2016年11月30日水曜日

マイクロソフトのサポート体制

メーカー等に問い合せをすると、今はどこも音声による案内が流れ、品質向上のために録音させていただきますと断ったうえで(といいつつ、それはほぼ間違いなく後日のトラブル対策だ)、要件ごとに異なる番号をプッシュさせられ、にもかかわらず永遠とも思える時間待たされ、ようやく要件を聞いてもらえるというパターンだ。一旦、切ってもう一度かけなおし、また同じプロセスを繰り返すなんてことになると、発狂しそうになる。

 そんな中で、最近マイクロソフトの「チャット」機能をしばしば利用していて、大変重宝している。マイクロソフト製品については、公私にわたって「オフィス」を購入して利用しているのであるが、2台目のPCにインストールする際、プロダクトキーを紛失したりインストールしていたPCが壊れて買い替えたりと、単独ではどうしたら良いかわからない事態に遭遇し、やむなくサポートを求めたのである。

 とりあえず電話は大変なのでと、ホームページを検索していったところ、出てきたのが「チャット機能」。とりあえず自分の言葉で疑問点を入力し、製品を選択し、質問内容の項目を選ぶと「チャット機能」に進むことができる。ここでもタイミングによっては、待たされることは待たされる。ただし、「ただ今の待ち人数〇人」と表示されているのはありがたい。最近は信号でも青に変わるまでの残り時間が表示されるし、人間は待ち時間がわかれば安心するのである。

 そうして順番が回ってくると、いよいよチャットが始まる。画面には担当者名が表示され、事前にこちらで入力していた質問内容について、説明してくれる。電話と違ってチャットの場合は「入力時間」が必要になる。何もなければ相手がキーボードを叩いているのか、フリーズしてしまったのかわからないが、入力中の場合は、「ただいま〇〇が入力しています」と表示される。こちらとしては、安心して待っていられる。

 考えてみれば、チャットよりも電話の方が楽なのであるが、不思議なことにチャット機能の方が便利に思えてならない。それはたぶん、電話よりも圧倒的に「つながりやすい」と感じられるところにある。人間何よりも知りたいことはすぐ知りたいと思うものであり、電話でイライラしながら機械の無機質な音声による自動応答の説明を聞かされることは耐え難いのである。

 また、チャット機能の便利なところは、URLを表示できるところだろうか。案内の内容によっては、「ここをクリックしてダウンロードする」なんてのもあるわけであるが、URLを送ってくれれば、クリック一発ですぐ辿りつける。電話だと、URLを一文字一文字聞き取って入力するか、検索機能を使って自分で辿りつかないといけない。さらに質問内容をコピーして保存しておくこともできるし、照会番号が残るので、後日この番号で照会すれば、続きの質問として扱ってくれるのかもしれない(この機能はまだ利用していない)。

 メーカーにしてみれば、顧客サポート部門は不可欠である一方、収益を生まない部門でもあり、必要以上に人員を割けないのであろう。なるべく少ない人員でと考えれば、どうしても利用者の待ち時間は長くなる。それが高じれば、顧客離れにもつながりかねないからおろそかにもできない。そんなジレンマを海外のメーカーは、たとえばインドなどにコールセンターを設置したりして対処している。そうしたコストがどこにはねるかを考えると、一概にメーカーを責めるのも酷というものかもしれない。

 入力の手間暇はかかるものの、電話よりストレスが少ないという点では、チャットはいいと思う。これからも何かあれば利用したいと思うし、何か自分たちの会社のサービスのヒントにならないか、考えてみたいと思うのである・・・




【本日の読書】
NO.1トヨタのおもてなし レクサス星が丘の奇跡 - 志賀内 泰弘 キネマの神様 (文春文庫) - 原田 マハ





2016年11月27日日曜日

『丁寧を武器にする』に見る働き方

丁寧を武器にする - 小山進
下足番を命じられたら日本一の下足番になってみろ。そしたら誰も君を下足番にしておかぬ。
小林一三
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 兵庫県三田で「エスコヤマ」という洋菓子店を経営しているパティシエの『丁寧を武器にする なぜ小山ロールは11600本売れるのか』を読んだ。詳細は『こんな本を読んだ』にまとめたのであるが、それ以外に「働く姿勢」という点で、大いに感じるところのある本であった。

