2018年5月30日水曜日

社長は電卓を持つべきではない

かつて銀行員だった頃、ずいぶん多くの社長さんとお付き合いさせていただいた。銀行員としては事業内容もさることながら、やはり財務内容に絡む話が多かったたため、財務のわかる社長は安心感があって良かったものである。それに対し、財務に疎い社長には(財務の)話がかみ合わないことがあったりして難儀したものである。特に業績不振企業担当となったあとは社長の財務知識の必要性を実感させられたものである。

 そんなわけで、財務がわかることは経営者には必要なことであるという考えを抱いている。その考えは今もって変わらないが、民間中小企業に転じた後、またちょっと違う感覚も芽生えている。それは、「社長は電卓をもつべきではない」という考えである。何かを判断する時、社長が電卓を持っているとまず電卓を叩くことになる(もちろん、喩えである)。社長が何かを判断する時、まず電卓を叩くのはやめるべきであるというのが私の言いたい事である。

会社で何かを決める時(社長が判断するような時)、それが「経営理念から判断して」どうなのか、あるいは「会社のあるべき姿として」どうなのかを判断基準とすべきであって、「損か得か」で判断すべきではないと思うのである。もちろん、企業として採算は重要である。それを無視するのはよくないが、それは周りにいる経理部長なりが電卓を叩いて「恐れながらこんな採算です」と報告すればよいのである。

社長が電卓を持っていると、何かあって判断を求められた時、まず電卓を叩いて判断する。するとそれは確かに採算には合っているかもしれないが、それよりももっと大事なものを見落とすかもしれない。それはお客様の信頼かもしれないし、社員のモチベーションかもしれない。いずれにせよ、「社長が」まず第一に考えなければならないのは採算ではないということである。

例えば新製品を開発した時、考えるべきことはまずその製品がどう人の役に立つのかということであろう。それが見込めるのであればGOであろうし、そうでなければ改善か中止であろう。GOであれば次に「採算は合うのか」、合わないのであれば「どうすれば合うのか」を考えるという順序であろう。それがまず「儲かるのか?」から入ると道を誤る気がする。

同じ不動産業者として、女性用シェアハウス「かぼちゃの馬車」を運営していたスマートデイズが破綻した問題については関心を持っている。シェアハウスは独自の運営ノウハウが必要であり(ちなみに我が社も不動産管理をやっているが、シェアハウスの管理は無理である)、建築から運営まで手掛けるビジネスモデルは素晴らしいと思う。ただ、破綻してしまったのは、「電卓優先」になったためであろう。オーナーのことより、入居者のことより、自分たちの収益をいかに極大化するかに腐心した結果だと思う。

同じ轍を踏まないためにも、まずやるべき事は採算をはじく事ではなく、世の中に利益をもたらすか否かを考えることである。「利益は後からついてくる」という考え方に通じるものだと思うが、つくづくそう思う。さしづめ我が社では「顧客満足度の向上」であり、そのための「従業員満足度」の向上である。社長も必要がなければ自ら電卓を持つこともない。そのあたりは我々役員陣がサポートするべきところである。しっかりと補佐していきたいと思うのである・・・




【本日の読書】
 投資レジェンドが教えるヤバい会社 - 藤野 英人 飲茶の「最強!」のニーチェ - 飲茶 幸運な男――伊藤智仁 悲運のエースの幸福な人生 - 長谷川 晶一





2018年5月27日日曜日

論語雑感 八佾第三(その2)

三家者以雍徹。子曰、相維辟公、天子穆穆。奚取於三家之堂。

三家者(さんかしゃ)
(よう)(もっ)(てっ)す。()(のたま)わく、(たす)くるは()(へき)(こう)天子(てんし)穆穆(ぼくぼく)たりと。(なん)三家(さんか)(どう)()らん。
【訳】
御三家が、自家の祭礼で天子の音楽である雍を歌わせてしめくくった。これに対して孔子は、「雍の詩に、祭を助けるのは天下の諸侯、天子は奥床しく控えておられる。とあるが、雍は天子の祭だけに歌われるものである筈なのに、御三家は一体何様のつもりになっているのだろうか!?」と云った。
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前回の八佾の舞もそうであったが、今度は歌のようである。天子というがそれは時の権力者のことだろうから「皇帝」だと思われる。この言葉は、本来であればその皇帝家のみに許されている音楽である雍を御三家が身分をわきまえずに歌ったのを咎めてのものであろう。どうやら孔子は「あるべき秩序」を重視していたのかもしれない。

どうしてこういう事態に陥ったのかと言えば、それは「権力の近接」に他ならない。つまり、皇帝の権威の低下とそれに伴う御三家の権威の上昇だ。孔子の生きていたのは春秋戦国時代であり、要は統一王朝のない混乱期。人はいつの世でも社会の安定が第一だと思うから、孔子もまずそれを第一に考えたであろうことは想像に難くない。となると、秩序の維持という観点から、「身をわきまえない」行為を非難の目で見たのであろう。

だが、それは果たして本当に批判されるべきことだろうかと考えてみる。孔子の生きていた時代の様子などはわからないが、多分孔子の時代には必要だったのだろう。では、現代はどうだろうか。日本でも戦国時代には「下克上」があったが、「下克上」はいいことなのだろうか。社会が安定している現代の日本では、「下克上」はどこにおいても平和裡に起こるだろうから(任侠の世界は別である)、概ね良い事のように思われる。

