2018年9月30日日曜日

意地は大事

先日のこと、仕事でちょっとした不手際があった。性格的にあまり人の細かい失敗を責めるのは合っていないのであるが、下手をするとお客さんにも迷惑をかける話なので、責任者に厳重注意を申し入れた。それと合わせて、その元となった仕事を翌日中に終わらせるように依頼した。2日あれば十分終わるだろうとの読みであり、それで十分だったからである。

その責任者は、たぶん腹を立てたのだと思う。と言っても私の言うことのほうが正論なので文句も言えない。渋々と頭を下げて承知してくれた。そしてその日のうちに残業してその仕事を終わらせてしまった。残業すれば余計なコストがかかるということは抜きにして、その日のうちに終わらせたというのは、その人の「意地」だろう。「反骨心」とも言えるかもしれない。こういう「意地」は個人的に大好きである。

もしも立場が違い、私がその責任者の立場だったら同じことをしただろうと思う。その仕事は、実はその人の部下のしたことであったのだが、責任者としてはそれを言い訳にはできない。その日のうちに残業して終わらせたのは、自分の腹立ち紛れということもあるし、原因を作った部下に対する教育的指導の意味もあるだろう。いずれにせよ、翌日まで使ってゆっくり仕上げるのと比べると、その意味は大きいと思う。

こういう「意地」ってとても大事だと個人的には思う。それは「悔しい」という気持ちの現れであり、そしてそういう「悔しい」気持ちこそが進歩をもたらすものだと思うからである。それはスポーツでも仕事でも相通じるものだと思う。逆にそういう悔しいという気持ちや反骨心とも言える「意地」を持たない人は、迫力に欠けるし、スポーツにおいても仕事においても何かを成し遂げるということもない気がする。

これまでの人生を振り返ってみると、そういう「意地」のない人というものは確かにいる。そういう人は挑戦をしない。私は高校3年時、担任の先生との進路面談で、志望大学には受からないと言われた。それは結果的にその通りであったが、私は自分の意思を通して浪人し、猛勉強して再度受験し、そして合格した。「意地」を持たない人は、合格しないと言われればそうかと挑戦をやめてしまうだろう。

女性を口説くのだって、ちょっと声をかけてうまくいきそうなら告白するというのでは、(よほどのイケメンであれば別だが)女性なんて口説けないだろう。断られても再アタックできるのは「意地(この場合は意気地か)」があるからだろう。最近、独身比率が高いのは、男の側にこの意地のある男が少なくなっているからというのも一因であるような気がする。そんな人は、先の仕事の例でいけばたっぷり期限まで時間をかけてゆっくり仕上げるに違いない。

一緒に仕事をする立場としては、そういう意地のある人に対しては絶対的な信頼感を置ける。なぜなら意地でも自分の仕事には責任を持って仕上げるからである。しかし、言われてものほほんとしている(ように見える人も含む)人には絶対的な信頼感は置けない。仕事をお願いしても最後まできちんとやってくれるか目を離さずにいないといけない。その信頼感の差は比較できないほど大きい。当然、責任ある仕事など任せられないであろう。

そういう意地の話になると、高校生の時のラグビーの夏合宿を思い出す。午前午後とハードな練習を課される日々。ある時、グラウンドを何周もランパス(パスしながらのランニング)で回らされた時のこと、コーチがキャプテンであった私に「もう無理か?」と聞いてきた。正直言ってその時点までいつストップの声をかけてくれるかと待っていたのだが、それを聞いた瞬間、私は「まだまだです」と答えていた(後でチームメイトに大ブーイングを浴びたのは言うまでもない)。そういう「意地」がもうその時の私には存在していたのである。

そういう意地は、いつどのようにして身につくのであろうか。意地の片鱗もあるように見えない人を見ていてそう思う。そういう人は、気力の点においても流されやすい無気力さを感じる。困難に際しても「仕方ないんじゃない」で終わらせてしまうし、ちょっとハードルが高そうだと思うと諦めてしまう。実際にそういう人を見ていると、つくづく意地のあるなしで人生は大きく変わってしまうだろうなと思ってしまう。

自分には(変な意地かもしれないが)、そんな意地があってよかったと思うのである・・・




【今週の読書】
 SOLO TIME (ソロタイム)「ひとりぼっち」こそが最強の生存戦略である (夜間飛行) - 名越康文, 伊藤美樹 みかづき (集英社文庫) - 森絵都




2018年9月27日木曜日

就職協定は必要だろうか

経団連の会長が、2021年春入社の学生から就活ルールの「廃止」を表明した問題が波紋を広げている。考えてみれば、もう長年の慣習である。私が就活(当時は「就活」などという言葉はなかったが)をしたのはもうかれこれ30年前であるが、当時は「81日解禁」というルールであった。と言っても、それ以前にOB訪問によって水面下で実質的な企業訪問は行っており、「81日」は大っぴらにそれができるというだけのものであった。したがって、解禁日を過ぎると、すぐに正式な内定をもらったものである。

