2023年3月26日日曜日

いつまでも自分でいたいと思う

 週末は必ず1日実家へ行くことにしている。そこでトイレ掃除や床掃除など年寄りには体の負担の大きな掃除を引き受け、買い物に行き、昼食と夕食を作る。正直言って面倒だが、両親と過ごす時間もあとどのくらいあるかわからないが残り少ないのも確かである。「孝行したい時に親はなし」という言葉もある事だし、せめて今できることをしておこうと思うのである。おかげで料理もできるようになったし、悪くはない。父は耳が遠くなり、母は腰が痛いといつもつぶやく。だが、こればっかりは私にはどうすることもできない。

 加えて最近、父は急激に認知能力が衰えてきたようである。先日は外出先で乗り換えがわからなくなり駅員さんに聞いたそうである。初めてでもない都内の駅であり、本人も驚いていた。さらにその後、平日の昼間に突然電話がかかってきて、メールの送り方がわからないと訴える。その場で説明するも、「今見ている画面」の説明ができない。オロオロして「これなんだろう」というばかりである。それまでにない態度であり、背筋に寒いものが走ったのである。

 人間誰でも老化から逃れることはできない。かつての人生50年時代には認知症など問題にはならなかったのかもしれないが、長生きになった結果、生物としての限界に近づいてしまっているのだろうか。もっとも、LIFESPAN-老いなき世界-』(読書日記№1243)によれば、老化は治療することができるらしく、150歳まで生きることも可能なのだという。夢のある話ではあるが、ただ生きるだけでは意味がなく、当然「より良く」生きなければ苦痛の人生が長引くだけである。認知症になってしまったら、長生きしてもあまり意味はない。

 私の祖父は89歳まで元気に生きた。最後は癌になって、もう治らないと医者に言われ、農薬をあおった。なかなか見事であり、自分もかくありたいと思うが、それには何より意識がしっかりとしていないといけない。体は多少不自由になったとしても、最後の瞬間まで「自分」でありたいと思う。少なくとも人間、思考は歳を取らない。シニアのラグビーに参加していても、頭の中の自分は学生時代と何ら変わりない(だから危ない)。たぶん、80歳になっても90歳になっても、変わるのは外見だけだろう。

 どうしたら、最後まで自分でいられるだろうか。それがわかれば世の中の人はみんな苦労はしない。自分は大丈夫だと思っていても、それは根拠のない自信。先日の事、出張先のホテルで夜、映画を観た。選んだのはジェイソン・ステイサムの主演映画。ちょっとアクション系の映画を観たい気分だったのである。観た映画はすべてブログにまとめているが、帰宅してさっそくブログにアップしようとして愕然とした。何とすでにアップしてあるのである。日付は7年前である。

 これまで何度か映画を観ている途中で、「これ観たな」と気づくパターンはしばしばあった。それが最初の5分程度だと何とも思わないが、半分近く観た後だとちょっとショックを受ける。しかし、今回は観終わって清々しい気分になり、ブログを書く寸前までまったくわからなかっただけに愕然としてしまった。もしもブログを書いていなければ気がつかなかったところである。これがすなわち記憶力の衰えなのかもしれないが、親父の本棚に同じ本が2冊あるのをこれからあまり笑えなくなるかもしれない。

 考えてみれば、人間の記憶力にはもとより限界はある。人は経験したことをすべて記憶しているわけではない。そしてその記憶も人によってまちまち。こちらがよく覚えていることを相手はまったく覚えていないという事もよくある。映画もみんな忘れてしまっているわけではなく、今でもほとんど覚えているのではないかと思うくらい鮮明に覚えている映画もある。もっとも、それだけ強烈に心に残る映画だということだけかもしれない。ブログを見返してみると、やはり観たことを忘れてしまっている映画も数多い。それがもったいなくてブログを書いているのでもある。

 自分はいつまで自分でいられるのだろうか。願わくば最後の瞬間まで自分でいたいと思う。たとえ足腰が弱って体が多少不自由になったとしても、心だけはいつまでも自分自身でい続けたいと心から思うのである・・・

Dariusz SankowskiによるPixabayからの画像 

【今週の読書】

  