私が最初に経験した「下克上」はスポーツの世界だ。大学に入りラグビー部の門を叩いたが、そこは完全な実力世界。先輩後輩は試合には関係なく、実力でレギュラーが選ばれていた。先輩だからと言って遠慮する必要はなく、後輩だからと言って油断はできない。そんな世界は心地良く、私は3年時からレギュラーポジションを確保した。その次は社会人になってからだ。就職したのは都市銀行であったが、ここも古い年功序列と学歴序列は崩れゆく過渡期であった。

しかし、スポーツの世界と違って会社の人事は不透明であり、理不尽でもあった。例えば、入行して8年経つと役席者への昇格がある。一生ヒラで終わるか否かはここにかかっている。しかし、当時私が在籍していた支店では、昇格できるのは(半年に)1人と言われていた。同期は私を含めて3人。スポーツの世界では実力がはっきりとわかるが、仕事は融資や外交といったポジションでも異なるし、一概に比較はできない。そして結果的に私の昇格順位は3番目であった。

当時は外交が花形で(支店の成績は外交の営業成績に左右された)、それに比べると守りの融資は部が悪かった。そして何より理不尽だったのは、「支店に1人」という暗黙のルール。理論的には自分より劣っていても、同期が1人しかいない支店であれば昇格順位は1位である(支店長も自分の成績があるから、少々能力が劣っていても自分の部下を昇格させようと努力する)。「あいつが昇格したのに・・・」という思いはどうしたって出てくる。

そうした理不尽があって不満があれば別だが、実力があれば下の者が組織を動かしても悪くはないと思う。今は私も様々な提案を通して会社を動かしている。社長もいいと思えば認めてくれるからそれができるわけである。ただ、それでも一応身をわきまえる必要は心得ているので、社長が決定すべきことはそのように進言し、決定してもらっている。下克上もいいが、組織では秩序も必要だと思う。考えてみれば大学のラグビー部も試合は実力主義であったが、チーム運営はキャプテン中心だし、試合以外のところでは年功序列の秩序が維持されていた。それも大切な事であることは間違いない。

そうして考えてみれば、やはり根幹部分での秩序というものは必要であって、それは例えば会社組織であれば、最終決定権限などであろうか。「社長のみ」に許された行為というのがそれである。そしてその中での下克上なら、実力主義・組織の活性化といった点ではいいのであろうし、そういう意味で孔子の雍もそんな根幹部分の秩序ということなのだろう。それはやっぱり不可侵領域であるべきなのであろうと思う。

私も自由に会社を動かしているという自負があるが、身をわきまえた下克上を楽しみたいと思うのである・・・




【今週の読書】
 投資レジェンドが教えるヤバい会社 - 藤野 英人 ナポレオン時代 - 英雄は何を遺したか (中公新書 2466) - アリステア・ホーン, 大久保 庸子







2018年5月24日木曜日

日大悪質タックル事件に思うこと

日大と関西大学のアメリカンフットボールの定期戦において、日大の選手が悪質なタックルをして退場になった問題が波紋を広げている。最初は単なる悪質なプレーだと思っていたら、当の選手本人がこの行為を「監督の指示」と告白したことから、これが大問題になったものである。問題のプレーを見たが、関学のQBがボールを投げた後、間をおいてのタックルで露骨な反則行為である。私もラグビーをやっているが、ラグビーでもボールを持っていないプレーヤーへのタックルは反則である。投げ終わった直後なら、まだ「勢い」という言い訳もできるが、それでは説明のできない間があり、ここまでの露骨な反則行為には嫌悪感を覚えるものである。

ラグビーもアメフトも激しいコンタクトを伴うスポーツで、ボールを持っているプレーヤーがその最前線となる。ボールを持っているプレーヤーは当然相手の攻撃に備えて緊張状態にあるが、パスした瞬間、攻撃の対象から外れたことでその緊張がほどける。そこにタックルを食らうと無防備状態であり怪我をする可能性が高い。反則の中でも危険度が高いので、ラグビーでは同じペナルティの中でもイエローカードや酷ければレッドカードの対象になるほどであり、プレーによっては(攻撃側に有利な)前進した位置でのプレー再開となるケースもある(キッカーへのレイトタックルの場合)。

激しいコンタクトを伴うスポーツがゆえに、試合に際しては「相手を殺してやる」くらいにアドレナリンを沸騰させて試合に臨む。「殺す」は大げさにしても、相手を怪我させることについては何の抵抗もないし、むしろそのくらいしてやろうと思うのは私も経験がある。日大の選手は「潰せ」と言われたらしいが、そのくらいは当然思っていたし、私の現役時代もチーム内でそういう呼び掛けはしていた。ただし、それはあくまでも「ルールの範囲内」でだ。激しいタックルを食らわせて相手が退場にでもなれば気分は最高であるが、それは「ルールに沿ったタックルで」である。

