2022年1月30日日曜日

サイレント・トーキョーに見る交渉力

 年末の大晦日。趣味としている映画鑑賞で2021年最後の映画に選んだのは『サイレント・トーキョー』であった。なぜこの映画だったのかについては深い意味はない。溜まったリストの中からランダムに選んだだけの話である。強いていえば、昨年話題になっていたのと、佐藤浩一、石田ゆり子、西島秀俊という豪華出演陣に惹かれたというところであろう。

 ストーリーは、ある人物が右傾化していく日本の行く末を案じ、爆弾テロを通じて国政の変革を図ろうというもの。時の首相がテレビで演説し、周辺国の脅威に対し、自衛のために戦争のできる国になるという決意を述べている。我が国の現状もまだそこまで行っていないが、尖閣諸島を巡る中国からの圧力下にある中、荒唐無稽な話とも言い切れない。そんな中、テロリストはその首相とのテレビでの1対1の討論を要求する。身代金ではなく、「討論」の要求というところが面白い。

 犯人は海外の紛争地帯での支援活動で命を落とした自衛官の身内の者。平和への思いから、日本の右傾化を憂いてストップをかけようとしている。ストーリーはフィクションなので文句を言うのも筋違いだが、犯人の考えのおかしさを真面目に考えてみた。まず、自らの要求(1対1のテレビ討論)を通すための手段として爆弾テロを選択したわけであるが、これは素人目にも逆効果である。要求に応じれば、「テロに屈した」という印象を与えてしまうゆえに首相としても要求を飲みたくても飲めない。こういう相手の飲めない要求を出すのは、交渉においては意味がない。

 政府がテロに屈するわけにはいかないというのがなぜ悪いかと言えば、模倣犯を招くからだろう。欧米諸国がハイジャックなどの際に断固として要求を拒否するのもこの理屈。揺るぎない姿勢を示せば、犯人側も次は別の手段を講じなければならず、結果としてハイジャックを防止できる。また、爆弾テロで犠牲者が出れば、世論は犯人憎しで固まってしまう。当然、首相の支持率は上がり、結果として右傾化政策を後押しすることになる。相手を利する行為は意味がない。

 さらに仮に要求が通ったとしても、討論で首相に右傾化をやめろと言ったところでこれも難しい話である。それは日本一国の判断では決められない問題でもあるからである。現在の状況に置き換えてみると、我が国は中国から尖閣諸島奪取の猛烈な圧力を受けている。頼みの綱は日米安保条約で、これに尖閣諸島が含まれるとアメリカに言ってもらって大喜びしている有様である。だからこそ中国も迂闊に手は出せないでいる。アメリカの力が弱まったら危ない。

 ではこれで安心かと言えばそうではない。アメリカはこれに恩を着せて日本に様々な要求を出してくる。思いやり予算で駐留費の一部を負担させられ、べらぼうに高い兵器を買わされる。イラク戦争などへの共同出兵はなんとか憲法を盾に断れたが、台湾については「台湾における平和と安定というものが日本に直結をしていると考えている」と政治家がそう発言せざるを得ない状況に置かれている。アメリカのご機嫌を取らなければいけない状況下、「平和が一番」など言って軍事活動から身を引くことはできないだろう。

 総理大臣が置かれているそういう立場を無視して、討論で右傾化をやめろと納得させることは難しい。もしもそう言いたいなら、そもそもの中国からの圧力という問題をどう解決するのかという代替案を示す必要がある。そうでなければ総理大臣も「うん」とは言いたくとも言えない。交渉には必ず相手に選択肢を残さないといけない。相手が飲めない要求を出しても無駄なだけである。ビジネスの現場では、事前に相手の状況(こちらの要求を飲めるか飲めないか)を把握しておくことが望ましいのはそういう理由である。

 さらには相手に対して何が有効かも大事である。総理大臣であれば、それは一つには世論だろう。支持率が低迷すれば次の選挙が危ういし、党内での立場も然り。それを考えれば世論を味方につけなければ交渉は優位に進められない。映画の犯人は、それに対して爆弾テロの脅威を利用したのだろう。次にどこが爆破されるかわからないし、そうなって自分や家族が犠牲になるのは叶わないので早くなんとかしろという圧力でも働くと考えたのかもしれない。ただ、安易な妥協は次の批判に繋がるわけで、そのあたりも考えないといけないだろう。

 映画は結局、テロによる交渉が成功することもなく終わる。犯人は金目当てではなく、見方によっては、自分のような被害者が出ないようにと我が国の将来のためを思っての行動だったのかもしれない。しかし、結局己の一方的な感情だけで、しかも爆弾による犠牲者まで出して犯行に及んでいるわけであるで同情には値しない。動機的にはともかく、方法論としては誠に拙いものであった。政治的な意見を持つのは大事であるが、ただ自分のことだけではなく、世の中のことも考えるのであれば、その手法も世の中の支持を得られるものでなければならない。