2023年3月23日木曜日

First Love 初恋

 

 かねてからNetflixのオリジナルコンテンツ製作はすごいなと感心していたが、最近はとうとう日本のドラマにも進出してきた。何気なく気がついて観ることにしたのが「First Love 初恋」である。観ようと思った第一の理由は主演が満島ひかりであったからだが、タイトルに心惹かれるものがあったのも確かである。もう還暦も目の前に迫りつつある年齢となると、恋などというものは遠くなってしまった感があるが、それでも過去の自分の経験からも感じるものがある。竹内結子亡き後、好きな女優No.1の満島ひかり主演というだけでも観ないではおかれない。


 物語は主人公の野口也英と並木晴道との恋物語。それが高校時代と現在、そして也英の息子綴と詩と3組の物語が並行して描かれる。高校時代、相思相愛だった也英と晴道だが、現在では別々の生活を送っている。バラバラに始まった物語がやがて一つの形になって行く。人生は思い通りにはならない。相思相愛だった2人がなぜ別々の道を歩むことになったのかが、少しずつ描かれていく。しかも時を経て再会した2人は、なぜか初対面のように振る舞う。その謎も明かされていく。


 「初恋」というタイトルにある通り、2人にとって互いが初恋ということらしい。私の場合、初恋は小学生の時だから2人の場合は少々遅すぎる感はある。まぁ、それはともかくとして、ドラマを観ながら思い起こされるのは己の経験。しかしそれは初恋ではなく、成就することのなかったもの。と言っても正確に言えばすれ違ってしまったと言うもの。それはドラマの主人公2人の関係のようでもある。現在の也英は離婚した相手との子供がいて、晴道も同棲している女性との結婚を控えている。そんな時、再会してしまったが故に晴道の心は揺れ動く。


 私もとても似たような経験をしていて、しかしその時ドラマの晴道のような決断はできなかった。今でも歩むことのなかったもう一つの道が心の片隅で疼いている。最近、いろいろな漫画を読んでいるが、気がつけば「人生やり直し系」の漫画が多いことに気付く。否、そういうものを選んで読んでいるから多いと感じるのかもしれない。そしてなぜそういうものを選ぶのかと言えば、今でもあの時点に戻って人生をやり直したいと本気で思っているからかもしれない。そう言えば、満島ひかりの次に好きな安藤サクラ主演のドラマ『ブラッシュアップライフ』も「人生やり直し系」で、思わず観てしまった。


 「人生やり直し系」の漫画では、主人公が来るとわかっている「未来」に備えて失敗した過去の行動を改めて成功させて行く。未来がわかっているから自信を持って正しい行動が取れる。今、1994年の自分に戻れたら、心から満足のいく人生をやり直せると思う。「人生やり直し系」の漫画が面白いと感じるのは、叶わぬ自分の願いを漫画の中で主人公たちが実践しているからかもしれない。『First Love 初恋』は「人生やり直し系」のドラマではないが、自分が選べなかった道を主人公は選んでいくので、それがいたく己の心を刺激してくるのである。


 ドラマは主人公たちだけがスポットライトを浴びているわけではない。特に也英のタクシー運転手仲間である濱田岳が也英に想いを伝える場面などは、自分が同じように振られた過去を見ているような気にさせられる。いい事言っているんだけど、ダメなものはダメなんだよなぁと思ってしまう。濱田岳はちょっと気弱な三枚目を演じることが多いが、このドラマでは立派だなと思ってしまう。男子たるものかくあるべしと思う。きっといい友達になれると思う。


 このドラマ、一般的にはどうなのだろうと思う。個人的にはいろいろと自分の心が刺激されて魅入ってしまったが、若い人からすればバツイチで子供もいる主人公の「二週目の恋」にはさして心惹かれることはないのかもしれないと思ってみたりする。自分の年齢になればまったく抵抗感はない。自分も「二週目」を経験してみたいとさえ思っているから尚更であろう。こうしたドラマの世界に浸ることはしばしば現実からの逃避になるが、それはそれでいい逃避ではないかと思う。何かと思い煩うことの多い日々である。このくらいの現実逃避は許されると思う。