当時の状況を思い出してみると、81日以前に早々とラグビー部の先輩から連絡をもらい、いそいそとOB訪問と称して出掛けて行ったものである。当のOBはと言えば、それも立派な「業務」で、いわゆる「リクルーター」という形で企業からは後輩に対してコンタクトを取るようにという使命を帯びてのもの。それは事実上の就活ではあるものの、傍から見れば同じ部の先輩が後輩に飯を食わせているだけであり、仮に就職協定を監視する人(そんな人はいなかっただろうが)に現場を押さえられても十分言い訳ができるものであった。
 
 我々より以前は解禁日が101日だった時期もあり、だんだんと解禁日が早まっていくことが懸念される空気もあった。各企業が採用に対して血眼になっており、フライングを相互に監視し合っている感じであった。そして一旦、内定をもらうと今度は囲い込みであった。すなわち、企業が内定学生を旅行などに連れて行き、他の企業を回って乗り換えられるのを防止したものである。私は残念ながらすぐに菅平にラグビー部の合宿に行き、この「接待」を受けられなかったのであるが、当時の私はそんな「接待」より何より秋のシーズンの方が重要であったのでなんとも思わなかったものである。
 
 そんなことどもをつらつらと思い起こしてみる。そうした採用合戦はその後も続き、一時は就職氷河期なんて時もあったが、最近また過熱化してきているということであろう。たぶん、こうした慣習は何事につけ「公平」を旨とする日本人の気質によるもので、日本独自のもののような気がする。こうした就職協定がいいのか悪いのかと考えると、もう関係ない身としては誠に自由勝手ながらなくてもいいような気がする。

新聞各紙などは「学生の学業に悪影響が出る」「中小企業の人材確保が難しくなる」という批判があるようである。このうち「中小企業の人材確保が難しくなる」については、もともと難しいから変わらないんじゃないかと思うが、「学生の学業に悪影響が出る」というのはある程度当たると思う。というのも、いつから始めたらいいのかという戸惑いから、周りを見ながら3年くらいから企業回りを始めたりするだろうからである。ただ、早く始めればいいというものでは当然ない。

学生によっては早く始めたとしてもなかなか内定もらえないこともあるだろう。そうすると、ずるずると就活を続けないといけない。そうなると学業どころではないだろう。しかし、やっぱりすぐに内定をもらえる学生はすぐにもらえるだろうし、そうすると早々にもらってゆっくり遊べるだろう。ただ、その場合、内定企業を「滑り止め」として、さらにいいところを探すかもしれない。そうなると困るのは、釣ったと思って安心していたら、逃げられてしまったという企業だろう。まさかずっと長く拘束旅行に連れて行くわけにもいかないし、安心してもいられないだろう。結局のところ、どちらにせよ最後は力関係だ。

確かに「学業に影響が出る」のは事実だと思うが(理系はともかく、文系の学生はそもそもそれほど学業に精を出しているのかという疑問はある)、だからと言ってなんでもお膳立てしてもらわなくても良いように思う。もう社会人になるわけだし、そこで競争社会の洗礼を受けてみるのもいいんじゃないかと、個人的には思う。逆に企業の方だって、あまり早くから内定を出すと、逃げられるリスクやあとからもっと取りたい学生が出てきた時に予定数以上に採用しなければならないリスクにさらされることになるわけである。

我が身を振り返ってみると、やはり就職の時は随分と悩んだものである。解禁日前はいろいろなOBに会ってご馳走してもらっていい気分になっていたが、解禁日以降はぼやぼやしていたら各企業の採用枠は埋まってしまうという焦りが出てきて、一生の事(とその時は思ったのである)なのにゆっくり考えて決められないという理不尽さを恨めしく思ったものである。でももしあの頃に就職協定がなかったとしても、4月なのか8月なのかという時期の違いだけで、結局同じだったかもしれないと思ってもみる。

もう新卒一括就職戦線に参入することはないが、これから社会に出る我が子にアドバイスするとしたら、どうするだろうか。それはやっぱり「採用されやすい人間になる」ことの一言に尽きる。いくら早く就活を始めても、結局そのスキルがない学生は数を撃っても当たらないだろう。それは学業という意味だけでなく、スポーツ(部活)かもしれないし、コミュニケーション力を含めた人間力かもしれない。そしてそれさえ備えていれば、最後は「何とかなる」だろう。

我が子たちには、就活ルールがどうであろうと動揺することなく、しっかり必要なものを身につけるべしと教えたいと思うのである・・・




【本日の読書】
 世界を変えた14の密約 (文春文庫) - ジャック・ペレッティ, 関 美和 みかづき (集英社文庫) - 森絵都






2018年9月23日日曜日

懐かしき人々

銀行員時代の若かりし頃、2年目に初めての転勤で配属となった支店の集まりがこの週末にあった。当時の支店のメンバーが約20人ほど集まり、私も声をかけてもらって参加したのである。その支店にいたのはもうかれこれ30年ほど前のことになる。流石に30年も経つと、支店長をはじめとして上の方にいた方達はもう70代も後半。当時若手だった私も50代半ばであることを考えるとそれも当然である。世間的には、もうベテランの部類に入る私が、まだまだ「若手」の集まりである。