もしもルールを越えてそれをやれば大変なことになる。まず下手をすれば乱闘になるし、試合そのものが成立しなくなる可能性もある。私も現役時代、練習試合でペナルティ行為が原因でレフリーに試合をストップされたこともある(私がやったわけではない・・・)。公式戦だったら大変だし、勝つためにやっているのにそれでは何にもならない。ルールの範囲内でやっているからこそ、お互い堂々とした「潰し合い」ができるのである。それは言わずもがなの当たり前のことで、一々断ったりはしない。「ルールの範囲内で潰しに行くぞ」なんて言わないのである。

 やった選手と指示した監督との言い分がそれぞれ対立していて、真相は闇の中である。事実は本人(それも監督)にしかわからない。世間の雰囲気的には選手に同情的で、監督に批判の目が集まっているが、そんな風潮には簡単に乗りたくないと思う。本当に「監督が指示した」なら大変な問題だし、それこそ(むしろその方が)ニュースになる。マスコミとしてはその方が好都合であり、その方向で報じるだろう。監督が無実ならニュースとしては面白くない。そんな偏見に満ちているかもしれないマスコミの報道をそうそう表面通りには受け取るわけにはいかない。なるべく偏見にまみれていない事実だけを元に考えなくてはいけないと思う。

試合前に監督(あるいはコーチ)が、表面的には「潰せ」と言ったとしても、我々もそうであったように、そこには暗黙の裡に、あるいは言うまでもない大前提として本当に「ルール内で」という気持ちがあったのかもしれない。たとえば野球でも気の弱いピッチャーに対し、「ぶつけてもいいから内角へ投げろ」という指導することはよくあることだろう。それを受けて本当にぶつけてしまったとしたら、それは本当に「悪質な指示」なのだろうか。ラグビーでも気の弱い選手に、「ペナルティを取られてもいいから思い切って行け」という指導をすることは自分にもあった。今回も(監督が主張するように)そういう可能性もあるかもしれない。プレー後に選手を労ったと報じられているが、もしもそんな指導をしていたら、結果的にペナルティを犯してしまったとしても褒める事はあっても叱責はしないだろう。

選手本人も実名を出して記者会見をするくらいだから嘘はついていないだろう。若さを考えてもそこまで狡猾だとは思えない。「監督に反則を指示された」というのならその通りに受け取ったのだろうが、監督の心中は本人にしかわからない。本当に反則行為をしてでも潰せと指示したのに慌てて取り繕って言い訳しているのかもしれないし、気の弱い選手に大げさにはっぱをかけた結果、行き過ぎたのかもしれない。いずれにせよ、真相は藪の中である。

どちらのケースも可能性があるわけであるし、それゆえにマスコミの報じる雰囲気には染まらないようにしないといけない。少なくとも、現時点ではまだ決定的な証拠は出てきていない。それがゆえに、「監督悪人説」にまみれたマスコミの報道だけを頼りに、「ひどい監督だ」と誘導されないようにしたい。別に知り合いでもなんでもない監督の肩を持つ気などサラサラないが、マスコミに踊らされるのだけは回避したい。

監督の言動より、マスコミの報道の方が信用できない私なのである・・・




【本日の読書】
 ナポレオン時代 - 英雄は何を遺したか (中公新書 2466) - アリステア・ホーン, 大久保 庸子 アキラとあきら (徳間文庫) - 池井戸潤





2018年5月20日日曜日

なんでも都合よく

先日、『朝鮮出身の帳場人が見た慰安婦の真実』という本を読んだ。「従軍慰安婦問題」は日頃から関心のあるテーマだけに、こういうタイトルを目にすれば手が出るというもの。内容については、別にまとめたブログに譲るとして、個人的にいくつか興味を惹かれたもののうちの1つは、元ネタとなった日記が公開されたとき、韓国では「日本軍の強制連行があったことの決定的な証拠だ」とされたと言うことである。内容的にはそんなことはないらしいが、見る人が見ればそうなるのだろう。

見る人が見れば、と言うよりも人は「見たいものだけを見る」ものだと思う。格言でも全く正反対のものがあるが、自分にとって都合のいい方を引用することはよくあることである。そんな「都合の良い解釈」は冷静に客観的に見ていると面白いくらいである。童話に「すっぱいブドウ」という話があったが、あれも都合の良い解釈である。そんな事例が、私の身近でも出ている。

実は、私の実家では数年前から道路拡張計画がスタートし、周辺とともに立ち退きにさらされている。齢80を超える両親は、気持ち的には立ち退きなんてしたくない。引っ越しは面倒だし、近所の知り合いとは離れ離れになるし、飼い猫はやたらなところでは飼えないし、今更別の土地で1から人間関係をスタートするのはもうしんどい。というわけで、ぐすぐすやっている。そんな両親が次の引越し先について、先日嬉しそうに相談があった。

それは、近所に空き地があって、そこを大家さんに借りて家を建てたらいいのではないかというもの。歩いて数十メートルの距離なだけに、引っ越しに伴う問題点がほとんど解消される。飼い猫のことも案じる必要もない。良さそうだと考えた私は、「すぐに大家さんに打診したら」と提案した。母も女同士仲がいいからまずは奥さんに気軽に聞いてみるということになった。ゴールデンウィーク前のことである。