 映画を観ながらそんなことを考えたのである・・・



【今週の読書】
 



2022年1月27日木曜日

喧嘩は悪いことか

電車内でたばこ注意され高校生暴行 下野署が傷害容疑で28歳男逮捕
(栃木県警)下野署は24日、傷害の疑いで宇都宮市、飲食店従業員の男(28)を逮捕した。逮捕容疑は23日正午ごろ~午後0時15分ごろ、JR宇都宮線の雀宮-自治医大駅間を走行中の電車内などで那須塩原市、高校2年男子生徒(17)に暴行し、右ほお骨を折るけがをさせた疑い。
下野新聞SOON
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 なんとも不愉快なニュースである。電車内でタバコを吸っていた男に対し、注意をした高校生が逆ギレされて殴られて怪我をしたと言う。とんでもない男である。既に逮捕されたらしいから、それはそれでよかったと思うが、暴力というのは日常生活に密接しているリスクなのだと改めて思う。直接被害に遭わなくとも、見知らぬ他人同士が怒鳴り合っているのを目にするのはしばしばである。誰であれ、いつ何時被害に遭うかわからない。果たして自分がその場に居合わせていたら、あるいは高校生の自分の息子がその場にいたら、親としては息子にどう行動せよと言うべきだろうかと考えてしまう。

もしも、自分が居合わせたら。
これは私も経験がある。まだ学生時代のこと、やはり電車内でタバコを吸おうとした男に対し、注意してやめさせたのである。実に勇気ある行動と言いたいところだが、実はきちんと計算していた。その男は酔っており、しかも老齢であった。「喧嘩になっても勝てる」という計算があったからこそ注意したのである。むしろそれで逆ギレしてきたら、「待ってました」と返り討ちにしていたかもしれない。もしも屈強な男だったら、見て見ぬ振りをしていたかもしれない。

 今回のようなケースであればまずスルーしていただろうと思う。そもそも電車の中は禁煙であるのは誰もが知っているはず。それにも関わらずあえて吸っていたというのは、その時点でどこかまともではない。野良犬と同じで、注意をすれば大人しく従うより噛みつかれる可能性の方が高い。まず100%喧嘩になるのは予想できることであり、例え殴り合いになって勝ったとしても無傷では済まないかもしれない。「君子危うきに近寄らず」が正解だと思う。JR宇都宮線となれば、車両はガラガラだったはず。他の車両に移れば済む話である。あえて火中の栗を拾うこともあるまい。ずるい大人の冷静な判断である。

 しかし、この高校生は勇気を出して注意したわけで、その場にいたらさすがに見て見ぬ振りはしなかっただろう!(たぶん、いやきっと、そうなんじゃないかな・・・)。自分が周りにいる大人の立場だとしたら、止めに入ればまず火の粉が飛んでくる事は覚悟しないといけない。ただ、都心の通勤電車は意外と止めに入る人が多いのも事実である。この高校生も都心の通勤電車だったら良かったのかもしれない。ただ、止めに入るのも巻き添えを食う覚悟がいるのも事実である。

 では、我が息子にはなんと指導すべきだろうか。 
 やはり「君子危うきに近寄らず」は第一であるが、「義を見てせざるは勇なきなり」もまた事実である。まずは冷静に周りを見渡すことを教えるだろう。あえて火中の栗を拾えとは言わなくとも、降りかかる火の粉は払わねばならない。例えば彼女と一緒にいる時に絡まれたらどうすべきか。男子たる者こういう場合は、たとえ負けても立ち向かっていかなければならないが、下手にやって大怪我を負う場合もある。男であれば殴り合いの喧嘩ぐらいできないと、とは思うが、息子にそれをどこまで求めるかは難しいところである。

 私も中学生の頃までは、喧嘩におびえるか弱い少年であったが、高校に入ってラグビーを始め、なんとか恐怖心を取り除くことができた。学生時代は血気盛んで、街で喧嘩をしたこともある。今でもちょっとした喧嘩ぐらいであれば怖くはない(ただし、冷静に勝てる相手かどうかは見極める)。されどそれも怖いところはある。下手に喧嘩して、お互い鼻血くらいで済めばいいが、打ちどころが悪くて昇天などとなれば、たとえ生き残った方だとしても社会的な制裁は人生を破壊する。

 暴力などなければいいが、悲しいかな人間は本質的に暴力的な本能があるのだと思う。よほど相手が屈強な男でない限り、喧嘩っ早い人間はすぐに暴力という手段に訴えるものである。ちなみに「屈強な」というのは、別の言葉で言うと「抑止力」となる。国家間の喧嘩と言える戦争が、核兵器という「抑止力」が登場したことによって収まったのと同じ理屈である。宇都宮線の男も相手が高校生ではなく、ガタイのいい筋骨逞しい男だったら絡まなかったかもしれない。

 息子には何か格闘技を習わせようかと思ったこともあったが、結局させぬまま来てしまった。それで良かったのかとは改めて思う。積極的に世の中の悪を断つようなことはしなくてもいいが、「降りかかる火の粉は払え火事の空」で、身に降りかかる理不尽な暴力に関しては、自ら身を守れるだけの力は備えていたい。いずれどこかで息子もそういう事態に遭遇するだろうし、その時理不尽な悔しい思いをすることがないようにしてあげたいとも思う。それが具体的にどうすることかは今のところハッキリとはわからないが・・・

 優しい男であることは必要であるが、いざとなったら喧嘩ができるという度胸は、暴力だけではなく仕事の場でも有効だと思う。上司の理不尽なパワハラを跳ね返せるのも一つはこの度胸でもあると自分の経験上思う。実際に手を出したらまずいが、「いざとなれば」という自信が堂々と意見を述べる力になるのもまた事実である。「喧嘩ができる」というの自信は、実際に殴りあうという意味ではなく、男に勇気を奮い立たせる原動力になるのである。