当時私は、銀行に入行して2年目のヒヨっ子。上司の指導を受けながら、銀行員としての基礎を学ぶ日々であった。そんな当時を懐かしく思いながら、参加した皆さんと歓談。当時はまだパソコンなどなく、融資の稟議書も手書きであった。当然、携帯もない。当時の支店は今はもう残っていない。金融危機を境とした銀行の合併の波の中で、支店統廃合により駅に近い合併した銀行の店舗に吸収されてしまったのである。我々が毎日通っていた店舗跡地には、今マンションが建っている。そんな話も当然ながら出る。

酔いが回ったのか、当時支店No.2だった次長が出席していた女性の隣に座り肩に手を回す。完全なセクハラであるが、当のご本人にはそんな意識はない。今だったら大問題になるだろうが、古き良き時代と言ったら女性に怒られるだろうが、次長の意識はまだあの頃のままなのだろう。でもまだそんなのは可愛い方で、お尻を触られるなんてのもよく見かけたものである(一応、当時であっても私には自尊心があって、お尻はさわれなかったし、肩にも手を回したことはないと記憶している)

また、当時はまだ年功序列の色彩が強く、若手は上司に誘われたら黙ってお供をするものであった。当時の私の上司はいい方であって誘われても抵抗はなかったし、そもそもそれほど誘われた記憶はないが、取引先係などは連日係全員で係長に率いられて繰り出していた。それはアフターファイブの宴会と言うより、仕事の延長というものであった。私などは当時既にへそ曲がりであったから、仕事の延長の飲み会などというものは基本的に断っていたものである(それも出世できなかった遠因だろうと思う)

いろいろと腹の立つこともあって、随分ストレスもあったと記憶しているのであるが、そんなことはもうみんな忘れてしまっている。覚えているのは、若手だけでみんなで旅行に行ったりした楽しい思い出である。取引先との楽しい交流も然り。係内で夕方、シャッターが降りると後輩に飲み物を買いに行かせたりしていた(もちろん、後輩の分はオゴリである)。飲み会と行っても、若手だけで行くのは楽しかったから、よく上の人たちの目を盗んで行ったものである。カラオケ店なんてまだなくて、カラオケ目当てに行ったのはいわゆるスナックだった。

嫌な思い出は昇華され、残っているのはいい思い出ばかりである。考えてみれば、みんなそうなのかもしれない。参加した人たちの近況を聞くと、あちこち具合が悪くなっている人たちもいて、次に会うのは何年先かわからないが、もしかしたらもう会えない人もいるかもしれない。そんなことすら感じさせられるが、「嫌な人」というイメージの人はいなくて、また次回も呼んでいただきたいと幹事の方にお願いして帰路についたのである。

我々が働いていたあの店舗はもう記憶の中にしか存在しない。いずれそこに銀行の店舗があったことなんて記憶している人もいなくなるのであろう。それは我が家のある場所にしても、100年前にはどうだったかなんて知る由もないのと同じである(まぁたぶん田んぼだったのだと思うが・・・)。また次回もぜひ参加したいと思う。クラス会にしろこうした集まりにしろ、これからも積極的に参加していきたいと思う。それは自らの存在証明みたいなものなのかもしれない。

行けば、「おぉ、元気か」と声をかけてくれる人たちがいるというのはありがたいと思う。呼んでくれるということは、「あいつには会いたくない」と少なくとも思われていない証だと思う。それはありがたいことだし、同じ記憶を持つ者同士、これからもそれを共有していたいと思う。次は高校のクラス会。こちらも楽しみにしたいと思うのである・・・




【今週の読書】
 逆転交渉術 まずは「ノー」を引き出せ (早川書房) - クリス ヴォス, タール ラズ, 佐藤 桂 世界を変えた14の密約 (文春文庫) - ジャック・ペレッティ, 関 美和





2018年9月19日水曜日

論語雑感 八佾第三(その10)

 原文 
子曰、禘自既灌而往者、吾不欲觀之矣。
〔 読み下し 〕
()(のたま)わく、(てい)(すで)(かん)してより(のち)は、(われ)(これ)()ることを(ほっ)せず。
【訳】
孔子云う、「帝の祭は、潅の儀式(欝鬯・うつちょうの酒を地に注いで祖先の降霊を行なう儀式)が済めば、後は私は見る気がしない」と。
************************************************************************************
論語に残されている孔子の言葉が、すべて何か教訓めいたものかというとそういうわけでもない。今となっては時代に合わなかったり、意味が良くわからなくなっているものも多い。今回のこの言葉もその一つ。何か皇帝の祭事のようなものがあって、その過程の一つを終えるともう見るべきところがないということのようである。私はといえば、割と何でも最後まで見る方なので孔子様とはちょっと違う(孔子様も最後まで見ないとまでは言っていないが・・・)。

たとえば映画を観に行った場合、映画が終わってエンドロールが流れ始めると席を立つ人たちがいるが、私はすべて終わって明るくなってから席を立つ方である。エンドロールなど眺めていたってなんの意味もないと言われればその通り。あえて言えば、「たった今観終えた映画の余韻に浸っている」ということだろう。もっとも、最近はマーベルの映画などでは、エンドロールの最後に次回作等につながるワンシーンが登場したりするからうっかり席を立つと損をする。そんな映画に当たったりすると、席を立ってしまった人たちにちょっと優越感を感じたりする(実に小市民的だ)。