著者は、高校を卒業後、今はなきスイス洋菓子店「ハイジ」に入社する。洋菓子職人であった父の背中を見て過ごし、「激務の割に収入が少ない」のでやめろという母の制止を振り切っての就職であった。ところが最初の配属は、希望していた菓子作りとは関係ない「喫茶部門」。就職して希望部署に配属されないということは、よくあること。私も銀行に就職して配属されたのは、華やかな都心店ではなく、ローカルかつ独身寮内で評判の悪かった八王子支店で、通知を受けた瞬間は愕然とした記憶がある。

著者は、ここで腐らずすぐ気持ちを切り替える。約10種類あった紅茶を出す仕事だが、しばしばお客さんが飲み残していく。気になった著者は、お客さんが残したものを自分で飲み、何がいけなかったかの反省をして入れ方を工夫したという。これは言われてやったものではない。普通に紅茶を出し、お客さんが帰ったら下げておしまいでも何も言われないだろう。だが、「なぜ残したんだろう」と疑問を持ち、その原因を探り、入れ方が悪かったとわかると自分なりに研究する。

この時の考え方、「意識」が素晴らしい。以下、著者の言葉をいくつかメモした。
1.      嫌な仕事であってもやらなければならないなら、とことん楽しんでやる
2.      単純作業をつまらないと思ってしまったら、そこでゲームは終わる
3.      人と同じことをしていたら気が済まない。どんなことでも他の人が1なら自分はその倍やる
4.      どんな仕事でもNoと言わない
5.      一見関係なさそうな経験でも、いずれ点と点が結ばれて線となる。どのような経験も無駄にはできない。何となく仕事をこなしている場合ではない。あらゆる仕事から吸収しないと自分の角は取れない。

さらに「意識」に加えて「創意工夫」である。紅茶とともに出すトーストとバターを買い入れたまま何の手も加えずお客さんに出していたが、それは如何なものかと、バターをバラの花の形に加工して出したと言う。誰に指示されたわけではなく、自分自身で感じ、そして行動で表したわけである。また、パン作りの練習にも精を出し、毎日9時に閉店した後、10時から12時までをその時間にあて、翌朝3時にケーキ作りの担当の先輩に迎えに来てもらい、ケーキ作りの助手をしたという。この「熱意」が素晴らしい。

睡眠時間3時間で、形だけ見れば「ブラック企業」顔負けの労働時間である。先日、電通の若手社員が激務から自殺してしまったが、自ら意欲的に働いていると過酷な労働も明日への糧となるのである。何も激務を推奨するわけではないし、そうするべきだと言うつもりもない。ただ、「やらされている」のと、「自らやっている」のとでは、外見上同じようにハードに働いていても、その結果は雲泥の差がある。人を使う時にそれを求めるのは間違いかもしれないが、自分で働く場合には常に意識したいところである。

結局のところ、仕事をする上で何が必要だろうと考えると、「熱意」と「創意工夫」と「(仕事に臨む)意識」は、重要キーワードであると思う。この3つのマインドを持っていれば、どんな仕事であれきちんとした成果は出せるのではないだろうか。もっと考えれば、仕事に限らず、例えばスポーツでもこれは当てはまると言える。球拾いであっても、先輩たちの練習を観察しながらやっていれば、得るものもあるだろうし、創意工夫によって自分に必要な練習時間を確保したりできるだろうし、何よりもそうした行動を支える熱意があれば、いやでも上達するだろう。

自分はどうだっただろうと考えると、少なくとも若手の頃はとても褒められたものではなかった。最初からこの3つのマインドを持っていたら、もっと銀行で出世していただろうし、今とはもっと違う自分であっただろう。とはいえ、今ではこの3つのマインドに少なくとも気がついているわけであるし、自分は自分で常にこの重要キーワードを意識していたいものである。

 我が家の二人の子供も、いずれ社会に羽ばたいていく時が来る。大した財産は残してやれないし、持たせてもやれない。しかし、せめて世の中を渡っていく上での強力な武器として、親父からこの3つのマインドを持たせてやりたいと思うのである・・・

【今週の読書】
丁寧を武器にする - 小山進  鏡の花 (集英社文庫) - 道尾 秀介  帰郷 (集英社文庫) - 浅田次郎





2016年11月23日水曜日

論語雑感(学而第一の7)

