2013年11月24日日曜日

銀行員の転勤

同僚が一人、夕礼で最後の挨拶をし、転勤していった。
銀行員にとっては、日常の光景である。
私も銀行に入って25年。
この間、9回転勤した。
大体、3年が一つの目安である。

 銀行によって、パターンは違うのかもしれないが、我が銀行は、だいたい金曜日に辞令が出る。そして3~4日間の引き継ぎ期間を経て、次の任地に赴く。もっとも早いパターンだと、翌週の金曜日には、もう次の職場にいる事になる。銀行に入ってからこれが当たり前だったから、特に何も思わなかったのだが、いつだったか、知人から辞令が下りてから次の職場に行くまで1ヶ月ほどあると聞いて驚いたものである。なぜ銀行員はこんなに慌ただしく転勤するのか。

 その理由を知ったのは、銀行に入ってだいぶ経ってからだったと思う。それは「不正防止」である。何せ人間の欲望を満たす、最も手っ取り早い道具であるのが、「お金」。そんなお金を日常的に、(しかも大金を)扱っているわけで、良からぬ行為に走る人間も出てきてしまうというもの。転勤に際しては、万が一の場合、証拠隠滅を図る余裕を与えないというのが狙いなのだろう。

 不正にも、横領や取引先との癒着などいろいろある。本人にその気がなくとも、取引先から接待攻撃を受け、知らず知らず、あるいは断り切れず、受けられない頼みを聞いてしまう事もある。先輩たちの悲惨な例を、事あるごとに聞かされていたが、実際自分の身近でもそういう例が過去にはあった。

 その人は、かなり年配の(と言っても今の私より若かったと思う)預金課の人だった。それは、その人の転勤の辞令がおりて間もなくのことだった。何だか支店長・次長の姿が見えず、役席者もこそこそそわそわしている。我々若手は、「何かあったの?」と囁き合っていた。そこへいつも利用している司法書士さんが、「頼まれていた登記簿謄本をお持ちしました」とやってきた。

 司法書士さんからいつものように謄本を受け取って、ふと所有者の欄を見ると、その預金課の人の自宅の謄本だった。その瞬間、すべてわかってしまった。普通、行員同士で自宅の登記簿謄本を取ったりはしない。互いのプライバシーでもあるからだが、「謄本を取る」とはすなわち「資産状態を調べる」という事に他ならず、「資産状態を調べるような事が起こった」事にほかならなかった。

 後で判明したのであるが、その人はお客さんから入金を頼まれて預かったお金を横領していたのである。自分がいる間は、うまく何らかのやりくりをして発覚しないようにしていたらしいが、転勤となって万事休すとなったようである。詳しい事情までは聞けなかった(その人は発覚後すぐに別の銀行の施設に軟禁され、一切の接触を断たれて事情聴取を受けたらしい)が、いずれわかる事を何でやっていたのか、それほど追い詰められていたのかと思ったものである。

 間違いなく、懲戒免職になっただろうし、当然その後損害金は弁償させられただろうし、家族に何て言ったのだろうかとか、いろいろと考えさせられたものである。転勤で発覚というのも多いらしいから、辞令を出して有無を言わせずすぐに異動させるのも、経験則から来る知恵なのかもしれない。

 同じ理由で、在任期間が長くなると、強制的に一週間の休暇を取らされる制度もある。何もやましい事がなければ、ありがたい話であるが、そうは問屋が下ろさず、私もこの休暇を目前にして辞令をもらった事がある。その時は滅茶苦茶忙しく、「転勤(で引き継ぐの)も休暇もどっちも不可能だ!」と叫んだのを覚えている。

 顧客の接待もかなり誘惑度数は高い。かつて某支店の融資責任者だった時の事、ある取引先から韓国に行こうと誘われた。その取引先は、銀行融資が頼みの綱。私が何かとスピーディーにうまく対応していたから、社長も商売がやりやすくなったと喜んでくれていた。そのお礼という事で、悪意も下心もない純粋なお誘いだった(と思う)。