 ますますNetflixからは目が離せなくなってしまった。観たい映画、観たいドラマは山積していて減る気配はない。読みたい本もまた然り。この分でいけば、老後も暇を持て余すということはない気がする。満島ひかりももっと多くの映画やドラマに出演してもらいたいと思う。そしてまた私の心を刺激してほしいと思うのである・・・


《人生やり直し系漫画》
【本日の読書】



2023年3月20日月曜日

論語雑感 述而篇第七(その6)

 論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。

【原文】

子曰、「志於道、據於德、依於仁、游於藝。」

【読み下し】

いはく、みちこころざし、おきてり、なさけり、わざあそべ。

【訳】

先師がいわれた。

「常に志を人倫の道に向けていたい。体得した徳を堅確に守りつづけたい。行うところを仁に合致せしめたい。そして楽しみを六芸に求めたい。」

『論語』全文・現代語訳

************************************************************************************


 人には誰でも「こう生きたい」というものがあると思う。たとえ明確に意識していなくても、心地よい生き方というものがあると思う。たとえばみんな同じように学校に行っても、選ぶクラブも違えば得意な教科も違う。同じ授業を聞いていても、理解できる人とできない人がいる。理解できないとそのまま放置する人もいれば、なんとか理解できるように努力する人もいる。放置する人はできないものを無理にやりたいとは思わないわけであり、その努力を苦痛だと考え、だから避けたいと思うのであろう。そこで心地よい方を選んでいるのである。


 現在私は、会社で新卒採用も担当の一つとしているが、最近の学生は給与等の条件だけで選ばないようである。働きやすさだとか、いかに成長のサポートをしてくれるかとか、そんなところで選ぶ傾向があるようである。事実、合同会社説明会で社員数100名に満たない我が社でも、社員数1,000名を超える会社を向こうに回し、新卒社員を内定辞退0で採用できている。それもまた居心地の良い生き方の結果なのだと思う。そういう自分も今の会社に転職する際、給料を基準にしていたら別の会社の方に行っていたのである。

 

 孔子も「仁」を基本に、徳や人倫の道といったものを生き方の柱に置いていたのだろう。前職では、当時の社長は突然会社を売って引退し、ごくわずかな退職金を支給しただけで社員全員を解雇して億の資産を手にして去って行った。私からすると信じられない所業であるが、長年働いた社員に報いるよりも自分のためにお金を取る方を選んだわけで、それが彼の心地よい生き方だったわけである。人それぞれだから、それが悪いとは思わない。ただ、自分はそうしたいとは思わないだけである。


 米軍のある将軍が、「私は、戦場には真っ先に降り立ち、最後に去る」という言葉を残している。世界一優秀な軍隊は「米軍の将軍、独軍の将校、日本軍の兵士」というもっともらしいジョークがある(逆は日本の将軍・・・)。その言葉からしてもリーダーとはかくあるべしと思う言葉である。差し詰め、先の社長は戦場から真っ先に立ち去るタイプである。私は自分がリーダーであるならば、最後に去るタイプでありたいと思っている。そういう機会があればぜひそうしたい。


 私は、わりと普段から「いざという時はこのように行動したい」と考えているところがある。そう考えていると、いざという時に思っていた通りの行動ができる時がある。「戦場から最後に去る」というのも、いざという時に取りたいと思う行動である。さらに電車に乗る時はいつも座りたいと思っているが、人を押し除けてまで空いている席めがけてダッシュするような行動は取りたくない。そんな事をするくらいなら潔く立つ方を選ぶ。だからと言って立派な人間であるつもりはなく、道に1万円札が落ちていたらたぶん拾ってポケットに入れるような人間である。


 孔子はさらに楽しみを六芸に求めたいとしたらしいが、私もラグビーと仕事とこれを含めたブログと読書と映画鑑賞とに求めたいと思う。人によっては、仕事は苦痛の種でしかないという事もあるようであるが、どうせ1日の大半を費やすものであるし、苦痛の時間を過ごすよりも楽しんで過ごすほうがいい。そして楽しむためには何よりも自分から動かないと人にアゴで使われるだけになる。自分から動くには、あれこれと考えてやらないといけない。楽しむのも簡単ではない。


