今月、我が社にも新入社員が5名入社した。社員数80名ちょっとの中小企業にしては毎年このくらい採用しているのであるから、けっこう頑張っていると思う。入社式の後は会社の説明等入社手続きで1日費やし、1日だけ自社内で新人研修を行い、後は外部の新入社員研修に参加してもらっている。他所の企業の同じような新入社員に混じって切磋琢磨する事になっている。
その1日だけの自社内の新人研修では、まずは社長による企業理念の話からのスタートであった。企業理念については、社長も重視していて、ゆえに最初にこの話からのスタートにしたという次第である。5人とも熱心に聞いていたが、その心の内はいかにと密かに思っていた。と言うのも、我が身を振り返ってみれば、都市銀行に入行した35年前の自分はこのあたりの話はてんで理解しようという気にならなかったからである。
当時の自分にとって、仕事とは給料をもらうための単なる手段であり、「仕事で夢を実現しましょう」などと言われてもピンとこなかったのである。「俺の夢(の一つは)は働かずとも生きていけること」というものであり、つまり仕事と夢は対局にあるものだったのである。そんな自分が今は夢を持ちましょうという側に回っているわけである。自ずと居心地の悪さを感じてしまう。もちろん、今は当時と違って、夢を持ちたいと心底思っているから、そう言うことに違和感はない。
社長の話が終わった後、そんな自分の体験談を正直に話し補足した。「夢」と言ってもあまり深く考えず、「仕事をしていく上でなりたい自分」というくらいに捉えてほしいと。それはその通りだと思う。そうすれば、違和感なく受け入れてもらえると思う。「常に夢と誇りを持ち仕事に取り組むこと」というのは、我が社の行動理念の一つである。「夢」とは、そういう仕事上の「夢」と解釈することにしている。
もう一つの「誇り」であるが、これも当時の私にはピンとこなかったものだと思う。「仕事とは生活費を稼ぐ手段」と言う考えが根底にあり、そういう現実と「きれいごと」を一緒にすべきではないと考えていたのである。もちろん、今も仕事は生活費を稼ぐ手段ではあるが、当時と違うのは「生活費を稼ぐためだけに仕事をしているわけではない」ということであろう。当時であれば、「何もしなくても同じ給料を払う」と言われたら、喜んで何もしなかったと思うが、今はそれでも仕事はする。この違いは大きいと思う。
そんな今の仕事に誇りを感じているかと言われれば、「感じている」と答える。仕事は大変だけど楽しいし、やり甲斐もある。「仕事にはつまらない仕事などなく、仕事とのつまらない関わりがあるだけ」という言葉があるが、その通りだと思う。どんな仕事であろうと創意工夫で人とは違ったやり方を工夫できるかもしれない。たとえどんな仕事であろうと、自分がやることで他の人との違いを見せられたら気分もいい。
さらに給料は「稼ぐ」ものであって、「もらう」ものではないという話もした。「もらう」は受動的である。与えられるのを待っているというイメージである。こういうスタンスだと、「言われたことをやる」=「言われないとやらない」ということになり、しばらくすれば立派な「支持待ち族」の出来上がりである。自ら能動的に仕事をこなし、その対価として給料を払わせるようでないといけない。
外部研修に参加している新人は、毎日その日の成果を研修日誌にしたためる。講師の方がそれにコメントを加え、WEB形式ゆえに翌日には私もチェックできる。どうしても集合研修は学校の延長のような雰囲気になってしまう。研修日誌にもそんなところが現れていたので、「学校と違い、研修日誌にも給料が払われている」ことを伝えた。「もらう」のではなく、「稼ぐ」内容になっているかと問い掛けた。その答えは明日にでも出るだろう。
「鉄は熱いうちに打て」ではないが、最初にプロ意識というのをしっかり持ってもらいたいと思う。それは勘違い君であった35年前の自分に対する戒めのようにも思う。彼らがこれからどんな社会人になっていくのか。ひょっとしたら、10年後には彼らに食わせてもらっているかもしれない。そうなったら理想的だし、今日の彼らの姿を心に焼き付けつつ、彼らに恥ずかしくない背中を見せたいと思うのである・・・
Alexas_FotosによるPixabayからの画像 |
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