そして一昨日、実家に行ってどうなったか確認したところ、「まだ話していない」ということであった。「ああ、またか」と私は思った。こういう「決めても動かない」ことはもう年中行事なのである。母に問えば、「こういうことはやはりお父さんが行くべき」と言うし、責任を振られた父は、建物にいくらかかるか知り合いの工務店から返事がこないし(その工務店からは「規模はどのくらいか」と聞かれて止まったまま)、そもそも道路付が悪いから建築にも余計な金がかかるのではないかとか、不都合な理由を挙げる。「これはいい」と嬉しそうに語っていたのはほんの2週間ほど前のことである。

もちろん、それから周りの状況は何1つ変わっていない。建築コストだって我が家を参考にすればいいと金額を教えてあげたし、不都合は何1つない。変わったのは両親の捉え方だけ。結局、動くのは面倒という思いがあるから、都合の良い理屈を並べ立てて「やらない言い訳」にしているに過ぎない。このあたりの心境が、私には痛いほどよくわかる。もしも私が実家で両親と同居していたら、話のあったすぐ次の日には母を伴って大家さんのところに話をしに行っていただろう。条件が合いそうであれば、建築士に話をして進めていたと思う。そこはビジネスで培ったスピード感が違う。

何かをやろうと思ったら、「できない理由」を探したらいくらでも出てくる。それこそできない理由を探していたら、「今日は天気が悪いからやめておこう」となるだろう。その昔、まだ携帯電話なんてなかった頃、女の子を誘おうと思ってドキドキしながら電話をしたことがある。夜7時になったら電話しようと決めていたのに、いざ7時になると「ひょっとしたら今夕食の最中で迷惑かもしれない」と思って1時間ずらし、1時間後には「今風呂かもしれない」と思っている。そしてさらに1時間経てば「夜遅い時間は迷惑だろう」と考え、結局電話できなかったりする。まだ純情だった頃の思い出であるが、今なら思った瞬間に電話をしているだろう。

自分を納得させるには、都合の良い理由が目に入ればすぐに採用する。自分の日頃の意見にあう意見が出てくれば「それ見たことか」と飛びつく。だから書かれてもいない強制連行の証拠が読み取れてしまうし、実に面白いものだと思う。そういう自分も冷静なフリをして「強制連行はなかった」という自分の考えに近いとこの本の内容を勝手に解釈しているだけなのかもしれない。客観的になるというのは、実はかなり難しいのかもしれないと思う。

主観からはどうしたって逃れられることはできない。都合の良い解釈にとらわれないためには何が必要かと考えてみると、それは「柔軟性」に尽きるのかもしれない。常に「相手の意見の方が真実かもしれない」と考える柔軟性である。「強制連行があった決定的な証拠だ」という意見をただ笑うだけではなく、それが真実かもしれないと考えられる柔軟性。そんな柔軟性を意識にとどめておいて、物事を判断するようにしたいと思うのである・・・




【今週の読書】
 橋下徹の問題解決の授業―大炎上知事編 - 橋下 徹 アキラとあきら (徳間文庫) - 池井戸潤




2018年5月16日水曜日

歴史は繰り返す

資料改ざん、行員が認識 スルガ銀が発表「営業が圧力」

 シェアハウス投資の融資で資料改ざんなどの不正が相次いだ問題で、地方銀行のスルガ銀行(静岡県沼津市)は15日、多くの行員が不正を認識していた可能性があると発表した。業績拡大のため不動産業者と一体で融資にのめり込み、内部統制も機能しなかった。今後、第三者委員会(委員長=中村直人弁護士)を設けて詳細を調べる。金融庁も検査に入っており、厳しい行政処分は必至だ。      (朝日新聞デジタル)
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先ごろ経営破綻した不動産業者「スマートデイズ」であるが、その実態が明らかになるにつれ余波が広がっている。そしてそれが今は融資元のスルガ銀行に向かっている。なんでもスマートデイズの案件に際し、不正融資を実行していたのだという。記事を読むと、通帳コピーを改ざんし自己資金があるかのように装っていたり、売買契約書での物件価格の水増しがあったらしい。これをまさか直接やっていたとは思えないが、「見て見ぬ振り」「気づかない振り」はしていたのかもしれない。

銀行が融資をする場合は、当然審査がある。その審査は、「借主が借りたお金を返せるか」という観点からなされるのだが、「自己資金」はその大事な要素である。不動産は大抵、売値に販売側の利益が入っている。したがって担保に取る時は78割を目安に融資をする。残りが自己資金である。何かあって売らざるを得なくなった時、買値より安くなるのを見越して自己資金を用意してもらうのである。なければ審査は通らない。そのためあるように装ったのであろう(他行の残高は調べようがないから通帳コピーをもらうしかないが、コピーは偽造できる)

売買契約書の偽造も自己資金がない場合はよくやる手口である。私もかつて銀行員時代に窓口に持ち込まれた売買契約書の偽造を見破ったことがある。また、まだ家を買う前に妻とオープンハウスを見に行った時、「自己資金がまだ溜まっていない」と言って断ろうとしたら、販売担当の営業マンに秘策を告げられたこともある。すなわち、「売買契約書のコピーをとって金額を改ざんして銀行に提出すれば大丈夫ですよ」というものである。「銀行にバレるでしょう」と聞いたら、「大丈夫です、1億の物件を2億と言ったらバレますが、5,000万円を6,000万円というくらいならバレません」とのたまわったのである。→「インセンティブの功罪