 いずれにせよ、「かくありたい」と思う姿は誰にでもあると思うが、自分もある程度はカッコよく生きたいと思う。それは必ずしもドラマの主人公のようなものではないかもしれないが、自分自身が考えるカッコ良さである(それは道端の1万円札を拾う時には目を瞑ってくれる優しさに溢れている)。職場でも「あの人の下で働きたい」と思われるようになりたい。そういう思いをいくつも抱いていたいと思う。孔子の言葉から、そんなことを考えたのである・・・

 


【本日の読書】 




2023年3月15日水曜日

自分の仕事の範囲

1.出身がどの省庁であれ、省益を忘れ、国益を想え
2.悪い本当の事実を報告せよ

3.勇気を以って意見具申せよ

4.自分の仕事でないと言うなかれ

5.決定が下ったら従い、命令は実行せよ

《後藤田五訓》後藤田正晴

************************************************************************************

 会社の同僚と「仕事の範囲」について議論した。その同僚は、私の前任の総務部の責任者である。話したのは「総務部の仕事の範囲」について。我が社の総務部は間接部門を束ねていて、中心は経理であり、そこに人事も含めた「総務部」である。前任者は在任中、社内で軋轢がいろいろあったのだと聞かせてくれた。それは会社の業務から生じる「グレーゾーン」に関するものが多くあったらしい。「グレーゾーン」とは、責任の曖昧な業務のことである。

 

 なぜそんなグレーゾーンが生まれるのか、不思議に思った私が問い掛けて得られたのが、まさに「仕事の範囲」であった。前任者の考える総務の仕事とは、かくあるべきものというもので、それは必然的に下記のようなものになる。

「業務部の仕事」+「営業部の仕事」+「総務部の仕事」=「会社の仕事」

これに対し、私のイメージする総務部の仕事は、

「総務部の仕事」=「会社の仕事」-(「業務部の仕事」+「営業部の仕事」)というものである。

 

 平たく言えば、業務部の仕事と営業部の仕事以外の仕事はすべて総務部の仕事と考えている。これだとグレーゾーンは生じない。前任者は、「考え方は人それぞれだから」と言って私のそうした考えに何もコメントはしなかったが、お互いの考え方の違いは明らかであった。考え方は人それぞれだから前任者が悪いとは思わない。ただ、グレーゾーンを作り出して部長同士でその仕事を巡って対立するのが、全体(会社)にとっていいのかという点は考えてみる必要はある。


 もちろん、なんでも総務に押し付けられてはかなわないというのも事実である。やるべきことが膨れ上がってこなせなくなるという懸念も理解できる。ただ、それは「誰かがやらなければならない仕事」なのである。ならば互いに押し付け合うのではなく、「自分がやる」と引き受けたいと私は考えるだけである。もちろん、できもしないのでは話にならないので、困難であるなら手伝ってもらうようにすればいいのではないかと思う。もともとグレーゾーンであるなら、手伝ってもらえる要素は多くあるだろう。


 およそ「自分の仕事ではない」というのは、簡単である。そうして頬っかむりしてやり過ごせば、もしかしたら誰かが引き受けて自分の仕事は増えないかもしれない。それで得をしたと思うならそれでもいいと思うが、私としてはそれを得だとは思えない。それよりもむしろ自分が引き受ける方を選ぶ。そこで誰がやるかを巡って停滞するのであれば、自分がやると言って全体がスムーズに動く方がいいのではないかと私は考える。それが損だとは思わない。


 そう言えば、子供たちが小学生の頃、PTAの役員を巡ってのお母さんたちの苦労話を妻に聞いたことがある。曰く、誰も手をあげないので、決まるまで帰れなくて気まずい思いをするというのである。私ならさっさと引き受けて帰るだろう。子供が通っている学校の仕事なのだから、負担だろうと子供のためと割り切ってやればいいと思ったものである。平日の仕事でなければ私が引き受けていたところであるが、振り返ってみれば私の基本的な考え方というのは同じである。