 これから老いて力が衰えていく我が身ではあるが、それでもやはり「喧嘩ができる」という気持ちは維持していきたいし、息子にもどこかでそういう男になるように教えたいと思うのである・・・

Iván TamásによるPixabayからの画像 

【本日の読書】
 


2022年1月23日日曜日

人は考え方でできている

 人は考え方でできている、とつくづく思う。その人がどんな人なのかは、イコールどんな考え方の人なのかと言える。人生は選択の連続であり、場面場面でどんな選択をするのかはその人がどんな考え方をするのかによって異なる。したがって、同じ環境にいたとしても、人によってまったく違う結果になるのも当然のことと言える。イチローがなぜあれだけの選手になれたのかと言えば、そのような考え方をしてきたからであり、同じ考え方をしていれば誰でもイチローのようになれるはずと言っても過言ではないと思う。

 仕事でも考え方の違いは如実に現れる。私は総務部に所属しているが、会社の問題点に対する解決策をよく提言している。それは必ずしも総務部の範疇にある事ばかりではないが、会社全体に関わることは自分にも多かれ少なかれ関わることだと「考えている」ので、そうすることが自然なのである。だが、「それは総務の仕事ではない」と言ってしまえばそれまで。そしてそんな提言をしなくても何ら非難されることはない。「余計なことはしないでおこう」と「考える」のも考え方である。

 そして会社が現在置かれた状況からさらに発展していくために必要なことと思われることを提案したところ、問題点を次々と指摘された。それ自体悪いことではない。ただそれが、「だからダメだ」となると如何かと思う。「問題の中に解決策を見出す人」と「解決策の中に問題を見出す人」とがいるとしたら、自分は前者でありたいと思う。問題点を無視する訳ではないが、そもそも根本的な問題があって、それをどうするかという中で出て来た解決策である。それを問題があるとしてやらなければ、そもそもの問題は解決されないままである。マイナス面ばかり強調するのではなく、「メリットと比較してどうか」が大事である。これも「考え方」である。

 折りからの人手不足もあり、パートさんに出勤日を増やしてもらおうと考えた。そこで出てきたのが「103万円の壁」である。扶養家族である主婦の収入が増えると、ご主人の扶養控除の対象から外れ、ご主人の所得税が上がってしまうという問題である。しかし、これも「考え方」である。主婦の収入が増えれば、扶養控除から外れてしまったとしても2人を合わせた家計の収入の総額は増えるのである。社会保険が変わる「130万円の壁」も同様である。闇雲に世間で言われていることを真に受けるのではなく、自分で計算してみるなりして考えてみることが大事である。

 勉強ができる、できないというのも「考え方」だと思う。授業を真面目に聞く・聞かない、家に帰って予習復習をする・しない、わからないことがあれば質問する・放置する、それらについて「どう考える」か。私の場合、「言われたこと(勉強)を真面目にやる」というよりも「自分の知らないこと、できないことを知りたい、できるようになりたい」という考え方だったため、比較的勉強は苦にならなかった。試験前に一夜漬けというのは嫌いでやりたくなかったから、普段から少しずつコツコツやる方を選んだ。そういう考え方で勉強をした。

 高校生の頃は将来サラリーマンにはなりたくなかった。それはサラリーマンというのは「指示されたことを奴隷のようにやる」というイメージがあったためだが、その考え方は今でも変わっていない。サラリーマンにはなったが、指示されて奴隷のように働くのではなく、自ら動く方を選んでいる。今では(頼まれてやる事ももちろんあるが)仕事はほぼ自分で考えてやるべきことを決めてやっている。だから仕事も楽しい。楽しくないという人は、どこかで考え方を変えてみるといいのではないかと常々思っている。

 バイトを始めた娘には、「もらうバイト代以上に働きなさい」と教えている。私自身、「給料分以上働く」という考え方でずっとやってきている。「バイト代以上働いたら損をする」というのも考え方だが、そういう考え方だといつまでもバイト代は上がらないと思う。「指示されてないからやらない」と考える支持待ち族になるか、指示がなくてもやる人になるか。「課長になったらやる」と考えている人と、「課長ではないけどやる」と考える人がいたら、次にどちらかを課長にしようと考えている人はどちらのタイプを選ぶだろうか。自分の器の大きさを決めるのもすべて「考え方」だと思う。

 こうした「考え方」はいくらでも後から身につけられる。遺伝で決まるものなら仕方がないが、そうではない。であれば、考え方次第でイチローのような存在になるのも夢ではない(もちろん時期にもよる)。早ければ早いほどいいだろうが、遅いからダメということでもないはず。それも「考え方」である。何をどう考え、どう行動するかでその人がどんな人になるか、どんな運命を辿るか決まる。社長に選ばれるのは(血縁で選ばれる場合を除き)、それに相応しい「考え方」のできる人である。

