2021年5月30日日曜日

料理

 最近始めたのは、タバコ以外にも料理がある。と言っても趣味で始めたのではなく、必要に迫られて、である。実家の母親が、よる年波か、腰の痛みもあってか料理ができなくなってきている。まったくではないが、手の込んだものができなくなり、それを父が不満に思い始めているのである。それも無理からぬこと。本当であれば、同居ができれば一番なのであるが、嫁姑戦争が長期冷戦状態ではそれも無理な話。弟が調理師免許を持っているので月に一度でも行って何か作ってやってくれと頼んだが、弟だけに頼るのも如何かと思う。かと言って、自分には料理などできないし・・・

 と思っていたら、いつも観ている「カンブリア宮殿」で、「クラシル」が紹介されているのを観て、「これだ」と膝を打つ。クラシルは、料理の動画サイト。それまでレシピなど見せられても何もできなかったが、動画で作り方まで見せられると「これならできるかもしれない」と思い至る。そしてやってみれば簡単にできる。味もまずくはない。むしろ、「素人がいきなり作ったにしては上出来」というレベル。そこで、週末に実家に通い、夕食を作り始めたという次第である。

 それまでも母の指導の下、カレーを作ったり、「母親の味」であるシャケコロッケを一緒に作ったりということはしていたが、そこまで。単独でメニューを決め、買い物に行き、料理するということはなかったが、これが可能になった。そしてやってみればそんなに難しくはない(と言っても、「難しくない」ものを選んでいるのではあるが・・・)。何より、母親が「何を作ってくれるの?」と楽しそうに待っている姿がなんとも言えない。そして「美味しい」と言って食べてくれるのは、なかなかいい気持ちである。

 料理を作りはじめて気がついたのだが、やはり献立を考えるのは大変である。クラシルでスクロールして「探す」のは簡単だが、何もない中で考えるのは大変である。GWは二泊三日で泊まってこれをやったのであるが、朝は簡単にパンを食べるからいいとして、昼は何にしようと考え、食べ終わると夕食は何にしようと考え始める。メニューが決まったら、冷蔵庫のストックを確認して買い物リストを作り、買い物に行って料理する。食べ終われば後片付けをするが、あっという間に1日が終わる。普通の主婦は合間に掃除洗濯をこなすわけであるから、これは大変である。

 慣れてくれば冷蔵庫のストックを確認し、余った食材からレシピを検索してメニューを絞り込むようになる。食材ロスをなくしていこうと思えばそういう順序になる。さらに余るのを見越せば、次の料理の献立も合わせて考えるようになる。献立を決めて買い物に行っても、特売品などがあれば急遽献立を変更するという芸当も必要になるだろう(私はまだそこまで対応できていない)。いわゆる「主婦の苦労」というものが、ようやく現実問題として実感できるようになったと言える。「慣れ」もあるだろうが、これもなかなか大変である。

 ようやく完成した拙い料理であるが、次に気になるのは「評価」である。母はおいしいだけではなく、「ちょっと塩気が足りない」などど適切なフィードバックを返してくれるが、親父は黙ったまま。もともと私も食べ物に贅沢は言わないタチであり、「出されたものは黙って食べる」のを「美学」としてきたが、作った立場としては、どうなのかというフィードバックが欲しいところ。「出されたものは黙って食べる」のは、作った人に対する態度としては、美学でもなんでもないということがわかる。

 料理をするようになると、平日自宅で食べる妻の手料理に対する見方も変わってくる。妻も結婚当初はオロオロしていたし、初デートのお弁当はお義母さんの手作りだったが、今ではすっかりベテラン主婦で、料理もいろいろとバラエティーに富んでいる。毎食、食卓につく度に「これどうやって作ったのだろう」ということがまず気になる。そして当然、「美味しい」という感想を述べる。と言っても「今さら」なのか、私の評価に対しては無反応である(娘の評価に対しては嬉しそうに反応している)。

 当面は、毎週末の実家通いを続ける予定である。料理だけでなく、トイレ掃除や床の雑巾掛けといった「家庭内重労働」も母はできなくなっており、せめて週に1回でもやろうというところである。男の立場からすると、1ヶ月くらいやらなくても平気であるが、女の立場ではそうもいかないだろうし、できない(やらない)ストレスを溜めてもよくない。昼過ぎに行っては、掃除をし、その時々の雑用をこなし、買い物に行き、料理をして一緒に夕食を食べて帰る。のんびり寛いでいる暇はない。

 ちょっとしんどいところもあるが、「できるうちにできることを」と考えている。親父は昭和の男であり、男子厨房に入らずの世代。今さら料理などできないが、私はまだ頭も柔軟。いつか料理も自分のために役に立つかもしれず、将来への備えとして続けていこうと思う。自宅ではキッチンは妻の聖域であり、勝手にあれこれ使って料理などできない。そんなこともあり、当面、「自分のために」実家で料理の腕を磨きたいと思うのである・・・



