2026年4月5日日曜日

論語雑感 子罕第九 (その26)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感
【原文】
子曰、衣敝縕袍、與衣狐貉者立、而不恥者、其由也與。不忮不求、何用不臧。子路終身誦之。子曰、是道也、何足以臧。
【読み下し】
いわく、やぶれたる縕袍うんぽうかくたるものちて、じざるものは、ゆうなるか。そこなわずむさぼらず、なにもってかからざらん。子路しろしゅうしんこれしょうす。いわく、みちや、なんもっしとするにらん。
【訳】
先師がいわれた。
「やぶれた綿入を着て、上等の毛皮を着ている者とならんでいても、平気でいられるのは由だろうか。詩経に、
 有るをねたみて
 こころやぶれず
 無きを恥じらい
 こころまどわず、
 よきかなや、
 よきかなや。
とあるが、由の顔を見ると私にはこの詩が思い出される」
子路は、先師にそういわれたのがよほどうれしかったとみえて、それ以来、たえずこの詩を口ずさんでいた。すると、先師はいわれた。
「その程度のことがなんで得意になるねうちがあろう」
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 「やぶれた綿入を着て、上等の毛皮を着ている者とならんでいても、平気でいられる」というのは、趣旨としてはよくわかるが、今の日本の社会ではあまり当てはまる機会も少ないように思う。幸いなことに、我々の社会では貧富の差がそれほど大きいわけではない。せいぜいホームレスが目立つ程度で、かつてのように貧民街があるわけでもなく、表面上はあまり分からない。したがって、「貧富の差」というよりも「立場の差」で差をつけるというのが、現代の我々の社会ではありそうなことだと思う。

 その「立場の差」というのは、「相手によって態度が変わらない」ということだろう。これはなかなか難しいことだと思う。と言うのも、人は大抵「何を言ったか」よりも「誰が言ったか」で判断することが多いからである。「やぶれた綿入を着て」いる人の話は軽んじ、「上等の毛皮を着ている者」の話は重んじることしばしばである。由という人は、相手によって付き合う態度を変えなかったのであろう。それはそれで立派なことである。現代で言えば、上に媚びへつらい下に尊大に接するのではなく、誰に対しても同じように丁寧に接する人こそ、人の尊敬を集めるものだと思う。

 特に職場においてそれは顕著なのではないかと思う。すなわち、上司に媚びへつらい、部下に尊大に接するということである。そこまで極端でなくても、部下の発言を軽んじるというのはよくある。私もかつて銀行員時代にそういう上司に仕えたことがある。私も言われたことだけをやるタイプではなく、意識的に意見具申は常に心掛けていた。そこで提案をするのであるが、その上司はなかなかその提案を採り上げてくれない。それはそれで仕方ないのであるが、ある時、同じ提案を部長の前でしたところ、部長が賛意を示した途端に手のひらを返された。

 私に対しては、「その意見はどうもなぁ」とお茶を濁していたのに、部長にはそれを言わない。もちろん、ビジネスマンは組織人として上位下達が原則であり、部長の指示に従うのは当然である。しかし、私の提案に疑問があるのなら、それを部長にも示さないと部長が判断を過つ可能性もある。「私はここの点で疑問に思う」と伝えるのが正しい姿勢であり、部長が仰るならなんでも賛成というのはおかしい。結局、その上司を尊敬することなどなかったが(むしろ内心見下してしまっていた)、やはり人ではなく、意見で判断してほしいと思う。

 我が社の長老にもその傾向は大きく、お気に入りの人物が言えばなんでも認め、そうでない人物の行動は徹底的に批判する。そういう「人によって態度を変える」という姿勢は、尊敬に値しない。たとえ新入社員の意見であってもいい意見であれば採り上げ、社長の意見であっても反対ならそう言う(もちろん礼節を保ってであるが)のがいい部下というものではないかと思う。由はそういう人物であったのだと思う。そしてそういう由を誉めた言葉が残っているということは、そういう人物が少なかったという裏返しでもあるのだろう。

 尊敬する師に褒められたなら、人は誰だって嬉しくなるだろう。由が有頂天になって詩経の詩を口ずさむようになったのも頷ける。それに対する孔子の批判はちと辛すぎるように思う。私だったら、やっぱり嬉しくて由のように振る舞ってしまうと思う。常に平常心でという戒めなのだろうが、少し大目に見てあげてもいいように思う。身近に長老という反面教師がいて、過去にも媚び上司のみっともない姿を見てきており、自分はそうならないように、もって他山の石としたいと思うのである・・・




【今週の読書】
 全体主義の起原2 新版――帝国主義 全体主義の起原 新版 - ハンナ・アーレント, 大島通義, 大島かおり 介護未満の父に起きたこと(新潮新書) - ジェーン・スー カラー図説 生命の大進化40億年史 新生代編 哺乳類の時代--多様化、氷河の時代、そして人類の誕生 (ブルーバックス B 2242) - 土屋 健, 群馬県立自然史博物館 豊饒の海 第二巻 奔馬 (ほんば) - 三島 由紀夫 万物の黎明~人類史を根本からくつがえす~ - デヴィッド・グレーバー, デヴィッド・ウェングロウ, 酒井 隆史




