からそんな有名人の下に配属になるなんてと我が身を嘆いたものである。そしていざ配属となると、その上司は確かに厳しく、今で言えばパワハラに楽勝で該当する行為もあった。しかしその一方、仕事は確かにできる人で、指導内容も間違ったことはなく、学ぶことも多かった。そんな上司の教えの中で、今でも印象に残っている言葉は、「仕事は盗め」であった。


 昭和の時代では当たり前だったのだろう。似たような話は至る所で聞いたものである。ただ、私はそれに素直に反発し、「教えた方が早いじゃないか」と思ったものである。盗むなんて非効率だ、と。しかし、「教えられたものは忘れる、盗んだものは忘れない」(すきやばし次郎)という言葉があり、これも真実であると思う。ある料理人は夜中に事務所に忍び込んで先輩のレシピを盗み見たというし、料理人は調理を終えた鍋に直ぐに洗剤を入れて舐められないようにしたとか。誠に非効率な世界である。


 職人であれば腕一本で生きていく部分があり、それを支える自分の技術は「門外不出」という思いがあったのかもしれない。昔の武士の世界では、「一子相伝」というものもあったというが、技術に生きる世界ではそれもありなのかもしれない。しかし、サラリーマンはそんな職人とは違う。まぁ、事務的なところはマニュアルが整備されていたから、「盗め」と言ったのはそんなマニュアルの世界ではなく、「仕事のやり方」のような「個人的なノウハウ」だろう。


 学生時代、ラグビー部では、私はラインアウトの際のスローワーを務めており、ボールの投げ入れ方はかなり練習した。しかし、どうしても先輩Hのように美しいボールを投げ入れることはできず、私は先輩Hに教えを請うた。当時先輩Hは私と同じポジション。いわばライバルである。ライバルが自分と同じ技術を身につけたら、もしかしたら自分に代わってレギュラーになるかもしれない。にも関わらず、先輩Hはコツをあれこれと教えてくれた。それで私のスローイングの技術もかなり向上した。


 ライバルであるはずの後輩に余すことなく自分の技術を教えてくれたのは、もしかしたらそれを覚えたところで自分の地位は不動だという自信があったのかもしれない(事実、私は先輩Hからポジションを奪うことはできなかった)。あるいは私が技術を身につける頃には、自分は卒業だという計算もあったかもしれない(それもその通りであった)。いずれにせよ、私のスローイングの技術は見ただけでは身につけられなかっただろう。「盗む」のには限界もあるのである。学生スポーツのように時間制限のある場合は特にそうである。


 しかし、「教えられたものは忘れる、盗んだものは忘れない」のも事実だと思う。その理由はたぶん「思い」であろう。「どうしてもそれを覚えたい」という思いである。私も先輩のようなスローイング技術を身につけたいという思いがあった。だから一言一句教えてもらったことを聞き逃さないようにという思いで習った。スローイングの技術を身につければレギュラー獲得に有利に働くという思いもあったが、そうではなくて、ただ「教えてやるよ」と言われていたら、真剣に覚えようとはしなかったかもしれない。


 暗い受験生時代、必死に勉強していた私が心がけていたことの一つは、「安易に答えを見ない」であった。考えて考えて考え抜いてそれでも解けない時、悔しい気持ちのまま回答を見るのである。その時、解法を見て「ああ、そうだったんだ〜」と悔しく思うと、それが記憶に残るのである。安易に答えを見てしまうと、後で似たような問題が出た時に、「あれ?あの時なんて書いてあったかな?」となる確率は高かった。「盗む」「盗まない」ではなく、解答に対する言わば「飢餓感」が大事だと言えるのかもしれない。


 そういう飢餓感を持っている人間に対して教えるからこそ、深く身につくものだと言える。そういう飢餓感がない者に対しては、いくら親切に教えたとしてもするりと記憶のひだから漏れ落ちてしまうのかもれない。教える立場の人間からすると、安易になんでも教えるのではなく、そういう飢餓感を持たせるようにするのがいいのかもしれない。人は隠されたものは見たいと思う。ギリギリまで隠すのも教えるテクニックかもしれない。


 あの厳しかった上司は、今どうしているのだろうか。当時は大嫌いだったのに、今になってみると妙に懐かしく思い返されるところがある。果たして自分は部下からどんな上司に見られているのだろうか。こと教えることに関しては優しく教えるだけではなく、うまく隠して部下に飢餓感を持たせることのできれば、教えるのが上手い上司ということになるのかもしれない。そんな教え上手な上司になりたいと思うのである・・・