【今週の読書】
 



2021年5月27日木曜日

タバコを吸う

 最近、タバコを吸い始めた。と言っても初めて吸ったわけではない。最後に常習的に喫煙していたのは30歳の時であるから、かれこれ26年も前になる。ちょうどその当時、体がたるみ始めてきているのを自覚し、1か月禁煙して毎朝走ることに決めた時以来である。期間限定のつもりであったが、なんとなく吸わなくなるという「休煙」状態でこれまで来たのである。禁煙したわけではないので、たまに吸いたくなって「ちょっと1本」という感じは1年に1度くらいある感じであった。なのでまともに1箱買って吸い切ったというのは、26年振りということになる。

 初めてタバコを吸ったのは、確か高校生になった時。御代田に住む1つ年上の従兄が吸い始めたのを見て、試しに1本となったわけである。一息口に入れるようにしてそのまま肺に吸い込むんだよと教えられ、その通りにしたら思いっきりむせたのを覚えている。ちなみに大学に入ったあと、同級生がタバコを吸っていたのだが、よく見ると口の中に煙を入れて吐き出すだけで肺には吸い込んでいなかった。たぶん、私の従兄のように吸い方を教えてくれる人がいなかったのだろう。従兄は勉強は教えてくれなかったが、酒やタバコを教えてくれた良き兄貴分である。

 なぜ、今になってタバコを吸うようになったのかと言えば、「体が欲した」ということになる。例によって「ちょっと1本」ともらったのはいいが、それがメンソール系のもの。個人的にメンソール系のタバコは好きではなく、改めて普通のものが吸いたくなったのである。もらいタバコで贅沢は言えないが、最近、身の回りの喫煙者はみんな電子タバコに移行しており、「ちょっと1本」ができない。なので思い切って自分でマルボロを1箱買ったという次第である。

 改めて吸ってみれば、やはり「うまい」と思う。それに何となくリラックスする感じがある。その時はその1箱だけのつもりだったが、「もう1箱」が続いている。マルボロは最後に常習的に吸っていた銘柄であるが、学生時代にあれこれといろいろ試した結果である。セブンスターやハイライトなどの国産品からラークやラッキーストライク、フィリップモリスなんかの海外のものも手あたり次第吸ってみたが、その結果、自分で一番好きな味(香り?)がマルボロだったというわけである。なので、今回も迷わずマルボロを買ったのである。

 今さらタバコを吸い始めるとは、なんと時代逆行的なのだろうと自分でも思う。気が付けば今やすっかりタバコを吸いにくい環境になっている。職場でも自宅でも自分の机でプカリという訳にはいかない。職場では外階段の踊り場にある喫煙スペース、家では外に出ている。そういえば、ご近所でも夜、外でタバコを吸っているご主人を見かけるが、今やいずこの家でも愛煙家に紫煙を燻らせる家庭内のスペースはないようである。不動産業という仕事柄、タバコを吸っていた部屋は退去の時にすぐ臭いでわかるし、その臭いはなかなか取れない。家の中で吸わないのは、家を大事にする上でも重要であると思うので外での喫煙に不服はない。

 タバコが体に良くないということについては否定するつもりはない。また、自分に健康志向がないというわけでもない。健康には気を使いたいが、タバコも吸いたい。その矛盾をどうするか。簡単だが、そこは自分でバランスを取ろうと思う。つまり本数を制限するのである。今のところ1日あたり4~5本と己に制限を課している。吸っている人から見れば「なんだそれっぽっち」と思うかもしれないが、制限を課さなければ増え続けるかもしれないし、それこそ健康に悪いかもしれない。また、吸った後の臭いも気になる。当面は、本数制限は維持しようと思う。

 タバコを吸うメリットとしては、今のところ精神安定があると思う。自分自身、何となくリラックス感を得られる。昔吸っていた時にも感じていたが、タバコも吸う状況によって味が変わる。風の強い状況下ではあまりうまいと感じない。だから昔も歩きタバコはしなかったし、なるべく風を避けるようにしている。周囲に人がいないことを確認するのはもちろん、独りゆっくりリラックスして1本、1本の味を楽しんでいる。制限を設けているからこそ、1本、1本を楽しめるのかもしれない。

 26年前との違いは1箱570円という値段だろう。記憶の限りではかつては250円くらいだったと思う。いつの間にかランチ1食分になっている。時代の流れとは言え、仕方ないところなのだろう。このまましばらくは吸い続けることになりそうであるが、人に迷惑をかけなければそんなに目くじら立てることもないと思う。何よりリラックス効果は大きいし、そういう意味では有用である。タバコを吸うか吸わないかという二者択一で聞かれれば「吸う」と答えるしかないが、気分的には喫煙者と非喫煙者の中間的な存在だと自覚している。

