2019年3月27日水曜日

ディズニーの『非日常』に潜む経済学

 ネットの記事を見ていたら、『テーマパーク、映画館…レジャー施設が「飲食物」の持ち込みを禁止するのはなぜ?』というテーマのものを見つけた。一瞬、「そんな理由はわかりきっているじゃないか」と思ったが、読んでみたらまったく思ってもみなかった理由が書かれていた。そこでは、東京ディズニーランドを運営するオリエンタルランドの回答が紹介されていた。

担当者曰く、「お客さまに東京ディズニーリゾートの『非日常』を楽しんでいただくため、オープン当初から禁止しております。外部からお弁当などの飲食物を持ち込むことで、施設のテーマである『夢と魔法の王国』『海にまつわる伝説や物語』といった世界観が壊れてしまいます。」というものであった。「本当だろうか?」とへそ曲がりとしては思ってしまう。

なぜ自前のお弁当だと世界観が壊れてしまい、パーク内の飲食物だと壊れないのだろうか。パーク内の飲食物が外では決して食べられない『夢と魔法の国から持ってきた食べ物』『海にまつわる伝説上の食べ物』であるならその通りだと思う。百歩譲ってミッキーの形のワッフルとかおにぎりとかチキンナゲットとか、ミッキーの手の「グローブシェイプ・チキンパオ」とかだけならわかるが、普通のホットドッグやパスタやてんぷらやちらし寿司などだってお値段込みで充実している。とても世界観を気にしているとは思えない。説明としては誠に苦しいものであることは間違いない。

本当のところは、「飲食でも利益を上げるため」だろう。セット販売はマクドナルドならずとも世の常である。入場料だけではなく、グッズ販売や飲食も含めてトータルでお金を落としてもらおうという考えに他ならない。実際、子供を連れて行けば結構な出費になるのは経験済みである。ただ、『夢と魔法の国』としては、銭金にまつわる話は表に出したくないのであろうから、苦し紛れに「世界観」などという言葉を使っているのだろう。もし、本当に世界観を大事にしているのなら、ミッキーの形をしたおにぎりなら持ち込み可にしてもいいんじゃないかと思ってしまう。

「夢と魔法の国」のイメージを守るためなら、「ゴミの種類を減らすため(決まったゴミのみが生じるようにコントロールするため)」というような「言い訳」の方がまだマシではないだろうかと思ってしまう。ではそうした本音の部分の「経済的事情による禁止」が悪いかと言えばそうは思わない。それはそれなりに費用もかかっていることだろうから、自分たちの世界ではすべてのお金が自分たちに還元されるように作り上げるのも当然やってしかるべきだと思うからである。

映画館も同様であるが、同じ記事によると映画館の回答は、「回答を控えさせていただきます」とのことのようである。つまり、「あからさまに答えたくない」ということであろう。映画館であれば、無理に飲み食いしなくともと思うが、ディズニーランドでは滞在時間も長く、そうも言ってられない。気になるのはやはりお値段であるが、やっぱり高めだと感じざるを得ない。持ち込み不可で競争が存在しない以上、「好きに決められる」となればそうなるのだろう。

 価格も含めて『非日常』と言う意味が込められているとしたらその通りであろう。親としては、夢から覚めて現実の日常に戻った時に、軽くなった財布を眺めてため息をついてしまう。ただし、子供が無邪気に喜ぶ顔を見ていると、また連れて行ってあげようと思ってしまうものである。子供も大きくなると、家族でディズニーに行く機会もほとんどなくなる。懐的にはいいが、あの頃の無邪気な子供たちとまた行けるなら、ディズニーの『世界観』も悪くはないと思うのである・・・




【本日の読書】
 
   
    
 

2019年3月24日日曜日

論語雑感 八佾第三(その21)