かくして不動産会社というものは、信用ならないところが多い(我が社は別だ!)が、それもこれも「インセンティブの功罪」と言える。それはスマートデイズだけでなく、ノルマに追われる銀行員も同じである。ニュースによれば、スルガ銀行では増益へのプレッシャーが強かったという。東芝の不正会計問題も結局、増益へのプレッシャーだったが、同じ構造だろう。スルガ銀行では、営業幹部が審査担当を恫喝した事例もあったというから、業績を上げる部署である営業が錦の御旗を得てしまったのだろう。かつての帝国陸軍のように。

一番割りを食ったのは、何よりスルガ銀行の融資を受け、スマートデイズのシェアハウスを買った人たちだ。「銀行が審査OKを出すなら大丈夫なんだろう」という幻想は、まだまだ世の中にあるようで、深く考えず(というより与えられた狭い情報の範囲内で判断して)、購入してしまったのだろう。当然だが、銀行は万が一のことを考える。返済できなくなれば、〇〇の資産がある、一部上場企業に勤めていて収入が多い等々身ぐるみを剥ぐことを想定してOKしているのである。銀行がOKしている理由を知れば背筋が寒くなるだろう。

私もバブル期に銀行に入行した身として、業績至上主義の功罪はよくわかる。研修では、「融資は物件価格の7割」と教えられていたのに、現場に行けば、「時価まで大丈夫なんだ」と稟議(審査書類)の書き方を教わった。「融資係の仕事は難しい案件をいかに通すかだ」と教えられた。「この案件は無理じゃないですか」と営業担当者に言えるようになったのは、バブルが崩壊した後だった。国でも三権分立の考え方があるが、銀行も審査部門が独立して強い力を持っていないと、いつまで経っても同じことを繰り返すだろう。

入行2年目に転勤して担当したあるお婆さんが忘れられない。その時点で銀行は「相続対策」で10億円の融資をしていた。営業担当者はさぞかしボーナスをたくさんもらったのだろう。元金は10年据え置き条件で、満室でも利息の支払いが目一杯。将来的に家賃は下がるだろうし、修繕費もかかってくる。空室も出るだろうし、その状態で元金返済が始まったらどうなるのだろうと、暗い気持ちになった。そんな実情を多分詳しく知らないそのお婆さんは、いつも私が訪問するたびに温かく迎えてくれた。その後どうなったのか、私に知る勇気はない。

銀行と不動産業とは隣り合わせである。うまくタッグを組めば人を幸せにできると思うが、そこに欲が絡めば最悪の組み合わせとなる。今は立場を変えて不動産業者となったが、取引金融機関とは良いお付き合いをさせていただいている。これからも常に清く正しくあって、いい関係を続けて行きたいと考えている。バカな事例を身近で見聞きしてきた者として、襟を正して背筋を伸ばして商売していきたいと思うのである・・・




【今週の読書】
 世界最高の人生戦略書 孫子 - 守屋 洋 朝鮮出身の帳場人が見た 慰安婦の真実―文化人類学者が読み解く『慰安所日記』 - 崔 吉城






2018年5月13日日曜日

論語雑感 八佾第三(その1)

孔子謂季氏。八佾舞於庭。是可忍也。孰不可忍也。
(こう)()季氏(きし)()う、八佾(はちいつ)(てい)()わす、(これ)(しの)ぶべくんば、(いず)れをか(しの)ぶべからざらん。
【訳】
孔子が季孫氏を批評して云った、「季孫氏は家廟の祭礼で、天子のみが用いる八佾の舞楽を公然と自分の庭で舞わせた。大夫(家老)の身分では四佾で舞うべきところなのだが、天子の舞楽を舞わせるとは、僭越も甚だしい。このようなことが平気でまかり通るなら、どんな大それたことでもしでかしかねないだろう」と。
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論語も解釈が難しい。というよりも、原語がわからない身としては、訳に頼るしかないわけであるが、いつも頼りにしている「Web漢文大系」では、この訳は「季氏は前庭で八佾の舞を舞わせたが、これがゆるせたら、世の中にゆるせないことはないだろう」となっている。これだと最初はよくわからなかったが、上記の訳(実は中学生向け)だとスッキリ理解できる。論語を学ぶには、どの訳を選ぶのかがまず大事だと思う。

ここでは、本来皇帝家のみに許されていた舞を多少の権勢に驕って身の丈を超えて舞うことを許せないとしている。人間、自分に自信がついてくると驕りが出てくる。現代社会でも似たような事例はいくつもあるのではないかという気がする。「成金」という言葉は、否定的な意味合いが強いが、この言葉に含まれているニュアンスには、きっと「八佾の舞」に通じるところがあるように思う。

そういう自分に、では何か似たようなことで許せないと思うようなことはあるだろうかと自問してみると、ちょっと思い浮かばない。ただ、我々日本人のDNAには「分相応」という言葉が刻み込まれているから、「分不相応」に関しては割と反発心が起こりやすい気がする。例えば年下の者が年長者を飛び越えて意見を言ったり、あるいは部下が直属の上司を飛び越してその上の上司に直接意見を言ったりする場合に反発されるのはよくあることである。