 中途半端なところはあるかもしれないが、健康と嗜好のバランスをうまくとりつつ、しばらくは至福の一服を楽しみたいと思うのである・・・



【本日の読書】
  



2021年5月23日日曜日

論語雑感 公冶長第五(その20)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。

【原文】
子曰。甯武子。邦有道則知。邦無道則愚。其知可及也。其愚不可及也。
【読み下し】
子(し)曰(いわ)く、甯(ねい)武子(ぶし)は、邦(くに)に道(みち)有(あ)れば則(すなわ)ち知(ち)、邦(くに)に道(みち)無(な)ければ則(すなわ)ち愚(ぐ)なり。其(そ)の知(ち)は及(およ)ぶべし。其(そ)の愚(ぐ)は及(およ)ぶべからざるなり。
【訳】
先師がいわれた。「甯武子(ねいぶし)は国に道が行なわれている時には、見事に腕をふるって知者だといわれ、国が乱れている時には、損な役割を引きうけて愚者だといわれた。その知者としての働きは真似ができるが、愚者としての働きは容易に真似のできないところだ」
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 足軽から身を起こして天下を統一した豊臣秀吉のエピソードはいろいろある。織田信長の草履を温めたり、高松城攻めとそのあとの本能寺の変を受けた中国大返しだったり。だが、もっともリスキーだったのは金ヶ崎城の戦いにおけるしんがりだったと思う。朝倉征伐に乗り出した信長軍が、突然の浅井氏の離反で挟み撃ちの危機に瀕した時、秀吉(当時は木下藤吉郎)がしんがりを申し出たものである。

 信長をはじめとした本体が撤退するに際し、最後尾にとどまって敵を食い止めるしんがりの役目は時間稼ぎ。失敗しても、否、うまくいっても戦死する可能性は高い。味方のために犠牲になることを厭わない行為である。人は誰でも我が身かわいい。他人のために自らリスクをかぶるのはなかなかできないことである。実力主義の織田軍団において秀吉が出世できたのも、このエピソードがあればこそのように個人的には思うのである。

 現代においては、大企業となるとみんな我が身第一に当然考える。銀行のような減点主義の組織では特に保守的な行動ばかり取るようになる。昔聞いた笑い話では、ある決断を迫られた頭取が、3つの質問をした言う。それは「大蔵省(当時の監督官庁)は何と言っているのか」、「他行はどうしているのか」、「過去の事例はどうだったのか」である。銀行員気質をズバリとついていて、笑い話ではなく実話だろうと思ったほどである。

 そういう組織において、何かトラブルやまずいことが生じれば、当然保身に入る。「自分の責任ではない」ということをまず明らかにしようとするのである。すでにコースアウトしてしまった人や、端から出世に興味のない人(諦めている人)はこの限りではないが、まだ望みのある人にとっては重要なポイントである。そしてそういう人が出世して行く。私もかつて大きなミスをした事があるが、その時直属の上司は見事に保身に走っていた。まぁ、ミスをした張本人としては何も言えないが、そんなものか思ったのを覚えている。

 人間、物事が順調にいっている時には本当の姿は出ないものだと思っている。誰でも余裕のある時には寛大であり、寛容であり、思いやりに溢れ、友情に熱い。ある知り合いの人は、知人が企業の不祥事で責任者として逮捕・起訴された際、それまで親の代から家族ぐるみのお付き合いがあったにも関わらず、これをきっぱりと断ち切ってしまった。英語のことわざで“A friend in need is a friend indeed.”(困った時の友こそ真の友)というのがあるが、この人にとっては真の友ではなかったと言うことなのであろう。

 不遇の時こそ、あるいは最後の最後になってこそ、その人の本性が出るものだと思う。ある知り合いの知人は、長年経営していた会社を閉鎖することにしたが、従業員は全員解雇した。とりあえず知り合いの会社に雇用は頼んだが、わずかな退職金しか支給せず、困惑した従業員の訴えは冷たくスルーした。平均するとみんな10年以上勤めていたにも関わらず、である。会社の数億に及ぶ資産は換金して独り占めである。従業員によっては次の雇用先との雇用条件があわず、そのまま失業となったがおかまいなしである。心ある経営者なら、せめて退職金をもう少し出してもいいと思うが、ドライな考え方の持ち主のようである。

 これもまたある知人の話だが、お金に困って友人に借金の申し込みに行ったとのこと。まずは会社を経営して羽振りの良い友人に当たったところ、にべもなく断られたという。困って別の友人に頼んだところ、困惑しながらも貸してくれたと言う。決して小さくないお金。貸してくれた友人はサラリーマンで、無理をして貸してくれたようである。お金の貸し借りは、それによって友情も簡単に壊れる。だから難しいところがあるが、それでも金持ちの友人ではなく、普通のサラリーマンである友人が貸してくれたところが世の真理を表している(その後きちんと返したそうである)。

 企業でも業績が危うくなれば、目端の利くものから転職して行く。経営者でも夜逃げしてしまう人もいれば、きちんと頭を下げ、罵倒されながら倒産手続を取る人もいる。最後まで残って社員の身の振り方を見届けてから退職する役員もいる。いい時ばかりカッコつけても、いざという時にその人の本性が現れる。自分がどういう人間でありたいかは、日頃から意識しておかないといけないと思う。窮地に陥った時にこそ「自分ファースト」ではなく、他者に対する思いやりの心も持っていたい。