 自分の考え方がベストだと自惚れるつもりはないが、「考え方」はかくも大事だということは念頭に置いておきたいと思うのである・・・

mohamed HassanによるPixabayからの画像

【今週の読書】



2022年1月20日木曜日

論語雑感 雍也第六(その10)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。
【原文】
伯牛有疾。子問之、自牖執其手。曰、「亡之、命矣夫。斯人也而有斯疾也。斯人也而有斯疾也。」
【読み下し】
伯牛(はくぎう)疾(やまひ)有(あ)り。子(し)之(これ)を問(と)ひ、牖(まど)自(よ)り其(そ)の手(て)を執(と)る。曰(いは)く、之(これ)を末(うしな)はん、命(めい)矣(なる)夫(かな)。斯(こ)の人(ひと)也、し(や)而(て)斯(こ)の疾(やまひ)ある也(かな)。命(めい)矣(なる)夫(かな)。斯(こ)の人(ひと)也、し(や)而(て)斯(こ)の疾(やまひ)ある也(かな)と。
【訳】
伯牛が癩を病んで危篤に陥った。先師は彼をその家に見舞われ、窓から彼の手をとって永訣された。そして嘆いていわれた。―「惜しい人がなくなる。これも天命だろう。それにしても、この人にこの業病があろうとは。この人にこの業病があろうとは。」
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 およそ人の世は都合よくできていない。「なんでこの人が」とか、「なんでこのタイミングで」とか、そういう嘆きは世に満ち溢れている。肝心の大一番の試合を前にチームの中心選手が怪我をして試合に出られなくなったり、1年間一生懸命勉強してきた受験生が試験当日に熱を出してしまったり。それはやはり運・不運という言葉でしか説明できないものかもしれないが、時に神様を恨みたくなることも少なくない。伯牛という人もそんな不運に見舞われた人だったようである。

 孔子がこれほど嘆くという事は、伯牛という人はそれほど有能で高潔であったのだろうと推測される。というのも、人が他人から惜しまれるという事は、「能力」と「人柄」とがともになければならないと思うからである。一見、重要なのは「人柄」の方だとは思うが、スポーツや仕事などの組織目標がある場合は、「能力」も欠かせない。「人柄」だけでは組織目標を達成できず、その場合は「いい人」であることは好影響を与えない。伯牛という人もきっと世の中に、あるいはその周りの人に大きな影響を与えられる「能力」があるからこそ孔子に惜しまれたのだと思う。

 もちろん、「人柄」も大事である。たとえばチームの中心選手が、あるいは会社で仕事のできる人が、「このチーム(会社)はオレでもっている」と普段から天狗になっていたとしたら、チームメイトや同僚はいい気分がしないだろう。面と向かって反論はできなくとも、内心快くは思わないだろう。そんな傲慢な中心選手が大事な試合の前に怪我をして試合に出られなくなったとしたら、果たしてチームメイトは嘆き悲しむだろうか。もしかしたら、たとえ試合に負けたとしても心の通ったチームメイトとともに戦いたいと思うかもしれない。負けてもむしろ満足するかもしれない。

 一方、人柄はいいけどチームには貢献できないチームメイトがいて、当日の試合もそのチームメイトのミスでやっぱり試合に負けたとしたらどうだろうか。組織目標としての勝利は得られなくとも、私であれば「一緒に試合に臨んだ」という点をもって良しとする。ただ、そこではチームとしての成績は諦めないといけない。私のやっているシニアラグビーのように試合そのものを楽しめれば満足という事であればいいが、それでもやる以上はやはり勝った方が圧倒的に面白い。会社も業績悪化で給料・賞与ダウンとなれば心穏やかにはいられない。

 そう考えてくると、やはり惜しまれる人は「能力」と「人柄」という二つの要素が必要なのではないかと思える。自分もそういう「惜しまれる」人になりたいと思うし、であれば「能力」と「人柄」を身につけたいと思う。その「能力」は、「才能」よりも「努力」の部分にかかっていると思う。と言うか、才能に恵まれていないと自覚するのであれば、悲しいかな努力で補うしかない。それに対して「人柄」はさしたる努力もいらないように思うが、それも人次第かもしれない。いきなり人柄がよくなろうと思っても、なれるものではないだろう。

 私も自分の人柄が良いかどうかはよくわからない。それは結局、人が判断する事だからである。どうすれば人柄が良くなるのかというと難しい。ただ、突き詰めて考えていくと、「他人のことを考えられる」ということが重要なファクターであるように思う。自分の事ばかり考えるのではなく、常に周りの人のことも考えて行動する事で、人に喜んでもらえる人間になれるのではないかと思う。そういう人こそ、いなくなれば惜しまれるのだろうと思う。

 ラグビーのチームでも会社でも、1人でやるものではない以上、他人との連携が大事である。稲盛和夫氏の説く「利他の心」と絶え間ない努力でチームや会社に貢献してこそ、惜しまれる存在になれるのではないかと思う。自分もいい年であるし、そうした人に惜しまれるような人間になれるように、これからも心掛けたいと思うのである・・・

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【本日の読書】



2022年1月16日日曜日

息子と

 先日、息子を連れて実家へ行った。正月は妻と子供達は妻の実家へ行ったため、息子を連れて我が実家へ新年の挨拶に連れて行ったのである。両親からすれば最年少の孫であり、訪問を楽しみにしていたところでもある。話題は昨年夏の甲子園予選。我が息子の通う都立高校は弱小ながらも今はネットの発達で2回戦でも観戦ができる。両親はテレビに繋いだスマホ画面の前に鎮座して息子を応援したのである。両親それぞれからお年玉をもらい、今は少子化でお年玉も少なくなっていることもあって、息子も貴重な収入を喜んでいた。