子夏曰。賢賢易色。事父母能竭其力。事君能致其身。與朋友交。言而有信。雖曰未學。吾必謂之學矣。
子夏(しか)(いわ)く、(けん)(けん)として(いろ)()え、父母(ふぼ)(つか)えては()()(ちから)(つく)し、(きみ)(つか)えて()()()(いた)し、朋友(ほうゆう)(まじ)わり、()いて(しん)()らば、(いま)(まな)ばずと()うと(いえど)も、(われ)(かなら)(これ)(まな)びたりと()わん。

<訳>子夏がいった。美人を慕うかわりに賢者を慕い、父母に仕えて力のあらんかぎりをつくし、君に仕えて一身の安危を省みず、朋友と交って片言隻句も信義にたがうことがないならば、かりにその人が世間にいわゆる無学の人であっても、私は断乎としてその人を学者と呼ぶに躊躇しないであろう
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 今回は孔子ではなく、その弟子の言葉。孔子も「その6」で似たようなことを述べている。「入りては則ち孝」、「出でては則ち弟」、「謹みて信あり」であるが、いずれも同じような内容である。まぁ、弟子であれば師匠と同じことを自分の弟子に語るのは当然の事なので、不思議な事ではない。というより、むしろこれが孔子を頂点とするグループの一貫した教えだという証であろう。ここではさらに、主君に対して身を挺して仕える(『事君能致其身』)が加わっている。

面白いのは、『賢賢易色』であろう。「美人よりも賢者」を慕えという内容のようなのであるが、「賢者を慕え」はわかるが、「美人よりも」という例えが考えてみれば面白い。比較の対象が「愚者」ではあまりにもありきたりだと考えたのであろうか、それとも若者相手ではその方がインパクトが強いと判断したのだろうか。当時も、というかいつの時代もやはり若者の関心は、女性であるということなのだろうか。そして、これがイケメンではないということは、やはり学問するのは男だったからなのだろうかと思ってみたりする。

さらには、その価値観だ。「親に従う」、「君子に支える」とは、いずれも権威ある人に従えという内容だ。愛読書である『逆説の日本史』シリーズでは、儒教・朱子学の悪影響を説いている。曰く、無条件に祖法を絶対視するため、幕末では鎖国政策絶対や攘夷思想の元になり、朝鮮半島では近代化が大きく遅れる原因となったと。その歴史上の解釈はともかくとして、やはりある程度権威を否定する余地がないと、特に組織の成長は期待できないであろう。あるいは孔子も、単に長幼の序だけを説いていたのであり、そこまで求めてはいなかったのかもしれない。個人的には、長幼の序は大切にしたいと思うが、それ以上のものはかえって弊害になるだけだと思う。議論を通じて否定できるものはやはり必要だと思うのである。

友人に対する誠意誠実はまったく異論はない。真の友人と言える友人は、私にはたくさんいないが、それでも数少ない友人は心から信頼できるし、また信頼してほしいと思う。それには裏表なく接したいと思うし、学生時代の友人などは、現在の社会的地位に関係なく昔のままの関係で付き合いたいと思う。そういう関係を保つには、日頃から常に素のままで接することが大事だろう。嘘や裏切りは当然ありえない。

そういう友情関係にヒビが入るとしたら、何であろうかと考えてみる。やはり金か女かもしれない。例えばお金を貸してくれと言われたらどうするべきか。これは元銀行員としては簡単である。すなわち、「返してくれなくてもいいと思える金額を貸し、貸したら忘れる」である。私ならそれこそ正直にいくらなら貸せると言い、足りない分は親身になって問題が解決するまで知恵を出すだろう。

そもそもであるが、金の貸し借りに関するトラブルは、「返してもらいたいのに返してもらえない」というものだ。友人にいい顔したい、あるいは断れないとして無理に貸すからいけないのである。「これが返してもらえなかったらどうなるか」貸す時点でわかるはずだから、返してもらえなくても良いと思ったら貸せばいいし、そうでないなら何と言われようと断るしかない。それで友情関係にヒビが入るなら、もともとそこまでの関係ということ。友情と金とを両方失うより、せめて金だけは守れるだろう。

女も簡単だ。互いに一人の女性を争ったなら、負けても素直に祝福することだ。悔しいかもしれないが、他の誰かよりは心を許せる友人の方がいいと私は思う。ただ自分が選ばれてしまった場合は複雑だ。友が祝福してくれなかったらという心配はある。その場合は、友を信じるしかないのかもしれない。

いずれにせよ、こうした対人関係がどんな学問よりも大事だと最後に子夏は説く。それはやはりそうなのだろうと思う。この世の中は、人と人との関わり合いによって成り立っているわけであり、その内容については諸々あるかもしれないが、根本はそうであり、それができている人を評価するというところは、まったく同意するところである・・・