また、野球場に行ったりすると、私はしっかり試合終了まで見届けるタイプである。時間があればヒーローインタビューなんかも見ていったりする。人によっては、例えば7回あたりに早々に席を立ってしまう人たちもいる。贔屓チームの敗色が濃厚で面白くないのか、もしかしたら次の日が早かったり家が遠かったり何か事情があるのかもしれない。試合終了後にみんな一斉に駅に殺到したりするから、それを避けたいのかもしれない。されど私は最後までしっかり見届ける派である。

そう考えてみれば、本を読めば大概読み切るし(途中でやめるのは本当に稀である)、なんでも最後までというのは性分なのかもしれない。そういう性分ではあるものの、では最後まで堪能しているのかと言えばそうでもなく、何となく席を立ちたいけど我慢しているというケースもある。その典型的なのは、コンサートと演劇(もっぱら劇団四季である)であろうか。これらは、どうしても最後のアンコールやカーテンコールにしっくりとこないものを感じるのである。

これこそ私がへそ曲がりのへそ曲がりたるゆえんかもしれないが、最初から用意してある「アンコール」というものに違和感を覚えるのである。そもそもアンコールとは、演奏に感激したお客さんの拍手が鳴りやまず、それに謝意を表したい演奏者が予定になかったもう一曲をサービスでやるというものであろう。いわば即興なわけで、初めから用意しておいて、「演奏予定のラスト曲」としてやるものではないと思うのである。

カーテンコールも本来はそうだろう。だが、これはファンの責任でもあるかもしれないが、大して感動したわけでもないのにやたらといつまでも拍手をやめない。それはパフォーマンスに感動したというよりも、むしろ「お約束」としてやっているようにしか思えない。それだから俳優たちも何度も何度も舞台に出て来ては同じようなお辞儀をして去って行く。早く帰りたいと思うのに、その長い時間はとてつもない苦痛である。せっかく、いいパフォーマンスだったと思っていても、最後の最後でケチがつく。

そんなアンコールやカーテンコールは、私にとっては孔子のように「見る気がしない」モノであると言える。誰にとっても、そんなものの一つや二つはあるものなのだろう。そんなことを鑑みると、孔子の今回の言葉にも頷けるものがあると思うのである・・・




【本日の読書】
 逆転交渉術 まずは「ノー」を引き出せ (早川書房) - クリス ヴォス, タール ラズ, 佐藤 桂 世界を変えた14の密約 (文春文庫) - ジャック・ペレッティ, 関 美和




2018年9月17日月曜日

これから金利は上がるのだろうか

金融緩和「出口」道筋 3年以内に 首相、出口戦略に初言及
 安倍晋三首相は14日開かれた日本記者クラブ主催の自民党総裁選の討論会で、日本銀行が進めてきた「異次元」の大規模な金融緩和策について「ずっとやっていいとは全く思っていない。任期のうちにやり遂げたい」と述べ、次期総裁任期の3年以内に金融緩和を縮小する「出口戦略」へ道筋をつける考えを示した。安倍首相が出口戦略に言及するのは初めて。時期や手法は日銀の黒田東彦(はるひこ)総裁に「任せている」とした。
産経ニュース2018.9.14
************************************************************************************
リーマン・ショック以来、世界中で金融緩和策が取られ、我が国も日銀バズーカによってゼロ金利どころかマイナス金利政策がとられている。これを受けて銀行(特に地銀)の収益悪化が止まらず、ここのところ金融緩和政策の見直しを求めるという内容のニュースを目にする。安倍総理も総裁選の中で、上記の通り金融緩和の出口に道筋をつけるという意向を示したと報じられた。

確かに、「銀行に預けていてもほとんど利息がつかない」という状態は長く続いているし、実際今の銀行の金利は、一番高い金利でも0.01%(三菱UFJ銀行10年物定期預金)となっているからほとんど無いに等しい。ちなみに0.01%とは1,000万円預けても一年間で付く利息は1,000円である。かつては5%なんて時もあったのだから(5%だと50万円である)、大きな違いである。かつてはお年寄りが毎年利息で孫に好きなものを買ってあげられたが、今ではケーキでも買ったら終わりである。

ではこれから金融緩和策が終わって、金利が上がってかつてのようになればいいかと言うと、これは難しい。と言うか、個人的にはそうなってほしくない。なぜなら低金利には大きなメリットがあるからである。それは預金者にとっては悪でも、住宅ローン利用者にとっては善であるからである。事実、私が現在借りている住宅ローンの金利は、変動金利で1.475%である。今、ネットバンクなんかだとさらに1%近く低い金利のものもあるから、かつてを知る者としては驚きである。

金利が上がれば、ローンの金利が上がったとしても預金金利が上がるからいいじゃないかというと、そんなことはない。それは簡単なことだが、預金残高とローン残高を比較すれば明らかである(残念ながらローン残高の方がずっと多い)。ローン残高はこのまま順調にいけばあと16年でゼロになるが、それはまだまだはるかに先だし、預金残高がローンが減るのと同じペースで増えるかというと、そんなことはない(子供が成人するまでまだまだお金はかかる)。どちらがいいかと問われれば、「低金利!」と迷わず即答する。