 「余計な仕事」と考えれば「やると損」と思うのかもしれない。しかし、「必要な仕事」と考えればそうではない。そしてそういう仕事を引き受けていれば、その組織の中で存在感を増し、「なくてはならない人物」になるように思う。良い子ぶるつもりはないが、組織の中で存在感のある者にはなりたいと思うし、そう思うならどんどん仕事を引き受ける方が手っ取り早いと思う。そしてもし、手一杯で引き受けたくても無理ならば、誰かが引き受けられるようにサポートをするだろう。


 前任者は在籍期間が短かったようであるが、おそらく私はずっと身分を維持できるだろう。取締役に引き上げてもらったので定年とも無縁である。残念ながら還暦を過ぎてもまだまだ働いて稼がないとならない身ゆえ、今の収入を維持し続けるためにも取締役という身分はありがたい。今の自分の存在感を維持できれば、目標である70歳まで働くことも可能だろう。そしてそれは、「自分の仕事」が増えるようにしてきたからだと思う。


 これからも全体目線で、「自分の仕事である」という考え方を常にできるようにしていきたいと思うのである・・・


Hans DietmannによるPixabayからの画像

【本日の読書】

 




2023年3月12日日曜日

信頼とは責任を取ること

 我が社には典型的な指示待ち族の人がいる。言われたことはきちんとやるが、言われないことは全くやらない。それは見事なほどである。以前、ある事をやっていない事を咎められたそうであるが、その時の回答が「指示されていませんから」だったそうである。咎めた人は「指示がなければやらないのか」と怒ったそうであるが、おそらく本人にしてみればやっていない事に対する精一杯の言い逃れだったのであろう。そんな指示待ち族ではあるが、いいところもあって、やれと言われたことはきちんとやる。その事務能力のクオリティは高い。もしかしたら私以上かもしれない。

 なぜ、言われなければやらないのだろうか。おそらく、そこには仕事に対する根本的なスタンスがあるのだと思う。自分で考えるのが面倒だというのがあるかもしれない。あるいはそもそもそういう発想がないのかもしれない。真面目な方なので、入社時から言われたことを真面目にやるのが仕事だと思ってきたため、「自分からやる」という発想がないのかもしれない。仕事をやり終えると、時間が余ればネットサーフィンをしているので、しばしばそれを見咎められたりもしている。

 私は高校生の時、将来の進路として「サラリーマンにはなりたくない」と友人に語っていたのを覚えている。その理由は単純で、「人に顎で指示されたくない」というものであった。会社の中で意思の持てない歯車の一つになるのが嫌だったのである。その気持ちは今でも変わらない。ただ、違うのは、「サラリーマンになったから歯車になるわけではない」ということを知ったことである。意識があれば自分から仕事を、そして会社を動かしていける。だからこそ、今楽しく働けているわけである。

 その指示待ち族の方は、おそらくそれほど指示されることに抵抗がないのだろうし、むしろ指示してもらわないと困るとさえ思っているのだろう。それはもうご本人の性格だから仕方がない。ただ、若いうちならともかく、定年退職して嘱託の身分となると厳しくなる。我が社も余剰人員を抱えていられるほどゆとりはない。解雇にこそならないものの、出勤を減らして減給という方向に進んでいる。本人としては不本意らしいが、評価からすればやむをえない。

 およそ信頼というのはどこから生まれるのだろうかと考えると、それは「責任」に行き着くと思う。「責任」を取る人は信頼され、取らない人は信頼されない。「指示されていません(からやりませんでした)」という回答に「責任」はない。「指示されていません」という回答には、指示をするべき人(責任者)の存在を指し示す。その言葉通りに「責任」を回避するわけであるが、責任から逃れながら同時に信頼を失っている事になるのである。事実、そうした指示待ち族を信頼する人はいない。

 「それでも私は真面目に働いています」と言うかもしれない(私の人生最初の部下もそう言った)。しかし、真面目にやるのは当たり前である。「毎日会社に来ています」と言うのと同じで、それは小学生なら褒めてもらえるかもしれないが、社会人なら当たり前のことであってわざわざ強調することではない。真面目に働く上で、どう働くかが問われているのである。いちいち指示されなければ何もできない、しないのでは当然、評価もされないし信頼もされない。最低限の保証はしてくれるかもしれないが、そこで終わりである。