 そんな両親と息子の交流を眺め、1日を過ごした後の帰りの車中。それは息子との語らいの時間。普段、家にいても改めて2人でじっくり話すことは少ない。こういう機会は積極的に利用したいと思う。息子にはいろいろと話をしたいと常々考えている。自分の経験、自分の考え方等々である。私もこれまでいろいろ経験し、失敗もしてきた。そんな人生訓は息子のこれからにもきっと役立つと思う。お金は大して残してやれないが、そういう経験談はなるべく伝えてあげたいと思うのである。

 それはきっとどの親もそうだと思う。勉強はした方がいい。大学もいい大学に行った方がいい。(最初の)就職は大企業にした方がいいというのはどの親もそう思うし、そう教えようとする。しかし、子供が反発するというのもよくあるパターン。母親が「勉強しろ」と言い、息子が「うるさいな」と反発する。どこでも(我が家でも)ある風景である。息子にすれば、わかっていて耳に痛いことを言われると面白くないだろう。それはきっとどの親も自分で経験してきていると思うのだが、親になれば忘れてしまうのだろう。

 そういう事があるので、私は息子に「勉強しろ」とは言わない。と言っても正しくは、「勉強“も”しろ」と言っている。高校に入った時から「文武両道」、野球も勉強もどちらも一生懸命やれと言っている。先日の話題は、「コーチ」から入った。野球部では誰がコーチしているのかと。私が高校生の時は、大学生のOBがボランティアで教えにきてくれていた。我が母校ではラグビーを教えられる先生などいなかったので仕方がない。息子の場合は先生が経験者らしく、先生がコーチ兼任だと言う。しかし、息子の口から漏れてきたのは先生のコーチに対する不満である。

 息子が言うには、どうやら先生の経験値が低いのか、指導内容が十分なレベルではないらしい。「中学の時のチームの方が練習のレベルが高い」そうである。確かにスポーツではコーチの影響力は大きい。息子から見ると、基本的な技術ができていないチームメイトが十分な指導を受けられずにいてもどかしいらしい。そう言う息子は、YouTubeなどで研究したりしていると言う。「まずは自分がわかっていることを中心にみんなに提案してみたらどうか」と息子にはアドバイスした。息子もそれに対しては素直に頷いていた。 

 私の持論として、スポーツも勉強も基本的には「どうしたら(できないことを)できるだろうか」と追及していく点で共通していると思う。そしてどちらも先生の影響が大きい。教え方のうまい先生に習うとスポーツも勉強も力がつく。息子もそれには同意して、しばし会話が盛り上がった。話しながら思ったのは、興味のあることなら息子とも十分に会話が成り立つものだと言うこと。子供が生返事ばかりしているのは、内容に興味がないからだろう。だから興味のありそうなことをきっかけにして、伝えたいことを伝えるようにすれば話を聞いてくれるのではないかと思う。

 父は中学を卒業してすぐに友人と2人で働くために上京したそうである。時に昭和28年の春である。当時、東京まで汽車で6時間かかったそうで、遠く故郷を離れ、見知らぬ東京でさぞかし心細かっただろうと思う。幸い私は16の春には何の苦労もなく高校生になれた。息子も然り。ただ、それを当然と思うのではなく、幸せだと思って有意義に過ごせ、高校生活を満喫しろと話した。そして今年も夏になったら試合に出て、活躍する姿を祖父母に見せろと。ついでに勉強もしっかりやって自慢の孫になれと。頷いてはいたが、どう感じたのだろうかと思う。

 父から私へ、そして息子へと伝わるものが少しでもあればいいと思う。それは一度にと言うより、折に触れて2人で話をすることによって可能になるのだろう。これからも息子と2人で語り合う時間を作りたいと思うのである・・・


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【今週の読書】
    


2022年1月13日木曜日

In my life

♪There are places I remember
 All my life though some have changed
 Some forever not for better
 Some have gone and some remain
 All these places have their moments 
 With lovers and friends I still can recall
 Some are dead and some are living
 In my life I've loved them all ♪
The Beatles“In My Life”
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先日、ふとビートルズの「イン・マイ・ライフ」を耳にした。ビートルズの曲の中でもお気に入りの一つである。私の洋楽デビューはビートルズで、一つ年上の従兄弟の影響を受けたものである。最初は英語の歌詞などわからなかったが、ビートルズの曲は比較的優しい英語の歌詞が多く、何度も聞いているうちに歌詞を見なくてもなんとなくわかって嬉しかったりしたものであるが、この曲もその一つ。そして後年、改めて歌詞に触れた時、実は結構心に刺さる内容だと思い、以来お気に入りの一つになったのである。

 全体としては、「僕は何よりも君を愛している(In my life I love you more)」というラブソングなのであるが、個人的には前半部分に心惹かれるものがある。生涯心に残る場所があって、そこにまつわる人の思い出があるという内容に深く共感するのである。したがって、私の中ではこの曲はラブソングという感覚はあまりない。邦楽でもちょっとしたフレーズが心に刺さって、その曲全体が好きになってしまうというのもよくある(浜崎あゆみの「SCAR」など)。この「イン・マイ・ライフ」もそんな一曲である。

 先日、シニアラグビーの練習で、江戸川の河川敷のグラウンドへ行った。日暮里から京成線に乗って行ったのであるが、青砥から江戸川は若い頃の通勤路線である。各駅の様子はほとんど当時(30年前)と変わっていない。なのでそのまま東中山まで乗って行って、久しぶりに当時住んでいた寮(の跡地)とその周辺を訪れてみたい衝動に駆られたくらいである。当時はなんの感情も抱かずにいた当たり前の風景も今となれば懐かしい。まさにThere are places I rememberの一つであると言える。

