2013年8月31日土曜日

JRのキャンペーンを斬る!

 最近、JR駅構内を歩いていると、さかんに「エスカレーターみんなで手すりにつかまろうキャンペーン」なるものを宣伝している。なんのこっちゃと思うが、よく聞いていると、「右側に立って」「歩行する事なく」と続き、どうやらエスカレーターでの歩行をやめさせようというものだとわかってくる。

 エスカレーターに乗ると、みんな左側(大阪ではなぜか右側)に立ち、右側(大阪ではなぜか左側)は歩く人に譲っている。ここ10年くらいの間に定着した慣習である。それを変えようというのは至難の業だと思うが、JRもなかなか思い切った事をやるなあと感じた。

 では、このキャンペーンは成功するだろうかと考えると、それはまったくもって不可能だと思う。おおよそ社会の中で自然発生的に生まれた慣習を変えるのは並大抵の事ではなく、相当な力技が必要だ。それなのに、そもそも「エスカレーターでの歩行はやめましょう」と直接訴えるのではなく、「手すりにつかまろう」と遠回しな言い方になっている事からして無理だと思う。私のようなアマノジャッキーは、「歩く時手すりにつかまればいいんだろう」と思ってしまう。

 この企画がJRの中でどのようにして生まれ、そしてどのようなプロセスを経て認められたのか、実に興味深い。トップダウンかボトムアップか。「何かキャンペーン企画はないか」と問われた若手が提案し、他に何もなくてスルスルと認められたのだろうか。

 そもそもであるが、本気でやめさせようとしたら、かなりのエネルギーがいるだろう。少なくとも構内放送で呼び掛けるだけでは、効果などまったく期待できない。エスカレーターごと、とはいかないまでも、主要なエスカレーターのところで駅員さんが立って呼び掛け、注意を促し続ける必要があるだろう。それこそ、今キャンペーンでやっているように、「駅員が右側を立って利用する」事も当然必要だろう。

 ただそれでも問題があって、それは「エスカレーターがあるのはJR駅構内だけではない」という事である。接続する私鉄沿線にもあるし、空港やデパートやショッピングモールなどありとあらゆるところにある。例えJRの駅構内だけ歩かないようにしようとしても、その他で変わらなければその慣習自体を変えるのは難しいだろう。そう考えると、この試みは効果なく終わるだろうと言う事がわかる。

 しかしそれ以前に、なぜエスカレーターの歩行が危ないのだろうかと考えてみる。床が動いている以上不安定だという理屈はわからなくもない。ただある程度動きに合わせて歩けばそれほど危ないとは思えない。お年寄りや子供などは危険度は増すと思うが、それはそういう人は歩行を控えれば良いわけだし、そういう人たちには利用者も配慮するのは当然だ。

 エスカレーターの歩行が危ないというが、例えば事故率とかの根拠があるのだろうか。いや、例えあったとして、そもそも階段でもコケる人はコケるわけで、それが「エスカレーターだったから」コケたのか、階段でもコケたのかはわからない。まあ「ただでさえ」階段は危ないから、エスカレーターならよけいに危ないという事は言えるかもしれない。

 そうであるならば、やはり歩行はやめましょうではなく、まず「手すりにつかまりましょう」と言うべきだという事になる。その上で、「出来ることなら歩行はやめましょう」という事なのかもしれない。そう考えると、このキャンペーンも理屈にあってくるような気がする。
だがなぁ、とも思う。

 人がエスカレーターでコケる事まで心配してくれるというのも、ありがたいものなのだろうか。子供にはよくいろいろな場面で、「危ないよ」と注意するが、大人には言わない。子供並みと思われているのだろうか、それとも「自分が転んだのは、路上の石を放置していた道路管理者である国の責任」と言って訴えるような人もいるかもしれないと考えての事だろうか。