反発する根底には、「権威」というものがあるように思う。皇帝家のみに許されている(=権威ある)舞をそうでないものが舞うことは、皇帝家の権威を侵犯する。舞う方にしてみれば、自分にもその権威にふさわしいという思いがある。直属の上司を飛び越えて意見を言えば、飛び越えられた上司の権威が揺らぐ。反発には自分の権威を守りたいという気持ちもあると思う。それは直接脅かされる直属の上司だけでなく、自分以外の者に権威を飛び越えられても困るという周りの者の気持ちもあるだろう。

権威を守ることは、一方で秩序を守ることでもある。孔子が反対するのは、皇帝家のみに許されている舞を多少権勢があるからと言って、下の者が舞うことは秩序維持の観点から好ましくないとの判断だろう。会社のヒエラルキーの中も同様で、秩序が揺らぐことは国や組織の安定を脅かすものだと言える。それはその通りだと思うが、それは一方ではまた組織の停滞の原因にもなるだけに難しいところである。

ただ、孔子の時代の中国と現代の日本社会という文脈の中では、単純に比較できないものがあるだろう。何よりも社会の安定が大事だったかもしれない孔子の生きていた環境では、権威を守ることが何より大切だったのかもしれない。それに対し、今の安定した日本の社会の中では、むしろどんどん秩序なんて壊していった方が、新陳代謝という意味でいいかもしれない。八佾の舞を誰もがどんどん舞うべきなのかもしれない。人が踊るのが許せないなら、自分はもっとうまく舞えばいいではないかという考え方もできる。

そうは思うものの、では自分はどうしているかと言うと、きちんと舞わずにいるかもしれない。今所属している会社の中では、自分より上の社長に対して守るべき分限を守っている。社長にやっていただくべきことは、やってもらうようにしている。社長がやらないならやるように説得してやってもらっている。やっぱり社長の権威を守ることで社内の秩序を維持していると言える。孔子の言いたかったことはこういうことかもしれない。

八佾の舞を分を超えて踊る良し悪しは、結局その組織ごとに考えていくべきことなのかもしれない。いろいろと考えてみると面白いと思うのである・・・




【今週の読書】
 朝鮮出身の帳場人が見た 慰安婦の真実―文化人類学者が読み解く『慰安所日記』 - 崔 吉城 世界最高の人生戦略書 孫子 - 守屋 洋





2018年5月10日木曜日

30年

大学を卒業したのは1988年の3月。つまりちょうど30年前である。この春は私が社会人になって30年目の節目となる年なのである。30年前、大学を卒業した私はそのまま都市銀行に入行。同じ大学から一緒に入行した同期は22名であった。全体で何人入行したのかは忘れてしまったが、有名私大ほどではなかったにしても結構多い方だったと思う。その時の同期の仲間と久しぶりに再会した。

 集まったのは、現在東京に勤務している者14名。14/22だからわりと集まった方だと思う。これだけ集まったのは、内定が決まってからみんなで「拘束旅行」として連れていかれた時以来だろうと誰彼ともなく声が上がったが、事実、入行してからこれまでみんなバラバラの道を歩いてきている。関東配属組と関西配属組に別れたところから始まり、独身寮もバラバラ、おまけに配属支店もバラバラだったから余計だろう。

 個々には会っていたりする仲間もいたが、早々に辞めた者など20年ぶり、あるいはほとんど入行以来という仲間もいて、それはそれは懐かしい集まりであった。久しぶりの集まりとなると、気になるのはお互いの容姿の変貌。昨年暮れに高校の先輩の集まりに参加したが、ほとんど37年ぶりに会った先輩の中には、まったくその人とわからない人もいたからである。それについては、髪の毛とお腹周りが笑ってしまうほどの変化のある者もいたが、それほど酷い変貌がなかったのが残念でもある。

 もう1つ気になるのはお互いの現状。なにせ銀行は50代前半でほぼ銀行内でのキャリアを終える。そこから一度退職金をもらって、関連会社か一般の事業会社を紹介してもらって「転籍」する。体のいい人件費削減策(あるいはポスト確保策)であるが、銀行に残っているのは少数派である。そして互いの序列についても微妙な雰囲気が漂う。やはり同じ大学を出ていたとしても、それぞれの歩みの中で出世するスピードも異なる。同期だから飲み会の時は昔と同じだが、同じ職場で働くとなったら「身分の違い」がはっきりと表れる。

 私はもう銀行を退職してしまっているから関係ないが、男の場合、どこかでそういう「お互いの地位」を意識することがある。別にそれで態度が変わることはないが、どこかで意識し合っているのは確かだと思う。ただ、それもみんな銀行を退職、あるいは転籍して離れてしまうまでなのかもしれない。少なくとも、自分はもう気にならない。確かに転職したところは小さな中小企業に過ぎないが、それでもある程度自分に自信があると不思議なことに引け目は感じない。

 転籍仲間は、従業員2,0005,000人なんて規模の大きな会社に行っているのもいて、会社の規模では私とは蟻と象くらいの差があるが、毎日楽しく充実して仕事をしていると、そういう規模の差も気にならない。会社を発展させるのも自分の腕一つだし、うまく生き残っていけば定年など関係なく働ける。「鶏口となるも牛後となるなかれ」ではないが、ストレスもなく働けるいい環境が一番だと思う。

