2013年12月31日火曜日

2013年年末雑感

 2013年も最後の一日となってしまった。例年通り我が家はこの日最後の大掃除。大した家でもないのだが、大掃除は例年4日間に分けて行っている。今日は玄関周りと洗車だった。

 始めの頃は、デッキブラシでゴシゴシこすっていたからかなりの重労働だった。今は、高圧洗浄機があるからかなり便利。みるみる汚れが落ちていくのはなかなかの快感である。


 終わって昼間に年越しそばも恒例。夕食はいつもすき焼きでお腹いっぱいになってしまうから、昼間に年越しそばを食べるのである。そして紅白を見ながらすき焼きを食べて、あっという間に新年になる。

 今年は娘が小学校を卒業。残念ながら、都立の中高一貫校受験は失敗。今は地元の公立中学に元気に通っている。失敗と言ってもそれは一時の事。長い目で見た時に、それが失敗なのかどうかはわからない。むしろそれが何かに至るための道だったりする事もあるから、失敗かどうかはわからない。

 自分はどうだろう。体を動かそうと大学のラグビー部のシニアチームに参加したものの、初回で足を痛めてリタイア。後半はお手伝いしている『寺子屋小山台』のスケジュールと重なってほとんど行けなかった。来年はもう一度やり直しだ。

 家族でスキーに行けたし、夏にはサイパンにも行けた。贅沢を言えばキリがないが、個人的には十分満足している(家族は物足りないかもしれない)。ブログはすっかり更新頻度が落ちてしまっているが、フェイス・ブックもあるし、映画を観て本を読んで、それらのブログも更新して、合間に勉強もしてとなるとさすがに限界だ。せめて来年はこのペースを維持したいと思う。

 いろいろと抱えこんでいた問題は、いまだ解決の兆しはない。ただ、底にコツンと当たったような感じがする。ここが底で、これから少しずつ浮上するのだとしたら、今の苦労も悪くはない。物事は考え方一つ。この程度の悩みと苦労で済むなら、大いに背負おうという心意気で行きたいものである。

 さて、明日から新しい一日、新しい月、新しい年が始る。昨日よりもより良い今日、そして今日よりもより良い明日と考えるなら、今年よりももう一歩進化したい。仕事でもそれ以外でも何かの、誰かの役に立てるようにしたいものだ。世の為、人の為と大言壮語するつもりはないから、誰かとは自分と関わり合う身の回りの誰かで良いと思う。

 それは親であり妻であり、子供たち、そして親戚・友人・知人だろうか。顔を上げ、前を向き、常に前傾姿勢で倒れる時も前に倒れる。今年もそんな気持ちでやってきたが、来年も続けてその姿勢を保ちたい。より良き明日に備えて、2013年の完了キーを、今年も押したいと思うのである・・・


【先週の読書】
ソロモンの偽証 第I部 事件 - 宮部 みゆき







2013年12月27日金曜日

フィギュアスケート

 先週末、我が家の夕食の席では珍しくテレビがついていた。基本的に我が家では、食事の時はテレビをつけないのがルールである。だが、たまに例外もある。どうしても見たい番組がある場合で、先週末はそれが妻の希望する「フィギュア・スケート」であった。ソチオリンピックの選考会も兼ねた全日本選手権が開催され、妻はそれに夢中になっていたのである。

 何となくその場の雰囲気でみんなで観ていたが、考えてみればこの“スポーツ”も不思議だと思う。そもそも“スポーツ”なのだろうか。まぁ、オリンピック種目だし、採点をして点数を競うので、やっぱり“スポーツ”なのだろう。“スポーツ”には違いないのだろうが、ただ観ている立場からすると、氷上バレエという気がする。だが、バレエは“スポーツ”ではない。見せて楽しませる“芸術”であり、採点をして点数を競うというものではない。まさに「似て非なるもの」と言えるだろう。

 さて、“スポーツ”と言ってはみたものの、このスポーツはわかりやすくて実にわかりにくい。何がわかりにくいかと言えば、優勝劣敗だ。素人目には、誰が勝ったか負けたかはわからない。終わって採点の結果が表示されて、はじめて結果がわかる。こういうスポーツも珍しい。

 我がラグビーも、よく人から「ルールがわかりにくい」と言われる。だが、「ボールを前に投げてはいけない」というルールはよく知られているし、難しい反則はレフリーを見ていれば「何か反則があった」とわかるだけで十分だし、何よりトライという明らかな結果は素人でもよくわかる。