 韓国ツアーと言っても、観光地を回るわけではなく、ソウルのホテルに泊まって「ガイド付き」で遊ぶというもの。ガイドは24時間フルアテンド。もちろん若い女性である。かなり心が動き、具体的な日程の算段までしたが、寸前でお断りした。今でももったいなかったと思うが、その時は問題なくてもあとで何がどうなるかわからない。今でもそういうツアーあるのだろうかと、ふと思う。


 さすがに今のように問題先担当となると、相手も余裕がなくなるから、そういう“心配”もなくなる。ただ、担当が長くなると休暇を取らなければならないというルールは不変。接待はなくとも、「良からぬ私情」が混じる可能性もあるという事だろうか。そのうちまた異動となるのかもしれない。

 転勤となれば、環境も変わる。仕事も同僚もガラリと変わるわけで、マンネリ防止という意味でも個人的にはありがたいと思う。良い環境だと離れ難い想いが残るが、そうでない時は再スタートの区切りとなる。何にせよ、こういう環境にある以上、それをいい意味でとらえてこれからもやっていきたいと思うのである・・・

【今週の読書】
歪笑小説 (集英社文庫) - 東野 圭吾








2013年11月17日日曜日

ディズニーランド雑感

 昨日は、半年に一度の我が家恒例のディズニーランド。もっとも、春は娘の進学行事で時間が取れずに行けなかったので、一年振りという事になる。8時の開園を目指して家を出るも、非情な首都高の渋滞。結局、早ければ1時間かからないところを2時間以上かかってしまう。

 中に入れば、さっそく“スタンドバイ”と“ファストパス”取りに分かれる。家族が“スタンドバイ”で「ビッグサンダーマウンテン」に並ぶ間、私は「スプラッシュマウンテン」のファストパスを取りに行く。ちなみに、これらの選択はすべてすべて妻と子供たちとの協議の結果である。

 この“ファストパス”のシステムは、いつもながら優れていると思う。人気アトラクションだと平気で2時間前後の待ち時間がかかるから、これによって最低限のアトラクションは時間を合わせれば待ち時間なく乗れる。「一定間隔を空けないと取れない」という制限があるから、始めにかき集めるという事はできないが、ある程度の希望を叶えるという点では助かるものである。

 「カリブの海賊」では、列の少し前に中国人ファミリーがいた。最近は中国人も各地に海外旅行に行っているから珍しくもないのだろうが、国内の消費拡大には確実にプラスになるから、望ましい事だと好ましく思う。ところが、そのうちの一人のおばちゃんが、乗りながらスマホでパシャパシャと撮影している。フラッシュ禁止の場所であるにも関わらず、フラッシュをバシバシ焚いて、である。異例なことに注意のアナウンスまで流れたが、最後までどこ吹く風だった。

 たぶん、禁止を知らなかったのだろうし、注意放送も日本語だったからわからなかったのだろう。園内には中国語の表記があちこちにあるが、あれは北京語か広東語かわからないがすべての中国人に理解できるとも思えないし、わかりやすい絵などを利用するしかないのだろう。それでも以前見かけた大胆な割り込みおばさんと違って、きちんと並んでいたから、日本の「並ぶ文化」を理解してくれていたのだろう。

 今回は、カヌーに初挑戦。体を動かすアトラクションというのも悪くない。ちなみに、私のお気に入りのアトラクションは、「ウエスタンリバー鉄道」と「カリブの海賊」だ。どちらものんびり乗っていられるし、眺めも気に入っているし、何より好きなのは雰囲気だろうか。残念ながら、家族の意向と一致しないと乗れないという欠点がある。

