2023年3月20日月曜日

論語雑感 述而篇第七(その6)

 論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。

【原文】

子曰、「志於道、據於德、依於仁、游於藝。」

【読み下し】

いはく、みちこころざし、おきてり、なさけり、わざあそべ。

【訳】

先師がいわれた。

「常に志を人倫の道に向けていたい。体得した徳を堅確に守りつづけたい。行うところを仁に合致せしめたい。そして楽しみを六芸に求めたい。」

『論語』全文・現代語訳

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 人には誰でも「こう生きたい」というものがあると思う。たとえ明確に意識していなくても、心地よい生き方というものがあると思う。たとえばみんな同じように学校に行っても、選ぶクラブも違えば得意な教科も違う。同じ授業を聞いていても、理解できる人とできない人がいる。理解できないとそのまま放置する人もいれば、なんとか理解できるように努力する人もいる。放置する人はできないものを無理にやりたいとは思わないわけであり、その努力を苦痛だと考え、だから避けたいと思うのであろう。そこで心地よい方を選んでいるのである。


 現在私は、会社で新卒採用も担当の一つとしているが、最近の学生は給与等の条件だけで選ばないようである。働きやすさだとか、いかに成長のサポートをしてくれるかとか、そんなところで選ぶ傾向があるようである。事実、合同会社説明会で社員数100名に満たない我が社でも、社員数1,000名を超える会社を向こうに回し、新卒社員を内定辞退0で採用できている。それもまた居心地の良い生き方の結果なのだと思う。そういう自分も今の会社に転職する際、給料を基準にしていたら別の会社の方に行っていたのである。

 

 孔子も「仁」を基本に、徳や人倫の道といったものを生き方の柱に置いていたのだろう。前職では、当時の社長は突然会社を売って引退し、ごくわずかな退職金を支給しただけで社員全員を解雇して億の資産を手にして去って行った。私からすると信じられない所業であるが、長年働いた社員に報いるよりも自分のためにお金を取る方を選んだわけで、それが彼の心地よい生き方だったわけである。人それぞれだから、それが悪いとは思わない。ただ、自分はそうしたいとは思わないだけである。


 米軍のある将軍が、「私は、戦場には真っ先に降り立ち、最後に去る」という言葉を残している。世界一優秀な軍隊は「米軍の将軍、独軍の将校、日本軍の兵士」というもっともらしいジョークがある(逆は日本の将軍・・・)。その言葉からしてもリーダーとはかくあるべしと思う言葉である。差し詰め、先の社長は戦場から真っ先に立ち去るタイプである。私は自分がリーダーであるならば、最後に去るタイプでありたいと思っている。そういう機会があればぜひそうしたい。


 私は、わりと普段から「いざという時はこのように行動したい」と考えているところがある。そう考えていると、いざという時に思っていた通りの行動ができる時がある。「戦場から最後に去る」というのも、いざという時に取りたいと思う行動である。さらに電車に乗る時はいつも座りたいと思っているが、人を押し除けてまで空いている席めがけてダッシュするような行動は取りたくない。そんな事をするくらいなら潔く立つ方を選ぶ。だからと言って立派な人間であるつもりはなく、道に1万円札が落ちていたらたぶん拾ってポケットに入れるような人間である。


 孔子はさらに楽しみを六芸に求めたいとしたらしいが、私もラグビーと仕事とこれを含めたブログと読書と映画鑑賞とに求めたいと思う。人によっては、仕事は苦痛の種でしかないという事もあるようであるが、どうせ1日の大半を費やすものであるし、苦痛の時間を過ごすよりも楽しんで過ごすほうがいい。そして楽しむためには何よりも自分から動かないと人にアゴで使われるだけになる。自分から動くには、あれこれと考えてやらないといけない。楽しむのも簡単ではない。


 いずれにせよ、「かくありたい」と思う姿は誰にでもあると思うが、自分もある程度はカッコよく生きたいと思う。それは必ずしもドラマの主人公のようなものではないかもしれないが、自分自身が考えるカッコ良さである(それは道端の1万円札を拾う時には目を瞑ってくれる優しさに溢れている)。職場でも「あの人の下で働きたい」と思われるようになりたい。そういう思いをいくつも抱いていたいと思う。孔子の言葉から、そんなことを考えたのである・・・

 


【本日の読書】 




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