 その時になってみなければわからないが、自分はかくありたいと思うのである・・・



【今週の読書】
 




2021年5月19日水曜日

働くこと

天国は、ある家の主人が、自分のぶどう園に労働者を雇うために、夜が明けると同時に、出かけて行くようなものである。
彼は労働者たちと、1日1デナリの約束をして、彼らをぶどう園に送った。それから9時ごろに出て行って、他の人々が市場で何もせずに立っているのを見た。そして、その人たちに言った、『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当な賃銀を払うから』。そこで、彼らは出かけて行った。
主人はまた、12時ごろと3時ごろとに出て行って、同じようにした。5時ごろまた出て行くと、まだ立っている人々を見たので、彼らに言った、『なぜ、何もしないで、1日中ここに立っていたのか』。彼らが『だれもわたしたちを雇ってくれませんから』と答えたので、その人々に言った、『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい』。
さて、夕方になって、ぶどう園の主人は管理人に言った、『労働者たちを呼びなさい。そして、最後にきた人々からはじめて順々に最初にきた人々にわたるように、賃銀を払ってやりなさい』。そこで、5時ごろに雇われた人々がきて、それぞれ1デナリずつもらった。
ところが、最初の人々がきて、もっと多くもらえるだろうと思っていたのに、彼らも1デナリずつもらっただけであった。もらったとき、家の主人にむかって不平をもらして言った、『この最後の者たちは1時間しか働かなかったのに、あなたは1日じゅう、労苦と暑さを辛抱したわたしたちと同じ扱いをなさいました』。
そこで彼はそのひとりに答えて言った、『友よ、わたしはあなたに対して不正をしてはいない。あなたはわたしと1デナリの約束をしたではないか。自分の賃銀をもらって行きなさい。わたしは、この最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ。自分の物を自分がしたいようにするのは、当りまえではないか。それともわたしが気前よくしているので、ねたましく思うのか』。
このように、あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう。

(マタイの福音書20)

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 天国と言えば、誰にでも公平・平等で幸せに満ちているところというイメージがある。しかし、この公平・平等というのもよく考えてみれば難しいところがある。それは、「基準」の話である。

 上記のマタイの福音書のエピソードによれば、朝9時から汗水たらして働いた者と夕方の5時に来て同じ報酬をもらうのではあまりにも不公平である。方や1日汗水たらして働いているのに対し、片方はただ来ただけで同じ報酬をもらっているわけで、どちらを選ぶかと問われれば、みんな後者を選ぶだろう。しかし、この物語の主人が語っているように、彼は不正は働いていない。どの人とも同じ条件で約束をしてその通りに履行しているわけで、不公平を訴えているのは朝から働いている人である。ただ、誰もが納得した上で募集に応じているわけで、なかったとすれば「横の情報共有」だけである。

 朝の9時から働いている人が、もし5時に来ても同じ報酬がもらえるとわかっていれば朝の9時の時点では募集に応じないであろう。今回のようなケースが明らかになれば、翌日からは誰も朝の募集には応じないであろう。そうすると、働き手がいなくなるので、次の朝はこういう募集の仕方はやらなくなるだろう。朝から働いた人に1デナリだとしたら、12時に来た人は0.5デナリ、3時からの人は0.2デナリという具合に差をつけるだろう。これこそが資本主義、実績主義である。

 よくスーパーで閉店間際に割引シールが貼られることがある。スーパーとしては売れ残りは避けたいので、割引してでも売ってしまおうと考えるのである。そしてこれを知っている人は、この時間を狙って買い物に行く。同じ買うなら安い方がいいわけである。ただ、これにはリスクがある。その日、その商品がよく売れて割引せずとも売り切れてしまった場合は買えなくなるのである。するとその日の献立にも影響する事態となるわけで、臨機応変が効くなら問題ないが、そうでなければ大変である。

 私が今の自宅を購入した時のこと、そこは全7区画の土地が売り出されており、私が問い合わせた時はあと1区画だけが残っている状態であった。売主の不動産屋も早く売却を決めたかったのであろう、買っていただけるなら「ディスカウントをする」と提案してきた。よくマンションでも最後の1戸を安くしてもらって買ったという話を聞くが、その気持ちはよくわかる。そして我々夫婦はそれに応じたが、おそらくご近所の他の6軒の中で割引を受けたのは我々だけである。

 ただ、狙ってそれができるかというと、そうではない。我が家は偶然の賜物である。もう少し遅ければもしかしたら買い損なっていたかもしれないし、もう少し早ければ(業者も余裕があって)正常価格でしか買えなかったかもしれない。我々だけ割引を受けるのは不公平かと言うと、そう言われても困惑するだけである。それはすべて結果が判明した時点で初めてわかることであり、その時々の時点においてはわかるものではない。逆に言えば、プロセスにおいては公平なのである。

 先日読んだ本に、「労働なくして余暇はない」という言葉を目にした。「労働のない」とは、つまり「失業」ということであり、なるほど失業状態では余暇もない。天国に労働があるかどうかはわからないが、あったとしてもたぶんそれは辛いものではないだろう。それは理想的なものなのであろうか。もしも、上記のぶどう園に誘われたらどうするだろうかと考えてみる。5時に行っても1デナリもらえるとしても、その間どうするか。きっと余暇は余暇でありえないように思うし、たぶん自分だったら朝から働きに行くことを選ぶだろうと思う。それは損得ではなく、労働という報酬を得るためである。

 学生時代、ある水道工事の会社でアルバイトをした。好きな1日を選んで出勤し、報酬はその日の最後に現金でもらえた。確か1日7,000円だったと思う。1日働いて手にした現金7,000円には、何者にも代えがたい喜びがあった。5時に行って7,000円だけもらってもたぶんあの爽快感は得られなかったと思う。そこに価値を見いだすのであれば、両者は公平である。そこには労働を「苦痛」と見るかどうかがあるだろう。「苦痛」と見るなら不公平であるが、それ以外の価値を見出せればそうではない。