 その指示待ち族の方も、ひょっとしたら働き方がわからなかったのかもしれない。誰だって責められたり怒られたりするのは嫌である。嫌なことから逃げるために、いつしか言われた事だけやるようになったのかもしれない。その方が怒られないという意味で快適である。余計な事を考える必要もない。その楽な地位に安住してきた結果、そこから抜け出す方法がわからなくなったのだろうと思う。それも一つの働き方ではあるが、ご本人は給料はこれ以上減らされたくないと思っている。であれば働き方を変えていただくしかない。

 どうやって変えたらいいのか、ご本人にはわからないようである。もう変われないとは思わない。人はいくつになっても変わることはできるし、働き方ならいくらでも変えられる。これから少し、どうやったらいいのかについて自分なりにその方にレクチャーしてみたいと思うのである・・・

 

PexelsによるPixabayからの画像 

 

【今週の読書】

 


2023年3月9日木曜日

逆境に育て

 子供たちもいつの間にか大きくなった。娘は22歳、息子は17歳ともなればもう子供とは言えない。いずれ数年のうちに2人とも社会人である。娘は来年は就活、息子は大学受験。しかし、自分の就活時代(当時は就活などという言葉はなかった)や大学受験時と比較すると、どうにも2人とも何か物足りなく思えてしまう。男と女の違いはあるだろうから、娘の方はまだしも、息子の方はどうもなぁと感じる部分がある。もちろん、まだまだ半人前だから当たり前なのであるが、自分の高校時代と比べてもどこか物足りないような感じもする。

 と言っても、自分については人は誰でも甘く見がちであり、過剰に美化、脚色されるところがある。もしかしたらそんな色眼鏡で見てしまっているのかもしれない。息子を客観的に見れば高校は自分よりもランクの高い都立高校だし、ラグビーには見向きもせず野球に行ってしまったが、弱小都立高校の野球部とは言えキャプテンだし(私もキャプテンだったが・・・)1年の時から彼女はいるし(私よりも早い)、どう見ても父親を上回っているじゃないかと言われればその通りなのである。

 しかし、それでも物足りなさを感じるのは、男としての信念的なところであろうか。「これと決めたら誰がなんと言おうと貫き通す」的なところがまだ感じられない。どこかまだ「ママの言うことを聞く良い子」的なところがある。私はと言えば、早くから自立心だけは旺盛だったと思う。中学生の頃には塾に行けとうるさい母親の言葉を聞き流し、高校生の時にはもう親に小遣いをもらっていなかった。もちろん、大学は自分で決めたし、予備校へ行ったらなどと言う言葉はすべて無視して宅浪した。

 息子はその点従順で、塾にも行っているし、母親の勧めはよく聞いている。母親はもともと息子には甘いものだし、甘い母親の甘い子育てが男をダメにすると信じている私としては、ちょっと心配なところがある。我が息子にはもう少し厳しい環境が必要な気もする。「獅子は我が子を千尋の谷に落とす」という言葉があるが、たくましい大人に育っていくには、特に男の子には逆境が必要なように思う。

 我が父は子供時代は貧しく、教室のゴミ箱から裕福な家の友人が捨てた鉛筆を隠れて拾ってきて使ったそうである。進学など夢物語で、中卒で東京に出てきて働いた。私が自立心旺盛に育ったのは、そんな話を聞かされて育ったからではないかと思う。私自身、当たり前のように大学へ進学したが、大学では授業をサボるのが当たり前という風潮の中で、真面目に授業に出続けたのも、単なる「知りたい」という好奇心だけからではない。私なりのハングリー精神である。

 息子はそんな祖父の苦労など知らないし、今ある環境が当たり前だと思っている。小学生の頃から自分の部屋があり、傍から見れば恵まれている。この先、何か大きな逆境に落ちた時、そこから這い上がれる精神力があるかと問われると心許ない気がする。人間、逆境で育つということが、どこかで必要な気がしてならない。私自身、逆境で育ったというわけではないが、逆境で育った父の話を我が事のように聞けたのが良かったと思う。松本零士の漫画の影響もあるかもしれない。