 されど、フィギュアの場合、ジャンプやスピンや一時有名になった「イナバウアー」などが技術として採点されるのだろうということはわかっても、では「今のが何点か」となったらわからない。さらにショートプログラムとフリーとに分かれているが、何がどう違うのかわからない。いきなりテレビをつけて、フィギュアをやっていたとして、それを見てそれがショートかフリーかを果たしてみんなわかるのだろうか。

 こんなにわかりにくいスポーツのどこがいいのだろうか。その答えは、観ていればわかる。やっぱり観ていて、特に女子の演技は優雅でいいなぁと素直に思う。特に浅田真央は、トリプルアクセルがどうのこうのと言われているが、個人的にはくるくる回るスピン系の演技に見惚れてしまう。バレエでは表現できない“美しさ”のようなものを感じる。いつの間にか、つられて観入ってしまっていた。

 そうして振り返ってみると、いいなぁと思ったのは華麗かつ優雅な氷上の演技であり、ジャンプの技術がうんぬんではない。スポーツなのに、スポーツの要素では心が動かず、見事な舞いという芸術的な要素にテレビの前に釘付けになっていた。
まぁスポーツであろうがなかろうが、あまり観るのには関係がない。ソチの大舞台では、日本勢の活躍はどうだろうか。ちょっと冬季オリンピックに楽しみができたなと思うのである・・・





2013年12月19日木曜日

娘の誕生日

 今日は娘の13回目の誕生日。
娘が生まれたのは、20世紀最後の年、西暦2000年。
したがって、西暦の下二けたがそのまま年齢となる。
わかりやすくて良い。

 初めての我が子。何となく男よりも女の子の方がいいなと思っていた。そして思い通り生まれてきた我が娘。初めて抱いた時は、落としそうで怖かった。夜泣きをした時など、妻よりも私が抱いた時の方が泣きやむ事が多かった。今となっては懐かしい。

 娘が生まれてしばらくは、ずっと我が子が一番可愛いと思っていた。親バカではなく、客観的に見てそうだと思っていた。小学校に入ってしばらくまでは、他所のどの子を見ても、我が子より可愛いと思える子は稀だった。そのうち、だんだん娘よりも可愛い子を見かけるようになり、中学一年になった今では、“普通”レベルになってしまった。そうは言ってもやっぱりそこは我が子。可愛い事には変わりない。

 そんな娘は、特に仕向けたわけではないのだが、勉強については「好き」と言ってよくしている。テストも5教科の平均はいつも90点以上。前回の試験でも学年3位内に入ったらしい。中学受験は地元都立の中高一貫校に落ちてしまったものの、そのあとは大したものだと思う。

 そんな我が子の勉強に対し、気をつけている事は、自分自身の経験から来る事。私も娘ほどではないが、そこそこの成績を納めていたが、特に世の中の常識的な事についてよく親から注意された。「勉強ばかりできたってそういう事ができなければダメなんだぞ」と決めゼリフのように言われたものだが、それが何より嫌だった。

 今から思えば親の言いたい事はよくわかるが、言われた方は、「じゃあそういう事がわかれば勉強なんてしなくて良いんだな、ならそれを勉強するから学校のテストは0点でも文句を言わないでくれ」と反発したものである。そんなわけで娘には、「勉強はよくやっているからそれでいいけど、もう一つ平行して・・・」と伝えるようにしている。反面教師として、我が父には感謝しているところだ。

 実際、世の中勉強は大事だが、それだけでは片手落ち。やっぱり人とのコミュニケーションがもう一つの柱だ。私自身もこれで随分と苦労したし、今でも母親と妻との間で苦労している。これがそこそこスムーズにできたら、まずまずの人生を歩めるのではないかと思う。

 将来はどうなるのだろう。やっぱり誰かと結婚してほしいし、子供も産んでほしい。かと言ってこれからの世の中、専業主婦はどうだろう。本人が望むのなら別だが、仕事を持てるならその方が良いと思う。結婚相手には、協力的な人を選ばないといけない。

 もはや自分には何もできないだろうし、それを前提に自立型に育つようにしたいと思ってこれまでやってきた。男だって何人か付き合ってみないと、良い悪いの目は養えない気がする。家に連れてくれば、男の目から見た品評をしてあげてもいいと思うが、それを娘が望むかどうかわからない。

 今は、色気よりも完全に食い気。鏡の前に長時間向かうなんて事はないし、先日家族で行ったしゃぶしゃぶ食べ放題では、家族で一番食べていた。今は妻もうらやむ細身だからいいが、将来太り出したらその時は真剣に注意しようと思う。