Gerd AltmannによるPixabayからの画像 


【本日の読書】

 



2023年4月18日火曜日

部下を育てる

 先日の事、会社で利用しているあるセキュリティ機器が老朽化してきているので更新したいと担当者が相談に来た。それももっともなので、見積もりを取るように依頼したところ、2パターン用意してきた。1つは従来の範囲のもの、もう1つは従来よりも範囲の広いものであった。値段はもちろん後者の方が高い。そこで両者の内容を確認し、どちらがいいかと尋ねたところ、「業者は後者をお勧めしています」とのこと。そこで「あなたはどちらがいいと思うか」と問うたところ、不意をつかれたのか、少し躊躇して「後者がいいと思います」と答えた。

 このパターンになると、ついつい私もツッコミを入れたくなる。「なぜそう思うのか?」と続けると、「今は後者の方が主流だという話ですし、セキュリティも後者の方が高いです」と答える(値段ももちろん高い)。「なぜ主流の方がいいのでしょうか?」「なぜセキュリティが高い方がいいのでしょうか?」と私も続ける。意地悪のようであるが、「なぜ、なぜ」を繰り返すと物事の本質が見えてくるというのはトヨタ流の改善で有名になった考え方である。担当者も最後は「そりゃぁ、高い方がいいのでは」と呆れたように答えてきた。

 そこで、「なぜここまでのセキュリティの高さが必要だと思うのか?」、「今のセキュリティでどんなリスクに晒されているのか?」と畳み掛ける。ここに至ると担当者の口ぶりも怪しくなってくる。「今はいいかもしれませんが、いずれ・・・」とまだ頑張って答えてくる。「いずれどういう状況が予想されますか?」「その時になって我が社の状況がそこまでリスク管理が必要な事業内容に変わるということでしょうか?」と問う。ここまできてようやくギブアップとなる。

 セキュリティはもちろん、高いのに越したことはない。より安全度が高まるわけである。しかし、それが「過ぎたるもの」である必要はない。年末に町内会で火の用心の見回りが行われているが、その時に防弾ベストなどいらない。そんなの用意するのも大変だし、何より邪魔である。業者の勧める一歩先進のセキュリティも、安全性は高まるだろうがその分余計な手間も増えたりする。何よりそこまでセキュリティを高める必要性が我が社にはない。他所の会社は知らないが、少なくとも我が社には不要である。

 ここで明らかになったのは、担当者が何も考えていないという事。なぜ最初の段階で前者と決めて指示しなかったのかと言えば、それは考える訓練のつもりである。かの担当者は、日頃から言われたことはきちんとこなし、その仕事の質も高いが、その反面自分で考えるという事をしない。今回も業者の勧めるままそれをストレートに私に伝えるだけである。単なるメッセンジャーである。これでは良くないと思い、せめてもう少し自分で考える習慣をつけてもらおうとあえてイジワルしたのである。

 業者も商売であるから、よりセキュリティ度の高い(お値段も高い)ものを勧めてくる。その際、担当者であっても自分で一旦考えないといけない。業者から言われたままを伝えるのではなく、まず自分で考え理解し、自分の言葉で(自分の考えとして)上司に説明する必要がある。そういうスタンスをまず身につけてもらいたいと思うし、その上で「本当に必要なのはどこまでか」を見極める必要がある。もちろん、そこにはさらにコストという面もある。コストもかければいいというものではない。

 上司はもちろん、それをすべて勘案した上で決定を下すのであるが、それをすべて勘案し、あとは上司が「うん」と言うだけにして提出すれば部下としては完璧であり、そうなればその部下はいつ昇格してもやっていけるということになる。また、上司の立場にある者も、部下がそういう方向に進むように導かないといけない。それでいて部下の成長もあるのである。上司も仕事のやり方1つで部下の育成ができるのである。

 今期より我が社も社員の育成に努めている。社員を育てられる上司を私も意識していきたいと思うのである・・・

Ian LindsayによるPixabayからの画像 

【本日の読書】

 