 働くことはただ生活の糧を得るための苦行ではなく、生活の糧を得ることにプラスαの価値を得たいと思う。経営の楽ではない中小企業ではなかなか難しいが、それでも何もせずに今の給料をもらうのよりはいいと思う。同じ給料をもらうのであれば、朝の9時から働く事を選びたいと思うし、どうせだったら5時に同じ報酬をもらいに来るだけの人よりもより多くの何かを強引にでも得るようにしたいと思う。それが私という人間である。

 マタイの福音書は、自分の労働観を見直してみるのにいい題材だと思うのである・・・


【本日の読書】
 



2021年5月16日日曜日

イスラエルの空爆に思う

「心はイスラエルと共に」 中山防衛副大臣がツイート
2021年05月12日22時27分
イスラエルとパレスチナ自治区ガザを実効支配するイスラム組織ハマスの衝突が激化していることに関し、中山泰秀防衛副大臣は12日、「最初にロケット弾を一般市民に向け撃ったのは誰だったのか? 私たちの心はイスラエルと共にあります」とツイッターに書き込んだ。日本政府は両者に自制を求める中立的な立場を取っており、議論を呼ぶ可能性がある。
時事通信社

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 昔からパレスチナには興味があり、それに伴ってパレスチナ問題には関心がある。現在、またハマスとイスラエルの対立が武力行使を伴って起こっている。ハマスがイスラエルにロケット弾を打ち込み、イスラエルが軍事行動で応戦するというお馴染みの行動である。日本人としては中立的な立場で良いと思うし、それ以外にはないと思う。早期の解決が望まれるが、もう1000年も続いている争いだけに、解決も難しいのだろうと思う。

 ところで、今回気になったのは、冒頭のニュース。中山防衛副大臣のツイートを取り上げたものである。ツイートを読むと、中山防衛副大臣はイスラエル寄りの心情だということがわかる。これは私も同感でなんの問題もないと思うが、上記の記事を書いた記者はそうは思わないらしい。微妙なのは、「議論を呼ぶ可能性がある」という表現である。暗に中山防衛副大臣のツイートを批判しているのであるが、そうあからさまには書かず「可能性がある」とごまかしている。マスコミお得意の表現だと思う。

 日本政府は中立的な立場なのに、イスラエル寄りの発言をしていいのかという批判を込めている。しかし、中立の立場と個別の機会の考えは別だろう。いくら中立だからとは言え、ロケット弾攻撃に出たのはハマスであるなら、それは批判されるべきであろう。今回はエルサレムでパレスチナ人とイスラエル警察との衝突に端を発し、ハマスがイスラエルにロケット弾を打ち込み、イスラエルが報復の空爆に出たという図式である。軍事力ではイスラエルが圧倒しており、故にハマスの方の被害の方が大きい。したがって、イスラエル批判が起こりやすいのであろう。

 しかし、中立だから双方に何も言わないというのはおかしいだろう。中立とは、「どちらの肩も持たない」ということで、「何も言わない」ということではない。悪いと思えば悪いと「中立の立場」で批判すればいいだけのこと。パレスチナ人とイスラエル警察が衝突した件について批判するのはいいと思うが、ロケット弾を打ち込むのは明らかに「悪い」ことだろう。それを批判することは「中立の立場」を外れることでも、イスラエルの肩を持つことでもない。逆にイスラエルが先に空爆をしたなら、当然それを批判すべきである。

 また、中山防衛副大臣の発言や考えとは別に、そもそもハマスは「イスラム原理主義」を標榜し、イスラエルに対する武力闘争方針を掲げている組織である。そもそもそこをきちんと理解しないといけない。一方、同じパレスチナの代表であるファタハは「穏健派」である。イスラエルとは利害が対決しているが、その問題を武力で解決しようとはしていない。だからイスラエルもファタハが実効支配するヨルダン川西岸地区は空爆していない。あくまでもハマスが支配するガザ地区だけが対象である。

 ここのところをあまりよくわかっていなくて、イスラエルだけを批判する人たちがいるが、問題の本質を理解する必要があるだろう。なぜガザ地区が厳重な壁に覆われ、イスラエルから締め付けを受けているのかと言えば、それはハマスがロケット弾をはじめとしてイスラエル憎しの攻撃をするからである。それをやめて話し合いで解決する方向に舵を切れば、イスラエルもそうした締め付けを解くだろう。逆に締め付けを続けようとしても、国際社会的にも難しいだろう。

 パレスチナ問題は、あくまでも平和的に解決されるべきものだと思う。それにはまずハマスが攻撃姿勢を解くところから始まるだろう。穿った見方をするならば、ハマスはイスラエルの空爆を誘発し、多数の死傷者が出ることでイスラエルに対する国際世論の批判を呼び込もうとしているとも捉えられる。軍事力で勝てない以上、そうした国際世論を味方につけようという戦略はありうる。私がハマスの指導者であるなら、仲間に多数の死傷者が出るような行動(ロケット弾攻撃)は控えるだろう。