個人のそんなささやかな事情はさておき、日本経済のためには金利を上げるべきかと問われれば、そこまではわからない。銀行の収益力の回復が日本経済に波及して全体の景気が良くなるのかもしれないが、一方でローン利用者の生活は苦しくなるだろう。その分給料が増えるとは思えないし、そもそも金融緩和で企業業績も回復しているが、その恩恵がどこまで個人に普及しているのか不透明だ。確たる確証もなく、日本経済のためと言われても金利の上昇につながることには賛成しにくい。

この先、金利はどうなるのかはとても興味があるところではあるが、個人的には「上がらない」という感じがする。私は経済学部の出身ではないし、専門的な議論にはついていけないが、ただ感覚としてそう思うだけである。なぜなら、莫大な国債残高を抱えた上で、金利が上がればそれこそ我が国の収支はますます悪化する。今でも財政均衡目標も危うい中で、金利が上がったら大変である。そして何よりも「金利を決めているのは日銀」なわけである。消費税を上げるのは大変だが、金利は抑えられる。となれば、自ら首を絞めることに他ならない金利を上げるという判断ができるかと言うと、そんなことできるわけがないと素人的には思う。

我が社も多大なる借入金を抱えながら事業をしている。低金利は我が社が存続して行くためには必須の条件である。当面、この低金利を生かして収益を計上し、元金返済を進めていきたいと考えている。低金利も追い風の会社と向かい風の会社があるわけである。それは仕方のないことであって、この資本主義社会ではそれぞれ置かれた環境で努力するしかない。銀行の人たちには気の毒だが、この環境下で創意工夫して利益を上げてもらうしかないのである。

今後、私の考えている通りになるのかどうかはわからないが、一庶民としてはやっぱり日々の仕事に精を出し、会社をより成長させ、それによって自分自身の給料を確保し、1日でも長く働けるように頑張るしかない。一気にできることではないから「日々確実に」である。それこそ「重荷を負うて遠き道を行くが如し」である。焦らず、急がず、歩んで行きたいと思うのである・・・




【今週の読書】
 対立の世紀: グローバリズムの破綻 - イアン ブレマー, 奥村 準 世界を変えた14の密約 (文春文庫) - ジャック・ペレッティ, 関 美和




2018年9月12日水曜日

部下と働く

やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ。
話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。
やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず。
山本五十六
************************************************************************************
 初めて部下を持ったのは、銀行員時代のこと。まだ30代になりたての頃だった。初めての部下は男女1名ずつの小さな融資課だった。私は勇んで臨んだものの、男の方がなかなかの問題児で、忙しい環境下で常に不平不満を呟いていた。その気持ちはわからなくもないが、現実に目の前に山積している仕事はこなさないといけない。しかし、彼は「こんなにできるわけがない」というスタンスで仕事も遅く、問題行動も多かった。

結局、新米上司の私には手に負えず、業を煮やした当時の支店長が、優秀な男を引っ張ってきて交代させてしまった。彼は総合職としては一段劣るとみなされる預金課に回され、泣いて私に何とかならないかと訴えてきたが、私には「これから頑張れ」としか言いようがなかった。今でならもっと違うやり方で接することができたと思うが、実に残念な思い出になってしまっている。
 
 それからかれこれ時は流れ、私も経験を積んでそれなりに部下の指導もできるようになった。今の会社では私が来てから社員の働き方が変わっている。特に直属の部下は仕事量が倍増しているといってもいい。と言ってもきちんと定時に帰っているから無理な仕事量というわけではない。自然とモチベーションを上げてもらいながら増やしてもらったのである。
 
 何か特別なことをしたわけではないが、それまでの人たちとやり方が違うのだけは確かである。やったことと言えば、それまではどちらかというと「放任」だったのをいわゆる「協働」に変えたと言える。たとえば営業担当者の場合、それまではまずは最初に上司が一緒に営業先をまわるが、あとは「やってね」で終わっていたものを「今日どこに行く?」から始まり、「こんなことを聞いてきて」とか帰って来た時には「どうだった」と必ず聞くようにしたのである。さらに活動報告も作らせて社長まで回覧するようにした。その働き振りを社長も見ていると分かるようにしたのである。
 
 たったこれだけだが、営業担当者はそれから訪問件数が倍々増したのである。思うに人は誰でも「承認欲求」というものを持っている。自分が役に立っているとわかれば誰でも嬉しいものだし、やる気も出る。自分がそうであったから猶更その気持ちはわかる。「自分だったらどこに行くだろう」と考えれば、担当者と訪問先を決めるにも説得力のある意見が言える。「こんな事を聞いてきてほしい」と考えればそれを担当者に伝えられる。担当者も話のネタができる。要は、実際には同行しなくとも、自分も一緒に営業活動をしているのである。
 
 別の担当者には、内装デザインの仕事をしてもらうことにした。それまで社内で誰もやっていないし、本人も経験がない。外注しようと思っていたが、コストもかかるし、で取りあえずやらせてみたら意外にできたので、以来任せている。こちらもその都度イメージを伝えるし(それはかなり頻繁に否定される)、相談されれば自分なりの意見を答える。本人も初めてで自信などないが、やっていくうちに社内では自分が一番適任とわかってきて(それは私のアイディアを否定していくうちに身についたとも言える)、その上自分の意見が採用されて形となり、そのうち社内でデザイン担当と認知されるに至りモチベーションが高まっていったようである。
 