 就職してから結婚するまでの約7年間、私は寮生活をしていた。最初は国分寺、そして次に東中山である。部屋は寝るか寛ぐかのスペースだけで、トイレ・バス・洗面・食堂はすべて共同。もともと各部屋は二人部屋仕様であり、私も国分寺では先輩との相部屋であったが、個室化の流れから東中山では途中で一人になり、二人部屋を広く快適に使った。食堂や風呂では同年代の人たちがいて、一人暮らしでも寂しいということはまったくなく、自分でやらなければならないのは部屋の掃除と洗濯くらい。今思えば快適な独身生活であったと思う。

 最初に配属された支店は八王子。そして立石にあった葛飾支店に転勤し、以後内神田、国立と4つの支店を経験した。バブルから金融危機に向かう約12年を支店勤務で過ごしたが、今はすべての支店が建替、移転、統合で当時の姿を残すものはない。まさにsome have changed、Some have gone なのである。今であれば、もっと質の高い仕事ができたと思うのであるが、当時の私にはそんな意識などなく、漫然と目の前の仕事に追われていたと思う。やり方によってはもう少し出世する道もあったかもしれない。

 当時、一緒に働いた人たちは、今どうしているのだろうと思うことがある。今でも交流のある人もいれば、転勤以後まったく会っていない人もいる。一緒に働いていた支店内の風景も脳裏に浮かび、まさにWith lovers and friends I still can recallという状態である。年賀状のやり取りをしていた人の中には鬼籍に入られた方もいて、Some are dead and some are living である。いい人たちもいれば、嫌な人たちもいた。銀行員の仕事も楽ではなく、今ならそれなりに楽しみながらできると思うが、当時の自分にはまだまだ無理であった。

 人の記憶というのも不思議なもので、嫌な記憶というのはだんだんと薄れていって、残るのはなぜかいい思い出ばかりという気がする。当時は毎日のように腹の立つことがあったように思うのであるが、今ではそれらが何であったか記憶が薄れてしまって、いい思い出だけが残っている。まさにIn my life I've loved them allと今なら言える心境である。たぶん、当時の私が今の私のそんな意見を聞いたら猛反発するかもしれない。だが、事実そうなのである。人間の記憶とは、実に都合よくできているのだなぁと思わずにはいられない。

 人間と同様、街も生きていて時間とともにその姿を変えていく。我が街大泉学園も結婚して住み始めた25年前とはだいぶ変わっている。今の実家も立ち退きの話が出ているし、いずれなくなってしまうだろう。今ではもう記憶の中にしかない懐かしい風景もいろいろある。そんなことを考えると、このビートルズの曲はいっそう心に染み入ってくる名曲だなとつくづく思う。大ヒットナンバーもいいと思うが、この「イン・マイ・ライフ」もいつまでも何度でも聞きたい一曲だと思うのである・・・


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【本日の読書】
  



2022年1月10日月曜日

タバコを吸いながら思う雑感

 平日、タバコを吸う場所は限られている。よく利用するのは、勤務先の近くにあるファミリーマート。我が勤務先の入居するビルには喫煙スペースがない。したがってわざわざファミマまで出向かないといけない。仕事中にそうそう抜け出してもいかれないので、昼休みと午後一回だけと決めている。外出する際はこれにもう一回加わる。あとは退社後の帰りである。こういう不自由は、個人的には歓迎である。一服一服をじっくり吸えるという意味では、障害があった方がいい。

 タバコも常習的・習慣的に吸うのではなく、じっくり味わって吸いたいと思う。タバコも不思議なもので、同じ銘柄でも吸う環境によって味が違う。一番いいのは、「食後、室内でコーヒーを飲みながら」であるが、なかなか難しい。今の環境ではどこか断念せざるを得ない。それでもなんとか最低限確保したいのが「無風の環境」である。風が強かったりすると、どういうわけかタバコの味が飛んでしまう。したがって、「歩きタバコ」など論外である。世間的にも迷惑だろうが、個人的にも味の確保という意味で避けている。

 ファミマの喫煙ルームはそういう意味で手ごろである。ネックは狭いため一度に3人までという人数制限があること。待つのも時間が惜しいため、満室の場合はさらにその先の公共喫煙スペースまで足を伸ばしている。便利なファミマの喫煙ルームだが、なぜかそのファミマではタバコを売っていない。せっかく喫煙スペースを設けてくれているのだから売ればいいのにと思うが、なぜなのかはわからない。酒やタバコは近隣に同業者が商売をしていると許可がおりないと聞いたことがあるが、たぶん道路を挟んだ反対側にタバコ屋さんがあるからそれで許可が下りないのかもしれない。実に残念である。

 また、ファミマとは会社を挟んで反対側にタバコ屋があって、ここでも喫煙スペースがある。だが、「タバコを買った人のみ」という限定付きなので気軽に利用できない。行くごとに買うわけにもいかず、さりとて「ここで買ったタバコです」と言い訳するのもなんだか面倒である。気の小さい私としては、どうにも敷居が高くて利用していない。そんな限定などしなければ、そこで買うと思うのだが、「サービスが先、利益は後」というビジネスのコツを理解していないのだろうが、1人の常連客作りに失敗しているのは確かである。