 昨日はけっこう混んでいた。しかしながら、あらかじめ混んでいるのは想定済みだった事もあり、我が家は諦めも早い。いつも利用しているバズライトイヤーのアトラクションは、結局断念。「また今度」という気楽さがあるから、「断腸の思い」などという切実なものはない。だが、途中で「毎年なんて来られるわけないでしょ」とどこかのお母さんが子供に言っていたが、地方の人だとそうもいかないから、我が家はありがたい立場にあると言える。

 “ファストパス”のシステムがあっても、利用に制限があるから、長い“スタンドバイ”の待ち時間は避けられない。されど、それも考え方一つだ。各アトラクションとも、待機スペースに工夫が凝らしてあって、話題に利用できる。中一の娘には英語の勉強にもなったりする。昨日は“mine”という単語を覚えたハズ。学校では、“I,my,me,mine”と習ったというが、ビックサンダーマウンテンでは「掘る」だ。あれこれ単語を指して、話をしているといい時間潰しになった。

 夢と魔法の国でも、食事は“対象外”のようで、どうにも貧弱。ランチは「カレー」という名前のものを食べたが、まあないよりはマシとしないといけないのだろう。ちょっとしたものを買うにも行列。結局、アトラクション優先で動いていたら、夕食を食べそこなってしまった。それでも家族は満足だから、まあいいのだろう。

 早起きして、渋滞の首都高を走り、一日混雑した園中を“ファストパス”を求めて東奔西走し、パレードの場所取りでコンクリートの上に1時間座って待ち、閉園後に子供たちが寝息を立てる中、深夜の首都高をドライブして帰宅。疲れるのも道理であるが、こういう事も子供たちが家族と共に遊びに行く間だけだと思うと、大切にしたい一時と言えるかもしれない。

 子供たちが楽しそうにしている間は、体力維持に努めようと本気で思うのである・・・







2013年11月9日土曜日

ルールは何のために

 最近、仕事において「ルールの運用」で頭を煩わされている。本来ルールとは、何か目的があって、その目的を達成するために設けられているものだと思う。しかし組織になると、「ルールの運用」それ自体が目的となり、肝心の本来の目的がどこかへ飛んでしまうという事が起こるのである。

 例えればわかりやすい。以前北海道で、ニュージーランドから来日していたマオリ族の女性が温泉に入ろうとしたところ、「入れ墨禁止」ルールにより利用を断られたとニュースでやっていた。この女性は民族の伝統的な入れ墨を顔にしていたらしい。

 「入れ墨禁止」のルールは、こういった入浴施設やプールなどで最近よく見かける。その目的は、「暴力団排斥」だ。本来、「暴力団排斥」のために設けたはずの「入れ墨禁止」というルールが、いつのまにか独り歩きし、挙句にまったく関係ない外国人に適用されてしまったのである。本来の目的をきちんと理解していれば、こんなバカな事は起こらない。

 私も組織で働いている以上、ルールを守る事は当然だと考えているが、常にその「ルールの本質」を考えている。
「何のためのルールなのか」
それを見失うと、このニュースのようにおかしな事になるのである。大きな組織になると、こういう事が起きるのである。

 だが、厄介なのは、事はそんなに簡単ではないという事だ。ルールをバカみたいに守る方にも、それなりの理由はあるわけである。例えば「入れ墨禁止ルール」にしても、最近は若い女性でもタトゥーをしていたりする。明らかに暴力団でないとわかる人もいる。そういう“本来はOKな”人でも、このルールではダメとなる。まさに、ニュースのような事が起こってくる。

 ではその都度、「君はOK、あなたはダメ」と現場で判定できるだろうかと言えば無理だろう。ダメと判定された人は当然、「何でだ!」と食ってかかるだろうし、パートやアルバイトさんではそれに対して対応できないだろう。
また、外国人なら良いかと言うと、たとえば映画など観ていていると、アメリカのヒスパニック系のギャングなど、派手なタトゥーをしている人たちが登場したりする。そんな見るからに威圧感たっぷりのタトゥーをした人が近くに来たら、普通の人は安心して利用できないだろう。そんな人たちには、むしろ“No”と言ってもらいたいが、「君はOK、あなたはダメ」を誰がどうやるのか、という問題が出てくる。“一律No”もそれなりに理屈としては正しいのである。