【本日の読書】
丁寧を武器にする - 小山進 鏡の花 (集英社文庫) - 道尾 秀介







2016年11月20日日曜日

『坂の途中の家』から

坂の途中の家 - 角田光代
 角田光代の小説『坂の途中の家』を読んだ。ストーリーも面白かったのであるが、それ以上に考えさせられたのは、主人公の心理描写だ。この小説は、ほとんどそれなのであるが、人は如何に他人と思いが通じないのか、考えていることは言葉にしなければ伝わらないのかということを痛烈に感じさせられたのである。

 主人公は、結婚4年目の専業主婦理沙子。2歳年上の夫陽一郎は、設計事務所に勤めるサラリーマンで、2人の間には2歳になる娘の文香がいる。そんな理沙子の元に裁判員に指名する通知が届く。そこから理沙子の生活が大きく動いていく。夫を送り出した後、娘を義母宅まで連れて行き、預けた足で裁判所へ向かう。1人ならどうということもないが、反抗期を迎えた娘を連れてとなると、ちょっとした労力である。

そして担当したのは、同年代の専業主婦水穂が、育児ノイローゼから8ヶ月になる我が子をバスタブに落として殺したというもの。そこに至るまでの水穂の心境を我が身に当てはめ、次第に理沙子も精神的に疲弊していく。そんなストーリーなのだが、ドキッとしたのは、理沙子の思いと夫や義母の思いのスレ違いだ。

専業主婦が幼い娘を連れて外へ出れば、それだけで一仕事だ。帰ってきた夫に愚痴の一つも言いたくなるだろう。ほんの軽い気持ちで。しかし、夫はそれを真面目に受け取り、「そんなに大変ならばやめられないのか」と問う。そんなつもりのない理沙子は面食らい、その言葉に「本来の家庭での仕事をおろそかにして」という批判の匂いを嗅ぐ。当の夫はそんなつもりはない。

また、帰り道で駄々をこねた娘を放置して帰るフリをする理沙子。姿が見えなくなれば、娘も追ってくるだろうと考えてのことだ。隠れて娘の様子を伺う理沙子だが、そこへ偶然帰ってきた陽一郎が、娘が夜道に1人でしゃがみこんで泣いているのを見て驚き、理沙子を非難する。まるで理沙子が虐待していたかのような言い分で、それも裁判の影響と考える。理沙子の思いは伝わらない。

自分も家庭で何気なく発した一言に妻が噛み付いてくることはしょっちゅうある。こちらは相手を非難するつもりなど毛頭ない。されどそれを妻は悪意的に取る。親切心で言った言葉に対し、トゲトゲしい言葉が帰ってくるとげんなりする。どうしてそう人の行為を悪意的に取るのだろうかと。悪意的に取るということは、自分だったらそう考えるという悪意があるからだろうと。だが、この小説を読んでみると、また別の景色が見えてくる。

人はそれぞれ直接にしろ間接にしろ、自分の体験を通して身につけた考え方というものがある。あるいは直接関与しているか、側で見ているかによっても異なる。いくら自分では「こうだ」と思ってみても、他人がそう思うように強制できないし、説得もできない。この本を読むと、善意の気持ちが悪意に伝わる様子もよく理解できる。その心境が理解できれば、悪意的に解釈する人を批判するのは難しい。その人にはその人なりのもっともな理屈があるのである。

小説の中の水穂は、自分の子供の成長の遅さを気にするあまり、他人からの親切なアドバイスが悪意を持ったものに聞こえてしまう。実際に子供が成長して後から振り返れば、そんな些細な差は気にするのもおかしいとわかるのだが、それがわかるのは実際そういう経験をした後だからだ。読んでいると、追い込まれていく水穂の考え方が理解できるし、それを修正しようとしてもできないのが痛いほどわかる。

そんなことを感じていたら、妻の「ひねくれた」考え方も実は同じなのではないかと思えてきた。何か不安とか後ろめたい気持ちとか、何かそういう感覚があれば、悪意的に取るのも無理はないのではないかと思うのである。そうした時に必要なのは、「寛容」しかないかもしれない。コミュニケーションは難しいと常々思っているが、それを改めて感じさせられた次第である。