 そのファミマの喫煙コーナーだが、いただけないのは喫煙者のマナーである。夕方に行けば灰皿の周りには灰が散乱しているし、先日は灰皿の中から煙が出ていた。空箱を灰皿の上に捨てていく輩も珍しくない。店員さんが毎日掃除してくれていると思うが、気分悪いだろうなと思う。灰は確実に灰皿に落とす、火はきちんともみ消す、空箱は持ち帰って捨てる、そんな子供でもわかりそうな当たり前のことをやるだけでみんなが気持ちよく利用できる。タバコを吸える場所が少なくなっているからこそ気をつけたいところである。

 煙や灰というタバコに伴うデメリットを軽減しているのが電子タバコであるが、これも良し悪しかもしれない。私が手を出さないのは、スタートキットを選んで用意するのが面倒なのと(気に入らなければ無駄になるし)、銘柄を選ぶのも大変(今のマルボロにたどり着くまでにいろいろ試したものである)なので、今更感が強いのである。これからタバコを吸う人はどうなのかと考えると、最初は「ちょっと一本」ともらいタバコから入るのではないかと思うが、電子タバコはこれが難しい。「初心者」にはハードルが高いのではないかと考えると、喫煙人口を増やすのも難しいかもしれない。JTも大変だろうと思う。

 咋日は武蔵小杉の東急スクエアに立ち寄ったが、ここには立派な喫煙ルームがあった。わざわざどうして作るのだろうと思うが、こういう施設がなければマナー心のない人は路上や施設近辺で吸って吸い殻を捨てて行くかもしれない。喫煙スペースをなくせばタバコを吸わなくなるという考えは短絡的であり、適度な「ガス抜き」のためにはこういう喫煙スペースは必要なのだろう(もちろん、個人的にもありがたい)。大きな駅の周辺には公共の喫煙スペースが設けてあるのもそのためだろう。

 タバコを吸わなければ気にもならない事どもが近頃よく見えてきている。体に悪い事はわかっているが、適度であればメリットもある。当分やめるつもりはないが、やはりマナーには気をつけたいと思う。吸わない人のことも十分よくわかるし、だからこそそういうノンスモーカーのことも考え、モラルあるスモーカーでありたいと思うのである・・・


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【今週の読書】
  



2022年1月6日木曜日

論語雑感 雍也第六(その9)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。
【原文】
季氏使閔子騫爲費宰。閔子騫曰。善爲我辭焉。如有復我者。則吾必在汶上矣。
【読み下し】
季氏(きし)、閔(びん)子(し)騫(けん)をして費(ひ)の宰(さい)たらしめんとす。閔(びん)子(し)騫(けん)曰(いわ)く、善(よ)く我(わ)が為(ため)に辞(じ)せよ。如(も)し我(われ)を復(ふたた)びする者(もの)有(あ)らば、則(すなわ)ち吾(われ)は必(かなら)ず汶(ぶん)の上(ほとり)に在(あ)らん。
【訳】
魯の大夫季氏が閔子騫を費の代官に任用したいと思って、使者をやった。すると、閔子騫は、その使者にいった。「どうか私にかわってよろしくお断り申しあげて下さい。もしふたたび私をお召しになるようなことがあれば、私はきっと汶水のほとりにかくれるでございましょう」
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 私は基本的に頼まれ事は断らない主義である。それは、「頼まれる」というところに相手の「お前なら」という期待を感じるし、それはありがたい事であるからである。自分に置き換えてみれば、誰かに何かを頼みたいと思った時には引き受けてくれそうな人、そして引き受けたことをきちんとやってくれそうな人を選ぶ。「頼まれる」ということは、そういう「相手のリスト」に自分が入っているという事であり、私の様に人付き合いがどちらかと言えば苦手な人間にとって、それは感謝すべき事だからである。たとえそれが雑用であったとしても、である。

 と言っても、実際すべて引き受けるかと言えば、なかなかそうも言い切れない。断る場合もあると思う。その最たるものは、やはり「自分には難しい」という事である。例えば、シニアラグビーで今のチームのキャプテンを引き受けてくれと言われたらまず断るだろう。それには「自分にはできない」という最大の理由がある。安易に引き受けても十分こなせなければ迷惑がかかる。そういうものを引き受けるのは、逆に無責任に他ならない。気持ちだけではどうにもならないものは断らざるを得ない。

 ただ、そこで難しいのは、頼まれるということは、仮にも相手の目にはふさわしいと映っていることであるということである。自分には無理だと思っていても、相手から客観的に見ればふさわしいと見えているわけである。「無理だ」と思っているのは自分だけで、案外やってみたらうまくいくということもあるかもしれない。逆の立場に立って見れば、十分ふさわしいと思う人に白羽の矢を立てると思うから、そのあたりは考えないといけないだろう(まぁ、そういう意味でもキャプテンを頼まれることはないと思うから安心していられる)。

 また、頼まれごとをやった場合、それまで知らなかった世界が見えるということもある。これまでやった中では、母校の財団法人のある社会人向け講座の世話役なんかがそうであった。今まで会うこともなかった人と関わり合い、自分なりの企画を立て、構想を練って実行するというのはいい経験になった。その後、転職した際にその時の経験が一部経営に役立ったと思う。声をかけてくれた人には感謝だし、また土台をきちんと作ったのでその恩は実績で返せたと思う。