 逆境を跳ね除けて成功した人の話はよく聞くが、恵まれて育ったお坊ちゃん(我が息子はお金持ちのお坊ちゃんとは残念ながら程遠い)が成功したという話はあまり聞かない。うまくいっている時は何も心配はない。心配なのは、何らかの苦境に立たされた時、あるいは逆境に陥った時、そこから這い上がれる精神力があるだろうかということである。かく言う自分がそれだけ逆境に強いかというと、必ずしもそう言い切れないが、少なくともある程度の逆境には打ち勝ってきたつもりである。

 人間、逆境に陥った時にこそその人の真価が発揮される。そういう時の訓練をどこかでする必要がある。今の甘いママの下では、親父としては心配である。千尋の谷に落とすとまではいかなくても、心構えくらいはママのいない所でじっくりと話し聞かせたいと思うのである・・・

Jerzy GóreckiによるPixabayからの画像 

【本日の読書】

 



2023年3月7日火曜日

論語雑感 述而篇第七(その5)

 論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。
【原文】

吾不復夢見周公也。

【読み下し】

いはく、はなはだしかり

おとろへたる

ひさしかりわれふたたしうこうゆめみまみ。 


【訳】

先師がいわれた。

「私もずいぶん老衰したものだ。このごろはさっぱり周公の夢も見なくなってしまった。」

『論語』全文・現代語訳

************************************************************************************

 周公とは、孔子よりさらに古い紀元前11世紀くらいの周代の政治家らしい。孔子が理想とするくらいの大人物であったらしい。夢にまで見たということは、それだけ憧れというか目標意識を強く持っていたのだろう。それだけの思いを持っていたのに、夢を見なくなったというのは、孔子は老いとしているが、実はそれだけの境地に達したということなのかもしれない。


 私が若い頃、悩んでいた一つは、「目標とする人物が身の回りにいない」ということであった。仕事そのものはやり方を覚えればある程度できる。しかし、仕事に対する取り組み方とか考え方、立ち居振る舞いなどはお手本があればやりやすい。それらは1人で考えていても思いつくものでもない。身近な疑問点をぶつけたり、参考にしたりする相手がいなかったのである。もちろん、まったくいないわけではなかったが、「身近に」いなかったのである。否、時間をとって月に一度でも会いに行けば良かったのだろうが、そこまで知恵が回らなかったということである。


 初めて部下を持った時の事、途中から1人優秀な部下をつけてもらった。彼はそつなく仕事をこなし、前任者の倍くらいのスピードで仕事をこなした。なぜこうも手早く仕事ができるのだろうかと思ったら、優先順位をつけてうまく仕事を捌いていたのである。私も仕事を頼むとしばし、「急ぎでないなら後でもいいですか」と言われたものである。もちろん異論はなかったが、それまで私は頼まれればすぐやらないといけないような感覚だったが、案外後回しにしても頼んだ方はなんとも思わないものだと身をもって知ったのである。部下に学ぶというのも情けない気もしたが、それも学びであった。


 最初に仕えた上司は、よく「仕事は盗むものだ」と言っていた。その時は、ただただ反発していた。「盗むのなんて非効率だ」と。「初めからきっちり教えた方が効率的だ」と。それはその通りであるが、一方で「盗んだものは忘れない」のも事実。盗むという事は、まず問題意識があって、それに対する気づきがあってのもの。気づきがあるから、自分のものにしようと思うのである。つまり、身近にそういう気づきを与えてくれる人がいなかったのである。


 気づきを与えてくれる人がいなかったのかもしれないし、あるいは気づけなかったのかもしれない。ただ、「この人違うな」と思うような人であればその人の言動に注目するし、そうすると気づきも得やすくなる。それもまた事実である。それでも今の自分になれたのは読書の成果が大きいと思う。ビジネス書などにはいろいろなヒントや気づきがある。読んでも大半は忘れてしまったりするが、考え方のエッセンスは知らず知らずのうちに残ったりする。門前の小僧のようにいつの間にかいろいろな考え方に触れて自分を磨いてこられたのかもしれない。