〔 原文 〕
哀公問社於宰我。宰我對曰。夏后氏以松。殷人以栢。周人以栗。曰使民戰栗。子聞之曰。成事不説。遂事不諫。既往不咎。
〔 読み下し 〕

哀公(あいこう)
(しゃ)(さい)()()う。(さい)()(こた)えて()わく、夏后氏(かこうし)(まつ)(もっ)てし、殷人(いんひと)(はく)(もっ)てし、周人(しゅうひと)(くり)(もっ)てす。()わく、(たみ)をして戦栗(せんりつ)せしむと。()(これ)()きて()わく、成事(せいじ)()かず、遂事(すいじ)(いさ)めず、既往(きおう)(とが)めず。

【訳】
哀公が宰我に社の神木についてたずねられた。宰我がこたえた。――
「夏の時代には松を植えました。殷の時代には柏を植えました。周の時代になってからは、栗(りつ)を植えることになりましたが、それは人民を戦慄(せんりつ)させるという意味でございます」
先師はこのことをきかれて、いわれた。――
「できてしまったことは、いっても仕方がない。やってしまったことは、いさめても仕方がない。過ぎてしまったことは、とがめても仕方がない」
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 論語には意味のわからない言葉が時々出て来る。今回のこの言葉もその1つ。社に植える神木の歴史について話しているようでいてそうではなく、かといって親父ギャグのようなダジャレが言いたいわけではないだろう。なんとなく社の神木に政治的な意図を含めることを諌めたかのようにも思えるし、その解釈はどういうものなのか難しい。ただ、ここでは解釈を論じるつもりはなく、ここから感じたままを綴るだけである。

日本でも縁起を担いだりすることは昔からよくあることで、アパートや病院には「4号室」がないし、お賽銭に「ご縁」があるようにと5円を使ったり(その昔の銀行員は5円で作った通帳を持って口座開設の営業に回ったらしい)するが、中国もそうなのかもしれない。おそらくは「社」というのは、支配者の宮殿なのかもしれないが、ここに支配権を確立できるようにその意味を込めた神木を植えたということなのかもしれない。

そのように考えたのであれば、「市民が戦慄するように」という意図を持って栗(りつ)を植えたというのは、支配者からすれば当然の思いなのかもしれない。ただ一方で支配される者からすれば、それはまさに「シャレにもならない」と言えるであろう。ここでは「これからはこんなことを繰り返さぬように」という風に諭しているのが言葉の意味なのかもしれない。

ある願いを込めて何かをするというのはよくあることであり、身近に真っ先に思い浮かぶのは「名付け」である。生まれてきた我が子や希望を持って設立した会社や、我が家にやってきたペットなど、名付けの時にはみんなそれぞれ意味を込めたりする(まぁ我が両親のように猫にクロとかチャーとか見れば一発で理由がわかるものもあったりするかもしれない)。我が家でも我が子につける名前はあれこれ悩んだものである。

感覚的には、そういう「意味を込める」場合も「良い意味」がほとんどのような気もする。「人々を戦慄させる」ではあまりにも酷いものである。それを聞いた人がその人に抱く気持ちは好意よりも悪意になってしまう。どうせなら「平和の旋律を奏でる」という意味で「リツ」にすれば良いと思う(漢字が違うと言われればそれまでだが、まだマシだろうという程度である)。それならまだ市民の尊敬を得られるかもしれない。

とは言え、聞こえが良ければ良いかというと、これはこれでそうでもなかったりする。その最たるものが政党名である。「希望の党」、「日本未来の党(その後生活の党)」、「幸福実現党」等(明らかに如何なものかと思われるものは別として)、まぁ耳障りの良い政党名のものは多い。それはそれで良いと思うが、中身が伴ってこそなのは言うまでもないことである。

 意味を込めることは大事であるが、もっと大事なのは込めた意味に見合う実践と言える。かと言って「戦慄」は困るが、良い意味であれば良い実践である。
 思いを込めて名付けた我が子もそのように育って欲しいと思うのである・・・






【今週の読書】