 我が職場でも、ルールの適用を巡ってしばしば議論となっているが、「では誰がOKか否か」を判定するのかという難しさがある。上司が判定するのが一番だが、「人によって判断が分かれる」となれば、当然「ものわかりの悪い」上司の下では不満が生まれるし、その上司自身が「ルール厳格適用者」だったりする事もある。

 「ルール厳格適用者」からすると、それは立派に合理的な判断。いくら「本来の目的と違う」と言われても、ルールに従っている以上、(組織上)批判はされない。冒険を犯してモノわかりの良い上司にならなくとも「無難」であるし、減点もされない。自分で考えなくても良いから楽だし、傍から見てどんなにおかしくても、それは自分の責任ではなく、ルールを作った人の責任である。こうして、「お役所仕事」は出来あがっていくのだろうと日々実感している。

 どうしたら良いのだろうかと考えても、なかなか妙案は浮かばない。ただ、自分としてはどうしたいのかと考えて実践していくしかないだろう。自分が温泉施設の人だったら、かの女性の利用は認めるだろう。もしそれで他の利用客から文句が来たら、受けて立つしかない。なぜ、その客だけルール適用外とするのか、その説明をとことんするだろう。もちろん、それで相手が納得するとは限らないが、だからといって安易にルールの陰に隠れたいとは思わない。

 目を瞑ってルールを守っているのが一番楽だろう。どちらも同じように何か言われるとしたら、「ルールに従っている」のと「ルールの適用外としている」だったら、「ルールに従っている」方が遥かに楽だ。「文句があるならルールを作った奴に言え」と言えるからだ。それに下手に「適用外」として、その判断が間違っていたら、というリスクも負わなくて済む。あれこれ考える必要も手間もない。

 そう考えて行動する人を悪いとは思わないが、自分がそうしたいとは、やはり思わない。ルールの陰に隠れた方が楽だろうが、「そんなのは嫌だ」と思う性格だから仕方ない。と言っても、安易にルールを無視しても構わないと言いたいのではない。そもそも目的さえ外していなければ、ルールから多少外れても問題はないものである。ならば、目的に適うような行動を取りたいと思うのである。

 ルールを曲げて、かの女性の入浴を認めた結果、もしも他の2~3の客やあるいは同僚から批判を浴びたとしても、世間的に批判される事にはならないだろう。それが「目的に適っているかどうか」であると思う。
「常に考えて行動したい」
仕事においても何においても、そうしたいと思うのである・・・

【今週の読書】

55歳からのハローライフ (幻冬舎文庫) - 村上 龍   






2013年11月4日月曜日

女性社会

 最近、世の中は女性を中心に回っているように思う。スポーツの世界では、男子がなかなか活躍できないマラソンやサッカーで世界一を争っているし、身近な例でもそう感じる事が多い。例えば、母校の高校でやっている海外短期留学に応募してくるのは圧倒的に女の子だし、面接で合否を判定する段になると、上からずらりと女の子が並ぶ。

 消費でもグルメ、ファッション、旅行などは女性をターゲットにしないと成り立たない。会社でも、ランチタイムに男は大概社員食堂で済ましているが、女性は結構会社の外に出て行っておいしいランチを楽しんでいる。男同士では、「飲みに行こう」だが、相手が女性になると「おいしいものを食べに行こう」になる。

 男同士で「旅行に行こう」とはあまりならないと思うし、必然的に業界もそれに応じた対応を取るのだろう。そんなのを見ていると、男に比べ女性の方が遥かに人生を楽しんでいるように思える。女性の社会進出も話題になって久しいし、そういう風潮はテレビ番組にも現れている。少し前まで、息子は「戦隊モノ」が好きでよく観ていた。我々の世代では、「ゴレンジャー」などと言っていたやつだ。5人の戦隊の構成は、昔は男4に女1だったが、今は男3に女2となっている。