 およそ人に動いてもらおうと思ったら、口先で命じるだけではダメだろうと思う。相手の立場に立ちつつ、いかにやる気をもってやってもらうか。大概の人は真面目だから、きちんと道を示して寄り添う形で進めればそれなりにやってくれると思う。動いてくれないとしたら、それは上司のやり方が悪いのではないかと思う。かつての私のように。今の自分があの頃に戻れたら、いったい彼にどんな指導ができるだろうかと時折思うが、その都度彼には申し訳なく思う。

ラグビーでも1人エースがいれば試合に勝てるというものではない。エースが活きるためには、いかに周りのチームメイトがしっかりと働くかが大事で、そうでなければエースが相手チームに徹底マークされたらそれまでである。仕事も同様で、上司1人で仕事ができるわけではない。チームのメンバーがいかに働くかこそが、チームのパフォーマンスを左右する。メンバーがいかに気持ちよく働けるかが、上司が考えるべきことであろう。

「明るく、楽しく、一生懸命に働く」
このモットーを日々実践していくために、上司は人一倍エネルギーを使わないといけないと思うのである・・・




【本日の読書】
 対立の世紀: グローバリズムの破綻 - イアン ブレマー, 奥村 準 これからの教養 激変する世界を生き抜くための知の11講 - 東浩紀, 池上高志, 石川善樹, 伊東豊雄, 水野和夫, 佐々木紀彦, 原研哉, 深澤直人, 平野啓一郎, 松井みどり, 山極寿一, 菅付雅信






2018年9月10日月曜日

仕事に必要なもの

個人的な考えであるが、仕事に必要なものは何かと聞かれたら、「熱意」「創意工夫」「決定」と答えるだろう。3つ目はその時々で変わったりするが、最初の2つはもうずっと変わらぬ信念である。これがあれば、少なくとも仕事をしていく上で「使えないヤツ」と烙印を押されることはないと思う。逆にその仕事ぶりがどうしても今一歩だと感じられる人には、これが決定的に欠けていると思うのである。

最初の「熱意」は、およそ仕事でもスポーツでも何でもそうだと思うが、最大の原動力であると思う。「熱意無くして進化も発展もない」と言い切っていいと思う。朝、9時までに出勤するのが会社のルールだとしたら、ギリギリに駆け込むか、1時間早く行って働き始めるか、その差を表すのは「熱意」だ。私も学生時代はラグビー部のグラウンドに練習時間の1時間半前に行って、一人黙々とベンチプレスをやったものであるが、これも「熱意」である。「やる気」と言ってもいいし、「Passion」と言ってもいいだろうが、5時に仕事を忘れて遊びモードになるか、風呂の中でも仕事のアイディアが湧くか、それはすべてこの熱意=やる気=Passionのなせる技である。

そしていくら「熱意」があろうとも、闇雲に突進しても意味はない。朝1時間早く出勤しても、机に座ってぼうっとしているなら意味はない。今自分は何をすべきなのか。それはどうやったらできるのか。どうやったらより効率的にできるのか。「考えて」仕事をしないと意味はない。「努力は量ではなく質」と言ったのは、元ジャイアンツの桑田投手である(『心の野球』)が、要するに「考えてやる」ことが重要であることを言っている。「創意工夫」は、まさに「考えること」そのものである。

「熱意」を持って仕事に取り組み、「創意工夫」によってそれを進めて行ったら、最後は「決定」である。実はこれができない人が多い。ちなみにこの「決定」は「権限」とは関係ない。よく「俺には決定権がないから」と言い訳をする人がいるが、決定権限は関係ない。なぜなら決定権限などなくても権限のある人を動かして決定してもらえばいいからである。そしてそのためには、自分の仕事について、「こうするべき」と「決定」することができないといけない。「自分はどうしたいのか」、「組織としてどうあるべきなのか」、これを自分なりに決めていないと、何より説得力を持つことができない。

銀行員時代には、いろいろな上司に仕えたが、優秀な方もいたしそうでない方もいた。そうでない方の共通した特徴は、「決断できない」だ。そういう人は、まず自分なりの考えを持てないでいる。だから自分なりの判断基準がなく、判断基準は「(自分の)上司がどう判断するか」になっている。だからそれを忖度し、迷う。間違えない判断をするためにはどうしたらいいかわからないから、結局最も無難な考えを取る。「前例踏襲」などその最たるものである。優秀な人だと、面白いと思ったら自分でリスクを取った上で「やってみろ」と言ってくれる。サラリーマンは上司を選べないし、サラリーマンは必ずしも能力だけで出世していくわけではない。「決断」できない上司に当たってしまうと苦労することになる。

「熱意」を持って仕事に取り組めば、必然的にいろいろとアイディアも湧く。そうしたアイディア=「創意工夫」をした上で、自分が思う通りに「決めて」進められれば仕事も楽しくなる。楽しくなれば、それがまたモチベーションをアップさせ、「熱意」もまた高まる。そういう循環に入れると、仕事もますます楽しくなる。「決定」するということは、責任が生じることにもなるが、その責任感こそが次のモチベーションとも言える。