 もはや抱っこなどできなくなってしまったが、その存在自体が私の生きる支えとも言える。
妻に冷たくされるたびに、「離婚」の文字が脳裏をよぎるが、それを打ち消してくれるのが娘とそして息子だ。「子はかすがい」とは良く言ったものである。

 もうそろそろパパの前で服を脱ぐのはやめてもいいような気がするが、どうだろう。ちょっと前まで嵐に夢中になっていたが、今は関ジャニに変わったらしい。目の前には開けた未来が広がっている。喜怒哀楽をいろいろ経験していくのだろう。その都度、経験談を語ってあげられたらいいなと思う。

 娘が成長していく後姿を、いつまでも見ていたいと思うのである・・・

【本日の読書】

ソロモンの偽証 第I部 事件 - 宮部 みゆき








2013年12月14日土曜日

特定秘密保護法案

 特定秘密保護法案が成立した。特に関心を持っていたというわけではないが、反対意見については予想できる内容だったのは確かである。『秘密保護』という言葉だけで、我が日本人が過剰反応するのは目に見えている。

 それはそれとして、毎朝新聞を読んでいても今一よくわからない。それはやっぱりメディアに問題がある証拠だと思う。普通に新聞を読んでいたら、理解できるように報道するのがメディアの努めだと思う。それでも理解している人は理解しているのだろうか、友人知人の中には反対デモに参加した人もいるようだし、日本版NSCと合わせて「戦争をする国作り」と批判する人もいるし、巷ではかなり反対意見を目にし耳にする。ネットでも同様。だが、それらの反対意見にはどうも何か違和感を覚える。

 改めて反対意見を調べてみたら、日本弁護士連合会が問題点をまとめてくれていた
 1 プライバシーの侵害
 2 「特定秘密」の範囲
 3 マスコミの取材・報道の阻害
 4 国会・国会議員との関係
となっている。相変わらず何か釈然としない。

 よくよく考えてみれば、それは反対論の議論の展開がおかしいところにあるとわかる。なぜなら、まず何か問題があって、それでこの法案が作られたハズ。何となく理解しているところでは、それは欧米のように国家秘密をきちんと守る仕組みが我が国にはなく、よって欧米(とくに米)が我が国と秘密情報の共有ができないと危惧していて、そこから法案整備の要請がきたらしい。

 そう言えば数年前、Youtubeに中国漁船衝突事故の映像が流された事があった。当時民主党政権が非公開としていたものを、一人の自衛官が流したのである。国家の秘密を個人の勝手な判断で暴露するなんて、何という事だと思ったが、ああいう例を見ると、個人的には法案の必要性を感じる。

 それはともかく、まず反対するなら、法案の必要性の元となった事をどうするのか、を論じないといけない。個人的に「対案のない反対論は聞く価値がない」と考えている。反対だけなら誰にでもできるし、それだけなら無責任だ。まずその問題をどうするのか、反対するならその対案を示した上でするべきだろう。

 日弁連の反対意見とか、あるいは「国民の知る権利」の侵害だとか言われているが、それらはこの法律にともなって付随するいわば“副作用”だ。まず病気があって、それに対する特効薬を使おうとしたら、強い副作用があるとわかった。ならどうするか?「副作用が強すぎるから薬を使うな」と反対するなら、肝心の病気をどうするのかという対案を出すべきだろう。

 事は簡単ではない。日本はまだ尖閣諸島一つとってもアメリカを頼らないといけない。それであれば、アメリカの要請にもきちんと応えないといけない。にも関わらず、それに反対するならその結果にどう責任を取るのか。反対論にはそれが欠けている。

 そもそもアメリカにも同様の法律はあるはずだし、どういう運用がなされているかを調べれば、“副作用”だって抑えられるかもしれない。実は副作用と言っても、そんなに大げさなものではないのかもしれないとすら思う。対案が出せないなら、まず“薬を使う”。その上で“副作用”をいかに軽減するか。これが考えるべき手順だろうと思う。

 考えてみれば、企業にだって企業秘密というものがある。社員が勝手な判断でそれを外部に漏洩させたら、罰せられるだろう。それは国だって同じである。国家公務員が自分の信条と合わないからと言って、国家の秘密を暴露する事を放置していたら、いずれ大変な事になるだろう。そういう問題をどうするのか。「国民の知る権利」の前に、考えねばならない事だと思う。