今後もやはり親切心を悪意的に取られてカチンとくることもあるだろう。その時、この本の水穂や理沙子の心境を思い出してみたいと思う。それで穏やかに受け流せれば、その場を穏やかに過ごせるかもしれない。それができるようになったとしたら、それは間違いなく読書の効能と言えるだろう。そんな学びが得られたとすれば、ストーリーの面白さ以外にも有意義な一冊だと思うのである・・・

【今週の読書】
坂の途中の家 - 角田光代 明治維新という過ち 日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト〔完全増補版〕 (講談社文庫) - 原田伊織 鏡の花 (集英社文庫) - 道尾 秀介





2016年11月17日木曜日

年金を考える

知らなかったのであるが、11月は「ねんきん月間」だそうで、特に1130日は「いいみらい」ということで、「年金の日」とされているのだとか。昨今、少子高齢化によって年金財政が圧迫されており、支給年齢は上がるし、納めても将来もらえるのかという不安もなくはない。そんな11月だから、年金のこともちょっと考えてみた。 

そもそも年金制度がスタートした1961年は、男性の平均寿命は65歳だったということで、60歳で定年と同時に支給され、平均5年間の支給ということで十分制度として成り立っていたのであろう。それが現在では平均寿命が81歳になっているわけで、それだけでも制度にヒビが入っているのも理解できる。さらに少子化は一人当たりの負担額も増える要因であり、ダブルパンチなわけである。

それに対して、国も手をこまねいているわけではない。増える給付と抑えたい負担とのバランスを取るため、支給開始年齢を65歳にし、定年も「再雇用」という完全な形ではないものの、延長するよう企業に働きかけている。私自身も社会人になって銀行に入った時、自動的にすべて手続きがなされ、以来年金はきちんと納めている。特に異常事態にならない限り、老齢年金と厚生年金とをもらえるはずである。

 それはそれで、将来の不安は残しつつも異論はないのであるが、最近ちょっと気になるのが「生活保護」との兼ね合いだ。例えば年金保険料を治めていない人は当然老齢年金はもらえない。もらえないから生活苦になり生活保護を申請したところ、支給された金額が年金より多かった。こんなケースがあるらしい。ちょっと調べてみたら、平成284月からの老齢基礎年金は年額78万円(月額65千円)だが、生活保護では日常生活で最も必要となる生活扶助費は、横浜市で8万円である。これなら年金保険料を真面目に払うより、横浜に住んで生活保護を受けた方が手取りが多くなる。

いかがなものかと思わずにはいられない。こういうことは改善してもらわないと、それこそ年金制度の根幹を揺るがす事態になるだろう。アホらしくて年金など加入していられない。生活保護はやはり最低限に留めてもらわないといけない。不正受給を防止するのは当然であるが、それとあわせてお金を支給する以外の工夫も必要ではないかと、常々思うところである。たとえば住居とかである。

 生活保護の支給額については、住宅に関して「住宅扶助」というのがある。まぁ家賃補助なのだろうが、これについては公営住宅に移るようにしたらいいと思う。公営住宅については、だいぶ空室があるようであり、空室対策兼支給額抑制策として一石二鳥だろう。嫌だというなら支給しなければいいだけだし、そもそも生活保護を受けざるを得ない状況で嫌だという権利など認めるべきではないだろう。

 生活保護については、あまり詳しくはないが、たぶん他にもアイデア次第でいろいろあるのではないかと思う。大事にしてほしいのは、「公平感」だ。年金問題は単独で考えるのではなく、そういう観点も含めて考えてほしいと思うのである・・・


【本日の読書】
明治維新という過ち 日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト〔完全増補版〕 (講談社文庫) - 原田伊織 坂の途中の家 - 角田光代






2016年11月13日日曜日

定年後の再雇用

 たまに読んでいる日経ビジネス・オンラインの記事に『社会的に容認???定年後再雇用「年収3割減」』という記事があった。日本の企業は大概60歳定年制を長らく採用してきたが、近年それを65歳まで延長する風潮がある。年金減額などの「大人の事情」もあるのだろうが、そのまま延長ではなく、一旦退職して再雇用というのが大方のパターンであろう。そしてその際、給与も大幅に減額されるのも一般的である。