 休みの日に少し酔った頭で、くだらない事をあれこれ考えてみるのも、くだらなくて面白いと思う自分である・・・

2013年8月24日土曜日

消費税は増税するべきか

 参院選で大勝利し、ねじれ国会も解消し、安倍政権もいよいよ本領発揮というところ。そろそろ世間では、来年春に迫った消費税引き上げを巡る議論が始ったようで、いろいろなところで賛否両論を目にする。
「予定通り上げるべきだ」
「いや、ここで上げたら元も子もない」
賛成、反対それぞれ耳を傾けているが、正直自分でもよくわからない。

 消費税率を引き上げることの最大の意義は、財政の健全化を進めること。国の借金残高(国債、借入金、政府短期証券)は6月末で初めて1,000兆円を超え、なお止まる気配はない。GDPの2倍近い水準は先進国では最悪。財政を圧迫する最大の要因は社会保障費の増加で、急速な少子高齢化の進展で、年金・医療費など社会保障費は年1兆円規模で増加しているらしい。これ以上この状態を放置すると、日本の国債の国際的な信認は落ち、金利が上昇し、その負担が覆い被さるのだという。そして消費税率を1%引き上げると、年間で約2兆7,000億円の増収につながるらしい。

 一方で、税率を引き上げた場合の懸念材料は、景気を冷やす恐れだ。黒田日銀総裁は、「消費税を上げても経済成長は続く」と強気だが、大和総研の試算では、夫婦どちらかが働く年収500万円の4人家族の場合、消費税が10%となった後の2016年には、5%の2011年に比べ、消費税負担が年間16万7千円増えるとしている。厚生年金の保険料増加など消費税以外の負担増を含めると年間31万~32万円に達しするというから、相当な負担増である。これだけ増えても経済成長に貢献できるほどの消費生活を送れるかと考えると、我が家に限ればほとんど不可能だ。

 1997年4月に消費税率を3%から5%に上げた際は、同年4~6月のGDPは、個人消費や住宅投資の落ち込みの影響で年率換算で3.7%減と大幅に落ち込んでいる。さらに極め付けは、肝心の税収。1997年の税収は53.9兆円であるが、以後税収はこれを上回っていない。つまり消費税を上げても所得税及び法人税が減ってしまい、トータルでの税収は増えていないのである。

 どちらもそれなりに専門家が主張している事であり、素人の自分がどちらが正しいなどという事はできない。ただ、我々の生活実感からしてみれば、やっぱり上がらない方がいいに決まっている。私の乏しいこずかいがまたまた目減りするのは確実だからだ。国家のためには仕方ないのかと思う反面、何だか相変わらず違和感を覚える議論だ。どうして「入り」の議論ばかり熱心で、「出」を抑える議論が聞こえてこないのだろう。

 身の周りでもおかしな事が多い。その一つが道路の拡張。最近我が家の比較的近所では大きな道路が開通した。さらに娘が通う中学校の真ん中を通る道路の計画がどうやら動き始めた。両親の住む実家は、戦後間もなくの道路事業がいよいよ認可になり、数年後には立ち退きが必要と告知された。いずれも「なくても困らない道路」だ。そんなお金、どこにあるのだろう?

 老朽化が進んでいる首都高の補強とか、トンネル事故の例をだすまでもなく、道路の補修・補強工事は仕方がない。だが、なぜ住民から要望があるわけでもない(娘の中学分断道路などは反対論が出ている)道路を作るのだろう?これこそ「無駄」というものに他ならない。

 東京オリンピックと言って騒いでいるが、これだって景気浮揚効果も一時的だろうし、一体いくらの税金を使うのだろう。現実的に長野オリンピックでは、長野県は莫大な県債を抱え込んだと報じられていた。東京都は豊かだから大丈夫だとかいう話ではない。それだけ豊かなら住民税を還付してもらった方がはるかに良い。「無邪気にオリンピック誘致」などと浮かれている人は、そうしたところを考えているのだろうか。