 法案に賛成か反対かと問われたら、今の議論を見ている限り賛成するしかないと思うところである・・・

【今週の読書】

日本人は「経済学」にだまされるな! (中経出版) - 中原 圭介






2013年12月7日土曜日

脱原発のその前に

 立場が違えばモノの見方、考え方も変わる事は、もう随分前から気づいている事だが、先週またそんな経験をした。いつも参加している勉強会で、某原発(も扱っている)メーカーの方に原発についての意見を伺ったのである。最近は、小泉元総理が脱原発を唱えて世論を沸かせている。日本の各地の原発も停止したままであるが、原発擁護の声も根強いものがある。そんな擁護側の意見を聞く機会に恵まれた、というわけである。

 まずは、「原子炉は安全ではない」との説明がなされる。「安全神話」とよく言われるが、実は「原子炉は安全なものではなく、危険なものである」との説明。そしてその上で、「それをいかに安全に利用するか」が重要なのだという。なるほど、言われてみればその通りでわかりやすい。

 原発の事故に際しては、「止める・冷やす・閉じ込める」の工程が重要。福島第一では、安全に「止まった」ものの、電源喪失という事態に「冷やす」事ができなくなった。それが重大事故の原因。しかし、もっと新しい設計の福島第二はほぼ同じ状況下で「冷やす」機能が働いたため、大事に至らなかった。最新技術では、「電気で冷やす」から「勝手に冷える」レベルに来ているのだとか。いたずらに福島の事故だけをもって、今後も同様な事故が起こる危険があるという事でもないらしい。

そして肝心な、「原発が必要な理由」であるが、
 ① 資源のない日本は、現在燃料購入費として以前より4兆円も余分に支出している
 ② 異常気象が話題になっているが、従来型エネルギーは、その原因となる環境負荷が大きい
 ③ 脱原発を宣言する事で原子力産業が斜陽産業となり、その結果若手の技術者が集まらなくなり、技術が継承されなくなる
 ④ 技術が喪失した場合、中国等日本に影響のある隣国で事故が起こった場合、対応できなくなる。
 ⑤ 技術が喪失すれば、日本にある核兵器数千発分のプルトニウムの管理処理や、日米原子力協定が改定できなくなる事で、アメリカの技術協力が得られなくなる
などが挙げられるのだとか。

 ①については、昨年の日本の貿易赤字が6.9兆円とか言っていたので、その大半が燃料関係と言う事になる。この影響はバカにならない。ただ、原発の危険性との比較でみれば、理由としては弱いと思う。②については、福島の環境汚染はもはやPM2.5がどうのと言うレベルを超越している。「どちらが環境に悪いか」と考えたら、比較にならない。
問題は③~⑤の技術の継承だろう。

 原発に反対するなら、この問題に対する回答を用意しないといけない。将来有望な産業に進もうと考えるのは、若者として当然。将来性のない業界となってしまったら、若者が集まらなくなり技術が継承されないという指摘ももっとも。銀行員としては、すぐ「では国費で年収を高くして魅力をPRすれば」と考えてしまうが、それについてはどんな反論があるのだろう。

 原発の一番の問題は、最新技術が進んでいる原子炉はではなく、むしろ使用済燃料棒だと思う。その問題は深刻で、いまだ最終処分場もない状況だ。オンカロのような施設も日本では難しいらしい。プールに沈めているだけというお寒い状況こそ恐ろしい。使用後も50年くらい冷やさないといけないというし、ここは今後も技術開発は継続していかないといけない事は事実だろう。

 技術継承の重要性は理解できるが、そのために原子炉を動かし続けないといけないのかどうかは、ちょっと疑問だ。コスト的には、シェールガスが普及すれば、よりクリーンなガス発電が安いコストで実現できると言われているし、技術の継承という目的のために原子炉そのものを動かす必要性があるとは思えないが、その点は今後興味のあるところだ。

 話をしてくれた方も、「業界としてもっと積極的に意見を言うべきだ」と仰っていた。説明責任という点からも、うやむやなまま推進を主張するのではなく、「ただ安全だ」だけでなく、必要性をもっと訴えるべきだろう。そして反対派も、それに対して正面から感情ではなく理論で反論すべきだ。健全な議論こそが、正しい方向へと導いてくれるに違いないと思う。
そんな考えを持ちながら、脱原発の考え方を維持していきたいと思うのである・・・