 これを不当だとして訴えたのが、記事のベースにある。同じ仕事をしているのに、「定年・再雇用」を機に3割も給与が下がるのは不当だというのである。ベースとなる訴訟では一審ではその訴えが認められたものの、高裁で否決されたとのこと。裁判所が示したその理由は、
企業は賃金コストが無制限に増大することを避け、若年層を含めた安定的な雇用を実現する必要がある」というものであったという。さらに定年前と同じ仕事内容で賃金が一定程度減額されることについて、「一般的で、社会的にも容認されている」としたらしい

記事は、訴えたトラック運転手の立場に立って、その判決で示された内容の是非を問うている。読んでいて、これはこのトラック運転手のみのことにとどまらず、広く一般的に言えることだと考えた。当然ながら、今や企業としてはこの「再雇用制度」を採用することが当然の趨勢になりつつある。トラック業界に限らず当てはまることだからである。

私は今は社員10名の中小企業に勤めていて、一応「役員」である。だから意見はどうしても「企業側」になるところがある。「経営者目線で働く」を意識しているし・・・。だが、それを差し引いても、やはりこの問題はやむを得ないと思う。あえていうなら、「定年でサヨナラよりいいのではないか」ということである。

確かに、同じ仕事なのに、ある日突然給料が3割減というのは納得いかないのかもしれない。でもそもそも給与なんて常に保障されているわけではない。業績が悪くなれば、給与削減なんてこともあるわけで、それについて「おかしい」と言っても始まらない。歩合制で社長より給料をもらっている社員がいる会社だってあるが、大概の会社は給与は仕事ではなく役職に比例しているだろう。上司より働いていると言っても、それは通用しない。さらに経営者クラスに昇格したのに、それに伴い時間外査定がなくなり、昇格前の社員時代より給与が総額で下がるなんてケースも珍しくない。給与はそもそも不合理なのである。

訴訟を起こした運転手さんたちも記事を書いた方も、そこがわかっていない。さらにいえば、会社の定年制はわかっていたはずだし、再雇用ルールもしかり。嫌なら準備していて独立するなりよそへ移るなりの選択肢はあったはずである。何もせずにその時を迎えておいて、「おかしい」と言い出すのはそれこそ「おかしい」だろう。繰り返すが、そもそも定年で失職していたはずなのである。働きたければ自分でハローワークにでも行って職を探す必要がある。同じ仕事で同じ給料がもらえる仕事を探せば良いだけである。

おそらく、であるが、ハローワークに行っても同じ仕事で同じ給料の仕事なんてないだろう。良くて「同じ仕事で給料が下がる」仕事が見つかる程度であろう。それを3割減で提供してもらったと考えるしかない。それさえおかしいというのであれば、それは定年制そのものがおかしいと言うほかなくなる。そこまで否定するなら、起業して自分で仕事をするしかない。

そう言う意見を言うのは、自分が弱小なりといえども企業の役員だからかと言うとそうではない。昔からそういう考え方をしてきたし、だから転職に当たっても自分で定年を決められそうだという魅力もあって今の中小企業に飛び込んだと言う経緯もある。「おかしい」と言う感覚では、いつまで働いても給料も定年も決められたことに従うしかないだろう。

また、世の中に働きかけてお金をもらうという行為は、勤め人であれ企業であれ同じである。世の中の中小企業は、取引先から値下げを要求されることはザラである。その時、今までと同じ製品なのに減額されるのはおかしいなんて訴えたりはしない(最も一定の法律の保護があるのは労働者と同じである)。自営業でもしかりであり、それが世の中というものだろう。「雇われている」という安住の身分に慣れすぎて、そのあたりの常識がなくなってしまっているのだろう。

知り合いの方は、65歳で再雇用も終了した後、まだまだ余力があるからと自分でコンサルタントを始めた。その心意気や良しである。訴える暇があったら頭を使うべきであり、同情的な記事を書く前にもっと世の中のことを学ぶべきだろう。

雇われてはいても、自分の腕で稼ぐという意識を常に持ち続けたいと思うのである・・・


【今週の読書】
USJのジェットコースターはなぜ後ろ向きに走ったのか? (角川文庫) - 森岡 毅  坂の途中の家 - 角田光代





2016年11月10日木曜日

論語雑感(学而第一の6)

子曰。弟子入則孝。出則弟。謹而信。汎愛衆而親仁。行有餘力。則以學文。
(いわ)く、弟子(ていし)()りては(すなわ)(こう)()でては(すなわ)(てい)(つつし)みて(しん)あり、(ひろ)(しゅう)(あい)して(じん)(した)しみ、(おこな)いて余力(よりょく)()らば(すなわ)(もっ)(ぶん)(まな)