 個人の生活はいくらでも自助努力するが、こういう社会の問題は自助努力の範囲外だ。だからよりよい判断をして欲しいと思うところだ。新しい道路の建設はすべて凍結し、オリンピックはさっさと辞退し、その分住民税を大幅に下げて都内の景気刺激策とする。まずこれだけでもやる効果はあるだろう。

 その上で消費税だが、やっぱり上げない方が正解な気がする。それが生活者としての実感である・・・

2013年8月17日土曜日

過ちは繰り返せない

 終戦の日を境に、ネットではツイッターを含めて様々な「戦争観」が飛び交っている。自虐史観と言われる「日本がすべて悪い」という考え。靖国史観に代表される「やむを得なかった」という考え。考え方はひとそれぞれ、いろいろあっていいと思う。ただ自分としては、“事実”から冷静に自分の考えを導きたいと常に思っている。

 原爆の慰霊碑には、「安らかに眠って下さい 過ちは繰り返しませぬから」と刻まれているそうである。では、「過ち」って何なのだろう。日本はどこでどう道を誤ったのだろうと考えてみる。

 学校での日本の歴史の勉強は、明治維新から始めるべきだと、個人的には考えている。その方が大事な昭和史をきちんと学べるからである。黒船による開国から、不平等条約の解消を目指していた「坂の上の雲」の時代。日本は先進国に追いつき追い越せと国を挙げて富国強兵に励んでいた。しかし鎖国時代ならともかく、富国強兵に必要なのは石油や鉄などのいわゆる資源。日本には決定的に欠けていたものである。

 当時は先進国はみな帝国主義を掲げ、世界各地に植民地を建設。それが国富の元であった。日本はもともと識字率も高く、勤勉な国民性もあって、アジアで唯一先進国グループの末席に潜りこんだ。しかし、欧米に伍していくには資源が必要。世界中に植民地を建設していた先進国が、最後に残された中国大陸に押し掛ける。

 既にアヘン戦争によってイギリスは香港を奪い、南下策を取るロシアは、日露戦争で一旦は押し返されたものの、すぐにソ連に変わって圧力を増してくる。ぐすぐすしていたら、日本の取り分はなくなってしまう。そして資源を外国から売ってもらうと言う事は、貿易が当たり前の現代ならいざ知らず、当時は「扉を閉ざされたらそれまで」の恐怖を意味する(事実、日本はABCD包囲網でこれをやられ、戦争へと舵を切った)。日本が朝鮮半島、中国大陸へと侵略していったのはこういう背景だ。

 これが過ちの一つだと言えるが、侵略を見送っていたなら、たぶん中国は英米ソら先進国によって分割されていただろう。日本もロンドン海軍軍縮会議で抑え込まれたが、もっと簡単に先進国によって杭打ちされていただろう。アジアでは日本とタイのみが植民地化されていなかったが、これもどうなっていたかわからない。不平等条約のような屈辱に喘いでいたかもしれない。

 だが、我が祖先はそこで先進国に負けじと、先進国と「同じ方法」で富国を図った。日本“も”中国大陸に駒を進めたのである。そして先進国と分捕り合戦を展開。ここで健闘し過ぎてしまった。だからアジアで日本の台頭を心良く思わない欧米を敵に回してしまったのである。

 イギリスやアメリカが正義だったから戦争に勝ち、日本が悪の侵略国だったから戦争に負けたのではない。世界の覇者として影響力のあるイギリスとの同盟を失うような対応を取り、資源を十分に確保しているアメリカと戦争をしたから、負けたのである。そして歴史は勝者によって作られる。「勝てば官軍」である。

 いち早く中国に侵略し、香港を奪い、その後100年にわたって香港を占領していたイギリスに中国が何も文句を言わないのは、「敵の敵は味方」の理屈で支援してくれたアメリカの同盟国だったからだ。単独では日本に勝てなかった中国だから、助けてくれた英米に文句は言えないのである。そして同じ侵略国でありながら、日本だけが敵視されるのは、もちろん日中戦争の相手だからであるが、戦争に負けた「池に落ちた犬」だからに他ならない。