朝、決められた時間に来て、いつも同じ時間に退社する。言われればやるが、言われなければやらない。自分の考え方で仕事を進めて壁に当たるとそこで止まってしまう。「どうしたらできるだろうか」と考え抜くことをしないから、そこから進めない。誰かの指示を待って止まってしまう。それで責任からは解放されて気楽だろうし、それはそれで一つの考え方だと思うが、「熱意」のある者が後から来たら、「創意工夫」と自ら「決定」して仕事を進めていかれたらたちまち追い抜かれてしまうだろう。

そろそろ自分もいい歳だし、若い人に仕事の心得など聞かれることがあるかもしれない。そんな時に、おろおろせずに迷わず語って聞かせられるようにしておきたいと、自ら思うところをまとめてみたのである・・・




【本日の読書】
 対立の世紀: グローバリズムの破綻 - イアン ブレマー, 奥村 準 「読む力」と「地頭力」がいっきに身につく 東大読書 - 西岡 壱誠




2018年9月5日水曜日

論語雑感 八佾第三(その9)

 原文   
子曰、夏禮、吾能言之、杞不足徴也。殷禮、吾能言之、宋不足徴也。
文献不足故也。足則吾能徴之矣。 
〔 読み下し 〕
()(のたま)わく、()(れい)(われ)()(これ)()えども、()(しるし)とするに()らざるなり。(いん)(れい)(われ)()(これ)()ども、(そう)(しるし)とするに()らざるなり。文献(ぶんけん)()らざるが(ゆえ)なり。()らば(すなわ)(われ)()(これ)(しるし)とせん。
【訳】
孔子云う、「私は夏の時代の制度の話しをよくするが、夏の後裔の杞の国には、私の話しを裏付けるものは何も残っていない。又、殷の時代の制度の話しもよくするが、殷の後裔の宋の国にも、私の話しを裏付けるものは何も残っていない。ともに文献が残っていないからだ。もし残っていればもっと詳しく調べられるのだが、残念だ」と。
************************************************************************************

文献が残っていないのに、なぜ古の制度の話ができるのかと言えば、おそらくは口頭で伝承されているのだろう。それはそれで一つの記録方法ではあるものの、やはり紙などの見えるモノに「記録する」ということはとても大事なことだろう。人間の記憶というのは、本人にとってでさえ曖昧であり、ましてや「伝言ゲーム」の例を挙げるまでもなく、伝承はそれ以上に曖昧である。孔子が「詳しく調べられたのに」と残念がるのも無理はない。

実は個人的に私は昔から結構「記録魔」である。小学校6年の時に『ジョーズ』を観に行って以来、今まで映画館で観た映画463本の記録(日付、タイトル、映画館名)はすべて取ってあるし、読書記録も過去13年分は遡れる。それはいずれもノートに書き記していたが、便利な今の時代は両方ともブログにしている。どちらも自分の「記録」だから、人に見てもらおうとは思っていない。対象読者は自分自身のみという誠に自己中なブログであるが、どこにいてもスマホでさっと検索できるので、便利な「記録簿」である。

学生時代は(自分の出た)ラグビーの試合結果とトライ数を記録していたし、デートした日も記録していた(残念ながら記録するほど多くはなかったが・・・)。読んだ漫画も記録していたし、今でも保有株の月末株価とローン残高、毎月のこずかいの収支、年間の給料の収支等を記録している。もちろん日記もつけている。変わったところでは、毎朝使うシェービング・ジェルの使用開始日を記録しているし、時計の電池交換の記録もつけている。今は日々「マンション管理士」の勉強をしているが、毎日の勉強時間も記録しているし、体重・BMI・体脂肪率も記録している。こうやって見直してみると自分でも意外なくらいいろいろと記録している。果たして他の人と比べてどうなのだろうかと思ってみる。

記録を残しておくと、やっぱり何といってもあとで振り返りができるのがいいところである。映画や読書はその内容をかなり忘れてしまい、観たこと、読んだことは覚えているが内容は忘れてしまったり、あるいは観たこと、読んだことすら忘れてしまっているものもある。しかし、記録が残してあるからそれがわかるし、ブログでは内容もある程度書いているので、それで記憶が呼び起こされたりする(だからネタバレブログでもある)。昔からの習慣でもあり、記録することに何の抵抗感もなく、むしろ楽しんでいるくらいである。

こうした記録はすべて自分のものであり、後世に残そうなどとは考えていない。だが、祖父からもらった軍隊手帳に書いてある短期訓練記録などによって、祖父の軍隊生活を想像することもできたことを考えると、ちょっと残してみてもいいかもしれないと思ったりする。自分では見いだせない価値を子供たちがそこに見出すかもしれない(と言っても、やっぱりそれほど大したものではないだろう)。

そう言えば、かつて父方の戸籍謄本を見たことがある。そこには4代前のご先祖様の名前が記してあった。直接のご先祖様の他、兄弟姉妹の名前もあり、結婚した日時や子供たちの名前なんかもわかり、いろいろと想像の翼を広げられた。名前だけのご先祖様であるが、それだけでもわかるのとわからないのとでは大きな違いがある。昔から勉強科目の中で歴史が好きというのも、日々の単純な記録が積み重なってやがて歴史になると思うと、記録魔と歴史好きには何か関連するものがあるような気がする。