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 孔子の今回の言葉は、「家庭内」、「世間」でのありかたを説いている。家庭内では「孝=孝行」、世間に出ては「弟=目上の人に従うこと」が大事とされ、さらに(言動を)慎み信義を守り、広く人を愛し仁の徳を持つ人と親しくし、余力があれば書に学べと続く。極めて当たり前の内容で、異論を挟む余地はない。

 しかしながら、では自分だったら何を大事にせよと説くだろうかと考えてみる。家庭内で大事だと思う価値観は何だろうかと考えてみると、それは「調和」であると思う。「家族とは幸せになるためのチーム」と仰った方がいたが、これぞ個人的には共感度大である。そうしたチームを機能させるためにも「調和」が大事だと思うのである。孝行もいいと思うが、「親の幸せが子の幸せ、子の幸せが親の幸せ」と考えると、孝行が子の幸せになるかどうかが大事である。

それは実は世間でも当てはまると思う。目上の人に従うのはいいが、たとえば会社において理不尽な上司の言動に振り回されて疲弊していては苦しいばかりである。天下の電通で若い女性が過労自殺したが、そうした状況で「弟」を説くことは適切ではない。年長者が常に「仁の徳」を持つとは限らないし、「弟」を問う前にまず相互に良い影響を与え合う関係があるかどうかが問われるべきかと思う。孔子の時代には「過労死」なんてなかっただろうし、もっと世の中はシンプルであったと思うから、そのあたりは時代により環境により変わってくるのかもしれない。
もっとも、「考」や「弟」が否定されるべきでないことは言うまでもない。

そもそもであるが、「考」も「弟」も儒教的なものの最たるものと言える。たとえば、国の存亡をかけた戦いの最前線で、親が急病になった司令官が看病のため戦線を離れるのは良しとされるらしい。日本的な感覚で行けば、「とんでもない」ことである。よく歌舞伎役者などが、(公演中は)親の死に目に会えないという覚悟をしていると聞いたことがあるが、これが「日本人的感覚」である。言ってみれば、「個人よりも大義を重んじる責任感」であるが、そうした文化の違いは当然ある。日本人としては、日本人的な感覚を大事にしたいところである。

「慎みて信あり、広く衆を愛して仁に親しみ」については、違和感がない。むしろ「清く正しく美しく」的にあたりさわりのない当たり前の言葉である。もちろん、そうした当たり前を基本とすべしという考え方なのかもしれない。そしてそれらに「余力があれば」、文を学べということである。ここでは「詩」・「書」・「礼」・「楽」の四経を指していたらしいが、まぁ現代に置き換えるのなら広く「学問」といったところなのだろうか。個人的には「学校を卒業したあとの勉強」と捉えたい。

「学校での勉強」は一方的に与えられるものであるし、社会に出て生活していく上での「基礎知識」、「教養」と言えるだろう。それはもちろん大事なのであるが、もっと大事なのはやはり「社会に出てからの勉強」だろう。それは人によって様々である。ある人にとってはキャリアアップに必要な知識だったり資格だったりするだろうし、趣味の教養を深めたいというものかもしれない。世の中の疑問について調べることかもしれないし、何かの役に立つかもという漠然としたものかもしれない。ともかく、自分で必要だと選んだ学問である。

「最も強いものが生き残るのではなく、最も賢いものが生き延びるでもない。唯一生き残るのは変化できるものである。」とは、ダーウィンの言葉であり私の好きな言葉である。そしてその言葉通り変化するためには、常に学び続ける必要があると考えている。だからこの部分についての孔子の教えには、全面的に賛成したいところである。ただ、孔子は「余力があれば」としているが、これは余力のあるなしというより、「無理に時間を作ってでも」としたいところだ。若いサラリーマンが、電車の中で漫画を読んでいる(最近はスマホでゲームか)くらいなら、本の一つも読むべきだと考える。少なくとも子供達にはそう教えたい。

今の世に孔子が現れたら、自らの教えについてどう思うであろうか。儒教的考え方からすると、今でも「考」「弟」については変わらないのかもしれない。それは日本人流に変えていくべきところなのかもしれない。書に親しむところについては、今でも意見が一致するところかもしれないと思うのである・・・

【本日の読書】
世界をつくった6つの革命の物語 新・人類進化史 (朝日文庫) - スティーブン・ジョンソン, 大田 直子 教団X (集英社文芸単行本) - 中村文則