 夢にまで見るような尊敬すべき人物はいなかったが、読書などによっていつの間にか多くの学びを得られてきたのだろうと思う。誰か1人尊敬すべき人を持つのもいいかもしれないが、身の回りの様々なものから柔軟に学べるというのも大事だと思う。尊敬すべき人が身近にいなかったと嘆くよりも、老いてもなお何からでも柔軟に学べる自分であり続けたいと思うのである・・・


svklimkinによるPixabayからの画像 

 

【本日の読書】

 




2023年3月4日土曜日

新入社員に望む

 いよいよ来月、我が社に8名の新入社員が入社する。従業員100名に満たない中小企業で8名の新卒を採用できるというのもなかなか大したものだと思う。新入社員研修は外部の専門機関に委託することにしているが、自社内でもそれなりの研修をやろうと考えている。その中で、基本的な意識については私自身が講師となって研修をする予定である。そこで毎日せっせとパワーポイントで資料作りに悪戦苦闘している。「会社とは」から始まり、我が社の社歴も必要だし、身につけてもらいたい心構えなどをあれこれと頭を悩ませている。

 そのうちの一つのテーマが「給料について」である。これについては、「給料はもらうものではなく稼ぐもの」という私の持論があるので、ここは強調しようと思う。黙っていても給料日になれば口座に給料が振り込まれるというのは、当たり前であるが当たり前ではない。社員だからという理由で与えてもらうものではなく、自ら仕事をこなして会社に利益をもたらし、その報酬として自ら獲得するものでないといけない。ベンチを温めているだけで給料をもらうのではなく、ヒットを打って会社に払わせるのである。こういう意識は是非とも持ってもらいたいと思う。

 仕事だから残業もある。私の社会人1年目は残業しても残業代などもらえないのが当たり前だった。今はそういう時代ではないし、我が社は残業代をきちんと払う。しかし、そこに考えなければならないことがある。同じ仕事を1人は時間内に終えたが、もう1人は終わらずに残業をした。すると、残業をした方が残業代をもらえて収入が多くなる。当然、時間内に終えた方が優秀なわけであるが、優秀な者の方が収入が少なくなるという矛盾が生じるのである。それが認められると、なるべくゆっくり時間をかけて仕事をしようとする。これでいいのか。

 当然、よくはない。それはきちんとバランスが取られる。優秀な者についてはきちんと評価して翌年の昇給に反映される。そうでない者は昇級できないか、昇級幅は少なくなる。そしてそれは賞与にも反映され、いずれ昇格にも反映される。目先の残業代を稼ごうとセコく考えると、その時はいいかもしれないが後できちんと帳尻が合うのである。だから目先の残業代をセコセコ稼ごうなどとは考えず、効率的に仕事をしてしっかり実力をつけるようにと伝えるつもりである。

 「給料分だけ働いていると給料分の人間で終わる(植松努:()植松電機社長)」という言葉がある。私の好きな言葉であるが、これも実に真実である。そういう私も新人時代は「給料分以上働いたら損」と考えていた。働いた分に見合う給料をもらうのは当然のように思うが、そうではない。払う方から見れば、給料分だけ働いているならそれでいいと考える。ところが、給料分以上働かれると「給料を上げないといけない」と考える。結果、給料分以上働いている人の給料は増えるが、給料分だけ働いている人の給料は増えない。当たり前である。

 何事かを成し遂げようと思ったら、「考え方(意識)」「熱意」「創意工夫」の三種の神器が必要であるというのも私の持論。日本電産の永盛会長も「能力の差は5倍、意識の差は100倍」という名言を語っているが、どういう考え方(意識)で臨むかはとてつもない差となる。また、「努力する人は、夢中な人に勝てない」という言葉がある。夜寝るのも惜しんで夢中になるような熱意こそが何事かを成すのである。そしてそこに創意工夫が加われば必ずやできるビジネス・パーソンになるだろう。

 どんな社会人生活が待っているのかと、期待と不安とを抱いて入社してくる新入社員たちについて思う。縁あって同じ会社で働くことになるわけであるし、つまらないビジネス・パーソンになることなく、成功できるようにと願う。今度の研修がそんな一環になればいいなと思うのである・・・

Andreas LischkaによるPixabayからの画像 

 

【本日の読書】