先日、元銀行員だったというあるお方にお会いした。某銀行のニューヨーク支店で支店長をやられていたという立派なご経歴の方である。その方が某銀行の出身ということはお聞きしていたが、「ニューヨーク支店長」だったという肩書までは存じなかった。なぜわかったかというと、その方が自ら語ったからである。
元銀行員で支店長経験者は、必ずといっていいほど(と言っても私もそれほどたくさんの方とお会いしているわけではないのだが・・・)出てくるセリフがある。それは、
「私が〇〇で支店長をやっていました時に~」
というセリフである。冒頭の元ニューヨーク支店長も、見事に「私がニューヨークで支店長をやっていました時に~」と語っていただいたのである。
何がおかしいのかと言えば、「支店長やっていました」という部分である。「私が〇〇支店にいました時に~」と言えば済むものをわざわざ「支店長をしていた」という事実を付与する意図は何なのかと思う。それは一言で言ってしまえば「自慢」、「自負」以外の何物でもない。意図してか否かは別として、ご本人に誇らしい気持ちがあることは間違いない。
銀行で支店長をやるということは、今は昔に比べてだいぶステイタスが下がっているが、それでもまだ一国一城の主である。それなりに出世しないとなれないし、そこは大したものだと思う。ましてやひと昔前の支店長は尚更である。本人も自身のキャリアに鼻の高さを感じているのも事実であろうと思う。そうした誇らしさが、思わず言わずもがなの「私が〇〇で支店長していました時に~」という言葉になって表れるのであろう。
そうしたことを気にする人と気にしない人がいるだろう。私はやはり気になる方である。会社内の地位は世間の地位とは関係ない。「支店長をしていた」という事実は、銀行内では大したものだと思うが、世間でそうとは限らない。だから業務では肩書を言う必要があっても、業務外の第三者に言う必要性は何もない。言いたいのだろうとは思うが、言われたところで、「へぇぇ」と思いながらも聞き流すしかない。
そもそもであるが、人間は関西弁でいうところの「自慢しい」だと思う。つまり「自慢したがり」である。かく言う私もそういう気持ちは強く持っていて、あまり露骨なものは自分でも嫌になるが、例えばの実例で自分の実績を持ち出すことはよくある。わかりやすい実例を挙げたい場合は、「仕方なく」自分の実績を持ち出すのである。まぁ、「人の振り見て我が振り直せ」で、ほどほどに自制したいと思うのではあるが・・・
「実るほど首を垂れる稲穂かな」という言葉がある。私の普段尊敬している方も、八十を越えてもまだまだお元気で、しかも誰もが認める大組織のトップを歴任された経歴を持っているのに、それでいて自慢めいた話はまったく出てこない。よくよく聞いてみると、総理大臣と関わり合ったりしているのだが、そんなことは聞かねば教えてくれぬほど謙虚な方である。実績においては真似すべくもないが、その姿勢だけは真似できるし、真似したいと思うのである。
私もこれから年を取り、ますます実りゆくであろう。その時にいつまでも過去の自分を誇っているだけではありたくないものである。首を垂れる稲穂であるべく、心掛けていたきたいと思うのである・・・
【本日の読書】
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