 何が“過ち”だったかと言えば、やっぱり「アメリカを敵に回した事」に尽きるだろう。「喧嘩する相手を見極め、そしてうまく立ち回る」これができなかったのである。日露戦争ではアメリカは日本の側についたし、三国干渉もしなかった。うまくアメリカと歩調を合わせていたら、歴史は違ったものになっていたかもしれない。中国もどうなっていたかわからないし、日本の敗戦を機に一気に独立へと動いたアジアの植民地諸国の独立ももっと遅れていただろう。もっともあまり追随していると、のちにベトナム戦争に参戦した韓国のようになっていたかもしれないから、微妙なところではある。

 今は今。不幸な歴史はこれで良かったとは言えなくとも、仕方のないものなのだろう。戦争反対は結構だし異論はないが、歴史をよく知った上でそれに基づいた意見を語ってほしいと思う。それに歴史の教訓ではないが、中国とはもっと距離を縮めておいた方が良いと思う。昭和史はまだまだ学ぶ余地はありそうだ。これからもライフワークの一つとして興味を持っていきたいと思うところである・・・




  

2013年8月15日木曜日

終戦の日

 本日は、終戦の日。祝日ではないものの、日本では誰もが知っている日である。68年前と言われても生まれる前だし、教科書の中にあるその日は、想像力を逞しくしてもなかなか想像できるものではない気がする。

 そんな中、安部首相に対して靖国神社への参拝が注目されていたが、首相は“私費で”玉串料を納めるにとどめた。代わりに稲田行革相らの議員90名が靖国神社を参拝したと、「朝日新聞」が報道した。毎年、誰が参拝するのかがいつも報じられる。

 そもそもであるが、靖国神社は、国のために命を落とした軍人・軍属等の戦没者が英霊として祭られているところである。アメリカでもアーリントン墓地が有名であるが、国のために命を落とした人たちを祭るという事は当然すべき大事な事であり、他所の国の人にとやかく言われるべき事ではない。いつでも堂々と行けば良いと思う。

 ただ、それが中国・韓国に対して不快感を与え、両国がいつも過敏になっている問題であり、そこをどう考えるかが難しいところだ。「自分がやりたいと思うから、やる権利があるからという理由で、人の嫌がる事を敢えてするのか」という点は大きな問題である。

 個人的には、韓国は大嫌いだから気にする必要はないと思う一方、中国には一定の配慮は必要だという複雑な思いだ。ましてや国を代表する政治家であれば、個人的な感情は抜きにして真剣に考えないといけない事だろう。安部総理が参拝を見送ったのは、賢明な判断だと思う。

 靖国神社の問題点は、戦犯が眠っているというところだが、戦犯と言っても我々の立場からすればとんでもない事であり、勝利者のアメリカが自らの罪は棚に上げ、すべての責任を裁判という形で敗戦国に押し付けた恥ずべき行為。対外的な思惑を別とすれば、本来であれば国を挙げて参拝すべきところなのである。

 それにしてもいつまで中国・韓国の顔色を伺い続けなければならないかと考えると、困った問題である。解決策はないのだろうかと考えていて、ふと思ったのが、内緒で行けば問題ないのではないだろうかということだ。我ながら実に姑息な手段だが、静かに行って静かに参拝して帰ってくれば問題も起こらないと思うがどうだろう。国民もみな見て見ぬふりをするのだ。中韓だって、わからなければ不快な気分にもならないだろう。

 そう考えるとマスコミもこの問題に対して注目し過ぎだ。8月も近付くと、首相は参拝するのか、閣僚は、誰が行くのか行かないのか、と騒ぎだす。そして、中韓の反応を面白おかしく書き立てる。まるで煽っているようだ。朝日新聞などは、この問題が大きくなる事を望んでいるかのような報道ぶりだ。