2023年4月13日木曜日

就職

日本経済新聞社と就職情報大手マイナビが、来年3月卒業予定の大学生・大学院生の約4万1200人に聞いた就職企業人気ランキングを発表した。

<文系総合 人気上位>      <理系総合 人気上位>

1位( 3)ニトリ        1位( 1)ソニーグループ

2位( 1)東京海上日動火災   2位( 2)味の素

3位(19)JTBグループ    3位( 8)三菱重工

4位(13)ファーストリテ    4位( 7)Sky

5位( 5)伊藤忠商事      5位( 4)NTTデータ


************************************************************************************ 


 8年前にやはり就職人気企業ランキングについて思うところを書いたが、その時からガラリと変わっている。当時と同じなのは、伊藤忠商事と東京海上日動火災だけである。世相というのか、その時々で変わっても別に不思議ではないが、面白いものだと思う。自分がもし今学生に戻って就活するとしたらどうするだろうか。なんとなく仕事的には商社が面白そうな気もするが、面白そうな中小企業を探すかもしれない。外資系なんかも面白いかもしれないなどと漠然と思う。


 私が大学を卒業して銀行に入ったのは、弁護士になろうと法学部に入ったのに、法律が肌に合わないと4年になってわかり、慌てて方向変換したからである。何にもわからないままあたふたするより、銀行だったら将来辞めてもどこかの経理部長くらいにはなれるだろうと安易に考えたからである。「経理部のない会社はない」と考えたからであるが、結局、今はそれでシステム開発会社というまったく畑違いの会社の総務部長(経理も人事も込みの総務部である)に収まることができたのであるから、正解だったと言える。


 現在、娘がこの春から大学4年になって就活をしている。と言っても公務員志望であるらしく、毎日公務員試験の勉強に余念がない。公務員と言えば、今でも「親が子供に望む職業」として根強い人気を誇っているようであるが、我が家では別に親が望んだわけではない。娘はのんびりした性格だから、民間であくせく働きたくないと思っているのかもしれない。まぁ、今はなんでも自由に職業を選べるのだから好きなようにすればいいと思う(試験に受かれば、の話ではあるが)。


 そう考えると、我が父はそんな選択の自由などなかったから、気の毒に思う。父は中学を卒業して就職したが、それはたまたま東京に親戚がいてそこで働くという友人に誘われてのもの。故郷の長野県に残れば大工になっていたらしいが、そうして友人と一緒に東京に出てきて住み込みで働き始めたのが印刷屋。以来、印刷工として職業人生を送る。途中で独立して自営業になったが、「腕はいいけど商売は下手」という典型的な職人で、苦労もあったようだが、70歳で無事リタイアした。


 父にとっては、職業の選択など大工か印刷工かの二択しかなく、私も就活の時にずいぶん悩んだが、そういう悩みがなかったのが良かったのか悪かったのか。それでも選択肢はある方がやはり幸せなのだと思う。今と違って労働基準法などあってなきが如しの時代で、過剰労働で今で言う鬱になって半年間の休職を余儀なくされたという。それでもやめるという選択肢はなく、半年後にまた復帰する。朝6時に起きて着替えるのもそこそこに仕事に就き、夜は12時まで働いたと言う。


 私も銀行員時代はいろいろと大変であったが、それは主に人間関係の部分が大きく、父のような過重労働に悩まされたことはない。大学まで行かせてくれた両親のおかげであると改めて感謝したいところである。ただ、そういう話は娘にする機会もなく、当たり前のように大学に行き、好きなように就職を選び(公務員試験に受かるかどうかは別として)、それが当然だと思っている娘には(そのうち息子にも)、祖父の話を語って聞かせたいと思う。


 中小企業である我が社にもこの春8人の新人が就職してくれた。大学生2名と残りは専門学校生である。よくぞ無名の中小企業を選んでくれたと思うが、そんな彼ら彼女らの期待には応えたいと思う。気がつけばいつの間にか選ぶ側から選ばれる側になっている。就職ランキングなどとはまったく縁のない我が社ではあるが、入社後の満足度では劣らないようにしたいと思うのである・・・


PexelsによるPixabayからの画像 

【本日の読書】

  




2023年4月9日日曜日

結婚

  いつもチェックしているメールマガジンには「名言コーナー」がある。先日目にしたのは、

「男は結婚により女の賢を知り、女は結婚により男の愚を知る(長谷川如是閑)

というもの。思わず、なるほどと思う。男も女も恋愛期には互いにいいところしか見ないし見せない。しかし、結婚すると一緒に住むのですべてが見える。女は基本的に守りに入る。子どもを産み育てるという女の本能からすれば当然なわけで、それは「堅実」の一言に表される。ところが男はそうではない。


