戦における殿(しんがり)とは、敗色濃厚な戦いにおいて総大将を逃すために盾となって時間稼ぎをすることで、当然真っ先に敵にやられる可能性があり、危険な任務である。それだけに上手く努めれば評価も高くなるわけで、かの豊臣秀吉も金ヶ崎の戦いで主君織田信長の殿を務めて出世の階段を登っている。その重要な役割を務めながら、孟子反という人物は「馬が言うことを聞かなかったから(最後になってしまった)」と言ったとされている。その謙虚な物言いを孔子は誉めているわけである。
マズローの欲求五段解説によれば、人間には五段階の欲求があり、その四番目の高位に「承認欲求」というものがある。それだけ人間には「承認欲求」という強い欲求があるわけで、誰もが人に認められたいと思うだろう。幼児でさえ、母親に「見て!見て!」と得意になってものを見せにくるのも、「誉めてほしい、認めてほしい」という表れであろう。それほどの基本的欲求を孟子反は謙虚に避けている。孔子の誉める所以である。
この「功を誇らない」という精神は、日本人的にもしっくりいくところであり、逆に功を誇る人に対しては煙たがるものである。功を誇らなくてもそれは皆のわかるところであり、わざわざ強調するものではないという感覚がある。しかしながら、ビジネスの世界ではそうでなかったりする。社内の人事評価などでは、むしろ自らの実績をきちんとPRしないと評価してもらえなかったりする。
たとえば、かつて勤務していた銀行では「目標評価シート」というものがあって、これは「S」「A+」「A」「B」「B-」と五段階にわかれていて、それぞれ「自己申告」と「上司評価」とがあった。数字で「120%超達成はS」など決まっているものは評価も容易いが、数字で表せないものになると、どうも「S」はつけ難くなる。そこで堂々と「S」などと自己評価をつけようものなら、「謙虚さが足りない」という印象を与えてしまうかもしれない。かと言って本人が「A+」としているものを上司が「S」とするのも難しかったりした。その匙加減が難しく、とりあえず本人申告は「S」としていたものである。
我が社にも似たような「目標評価シート」がある。聞いてみたところ、けっこうみんな貪欲に自己PRしてくるそうである。外資系企業でもそんな傾向があると聞いたことがある。みんな自分の実績をしっかりPRしないと認められないと。かつて「日本は謙譲の文化、欧米は自己主張の文化」という話を聞いたことがある。特に人種の坩堝アメリカでは、何事においても自己主張しないと認められないのだとか。それはそれで悪くはないと思う。
自己主張するのがいいのか、それとも謙って謙譲の態度がいいのかは文化の違いである。どちららがいいというわけではない。実績などというものは、わざわざPRしなくともわかるわけで、それをPRするのは何かガツガツしているような印象を受けてしまう。日本人的には、やはり謙虚なのが好ましいとみな思うだろう。それは孔子の時代の中国でもそうだったのだろう。しかし、現代の中国は自己主張の文化と言われている。2,500年の間に謙譲の文化が自己主張の文化に変わったのであろう。
孟子反の行為が心地良く思えるのは、我々が謙譲の文化の下にあるからにほかならない。そういう文化に浸って生きてきたし、これからも生きていく。それはとても心地良いものであるし、中国人が失ったそういう心地良さを残していくためには、周りの人も孟子反のような人物をきちんと認めるようでないといけない。そんな意識を持ちながら、心地良い謙譲の文化をこれからも大事にしていきたいと思うのである・・・
David MarkによるPixabayからの画像 |
【本日の読書】
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