 なんでも「軍事行動=悪」と考える人たちは、表面的なところだけを見てイスラエルを批判する。批判する前にもう少し考えようよと言いたい。なぜならそうした「問題の本質」を理解していないと、当然ながら「問題の解決」には繋がらないからである。イスラエルの空爆を批判してパレスチナ問題が解決するのかと言えばそうではない。我々がパレスチナ問題の解決について何かできるわけではないが、少なくとも「イスラエルに対する批判が高まっています」というマスコミ報道に使われることを避けることはできると思う。

 マスコミも冒頭の記事を見るまでもなく、問題の本質を理解していない記者は多い。深く考えもせずに「イスラエルが悪い」と思ってしまう人が増えることを懸念する気持ちは強い。それこそハマスの「思う壺」だと思う。何も考えずに表面だけ見てわかったようなつもりになって批判するようなことは避けるべきである。

 ところでこの問題、私が生きている間に解決するのだろうかと思ってみる。解決が実現すれば、個人的にはベルリンの壁崩壊と同じ興奮を味わえるように思う。朝鮮半島の統一とパレスチナ問題の解決は、生きているうちに是非とも見てみたいニュースだと思うのである・・・



【今週の読書】
  



2021年5月14日金曜日

不安の正体とそれとどう付き合うか

 キリスト教やイスラム教や仏教など世界的には数多くの宗教がある。なぜ人は神(仏)を信じるのか。専門的に研究している訳ではないから確かなことが言える訳ではないが、その理由の1つに「不安」があると思う。宗教は人間に生じる「不安」に対する1つの「救い」の手段であると思うのである(救いの対象はもちろん不安だけではない)。そしてその「不安」とは、「不幸な未来を迎える可能性に対する恐怖」である。

 これは人それぞれいろいろなものがあり、不安とは無関係に生きることはできないであろう。この春、息子が高校受験を経験したが、受験前にポツリと不安だと漏らしていた。この場合、その正体は「不合格となる恐怖」である。私も経験があるが、絶対に合格するという確証が得られない限りは、この不安からは逃れられない。最終的に息子がこの不安から解放されたのは、第一志望の都立高校に合格した瞬間である。終わってみれば、不安は雲散霧消。いったい何だったのだろうかというくらい他愛のないものになるが、抱えている時は深刻である。

 私も高校受験、大学受験の時にはもちろん不安に慄いたのを記憶している(高校の時よりも大学の時、それも現役の時より浪人の時の不安の方が大きかった)。不安はさらに「孤独」によって増幅される。大学受験の浪人中は宅浪であったから、孤独の中で不安に押しつぶれそうになることもしばしばであった。その後も公私それぞれで大なり小なりの不安を感じてきていたが、今でも記憶に残っている大きな不安を抱えていた時は、夜眠れなくなることも経験した。起きている間中も四六時中不安が脳内を占領し、食事ものどを通らない有様だった。その時はそんな私の異変を子供たちも敏感に感じていたらしいから、相当だったと思う。

 そうした不安からは逃れる術がない。なぜなら、それは可能性に対する恐怖であり、そうである以上、その可能性が消えない限りは解消されないからである。できるのは「緩和」だけである。「緩和」の方法は人それぞれであるが、趣味に没頭したり、誰かとおしゃべりをしたり、あるいは酒に逃れたりするのかもしれない。さらには冒頭に挙げた様に神頼みをするのかもしれない。いずれも不安を解消することはできないが、軽減することはできる。心を許せる友人や家族に話すことで気持ちが軽くなるということはよくあることである。

 私が7年前に人生最大の不安を抱えた時は、近所の神社を訪れた。ふだん、「神仏は尊ぶが神仏に頼まず」が信条の私としては、神頼みはもっとも遠い手段であったが、その時は「神頼み」ではなく、単なる「お参り」であった。朝、早い時間に起きて(目が覚めて)、しんと静まり返った神社の鳥居をくぐり、手水を使い、賽銭を入れて二礼二拍手一礼の参拝手順を守って頭を垂れる。それだけであるが、なぜだかいい結果になる様な気がして心が落ち着いたのである。その時、宗教の大きな意義を感じたのである。友人や家族の暖かい励ましの言葉もいいだろうが、それに勝るとも劣らぬ効果があったのは確かである。 

 受験やスポーツの大事な試合などというものに対する不安であれば、それは自助努力でなんとかできる。不安を緩和する方法は、ひたすら「自分はできる」と思い込むこと、そしてそれを裏付ける努力である。「これだけやってダメなら笑おう」という境地に達することができれば不安はだいぶ解消されるだろう。これに対し、自助努力ではどうにもできないものはどうしようもない。ダメだった場合にどういう対処策を取るかひたすら考えるしかない。

 ダメだった場合、どうするのか。少なくとも準備しておけば、そういう事態になっても動揺することはないだろう。諦めて淡々と準備した対応策をとるしかない。その時、怖いのは「引き寄せの法則」だろう。人は強く思っているとそういう事態を引き寄せてしまうという法則である。考えに考えて準備したがゆえにその望まぬ結果を引き寄せてしまったとなればシャレにならない。ダメだった場合の対応策をある程度準備しつつ、うまくいくと信じてそう思い込めば、不安は解消されるかもしれない。