 年賀状をもらうと、よく「飲み会を企画してくれ」というコメントが書かれているものがある。それもはっきり言えば、「自分はみんなと飲みたいが、企画するのは面倒だからお前がやれ」という裏のメッセージがはっきりしている。面倒な役割を押し付けられているのはありありだが、それでもその役を頼んでくるということは、少なくとも「期待」があるわけである。それも大事にしたいと思うので、コロナの様子を見つつ企画しようと思う。

 そういう考え方でいるので、頼まれごとを断固拒否する人の考え方には相入れないものがある。そこは考え方の違いであり、違いがあっていいと思うが、ただ「損をするなぁ」と思うだけである。自分の世界が広がることもないし、相手の友人リストの上位にいくこともない。もちろん、面倒は避けられるのでその時はいいだろう。それがいいと考える思考回路の人にはそれでいいし、私はそう考えないというだけのことであるから、それが悪いとも思わない。

 私が魯の閔子騫であったら、代官任用の話を迷わず受けるだろう。この短い文章だけでは前後の様子がわからないから何とも言えないが、もったいないと思う。もっとも、重要なポジションであれば、簡単に引き受けるというわけにもいかないだろう。私も今の会社で社長をやってくれと頼まれたら、やはりすぐには引き受けられない。社員の人心掌握という意味ではもう少し時間が必要だと思うし、簡単にできるものではない。ただ、その時が来たら、迷わず引き受けられるようにこれから働いていきたいと思う。これからもいろいろあると思うが、「頼まれる」ということを大事にしていきたいと思うのである・・・



【本日の読書】
  



2022年1月3日月曜日

2022年新春雑感

 今年は例年と異なり、私は実家で年を越した。妻と子供達は妻の実家に帰省。いよいよ家族もバラバラである。本当は家族揃ってと思うところだが、自分の考えを押し通すのも良くない。それがたとえ家族でもと思い、妻の提案を受け入れた次第である。子供が社会人になったら、たぶん単身生活となるだろう。両親がその時健在なら一緒に住むかもしれない。そんな将来を見据えて今から行動していくつもりである。

 毎年元旦に行っていた近所の氏神様への初詣は帰宅した本日となった。神頼みはしないが、神聖なるルーティーンとして欠かせない行事である。心を鎮めて手を合わせ、首を垂れる。破魔矢を買って境内を後にする。数えてみればこの地に越してきて26年。初詣は25回目である。メジャースポットに初詣に行きたいとは微塵も思わないが、人生で一番長く住んでいる街であり、この地にいつまで住むかはわからないが、住み続ける限りは折に触れて参拝したいと思う。

 昨年は、年初に想像もしていなかったことがいろいろとあった。誰もがそうであると思うが、「人生に大きなインパクトを与える」という意味で、である。そういうことがまた今年も起こるかもしれない。想像もできないことゆえにあらかじめ準備しておくこともできないが、起きた時にうまく適用するためには心のあり方も大事だろうと思う。誰もが自分がかわいいのは当然であるが、「他人から見た自分」も意識したい。自分勝手な振る舞いはやはりカッコ悪い。そういう「見た目」を重視したいと思う。

 最近思うのは、他人の行動に怒りを覚えたりもどかしく思ったりするのは、突き詰めると「自分の考えと違うから」である。本人はそれでいいと思うからそういう行動を取っているわけで、そこを理解しないといけない。「自分と他人は違う」というのは、誰でも知っていると思うが、だから行動も違うのである。自分の思う通りに行動しないからと言って腹をたてるのもおかしい。たとえそれが自分勝手な行動であろうと、本人にとっては正しいのである。そこを理解した上で、それに対して自分はどうすると考えればいいだけである。

 昨年、そういう怒りを覚えたが、今は淡々として「ではどうするか」と考えている。一矢報いて溜飲を下げて、それでノーサイドにすればいい。もどかしく思える他人の行動も、ぐっと堪えて相手の気持ちを理解するように努め、できることをすればいい。仕事においては、新しい職場に入り、そこでもいろいろもどかしく思うことが多い。しかし、イライラするのではなく、そういう状況において自分のできることをするだけである。「前へ前へ」と猛進するのではなく、「まわりを見てゆっくりと進む」。これを今年の行動目標にしたいと思う。

 年齢的には今年58歳。会社で言えば定年年齢まであと2年半。幸い、今の会社では役員になれそうだし、働きたいと望み、そしてそれなりの実績を上げられれば、最低限の目標である70歳まで今の給料を維持したまま(おそらくそれも上がるはず) 現役で働けるだろう。そのためにも自分だけのためではなく、みんなのためにというのも意識して働きたいと思う。与えられた線路の上を漫然と走るのではなく、自分で線路を引きながら走りたい。どこまで線路が続くかは、自分次第である。

 さらにそろそろ自分の考えを他人に語るということもしていきたいと思う。自分もいろいろな考え方を身につけてきた。思い返せばいろいろな人の言葉に影響も受けてきた。自分もそろそろ人に影響を与えるようにしたいと思う。もちろん、強制したり押し付けたりするものでもないが、語ることによってそれが響けばその人の中に残るし、響かなければそれまで。娘や息子はもちろんであるが、身の回りにいる若い人にも臆すことなく語りたいと思う。

 2022年という新たな年がスタートした。そろそろ「残り時間」というのも意識させられる。焦ることなく、ゆっくりとまわりを見ながら前へと進んでいきたいと思うのである・・・


TumisuによるPixabayからの画像 

【今週の読書】