 男は結婚によってそれほど大きく生活が変わるわけではない。せいぜいが身の回りの世話をやってくれる人ができることぐらいだろう。基本的に変わらないから堅実も何もない。それに感覚も女とは違う。掃除なんかしなくても別に平気だし、そもそも美的感覚も違う。考え方も楽観的だし、計画性もいい加減だ(もちろん人にもよる)。ざっくり言って男はバカだと言っても過言ではない。そんな男と女の結婚をうまく言い得ているなと思う。


 我が国では少子高齢化が大きな問題として採り上げられている。そのうち少子化の原因として「晩婚化」「非婚化」が言われている。私も「30歳までは結婚しない」と思っていたし、現に結婚したのは31歳であるから決して早くはない。なのでそういう晩婚化の傾向はわからなくもない。ただ、「非婚化」はどうなのだろうと思う。みな生涯独身を本当に望んでいるのだろうか、それとも「できない」のだろうか。


 先日、我が社の新入社員に「将来結婚したい人?」と尋ねたら、手を挙げたのは半分だった。まあ、20歳そこそこの若者にまだ明確な意識はないのかもしれない。結婚はしないという考えの人はもちろんいると思うし、それは個人の自由なので他人がとやかくいう事ではないが、国として問題なのは「結婚したくてもできない人」だろう。何とかしないといけないとしたらこの人たちだろう。


 しかし、と一方で思う。「結婚したくてもできない人」って一体どんな人なのだろう。私が思うに(私は男だから男に限定して考えるが)、それは考え方・意識の問題であると思う。本当に心から結婚したいと思っているのなら、できない事などあり得ないと思う。「そんな事はない」という人は、本当に真剣に女性を口説いたことがあるのだろうかと思う。イケメンであろがなかろうが、本当に真剣に口説けば結婚など簡単にできると思う。

 

 私の銀行員時代の同期で、「これと決めたら絶対に結婚できる」と豪語する男がいた。学生時代は柔道をやっていたその男は、お世辞にもイケメンとは言えず、むしろガサツで合コンでは絶対モテないタイプである。それがそんな大言壮語を吐くので理由を聞いてみたところ、「だって俺の人生すべて捧げるもん。世の中の女すべてを口説く事はできないけどたった1人ならできる」という答えであった。「そうかもしれないな」と妙に納得したのである。


 一般的に女性が男を好きになる基準は、「自分を大切にしてくれるかどうか」だと言う。結婚する前に知りたかったと思うが、そうであれば他には見向きもせず一途にアタックすれば、かの同期が言う通りどんな女性でも1人だけなら口説けるのかもしれない。考えてみれば、かつて草食系などという言葉があったが、おとなしくてはっきりと女性にアタックできない男は、そもそも結婚どころか付き合える可能性すらもないと言えるかもしれない。結婚したいのにできないという男は、そういう自分の思いのすべてをぶつけられない男なのかもしれないと言える。


 もっとも、結婚すればいいというものでもない。結婚はお互いに育ちも考え方も違う2人が、一時の熱狂のまま勢いでするもので、時間が経てば愛情も冷め、互いの欠点も目につくようになる。そうして夫婦の危機が訪れるわけであるが、そこをうまく乗り越えればいい夫婦になるし、妥協すれば仮面の夫婦になる。我慢できなくなれば別れることになるし、結婚がハッピーエンドというのはヨーロッパのおとぎ話の世界だけの話である。


 互いにその賢を知り、愚を知り、その上で妥協ではなく仲の良い夫婦になれるかは、相手次第なのかもしれない。結婚できる方法はアドバイスできても、そういう相手を見極める方法は、しくじった経験からしてもいまだわからない。結婚は簡単にできたけど、夫婦で末長く仲良くする方法があったら教えて欲しいと思うのである・・・


StockSnapによるPixabayからの画像 

【本日の読書】

 




2023年4月6日木曜日

論語雑感 述而篇第七(その7)