 さらに38年振りにリメイクされた「宇宙戦艦ヤマト2199」で、新たに追加された新キャラクターは5人ともみな女性だし、以前は「生活班」担当だったヒロインは「船務長」(レーダー、通信、航空管制担当)という戦闘色の強いものに変わっているし、新キャラクターにはパイロットもいる。世の中、男の活躍の場は確実に狭くなっている。

 しかし、そうでない分野も当然ある。女性の社会進出という掛け声はなされており、形の上では雇用機会均等が謳われているが、子育てが絡むとまだまだ壁が厚く、このあたりの負担は今だ女性の負うべきハンディとなっている。それに例えば夫婦共働きで、夫が地方転勤となった時、妻がついていく(つまり自分の仕事を諦める)ケースが、まだ一般的だろう。

 ただ、夫について行ったその地で起業してしまったりとか、ニッチなマーケットを対象に好きな分野で起業したりという女性も身の周りにいる。夫が生活費を稼いでいると、「安心して好きなことができる」というメリットがあり、専業主婦では満足できない女性などには絶好の環境かもしれないと思える。男と比べて会社に縛られていない分、女性には起業というフィールドで活躍する余地が大きいのではないかと思われる。

 女性の活躍それ自体は良い事だと思う。いつまでも「男が主、女が従」という関係がいいとは思わないし、対等は大いに結構だ。ただ気になるのは、男が小さくなっていく事だ。女性の元気に押されて委縮しているような気もしなくもない。下手をすると、「女が主、男が従」となりかねない。それでいいのかと言えば、それは違うだろうと思う。もうそうなってしまっている我が家の事は棚に上げるとして、そこは踏ん張らないといけないだろうと思う。

 先日、「キラキラネームランキング」というのを目にした。それによると、

1位:昊空(そら)
2位:心愛(ここあ)
3位:希空(のあ)
4位:希星(きらら)
5位:姫奈(ぴいな)
6位:七音(どれみ)
7位:夢希(ないき)
8位:愛保(らぶほ)
9位:姫星(きてぃ)
10位:匠音(しょーん)

となっている。

 ちなみに、これはペットの名前でなく、人間の子供の名前だ。「なんじゃこりゃあ!」と、思わず松田優作の古いセリフが蘇ってくる。小学校の頃に、同級生にこんな名前のやつがいたら、絶対いじめていたと思う。このキラキラネームの首謀者は奥さんだと思うのは、疑い過ぎだろうか。

 渋谷や代官山あたりでベビーカーを押しているヤンママなどを見ていると、子育てすらファッション感覚ではないかと思うが、それが名付けにも現れているような気がしてならない。女性が活躍する社会というのは、間違いなく平和な社会であろう。血なまぐさい争いが続出している“腕力の”社会では、そうはいかない。そういう意味では、現代の日本は良い社会を実現できていると言えるのだろう。それでもまだ、女性側からの不満は絶えないだろうし、まだまだ改善の余地は大きいのだろう。

 ただ、気になるのは、それと比例して男がどうなって行くかだ。女性に負けじと人生をエンジョイする方向に行けばよいと思うのだが、おかしな方向に行っても困る。その昔、松本零士の漫画で、「男が化粧をし、ハイヒールを履く」軟弱な男たちばかりとなった未来社会を描くものがあった。当時は奇想天外な空想と笑っていたが、だんだんと笑えなくなってきているのではないだろうか。

 これからの時代、男はどう生きるべきか。女性には不自由なく振舞ってもらえる社会を築く一方、男としての矜持は保たねばならないだろう。まだママの後を追いかけまわしている我が息子は、大丈夫だろうか。取りとめもない事を、あれこれと考えてみた連休の夜である・・・