2016年11月20日日曜日

『坂の途中の家』から

角田光代の小説『坂の途中の家』を読んだ。ストーリーも面白かったのであるが、それ以上に考えさせられたのは、主人公の心理描写だ。この小説は、ほとんどそれなのであるが、人は如何に他人と思いが通じないのか、考えていることは言葉にしなければ伝わらないのかということを痛烈に感じさせられたのである。

主人公は、結婚4年目の専業主婦理沙子。2歳年上の夫陽一郎は、設計事務所に勤めるサラリーマンで、2人の間には2歳になる娘の文香がいる。そんな理沙子の元に裁判員に指名する通知が届く。そこから理沙子の生活が大きく動いていく。夫を送り出した後、娘を義母宅まで連れて行き、預けた足で裁判所へ向かう。1人ならどうということもないが、反抗期を迎えた娘を連れてとなると、ちょっとした労力である。

そして担当したのは、同年代の専業主婦水穂が、育児ノイローゼから8ヶ月になる我が子をバスタブに落として殺したというもの。そこに至るまでの水穂の心境を我が身に当てはめ、次第に理沙子も精神的に疲弊していく。そんなストーリーなのだが、ドキッとしたのは、理沙子の思いと夫や義母の思いのスレ違いだ。

専業主婦が幼い娘を連れて外へ出れば、それだけで一仕事だ。帰ってきた夫に愚痴の一つも言いたくなるだろう。ほんの軽い気持ちで。しかし、夫はそれを真面目に受け取り、「そんなに大変ならばやめられないのか」と問う。そんなつもりのない理沙子は面食らい、その言葉に「本来の家庭での仕事をおろそかにして」という批判の匂いを嗅ぐ。当の夫はそんなつもりはない。

また、帰り道で駄々をこねた娘を放置して帰るフリをする理沙子。姿が見えなくなれば、娘も追ってくるだろうと考えてのことだ。隠れて娘の様子を伺う理沙子だが、そこへ偶然帰ってきた陽一郎が、娘が夜道に1人でしゃがみこんで泣いているのを見て驚き、理沙子を非難する。まるで理沙子が虐待していたかのような言い分で、それも裁判の影響と考える。理沙子の思いは伝わらない。

自分も家庭で何気なく発した一言に妻が噛み付いてくることはしょっちゅうある。こちらは相手を非難するつもりなど毛頭ない。されどそれを妻は悪意的に取る。親切心で言った言葉に対し、トゲトゲしい言葉が帰ってくるとげんなりする。どうしてそう人の行為を悪意的に取るのだろうかと。悪意的に取るということは、自分だったらそう考えるという悪意があるからだろうと。だが、この小説を読んでみると、また別の景色が見えてくる。

人はそれぞれ直接にしろ間接にしろ、自分の体験を通して身につけた考え方というものがある。あるいは直接関与しているか、側で見ているかによっても異なる。いくら自分では「こうだ」と思ってみても、他人がそう思うように強制できないし、説得もできない。この本を読むと、善意の気持ちが悪意に伝わる様子もよく理解できる。その心境が理解できれば、悪意的に解釈する人を批判するのは難しい。その人にはその人なりのもっともな理屈があるのである。

小説の中の水穂は、自分の子供の成長の遅さを気にするあまり、他人からの親切なアドバイスが悪意を持ったものに聞こえてしまう。実際に子供が成長して後から振り返れば、そんな些細な差は気にするのもおかしいとわかるのだが、それがわかるのは実際そういう経験をした後だからだ。読んでいると、追い込まれていく水穂の考え方が理解できるし、それを修正しようとしてもできないのが痛いほどわかる。

そんなことを感じていたら、妻の「ひねくれた」考え方も実は同じなのではないかと思えてきた。何か不安とか後ろめたい気持ちとか、何かそういう感覚があれば、悪意的に取るのも無理はないのではないかと思うのである。そうした時に必要なのは、「寛容」しかないかもしれない。コミュニケーションは難しいと常々思っているが、それを改めて感じさせられた次第である。

今後もやはり親切心を悪意的に取られてカチンとくることもあるだろう。その時、この本の水穂や理沙子の心境を思い出してみたいと思う。それで穏やかに受け流せれば、その場を穏やかに過ごせるかもしれない。それができるようになったとしたら、それは間違いなく読書の効能と言えるだろう。そんな学びが得られたとすれば、ストーリーの面白さ以外にも有意義な一冊だと思うのである・・・


【今週の読書】
  
    
    

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