 幸いなことに、7年前の大きなピンチ以来、大きな不安に苛まれることはない。小さな不安は、私の元々の性質なのかそれほど思い煩うことなくやり過ごせてしまう。自助努力でなんとかなるものについては、そもそもあまり不安を感じないし、感じた時には「できる」と気合を入れるか、「なんとかなるだろう」と気楽にやり過ごすかしてしまう。ただ、会社の資金繰りなどは「不安のモグラ叩き状態」なのは確かである。

 これからも生きていく上で不安を感じることなく過ごすことは不可能だろう。ある日突然やってきて、それはおそらく回避できない。しかし、恐怖心も裏返せば危機回避という点で役に立つ。適度な不安は自助努力を促したりするのにいいかもしれない。逃げられないものであればうまく付き合うしかない。願わくばまた神社に参拝して心の平静さを保つ必要があるような強度の不安にはさらされたくないということである。いつ生ずるかわからない不安に備えては、心の耐性を高めるていきたいと思うのである・・・



【本日の読書】
  


2021年5月9日日曜日

論語雑感 公冶長第五(その19)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。

【原文】
季文子。三思而後行。子聞之曰。再斯可矣。
【読み下し】
季(き)文(ぶん)子(し)は三(み)たび思(おも)いて而(しか)る後(のち)に行(おこな)う。子(し)、之(これ)を聞(き)きて曰(いわ)く、再(ふたた)びせば斯(こ)れ可(か)なり。
【訳】
季文子は何事も三たび考えてから行なった。
先師はそれをきいていわれた。
「二度考えたら十分だ」
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近年、読んで「目からうろこ」系の感動を覚えたのが、『ベスト・パートナーになるために-男は火星から、女は金星からやってきた-』(ジョン・グレイ)であり、『妻のトリセツ』(黒川 伊保子)である。いずれも女の心理を説明していて、それによると、女があれこれと問題をあげつらっても、それはけっして解決を求めているわけではなく、ただ単に話して鬱憤を晴らしているだけだというもの。私などはついつい問題に対する解決策を提示してしまうが、これはダメらしい。

 女性は問題をウジウジ話して満足するらしいが、私は解決しないと気が済まないタチで、「ならどうする?」といろいろ考えてしまう。最近、実家に行くと母親は田舎にある祖父より相続した土地に絡む問題を私に言う。それに対する解決策はとっくに説明してあるのだが、一向に動く気配がない。それも「話して満足」なのだと思って最近は聞き流しているが、毎度毎度となるとさすがに聞き流すのも限界感がある。まぁ、それでもぐっと我慢して聞き流すしかないのであるが・・・

 そういう解決策であるが、なぜかそう大して時間をかけずともふっと頭に浮かんでくることが多い。もっとよく考えたらもっといいアイディアが出てくるかもしれないと思って続けて考えてみるが、そういう時は大抵大した考えは及ばない。ふと閃いたアイディアが1番であることがほとんどである。なんとなくそういうものは時間をかけてゆっくりと慎重に考えたものの方がいいアイディアが出てくるような気がするが、私の場合はそうではない。

 似たようなケースとしては、買い物がある。私の場合、買い物にかける時間は非常に短い。女性の買い物は非常に時間がかかるものであるが、私の場合は即断即決である。高額なものはあらかじめ考えてから買いに行くので早いのは当然であるが、「目的に応じてその場で選ぶ」式であっても、ほぼ第一印象で決めてしまう場合が多い。迷うのは機能がよくわからなくて目的に叶うかどうかがわからなかったりするような場合である。なんとなく即断即決も気になって、いろいろ見て回っても、結局最初に選んだものに落ち着くケースがほとんどである。

 別に考えるのが面倒だとか、あれこれ比較して回るのが面倒だとかというわけではない(そういう気持ちもあるにはあるが・・・)。ただ、あれこれ考えてそれによってより良い考えに結びつくのであれば時間をかけることも厭わないが、たいていの場合、時間をかけてもかけなくても一緒というものが多い。最終的には「(買って)使ってみないとわからない」というものであれば、時間をかけて考えても結論は出ない。買い物であれば、いざ失敗したとなっても「このくらいの値段であれば諦められる」と思う程度の価格であれば迷う時間が無駄であると思う。

 それがたとえば、失敗したら後悔するような値段であれば、失敗したケースを想定してそれで(気持ちも含めて)リカバリーする方法を思いつくかどうかである。思いつかなければやめればいいし、思いつけば買うのである。そしてそれは、そんなに時間をかけなくてもその場で判断できるものである。となればそれほど熟考しなくても済む話である。買い物に限らずであるが、たいていはそのようにシンプルに考えて判断すればそれほど時間をかけてなんども考える必要はない。

 不思議なもので、考えついてから実行するまでに時間があるものである場合、ふとしたはずみで別のもっと良い考えが思いついたりする。それは風呂に入っている時だったり、土日の朝に目覚めてしばし布団の中でまどろんでいる時だったりする。きっと、深く潜在意識のどこかで考え続けていたのかもしれないが、それは意識して考えたものではない。そんなこともあるからかもしれないが、「これ以上考えても答えは出ない」というところまで一旦考えるからかもしれない。