私の残している記録など、あまりにも些細な微々たるものであり、孔子が求めているレベルのものから比べるとまるでお話にはならない。されど自分自身、記録してきたものをたまにあれこれ眺めると、時折感慨深く思える時がある。日記などは定期的に読み返しているが、矢の如く過ぎ去った過去にも呼び起こされる記憶があったりして、単に記憶していただけだったら二度と思い出さなかったかもしれない事どもなどは、記録することの重要性を認識させてくれる。人から見たら変な癖なのかもしれないが、これからもせっせと記録していこうと思うのである・・・




【本日の読書】
 これからの教養 激変する世界を生き抜くための知の11講 - 東浩紀, 池上高志, 石川善樹, 伊東豊雄, 水野和夫, 佐々木紀彦, 原研哉, 深澤直人, 平野啓一郎, 松井みどり, 山極寿一, 菅付雅信 善人ほど悪い奴はいない ニーチェの人間学 (角川oneテーマ21) - 中島 義道





2018年9月2日日曜日

仕事のスタンス

最近、仕事で同僚の働き方に違和感を覚えることが多々ある。それは仕事に対するスタンスとでも言うべきものである。一言で言えば、「自律」と言う言葉で表せると思う。「自律」とは広辞苑によれば、「自分で自分の行為を規制すること。外部から制御を脱して、自分の建てた規範に従って行動すること」とある。これこそが仕事に必要なスタンスであると思うが、そうでないと思う人が大半かもしれないと思う。

例えば先日、同僚に取引の準備を依頼した(ちなみにもし私が彼の立場であったら、忙しそうな私の姿を見て自分から「やりましょうか」と提言していただろう)が、出来上がってきたものを見たら振込伝票が白紙であった。「これはまだですか?」と尋ねたところ、「やるんですか?言われていなかったもので・・・」と言う返事が返ってきた。不動産を購入する際、お金を振り込むのは必須である。わざわざ振込伝票を用意して渡しているのだから、言われていなくても(私だったら)記入するだろう。自分がやらない場合、誰がやると思ったのであろう。

その彼は全般的に「自分から動く」ということがない。常に受け身である。ただ、長い経験と広い知識があるから、我々のような中小企業にはいて欲しい人物である。自分から動くということはないけれど、「言われれば動く」ので、きちんと働いて欲しければきちんと「言うだけ」でいいとも言える。「指示待ち族」の典型例である。私は高校生の頃、将来「サラリーマンだけにはなりたくない」と思っていた。それはサラリーマンは「人に使われてペコペコしている人」というイメージがあったからである。もちろん、そういうサラリーマンもいるだろうが、それは考え方次第だと思う。

「指示待ち族」の特徴は、自律的でないところだろうと思う。常に自らの責任を回避し、だから安全な「言われたこと」だけをやる。余計なことはやらない。「言われたこと」をやっている以上、それをきちんとやっていれば責任は問われない。責任は「言った人」にあるからである。先の同僚は、会議に出ても自分からは発言しない。意見を求められれば立派な意見を言うのであるが、自分からは発言しない。そういうスタンスが染み付いていると、仕事の幅はいつまで経っても広がらない。

先の同僚は、若い頃に勉強したこともあって、建設関連においては私なんかは足元にも及ばない幅広い知識を有している。だから、時折修繕関係において「○○すればいいんですよね」と呟く。されどそこには、「誰が」「いつまでに」という要素が含まれていない。いつも評論家なのである。だから「ではやって下さい」と「指示」を出さないと進むことはない。これではいつまで経っても「指示をする立場」にはなれない。私の銀行時代の以前の上司のように昇格しても部下から信用されるビジネスマンにはなれない。

おそらく、本人にそんな話をしたら、「私には決定権がないから」などという回答が返ってきそうである。だが、「決定権がない」からできないことはない。一社員であっても上司を動かすことはできるし、その上司を動かして社長に決定させることもできる。そうなれば一社員でも「会社を動かす」ことは十分可能である。要は意識の問題である。「自分には決定権がない」などと言っている者は、一生会社を動かすことなく、指示されて動いて終わるだろう。

私は今の会社に転職してきて以来、「何をしたらいいですか?」という質問をしたことがない。それは自分で考えて必要だと思う仕事をしようと思ったからだし、その通りに必要だと思うことは自ら提案して実行してきた。そのスタンスは今日においても変わらない。ハッキリ言って「指示待ち族」が指示を待っている間にどんどん動いて、今は「指示を出す」立場である。まぁ、みんなが自分と同じスタンスで仕事をされたら自分の優位性が失われてしまうので、いいと言えばいいのかもしれない。

仕事における優位性と言うことでは、自律しているということはかなり重要であると思う。これからもそのスタンスを維持するとともに、自分の子供たちや心ある者には伝えてあげたいと思うのである・・・




【今週の読書】
 これからを稼ごう: 仮想通貨と未来のお金の話 - 貴文, 堀江, 哲之, 大石 (CD付き)クラシック 天才たちの到達点 - 百田 尚樹