 よくよく考えてみると、問題はマスコミにあるのかもしれないと思い至る。「お~と、今年も閣僚の○○が参拝するぞ、さあそれに対して中韓の反応は?案の定、抗議が来た、抗議が来ました、さぁ総理はどうする?どうする?問題だ、問題だ!」プロレスの実況中継よろしく、問題を煽りたてて正義感ぶっている。いったい、どこの国のマスコミなんだか・・・

 事実を事実として報道して何が悪いというのが、マスコミの立場なのだろう。事実であれば人が不快に思う事でもなんでも報道するのが、その“使命”なのだから仕方ないのだろう。ご立派な使命だとつくづく思う。

 戦国武将好きから高じて歴史好きに移行しつつある我が息子。学校で借りてきて読んでいる「日本の歴史」シリーズも、第2次世界大戦が含まれる近現代に及んでいる。本の記述には怪しいところもあるし、ここは親としてしっかり“歴史教育”をしようと思う。靖国問題もしかり、だ。

 そしてそれと平行して、相手への思いやりという事も忘れぬように教えよう。先祖に恥じる事のない日本男児に育つよう、自ら手本になる意識も忘れぬよう教えていきたいと思うのである・・・

【本日の読書】

借入は減らすな!―――『無借金経営』は愚の骨頂! (あさ出版電子書籍) - 松波竜太



2013年8月9日金曜日

忙しい昼の合間に

 平日のランチは、大概社員食堂で済ます事が多い。しかし、外出時と重なる時は、当然外出先で探す事となる。その時、真っ先に候補に上がるのが、「どんぶり系」である。マックなどのファーストフード系はまずない。そして「どんぶり系」と言えば、牛丼の「吉野家」、天丼の「てんや」、親子丼の「なか卯」といったところが、「3大候補」となる。もちろん、吉野家などはもともとファンであり、独身の頃は毎週末のランチは必ず吉野家へ行っていたくらいの“中毒”である事もあるが、忙しい時間帯ゆえに「安くて、早くて、おいしい」という利点があるのが大きいと言える。

 どんぶりと言えば、実は最大の好物は「かつ丼」なのであるが、これは残念な事においしいチェーン店がない。個々の店ならたぶん探せばあるのだろう。ただ、大阪にある「 喝鈍滝見小路」のように、泣きたくなるくらいおいしいかつ丼屋さんがあれば毎日でも通うかもしれないが、そんなところがないのが実に残念。と言っても探す努力をしていないのも確かだから、それは今後の課題だ。

 上に挙げた3つはいずれもチェーン店だから、外出先でどこに行っても探しやすいというのが利点でもある。たいがいの駅の周辺にはいずれかがある。これも実に便利だと思う。その他にも条件を満たす店舗はある。例えば牛丼で言えば、松屋やすき家が大手としてある。ただ味という点では、吉野家が頭一つ抜けている。すき家の場合、牛丼以外にもメニューがあるので、いざとなった時には代替案としては十分採択できる。ただ松屋はダメだ。

 たまに「牛丼戦争」などと言って、ニュースで安売り合戦をするのを耳にする。だが、個人的には関係ない。例え吉野家の牛丼が500円で、松屋の牛丼が10円でも松屋には行かないからだ。人それぞれだから他人の事はとやかくは言わないが、松屋は食事をするところとは思えない。

 今は飲食店は厳しい時代。デフレで売価は下げねばならず、そのためには極力人件費を削って店舗運営コストを下げないといけない。そのためアルバイト中心の運営になるし、調理も店舗でするのは簡単なものとなる。だからだろう、味はひどいものだし、サービスも当然アルバイトのレベルだ。以前の出来事に恨みを持っているわけでは決してないが、あそこで食事をしても、腹はふくれるかもしれないが幸せな気分にはなれない。たかだかワンコインの世界で、そこまで身を落としたくはない。
どうしても松屋しかなかったら、コンビニでおにぎりを買った方がまだ良いだろう。