 孔子の言うように「二度考えれば十分」だと思っているわけではないが、いつの間にかそんな風に何度も考えないようになっているなと自分自身思う。案外、得てしてそういうものであり、孔子も何度考えても同じ結論にしかならないということを言っているのかもしれない。それが万人に当てはまる真実かどうかはわからないが、私自身としては言われるまでもなく自然に行っていることであり、これからもそうし続けることだろう思う。それがさらに孔子のお墨付きとなれば、なお安心して続けたいと思うのである・・・



【今週の読書】
  



2021年5月6日木曜日

立ち退き問題雑感

 品川区にある実家の一角は、数年前から道路拡張のため立ち退きを要請されている。しかし、実家の両親をはじめとして、ご近所には困惑している家が多いらしい。「年も年だし、今さらどこへ行けと言うのだ」というものである。中にはあからさまに反対の声を挙げているところもあり、先日実家に行くとその主張の張り紙があった。「不要な道路整備に使う3,000億円の税金を新型コロナ対策などの感染症対策に使え!」というものである。内容的には至極尤もであると思う。

 しかし、これを見ながらつらつらと考えてしまった。「理屈はその通りだろうが、たぶんお役所的には受け入れられない理屈なのだろうな」と。私には役所勤めの経験はなく、したがってお役所の理屈などわかろうはずもないが想像はできる。たぶん、このもっともな主張に対する回答は、「予算が違う」というものであろう。道路整備と新型コロナ感染症対策とでは予算が違う。国の予算はあらかじめ決められた通りにしか使えない。だから「あっちのお金をやめてこっちに」とはいかないだろう。

 そもそも国の税金はみんなが納めた血税であるから好き勝手には使えない。あらかじめ予算を決め、国会の承認を得て使途が決められるものである。したがって、道路整備に使うといって許可を得たお金をコロナ対策には使えないだろう。もしも使うとすれば、道路整備の予算を減らして新型コロナ感染症対策の予算を増やすという作業が必要になるに違いない。それは言葉では簡単だが、実際の承認手続きとなれば膨大かつ面倒な事務作業がかかるに違いない。

 その昔、宿泊を伴う出張の際、一泊いくらという金額が決められていた。実際の金額ではなく、一律の金額が支給されるのである。それを上回る宿泊費がかかれば差額は自腹であるが、下回ればお釣りが出る。となればみんな安い宿に泊まろうとするのは人情である。ある半官半民組織に出向していた時は、出張旅費は正規の価格で請求し、実際は格安チケットで差額をポケットに入れている人たちがいた(私は断れない時=一緒に行く時以外はやらなかった)が、個人であればそんな工夫をしたりするのである。

 しかし、国の予算の場合は差額をポケットに入れるなど到底許されない(もっとも警察などでは裏金づくりなんかが行われていた時もあったようであるが・・・)。差額が出れば次の予算を減らされてしまうから、年度末に予算の駆け込み使用があると聞いたことがある。当然、余らせて他に使うということができない。素人考えではあるが、個人的には差額を次年度に繰り越すことが認められたら、税金の使われ方ももっと効率的になるような気もする。しかし、現行ではそうはいかないのだろう。

 「不要な」というのも、実に曖昧である。最近ではコロナ対策で「不要不急」という使われ方をしているが、外出する人にはそれなりの「必要」があるわけで、解釈の仕方次第でなんとでもなる言葉である。もちろん、「道路が必要な理由」の説明を求めたら、いくらでも流暢に説明してくれるだろう。ただ、それは立ち退きを求められている住民からしたらどうでもいい「不要」な理由にしかならないだろう。面白いものだと思う。

 実家の張り紙も「道路問題しながわ連絡会」なる名称がつけられているが、どういう人たちが組織しているのかも興味深いところ。共産党の人が随分話をして回っていたようであるから、もしかしたらその手の人たちが中心にいるのかもしれない。そうすると、本当に立ち退きを迫られている住民の人たちの味方なのかどうかも微妙な気がする。政権攻撃に忙しい共産党であるから、もしかしたら何らかの自分たちの政治的意図に基づいてやっているのかもしれない。

 「立ち退けと言ってもどこへ行けばいいのか」という不安に両親は駆られている。しかし、国の事業というのは一方で「時間がかかる」という特徴もある。私としては、「しばらく放っておいて大丈夫」と言っている。聞けば契約したら2年以内に立ち退いてほしいということだったから、まず契約を引っ張るということができる。年寄りである事を逆手に取れば、ダラダラ引き伸ばしが図れるだろう。折からのコロナ禍にあっては、余計に役所も何も言えないだろう。そうこうするうちに、いざ立ち退きという時には、老い先短い両親は十分に慣れ親しんだ家で暮らし、この世にいなくなっているかもしれない。

 それにしても、現在根拠となっている道路計画は、戦後間もなく策定されたものだという。両親が今の家を買ったのが40年前で、その時「道路計画予定地」になっていることの説明を受けている。そんな古臭い計画をようやくやろうとする役所の根性も大したものだと思う。たぶん、計画が完成するまであと50年くらいかかるかもしれない。その時は、両親どころか私も新しい道路を目にすることはできないだろう。まさに国家百年の計とも言える。

 国家事業の良し悪しを論ずるつもりはないが、まぁ気長に見守っていきたいと思うのである・・・


【本日の読書】