 30年前には想像もできなかった互いの姿であるが、久しぶりに空白を埋められていい機会であったと言える。これからみんな暇になるし、また集まる機会も増えていくかもしれない。大学時代はほとんど互いに交流もなく、ただ「同じ大学を出て同じ銀行に入った」という間柄ではあるが、これもまた一つの繋がりと言える。今年の目標の一つとして、「友人に会う」を掲げていたから迷わず参加を決めた(そうでなかったら行かなかったかもしれない)が、行って良かったと思う。

 これからこういう「再会」も増えるかもしれない。それについては、迷わず参加するようにしようと、改めて思えた一夜であった。それとみんな互いに人生の終盤戦に向かって、今度は出世競争ではなく満足の行く人生を送る競争となる。新たな競争のスタートに、こちらではみんなに負けないようにしたいと思うのである・・・ 




【本日の読書】
 朝鮮出身の帳場人が見た 慰安婦の真実―文化人類学者が読み解く『慰安所日記』 - 崔 吉城 ボクたちはみんな大人になれなかった(新潮文庫) - 燃え殻





2018年5月6日日曜日

シニアラグビー

2013年に思い立って大学のシニアチームに参加してラグビーの練習を開始した。最初こそはすぐに息が上がり、昔は追いつかれる事すらなかった足の遅い同期に追いつけなくてショックを受けたが、少しずつ体を動かしてきたせいで、ここのところはまともに走れるようになってきている。昨年春に試合にも出場した。母校(高校)のラグビー部のOBチームが恒例行事としている試合であるが、今年も参加。残念ながら足を痛めて途中でリタイアしてしまったが、なかなか満足いくものであった。

先の試合では、スタンドオフに初挑戦。ずっとフォワードでやってきたが、新しいポジションというのも良いチャレンジでなかなか楽しい良い経験であった。練習再開した時は、本当にボールを持って軽く走るだけという感じであったが、汗を流す快感に慣れてくると、もっともっとと欲が出てくる。そしてとうとう「試合に出たい」というところまで来てしまった。さらには「新しいポジションにも挑戦したい」と欲深くなってしまった。

すでに2着目の練習用ジャージを購入し、試合で痛めた足もよくなって来たので、昨日1ヶ月ぶりに練習再開となったのである。集合時間の少し前にグラウンドへ行き、1人パント(ラグビーのキック)の練習。それも左右で蹴れるようにと、右、左と交互に蹴る。新しいポジションに必要なのは何だろうと自分で考えながらである。グラウンド内だけでなく、本(『日本ラグビーの戦術・システムを教えましょう』)も読んで知識のアップデートに務めている。「充分わかっている」と思いがちだが、謙虚に学び直そうと思うのである。

ラグビーといえば、激しいぶつかり合いのスポーツであり、当然若者のスポーツである。テニスなどはある程度年齢がいってもできるだろうが、ラグビーはそうはいかないと一般的には思うだろう。「年甲斐もなく」と言われればその通りだと思う。体はただでさえ衰えているのだし、怪我をしやすくなっているところに持ってきて、さらに怪我をしやすいスポーツをする無謀さも理解できる。ただ、味を覚えてしまうともうやめられないものがある。

昨日は試合形式の練習をしたが、激しいぶつかり合い(と言っても若者のそれと比べるとソフトである)の後、気がつけばあちこちあざはできているし、爪は剥がれかけているし、打撲痛は言わずもがなであるが、そういったものが嫌かというとそうでもない。むしろ心地良い痛みと言ってもいい。それを上回る満足感が不快感を上回っていると言ってもいいかも知れない。

大学のシニアチームの練習は1ヶ月に1回のペースであり、段々それが物足りなくなってきて、高校の先輩のつてを頼って今のチームに参加。毎週土曜日の練習を楽しんでいるが、近頃それでも少し物足りなくなってきている。週2回でも良いかも知れない。それに体も鍛え直したくなってきている。ジムに通ってバーベルを挙げようかと熟考中である。やはり人間、「もっともっと」となるのであろう。

世の中、高齢者に近づくとアンチエイジングという言葉がはやる。何となく如何なものかと思っていたが、シニアチームの面々の衰えた体を見ていると、そして学生チームの若者の張りのある筋肉を見ると、自分も体の衰えとそれを何とかしたいという気持ちが芽生えてくる。女性が少しでも張りのあるお肌を維持したいというのと同じかもしれない。自分ももう少し筋肉を復活させたいと思うようになってきたのである。

何でもそうだが、「もう歳だから」という言葉は使いたくないと思う。それでもいずれどうにもならなくなる時はくるだろうが、まだまだ体は動く。ならば「歳だから」とブレーキをかけるのは良くないように思う。グラウンドに集う諸先輩を見ているとそう思う。みんな楽しんでいるのだ。体も痛いし、怪我もするし、だけど練習に出てくる。1人ではできないことだけに、自分も末長くその一員でありたいと思う。