【今週の読書】

警視庁似顔絵捜査官001号 - 戸島 国雄  逆説の日本史 20 幕末年代史編3 西郷隆盛と薩英戦争の謎 (小学館文庫 い 1-35) - 井沢 元彦





   

2013年12月1日日曜日

ニュースより

 尖閣諸島を巡る中国の挑発は相変わらず続いている。先日はついに防空識別圏まで設定してきた。防空識別圏は領空とは違う。領空近くに設定し、ここに無届けの航空機が接近してくると、領空侵犯を警戒して防空戦闘機がスクランブルをかけてくる。それは、「ここは俺の縄張りだ」という威嚇行為である。

 中国がそれを設置してきたという事は、今後日本の航空機が近づいたらスクランブルをかけられて、場合によっては追い払われるという事になる。それが嫌ならあらかじめ飛行計画を提出しなければならないが、それは中国の権利を認めた事になる。尖閣諸島も今回の防空識別圏に入っているから、自ずと「ここには中国の権利がある」と認める事になる。我が国としては、到底看過できないわけである。

 どうなるのだろうと思っていたら、CNNでデカデカと米軍機のアクションを報じていた。グアムの基地から飛び立ったB52爆撃機が、この防空識別圏を飛行したという。“爆撃機”というところが、米軍もいやらしい。というのも、「足の速い」戦闘機ならいざとなったらすぐ逃げられるが、「足の遅い」爆撃機だとそうはいかない。という事は、初めから逃げるつもりなどないわけで、「やれるならやってみろ」という挑発に他ならない。スリルある「ピンポンダッシュ」ならぬ、悠然たる「ピンポンウォーキング」である。

 これに続いて自衛隊機も飛行したらしいが、果たして米軍がいなくてもやるだろうかと思うと、「挑発に挑発で応える」ような行為はやらない我が国のやり方からすると、答えは簡単だ。となると、やっぱり米軍のプレゼンスは大きいと思わざるを得ない。実際、米軍がいなければ尖閣諸島はあっと言う間に中国に取られているだろう。上陸されて居座られたら、抗議などカエルの面に何とやら。竹島が良い例である。

 沖縄の米軍の重要性もわかるというもので、基地を県外になどと言っている場合ではない事になる。「それはそれ、これはこれ」では、あまりにも虫がよすぎる。そうなると、安倍政権にも強気で行けという感情も出てくるのかもしれない。ただでさえ「右傾化」と批判されているのに、呼応していたらよけいそうなるのだろう。

 と思っていたら、突然の如く出てきた「秘密保護法案」がここに来て衆院を通過し、さらに日本版NSCが表面化している。憲法改正の主張も従来通りだし、たぶん安定政権の座を手に入れたからこそ、今まで出来なかった事を一気にやろうとしているのだろうが、どうだろう。

 それらに対しては、当然ながら「戦争をする国になる」と危機を煽る声が出てくる。だが、それはあり得ない不安だろう。20世紀初頭とは明らかに世界情勢も違う。戦争が国家間の紛争解決の一手段だった当時と、今やそれをやるのは世界でアメリカだけという現代とを同じに論じるのはナンセンスというものである。いたずらに危機感を煽っているだけで、本当の問題点をきちんと議論できていない。

 ただそうは言っても、こうしたニュースが続くのは気分的には良くない。アベノミクスと言っても、当分個人の財布にはマイナスの影響しかないだろう。物価が上昇していって、インフレが続けば借金の価値も減る。そんな「借金解消」方法を狙っているという主張もあるが、あながち的外れとも言えない。

 議員定数削減とか、国家公務員の削減とか、一時威勢の良かった意見はもうどこかへ消失してしまった。尖閣諸島問題では、米軍頼み。基地問題はとにかく沖縄に押し付けて終わり。支出の議論をしないまま、消費税を上げて済まそうとする。そこには、自分が痛みを耐えて何とかしようとする意思が感じられない。

 何だかなぁ、と思うものの、妙案はない。それよりももうすぐ支給されるボーナスを心待ちにしている自分がいる。実に小市民的であるが、何ができるかと考えてみれば何もできないのだから仕方ない。そう言い切ってしまうのも無責任な気がするから、当面はこうしたニュースに興味を持っていようと思う。

 それがせめて自分に出来る事だと思うのである・・・

【今週の読書】
警視庁似顔絵捜査官001号 - 戸島 国雄 逆説の日本史 20 幕末年代史編3 西郷隆盛と薩英戦争の謎 (小学館文庫 い 1-35) - 井沢 元彦