車のミラーに関する国際基準が改定され、カメラの使用が可能になったことを受け、日本でもミラーレスカーの開発が可能になったという。すでにドイツでは、ミラーレスカーが開発されているらしい。ミラーレスカーとは、文字通りミラーがない車で、ミラーの代わりにモニターを利用するものらしい。
既に我が家の愛車プレマシーは、後方モニターが付いていて、バックの際に重宝している。免許を取った時に、取る前と一番違いを感じたのは「車両感覚」であった。運転の上手い下手を決める要因の一つがこの車両感覚であることは間違いない。私の従姉妹は、運転はできるが、車庫入れは兄貴に代わってもらっている。私も父親の車で随分「練習」させてもらったおかげで、車両感覚は割とある方だと思う。
そんな私でも、バックモニターにはかなわない。何せ自宅では壁から1センチのレベルでバックして止められる。車両感覚では到底難しい。せっかく磨いた車両感覚も、モニターを使えば初心者にも負けるだろう。ドイツのミラーレスカーは両サイドのミラーを廃止し、モニターに切り替えたものらしいが、センサーの働きで近くにいる車の距離までわかるというから、これは優れものだ。かつて私は、車線変更で左後方の車と接触してしまったことがあるが、こうした事故も防ぐことができそうである。
既に自動運転はかなり開発が進んでいるというから、私が生きているうちに一般化するのかもしれない。そうすると、もう運転技術など関係なくなるだろう。私の父は80歳を前にして愛車を廃車したが、モニターとセンサーで「武装」した車が普及すれば、運転も心配で無くなるだろうし、自動運転となれば免許のない母親でも一人で乗れるということになる。そうなると、そもそも免許など不要となるかもしれない。
すべての車が自動運転となれば、車は車道を制限速度で走り、変わりかけた信号に突っ込むこともないし、無理な追い越しもしない。居眠りしてても平気だし、酔っ払い運転もなくなる。そうなると交通事故が大激減するだろう。ドライブレコーダーはすべてを記録しているから、万が一の事故の際も揉めることはない。そうなると保険も安くなるし、良いことづくめな気がする。家から遠くの私立に通う小学生は、一人で車に乗って通学することもできるだろう。そんな社会は、もう夢物語ではなくなってきている。
私が免許を取った32年前は、車はまだマニュアル車が全盛で、「モテる男」に車は必須アイテムだった。女の子は、一般的にマニュアル車の運転を苦手とし、従姉妹のように車庫入れは苦手だし、免許があってもペーパードライバーと言うパターンが多く、車こそ男の威厳を示せる場とも言えた。もっともそれを逆手に取られて、「アッシーくん」(もはや死語だが、要は都合のいい運転手くんだ)になっていたヤツもいたようだが・・・
あの頃は、銀行の友人知人はローンを組みやすかったと言うこともあって、結構若くしていい車に乗っていたりした。私はといえば、「男は中身だ」と言って、いい車にもファッションにも関心を持たなかったから、13万円で買ったマーチを誇らしげに乗り回していた。映画『ビバリーヒルズ・コップ』で、エディ・マーフィーがポンコツのシボレーを乗り回していたのがなんとも言えずカッコよく思えたこともあった。「車で男を選ぶ女を選別できる」とうそぶいてもいた。
あの頃、自動運転車などと聞いたら、それこそ「おもちゃ」だとして見向きもしなかっただろう。「車はマニュアル車」が男の沽券で、オートマチック車でさえ「運転の下手な男の乗り物」だと見下していた。今のプレマシーはオートマチック車とはいえ、マニュアルにも切り替えられるから、たまに遠出した時などは、マニュアルモードに切り替えて楽しんでいるが、間違いなくそんな昔の名残である。
今はむしろ、自動運転車が早く普及しないかという気持ちでいる。運転の手間も省けるし、家族でスキーに行った帰りなど、遠慮なく居眠りしながら帰ってこられる。もはや沽券を示す必要もないし、ポンコツのシボレーも年齢的に似合わない。車に対する感じ方も時代と年齢とともに変化するということだろう。いずれにせよ、人間の力をAIを中心としたテクノロジーがサポートしていく時代である。事故がなくなるのならそれはそれで素晴らしい未来だ。
そんな私の想像は、いつか自分が死んだ時、自動運転の霊柩車で火葬場まで運ばれるところまで及ぶのである・・・
【本日の読書】
そんな私の想像は、いつか自分が死んだ時、自動運転の霊柩車で火葬場まで運ばれるところまで及ぶのである・・・
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