 モノを食べる時に幸せな気分になれるかどうかは大事なところだ。こずかいが多いわけではないが、その一線は守りたいと思う。
一方、ラーメンという捨てがたい選択肢もある。ただラーメンの場合、おいしい店は行列が出来ている事が多いので、仕事で外出中の時間に余裕のない時には利用しにくい。それにあらかじめ知っている所ならともかく、そうでなければ探す手間もある。やっぱりチェーン店のネットワーク網に勝るものはない。

 仕事の合間のささやかな楽しみという点で、やっぱり上記の3大チェーン(+1)は重宝したいところだ。これからもへんな安売り競争に巻き込まれる事なく、堅実経営を維持して変わらぬ味を提供していただきたいと思うのである・・・



2013年8月2日金曜日

2013サイパン旅行記~観光客編~

 その昔、友人と大学の卒業旅行でオーストラリアに行った
あちこちで景色の写真を撮るたびに、その友人は「日本人が写る」と腹を立てていた。
それほどどこへ行っても必ず日本人がいたのである。
サイパンなど、日本人だらけだったと聞いている。
そんな話も今は昔。

 今回サイパンに初めて行って感じたのは、「中国人だらけ」という印象だ。統計を取ったわけではないが、皮膚感覚では日本人より多いのではないかと感じた。耳に入ってくる言葉を聞けば中国語だというのはわかるが、それが北京語なのか広東語なのかまではわからない。だから中国人と言っても、本土以外に台湾人も混じっていたかもしれない。

 そしてその次に多かったのが韓国人。ホテルでもビーチでも、中韓に圧倒された感じであった。さらに意外なのがロシア人。白人系は、やっぱりアメリカだからアメリカ人かと思っていたが、よくよく聞き耳を立ててみるとロシア語を話していた。モスクワなどからだと距離もあるが、ハバロフスクなど極東なら距離的にもそんなに遠くない。伝統的に南進の歴史のある国だから、案外手頃な観光地なのかもしれないと感じた。

 そんなわけで、プールサイドでは、中国語、韓国語、ロシア語に地元の従業員が話すチャモロ語、さらに関西弁が混じってなかなか国際色豊かであった。プールサイドでは国際色豊かでも、DFS(免税店)へ行くと中国一色である。中国人はわりと家族単位で来ているようだが、免税店では数で圧倒。私も時計に興味を惹かれて寄って行ったが、10万円以上の高級時計のショーケースの前は中国人グループに占拠されて近寄れなかった。

 まぁ別に支障はなかったのだが、店員さんも中国系で、お互い中国語でやり取りをしている。今回あちこちで、「ジェットスキードウ?」「マッサージ、ヤスイヨ!」とカタコトの日本語で話しかけられたが、それらが中国語に変わるのもそんなに遠い未来ではないと思う。

 いろいろ観察していると、韓国人はカップルで来ている人が多いようだった。恋人同士なのか夫婦なのか、子連れの若い夫婦も含め、大概が若いカップルだった。中国人はその外見で大体それとわかる。ファッションが日本人と違う(特にメガネとヘアスタイルはすぐわかる)というのが一番であるが、その点韓国人は見かけで判断するのが難しかった。大陸系の顔立ち以外ではちょっと見分けられない。それだけ韓国とは距離が近いのかもしれないと思われた。反韓人を公言して憚らない私であるが、いろいろ観察してみると、実際会話でもしたら反韓の印象が変わるかもしれないと、なぜだか漠然と感じたのである。

 中国人はファッションの相違に加え、態度も気になった。レストランでもDFSでも、「金持ってるんだぞ」という雰囲気を醸し出していた。まさに田舎の成金という感じだ。それらは見ていてあまり気分の良いものではない。ただ考えてみると、かつての日本人もそうだったようだし、「中国人だから」と決めつけるのは良くないだろう。そういう姿を見て、日本人も自らの態度を省みる必要があるだろうし、「人の振り見て我が振り直す」良い機会なのかもしれないと思う。