 論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。

【原文】

子曰、「自行束脩以上、吾未嘗無誨焉。」

【読み下し】

いはく、

つつしみてみそぎおこなふにるをもちゐるうへは、

われいまかつをしふることくんばあらざるなり

【訳】

先師がいわれた。

「かりそめにも束脩(そくしゅう)をおさめて教えを乞うて来たからには、私はその人をなまけさしてはおかない。」

『論語』全文・現代語訳

************************************************************************************

 「束脩」とは、「入学・入門の際に弟子・生徒が師匠に対して納めた金銭や飲食物」のことであり、「脩」とは、元は干し肉の束10組のことを指し、古代中国において入学・入門時に師匠に謝礼として納めた風習があったという事らしい。現代風に言えば「入学金」という事であろうか。そうした「入学金」を払った生徒に対し、「怠けさせない」というのはある意味では当然とも言えるが、そうも言えないところもあるかもしれない。


 そもそもであるが、お金を払って教えを請う訳であるから、生徒の方がむしろ怠けないものであるべきである。そうでなければお金を払う意味などない。払った以上に吸収しようと貪欲に思っても当然であると思う。私などはそう考えるクチである。それゆえに先生に「怠けさせておかない」などと言わせないと思ってしまう。逆に先生の方からしたら、お金をもらっている以上、教えはするが、その程度も本人次第とするもののようにも思う。


 そんなことを考えていると、思い出すのは学生時代の家庭教師のアルバイトである。卒業する先輩から紹介されて引き継いだのは歯医者の息子。典型的なお金持ちのボンボンである。そして絵に描いたように勉強が好きではない。けれど、当然「お世継ぎ」の立場にあるわけで、親としてはお金をかけてでも勉強ができるようにしたいと思うものだろう。それを裏付けるが如く、アルバイト料は破格であった。時給は当時家庭教師紹介センター経由のバイト料の2倍超であった。


 週2回の割合で歯医者の医院と一体になったご自宅を訪問し、私の家の部屋よりも広い勉強部屋で勉強を教えた。何を教えて欲しいかは本人の選択。当時は数学が中心だった。しかし、教え始めて間もなく、ご本人にやる気がないのが手に取るようにわかった。こちらが熱心に教えてもどうにも身が入っていない。初めは私も破格のバイト料に応えるべく熱心にやったが、やがてバカらしくなってしまった。まるでシーシュポスの気分だったのである。


 そのうち、適当にやるようになってしまった。準備なんかも当然しなくなった。途中で休憩時間に差し入れられるケーキを楽しみに行っていたと言っても過言ではない。幸いにもなんとかそこそこの高校に合格し、感謝されてしまったが、当時の私には孔子のような立派な考えはなかったのである。今ならどうだろうか。おそらく、やるからには全力を尽くすだろう。相手にその気がなければその気にさせるだけである。まずは勉強よりもいろいろな話をするところから始めるだろう。「なぜ勉強するのか」とか、「勉強したいかどうか」とか。


 まずは勉強する土台造りから始めないとと思う。そして成績もずっと上がるようにやり切ると思う。お金をもらう以上、結果にこだわって「怠けさせない」のではなく、極端に言えば「怠けても結果を出す」ようにである。それは35年の間に身につけた「プロ意識」かもしれない。「お金をもらう以上、何としてでも結果を出す」という意識である。当時の自分にはなく、今の自分にあるのはそういうプロ意識。今にして思えば、あの子には申し訳なかったと思う(一応、希望していた高校の一つには合格できたのだが・・・)。


 お金をもらう以上、たとえそれが少額であったとしても、きちんと結果を出すのがプロである。そう言うと、「自分はプロではない」という言い訳をする人がいるかもしれないが、ここで私の言うプロは、「お金をもらって仕事をする人」である。そういう意味で、アルバイトでもパートでもプロである。お金をもらう以上は成果を上げないといけない。金額に不満があるのなら最初にきちんと交渉し、嫌なら断ればいい。嫌々ながらでも引き受けた以上はベストを尽くすのが、お金をもらう上での義務である。


 ビジネスマンであれば、給料に不満を言うのは筋ではない。もらう以上はいくらであろうと成果を出すのが当然であり、不満があるなら堂々と成果を挙げた上でそれを主張して上げて貰えば良い。上げてくれないのであればそこを去ればいい。去れないのであればそれが己の稼ぐ力の限界なのであり、納得するしかない。不満タラタラでベストを尽くさないのは、そもそもそういう価値しかない人間だとしか言いようがない。

 

「束脩」を得たならば、己を怠けさせない人間でなければいけないと思うのである・・・

 

PublicDomainPicturesによるPixabayからの画像 

 

