有子曰。禮之用。和爲貴。先王之道斯爲美。小大由之。有所不行。知和而和。不以禮節之。亦不可行也。
有子曰く、礼の用は和を貴しと為す。先王の道も斯を美と為す。小大之に由るも、行われざる所有り。和を知りて和するも、礼を以て之を節せざれば、亦た行う可からざるなり。
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聖徳太子が制定した17条憲法の第1条に「和を以って貴しとなす」という有名な言葉がある。何よりもまず第1条に「和が大事」という言葉がきていることは、日本の文化を表しているという人もいるが、そんな和を大事にする我々からすると、今回のこの言葉はスムーズに入ってくるところである。17条憲法もここから来ているのかと思うくらいである。
しかしここでは、「和」よりも「礼」に重きが置かれている。ここでいう「礼」とは、岩波文庫によれば、「主として冠婚葬祭その他の儀式の定め」だという。「和」も大事だが、それには「礼」によって節度を持たせないといけないということなのだろうが、その意図するところはちょっとわかりにくい。わかりにくいのは、時間と言葉の壁なのかもしれない。このあたり、中国古典の限界なのかもしれない。
礼によって節度あるものとならしめられる「和」であるが、果たしてどういうものかと思ってみる。互いに相対立する意見があって、そこに「和」をもたらそうとすると、どうしてもどちらかが折れないといけない。あるいは、以前述べた通り「折衷案」を出して双方が譲り合うしかない。しかし、口で言うほど簡単ではない。どちらか一方の意見が通った場合でも、通らなかった方には忸怩たる思いが残るかもしれないし、中途半端な折衷案が問題解決に役立たないことも多々あることだからである。
仕事でもよく議論があるが、ある人はいつも自分の意見をはっきりと主張しない。だから議論になってもいつも私の意見が通ってしまう。もちろん、私は私なりに根拠を持って話しているので、自分の意見が通ることは満足であるし、会社としてもその方が良いと信じている。だが、いつもいつもそれでいいのかと思わなくもない。自分と違う意見と接した時に、いつも自分の意見を引っ込めていていいのだろうかと。いつも議論に議論を重ねていると疲れてしまうのだが、すんなり通るのもそれはそれで不満が残る。
礼をもう少し広く解釈して、相手に対する敬意と考えればすんなりと理解できる。議論をするとは、意見の衝突である。互いに我こそは正しいと信じているわけで、でもどちらかに決めなければならない。その際、採用された方は得意満面となるだろうし、意見が通らなければ面白くない。しかし、そこで意見が通らなかった方も顔が立てばスムーズに納得できる時もある。その「顔を立てる」ことが、「和」を維持するためにも必要であろう。「今回はやむなく不採用となったが、あなたの意見は貴重な意見だ」という態度である。
これを「礼」とするなら、まさに「礼」こそが大事なファクターだということになる。孔子の説いた「礼」が冠婚葬祭における形式的な行為であったのかどうか、その真に意図するところはどうなのか私にはわからないが、「相手に対する敬意」とするなら、すんなり納得できるところである。そしてそれが自分に備わっているかと考えると、どうも怪しい。ついつい自分の意見を主張することに熱中しがちになってしまうのである。
声高に自分の意見を主張することも大事だが、その場にいる一人一人の意見にもしっかりと耳を傾け、意見を言わない人も実はいい意見を持っているが遠慮して言わないだけかもしれないので、そういうところにも気を配りながら全体の意見を集約していく。そんな態度が取れたらいいと、自戒の念を込めて思う。
「礼」と「和」。議論する時に、心したいと改めて思うのである・・・
【本日の読書】
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