 かつて日本人ばかりと嘆いた友人Kだが、今のサイパンを訪れたら何と思うだろう。たぶんこの傾向はもっと加速するような気がする。もしも溢れかえる中国人旅行者に不快感を抱くとしたら、それはそのままこれまで日本人が与えてきたものかもしれないと思った方がいいのだろう。

 仮にもしも中国人旅行者がもっと増えて、我々日本人の肩身が狭くなったとしても、そうなったからと言って何も嘆くほどの事はない。周りがどうであろうと、自分達の旅を楽しめば良いだけの事だ。時折見かけたロシア人旅行者たちは、実に悠然と過ごしているように見えた。我々もまたそれを見習って悠然と過ごせば良いだけだ。我が物顔に札びらを切って大きな顔をするのではなく、地元の人に愛される旅行者になるように振舞うべきなのだろう。

 今回の旅行を通じていろいろと思うところも多かった。我が家もそんな旅行者になれるよう心掛けたいと思うのである・・・
    




2013年8月1日木曜日

2013サイパン旅行記~飲食編~

 旅行の楽しみの一つは、現地での食事。
我が家はただでさえ、「生きる事は食べる事」という信念の持ち主が二人もいるから尚更なのだが、そういう私も昔から旅先での食事は楽しみにしていた。
それも思いっきりローカルな食事である。

 その昔、独身時代にシンガポールや香港、マニラなどへ遊びに行ったし、結婚してからもセブ島、バリ島などローカルの人しか行かないような店に行くのが大好きだったものである。それは今でも変わりない。今回もいくつか行ってみた。


At the Park

 朝食で2回行ったのは、“At the Park”という、その名の通り記念公園に面したカフェ。店内には地元のおじさんが新聞を広げていたり、何やらパソコンを開いていたりする人たちがいる。パンケーキやハンバーガー、オムレツなどの食事が飲みモノとともに提供される。

 例によってアメリカンサイズで大きいから、大人二人子供二人の我が家では3プレートで十分であった。コーヒーはスタバのようなスペシャリティコーヒーが種類も豊富。ただ、チョコレートラテはめちゃくちゃ甘過ぎて閉口した。

 昼に行ったのは“Shiery’s”。ここも店内の客は、地元の人が大半を占めていた。大皿にどさりとライスが盛られ、チキンなどの料理がつくプレートが目につく。ここも3皿(娘はワンタン麺だった)で間にあう。日本の米とは違うが、ちょっと細身のアジア米のガーリックライスで美味この上なかった。




Coutry House
 夕食で行ったのは、“Country House”。ここはステーキ店。やはりアメリカと言えばステーキ。店内にはジョン・ウェインやインディアンの写真が飾られ、西部の雰囲気。サイパンで西部かと言うなかれ、やはりアメリカの一部には違いない。そのステーキも、最小の225グラムで十分。付け合わせのいんげんやニンジンやポテトも美味で文句なし。ビールはもちろん、バドワイザー。スーパードライもあったが、ここでそれを飲むのは無粋というものだろう。


 最後の夜に行ったのは、“Bobby Cadillach”。ここはハンバーガーとピザとその他のローカルフードのお店。ここではハンバーガー&ピザを堪能。普段、マックのハンバーガーを食べ慣れていると、パンにハンバーグとオニオンとピクルスを挟んだだけのシンプルさが新鮮。ケチャップをたっぷりかけてかぶりつく。味も美味。飲みモノをオーダーすると、缶のまま出てくるところが何とも言えない大雑把な味わい。

 今回もホテルのレストランは結局一度も利用しなかった。街中をブラブラ歩きながら、レストランを訪ねて行って食べるのも旅先ならではの味わいというもの。それにしても、価格面ではほとんど国内と遜色はない。毎食ごとに30ドル程度かかるし、ステーキなどは150ドル近くかかったし、やっぱり経済的にも旅先のみの楽しみというところだろう。

 基本的に支払いはカードを利用した。来月には請求が回ってくるだろうが、それまでは楽しい余韻に浸っていたいと思うのである・・・

Bobby Cadillach