健全な精神は健全な肉体に宿るというが、体がしっかりしていると気持ちも明るく前向きにチャレンジングになれるものである。それは仕事でも生きてくるだろうし、自分もいつまでも自信を持っていたい。まだまだ自分より20キロ重い人の突進を止められるし、さらに力強さを復活させたいと思う。人がどう思うと関係なく、若者から見ると見すぼらしかったりしたとしても、やめられないしやめたくない。

「もっともっと」と求めていきたいと思うのである・・・




【今週の読書】
 日本ラグビーの戦術・システムを教えましょう - 斉藤健仁 アマゾンが描く2022年の世界 すべての業界を震撼させる「ベゾスの大戦略」 (PHPビジネス新書) - 田中 道昭 花咲舞が黙ってない (中公文庫) - 池井戸潤





2018年5月2日水曜日

藪の中

財務省の福田前事務次官のセクハラ問題で報告書 (2018/05/01 19:17)
財務省は先週、福田前事務次官がテレビ朝日の女性記者にセクハラ行為をしたと認定し、謝罪したうえで、「調査を終了する」としました。この調査を担当した財務省と顧問契約を結ぶ弁護士事務所によりますと、これまでに財務省に伝えたのは、概要のみで、最終的には報告書を提出するということです。他のセクハラ被害の相談があったかも含めて、報告書を公表するかどうかは「財務省が判断すること」としています。
テレ朝news
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ここのところ政権を揺るがすような不祥事が続いている。財務省次官のセクハラ疑惑だとか自衛隊の日報だとか。野党にしてみれば政権批判の好機なのだろうが、個人的にはどうもすっきりしない。例えば上記のセクハラ疑惑だが、結局詳細はわからない。「認定した」からには、それ相当の根拠があったのだと思うが、本人は否定している。引っ掛かるのはその言い訳の中で、「全体で判断してくれ」と言っているところ。部分部分では確かにそのようなことを言っていても、「文脈の中では違う」ことは往々にしてあり得ることである。

こういう場合、どういうスタンスを取るべきなのかと考えると、自分としてはやはり中立的な立場でいたいと思う。すなわち、「セクハラしたなんて悪い奴だ」と決めつけるのではなく、淡々と事実のみ捕らえて「批判も擁護もしない」という立場である。というのも、マスコミのニュースなんて危なくて信用できないからである。それが例えばTOKIOの山口達也のように本人が涙ながらの謝罪をしているなら事実だろうと信用できるが、本人が否定しているならあくまでも立場は中立でいたいと思う。別に見も知らぬ事務次官をかばうつもりもないが、かといって何があったかを知らぬままマスコミ報道を鵜呑みにしたくないだけである。

例えば、今回のケースでは、ネットでは「記者が誘ったんだろう」という意見もある。それが正しいとも思わないが、今回2人で食事に行ったのは果たしてどちらから誘ったのか。それも大きなファクターだと思う。男なら女性を口説きたいと思うのは当然だし、セクハラではなく口説いたつもりだったのかもしれない。まぁそれにしたところで、自分の地位と相手を考慮すれば、そもそも食事に行ったのが間違いな訳で、「バカだなぁ」と思われても仕方ない。

本人を弁護するつもりなどサラサラないが、批判するなら適切にしたいと思う。そもそもはどちらから誘ったにしても(本人から誘ったのなら猶更である)、2人で食事に行くのが間違いである。誘うにしても相手を見極めないといけない。自分の部下とか取引先など(自分の誘いを)断りにくい相手を11で誘うのはまずいだろう。おそらく事務次官まで出世するような人だから、女性関係のトレーニングなどしてこなかったに違いない。そこは「英雄色を好む」のとはわけが違う。所詮、官僚などは出世したとはいえ「英雄」とはほど遠いだろう。そうした免疫のなさが敗因のような気がする。

今回の件については、芥川龍之介の小説『藪の中』を思い出す。ある殺人事件を巡って関係者の証言が錯綜し、本当の事がわからないという内容である。事実は当事者にしかわからない。先日、『江副浩正』という本を読んだが、その中で説明されていた「リクルート事件」の経緯は当時のマスコミ報道のイメージとは違うものである。そんな例は、最近復権した田中角栄さんのロッキード事件でも感じたことである。マスコミの報道なんてまったく信用などできない。

自衛隊の日報だって、出てきたなら出てきたでいいじゃないかと思う。問題は内容だ。モリカケ問題も然り。野党やマスコミの主張はそのまま受け入れていたらバカになる。何が問題なのかという問題意識を持っていれば、少なくとも「なんか変だ」というのはわかる。素人にはすべての真相などわかるはずもないが、「なんか変だ」と思ったら、中立に立つのが一番だと思う。セクハラがあったかどうかはわからないが、ただこの次官殿はあきれるぐらいアホなのは確かだろう。それだけは確かに言えると思う。

真相は藪の中。知らぬまましたり顔であれこれ意見を言いたくはない。信用できぬマスコミ報道に基づいてあれこれ踊らされるようなことのないようにしたいと思うのである・・・




【本日の読書】
 アマゾンが描く2022年の世界 すべての業界を震撼させる「ベゾスの大戦略」 (PHPビジネス新書) - 田中 道昭 花咲舞が黙ってない (中公文庫) - 池井戸潤