【本日の読書】
 




2023年4月1日土曜日

ニュースは大事

 世の中はスマホの爆発的普及によってすでにネット社会に突入している。その中で「紙の文化」はだいぶ形勢が悪くなっている。先日観たドラマでは、ある就活生が新聞を読まないことを咎められ、「ネットで見ている」と抗弁していたが、それが若い人の感覚なのかもしれないと思う。事実、採用面接の現場で応募者に対し、「最近印象に残ったニュースは」という質問をし、そのソースを尋ねたところ、「Twitter」「Yahoo!ニュース」という回答ばかりであった。

 私は、と言えば、毎朝会社に出社してまず紙の日経新聞を読むことから1日をスタートさせている(もちろん、その分早く出社している)。それは私が「昭和世代」だからとも言えるが、実は日経新聞電子版も併用したことがあるが、見やすさという点では紙の方がはるかに優っているからである。電子版でも同じ記事は読めるが、「見え方」が違う。電子版はクリックして進まなければならないが、紙は広げればいくつかの記事がまとめて目に飛び込んでくる。併用していた時期には、紙の記事で読んだ記事を電子版では見落としたことがしばしばあって、併用はやめたのである。

 ちなみに、通勤電車で読んでいる本も紙が中心である。Kindleも導入していて、電子書籍を購入して切り替えようかと思った時もあったが、本のブログに感想を載せる際、後から読み返す時に紙の方が圧倒的に振り返りはしやすいのである。電子書籍にも付箋機能などはあるが、付箋をつけなかったところを探す際にはどうしても手間がかかる。そうした手間を必要としない漫画に関しては、今はほとんどすべて電子書籍にしているから、単に紙フリークというわけではない。あくまでも「比較の結果」である。

 「紙がいいかネットがいいか」という比較論はナンセンスで、「どちらがいいかはケースバイケース」であると個人的には考えている。ただし、ニュースの場合、TwitterYahoo!ニュースが扱うのは主として社会面的なニュースであり、社会人が教養として読むべき日経新聞的なニュースという意味では内容的に劣るのは確かである。私ももともとマスコミなど頭から信用していないが、日経新聞的なニュースに関しては目を通すようにはしている。

 学生ならともかく、就活生となれば、そして社会人となれば、目を通すべきニュースも選ばないといけない。それを紙にすべきだとまでは言わないが、三面記事ばかりでない世の中のニュースに触れるのも社会人としての大事な嗜みであると思う。ちなみにこの「最近気になったニュースは?」という質問は個人的に気に入っていて、面接の機会があれば聞くようにしている。これによって個人の興味・関心・考え方などが窺い知れるのである。もちろん、ニュースを見ていないということも含めてである。

 思い起こせば、私も社会人になった際、日経新聞を読めと言われて購読を始めたが、初めて自分の給料で購読したのが日経新聞である。それまで実家で購読していた読売新聞とは構成から違って初めは違和感を感じたものであるが、その後すっかり慣れたものである。特に『私の履歴書』はお気に入りで、欠かさず読んでいる。基本的にマスコミを信用していないとは言いながら、新聞は読むべきだと言うのは大いなる矛盾である。しかし、ニュースはマスコミ頼りになるのは仕方がない。あとはそれを無思考で受け入れないようにするしかないと考えている。

 そうして新聞を読むことによって何が違うのかと言えば、それは世の中の動きを知ると言うことに他ならない。世の中で何が話題になり、問題になっているのか。それを知らずして社会の中で働いていくというのもおかしい。教養と同じで、なくても働けるかもしれないが、底が浅いと思われてしまうのは確かであろう。読んでいればいいというものではないが、読んでいないとビジネス・パーソンとして一段低く見られてしまうと思う。少なくとも信頼は得られないように思う。

 今後、電子版がどのくらい発達するのかはわからない。当然、紙を凌駕していくのだろうが、今のところ新聞を見開いた時に一気にタイトルを一覧できるという利便性では紙に一日の長があるように思う。ただ単に慣れているから見やすいだけなのかもしれないが、今のところはまだまだ紙の新聞を重宝していきたいと思う。いずれ紙のように見やすい電子版ニュースが出てくるのかもしれないが、ニュースを読むという本質は我が社の新入社員にはきちんと伝えたいと思うのである・・・

Hands off my tags! Michael GaidaによるPixabayからの画像 

【今週の読書】