2023年10月8日日曜日

受験・浪人

 息子は現在高校3年生。現役バリバリの受験生である。私立文系の志望校を目指してどうやら毎日真面目に勉強しているようである。私も大学受験の時のことを思い出すが、気がつけばもう40年も前のことになる。高校3年生と受験に失敗して浪人した1年間とで2年間受験勉強に精を出していた。息子の勉強については、特に何も口出しをしていない。妻がしっかりサポートしているし、本人も別にアドバイスを望んではいないのだろう。寂しい気もするが、望まれぬことをするつもりもなく、このまま静かに見守るつもりである。

 ところが先日、妻から話があった。「息子が浪人するとなったらどうするか」と。突然の話で驚くと言うより、「何を今さら」と言うのが正直なところだった。長女も大学受験の時は1年浪人しているし、息子だけダメというわけにもいくまい。それに何より自分も1年浪人しているし、自分ができなかった現役合格を息子ができなかったとしても責めるのもおかしな話。本人が浪人して再チャレンジしたいというなら、それを拒否する理由などない。妻も同意見だったが、一応確認ということだったらしい。

 それはそうとして、まだ結果も出ていないうちから早い話ではあるのだが、いざ浪人となったら息子とは一度サシで話をしたいとは思う。そこでは自分の経験を踏まえて、息子に望むことを話したいと思う。40年前、私が受験した時、志望は「国公立」であった。それは主として受験料が私立よりも安いということだけの理由。別に当時、我が家は貧しかったわけではない(かと言って裕福だったわけでもない)が、父親の苦労話を聞いていたせいもあって、親にはあまり金をかけさせたくないという思いが強かったのである。

 父は長野県の富士見の出身で、当時、村全体が貧しかったようで、父は中学卒業と同時に友人と共に東京へ出てきて丁稚奉公に入っている。朝6時に起きて、8時に職人さんが来る前に仕事の準備をし、昼は立ったまま食事をし、夜の12時まで働いたそうである。今では労働基準法違反レベルではあるが、当時はそれがまかり通っていたようである。無一文で出てきて、真面目に働き、印刷工として腕は良かったらしく、独立しても固定客はずっとついていたらしい。ただ、商売が下手で、あまり儲けられなかったが、それでも私を大学に通わせ、家も買い、無借金で70歳で引退した。

 それに比較し、当たり前のように高校に行き、当たり前のように大学へも行ける自分は随分恵まれているものだと思っていた。父は小学校に入った頃に独立し、休みは週1日、毎日12時間、1人工場で黙々と働いていた。機械に腕を挟まれて大怪我をしたり、実家の祖母が病気の時は溜めていたお金をすべて躊躇なく送金したりということもあり、それが裕福ではなかった一因でもあったようである。そんな様子を見聞きしていたからかもしれないが、私は自然と「親に金を使わせないようにしなければ」という思いになっていた。高校に入るとアルバイトを始め、以来、親に小遣いはもらっていない。

 大学も、行くのが当然なのではなく(行かないという選択肢はなかったが)、それに甘えるのではなく、国公立へ行くのが筋だと考えた。1年目は「ダメなら浪人」と決めていたので志望校一本しか受けず、玉砕して浪人生活に突入。「予備校に行く」という選択肢は端からなかった(そこにはもう一つライバルに対する意識もあった)。宅浪中は110時間の勉強(日曜日は5時間)を自分に課し、それを1年間やり切った。終わった時は、何よりホッとしたし、仮にダメだった場合、「もう1年」は無理だと思った。それほどやり切ったのである。

 幸い、志望校には合格したが、この体験談は息子に語りたいと思う。何も「予備校に行くな」、「110時間勉強しろ」などというつもりはない。ただ、「結果よりもプロセスを重視する」とは言うつもりである。「自分でやり切った」と言えるくらいはやれとは言いたい。結果として志望校に落ちようが、どこの大学に行こうがそれは構わない。ただ、私に対して「やり切った」と言えるならそれでいいと言いたい。今は結果よりもプロセスが大事。プロセスがしっかりしているなら、結果はいずれどこかで帳尻は合うだろう。

 考えてみれば、自分は親によくいろいろな話を聞かされたが、自分はあまり娘にも息子にも自分の話をしていないように思う。あまり自慢めいた話が好きでないこともあるが、振り返れば何気なく父に聞かされたことが、自分の考え方にかなり影響していることに気づく。自分も疎まれたとしても、もう少し自分の考えを子供たちに語って聞かせた方がいいのかもしれない。折を見て、そんな時間を作ってみたいと思うのである・・・


27707によるPixabayからの画像

【本日の読書】

  



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