2026年4月3日金曜日

親父のこと

 89歳になった父は最近物忘れが激しくなってきた。これが認知症なのかどうかはわからない。会話は普通にできるが、とにかく記憶が続かない。一晩寝ればすべて忘れてしまうし、下手をすると一晩どころか数時間ということもある。最近はお金がないので銀行から下ろしてくると言って出掛けて行ったが、銀行で手続きを断られ、「息子さん(私だ)に聞いてください」と言われたらしい。「お前何をしたんだ」と怒る親父。しかし、以前から「印鑑をなくした」「キャッシュカード」をなくしたとしばしば銀行に行き(それらはすぐに見つかるのだが)、銀行の方でも親父の顔を覚えてしまい、「いい加減にしてほしい」となり、私が今後は責任を持つと伝えていたのである。

 通帳も印鑑もカードもどこかに置き忘れたのかすぐになくしたと言い、もはや本人に管理能力はない。そこでこっそり私がカードだけ管理しているのだが、通帳と印鑑はいまだ見つかっていない。その都度、「印鑑はどうした?」「なくした」「それではお金が下ろせない」という会話を毎日繰り返している。翌日になるとまた同じ会話を繰り返すので、私も辟易している。以前『手紙は憶えている』という映画を観たが、主人公はやはり認知症を患っていて、一晩寝るとみんな忘れてしまうのであった。そこで毎日手紙を読んでやるべき復讐を思い出して行動するというものであった。

 私も手紙を書いて渡したが、本人は読もうとしない。なかなか現実は映画のようにはいかない。今ではそんな父であるが、中学を卒業して友人とともに上京して入ったのが印刷工場。以来、印刷工として70歳まで働く。途中から自営業に転じたが、真面目一筋でやり通した印刷人生である。最初は丁稚奉公の世界で、朝の6時から夜の12時まで働かされたそうである。徹夜も頻繁にあったらしい。最初の6か月で体調を崩して帰郷。今で言う適用障害だったのだろうと思う。昭和20年代の後半の話である。けっして裕福にはなれなかったが、親からの支援もなく東京に出てきて借金もなく引退できたのも真面目な仕事ぶりゆえだったのだろう。

 引退後は趣味の写真に没頭し、そのためにパソコンを憶えて写真の加工をし、写真だけであれば私よりもパソコンを使いこなしていた。しかし、今ではもうやる気が出ないとパソコンも処分し、カメラもしまわれたままである。毎日テレビを見て過ごしているが、もともと映画が好きだったから(その影響で私も映画好きである)せめて映画を観ればとケーブルテレビの見方を教えたが、その映画も内容が難しい(と言ってもアクション映画だ)と言う始末。それも自分でチャンネル操作ができないので私がいないと観ることができない。年とともに気力体力が衰えていくのはよく聞くが、こういう事なのかと思う。

 自分もいずれ仕事を引退する(できれば70歳まで働きたい)が、それ以降はのんびり毎日を暮らしたいと思う。しかし、いずれ父のように認知能力が衰えていくのだろうかと思ってみる。毎日映画を観て、それをブログにまとめ、徒然なるままに思うことをブログにしたいと思うが、いずれそれを「どうでもいい」と思うようになるのだろうか。父の姿はいずれ確実に来る自分の姿なのだろうか。自分はそうはならないと思うが、こればっかりはわからない。毎日同じことを聞いて息子にうざいと思われるのだろうか。年老いて人生を終えていくのは避けられないとしても、美しくありたいと思う。

 私の場合、すでに血液の病気が発覚している。もうろくするまで生きられない可能性もあるが、もうろくするまで長く生きて老いさらばえるのが幸せなのか、その前に病死するのが幸せなのか難しい問題である。同じ年の母は、腰が曲がり、病院通いは欠かせず、記憶力は親父とどっこいどっこい。しかし、「まだ死にたくない」と言う。「もういつ死んでもいいし、早く死にたい」と言う父とは対照的である。女の方が寿命が長いのは、こんなところにも現れているのかと思ってみたりする。温泉に誘っても喜んでついてくる母と、行きたくないという父とそこでも対照的である。

 自分が父と同じ年になったら、どうなっているのだろうか。医学の成果で同じ年まで生きられたとして、そのことにまずは感謝しないといけないだろう。その上で自分の状態が昨日のことを覚えて居られるであれば、そのことにも感謝しよう。できるだけ子供たちを煩わせることは避けたいと思う。おそらくその思いは両親も同じだろうが、現状は現状で仕方あるまい。遠く離れてやきもきするしかない人もいるだろうが、私は一緒に暮らしている。それもありがたいことである。できないことを嘆くのではなく、良かったことを意識したい。親父の記憶には残らずとも、一緒に過ごす1日1日を大切にしたいと思うのである・・・




【本日の読書】
 全体主義の起原2 新版――帝国主義 全体主義の起原 新版 - ハンナ・アーレント, 大島通義, 大島かおり 介護未満の父に起きたこと(新潮新書) - ジェーン・スー 豊饒の海 第二巻 奔馬 (ほんば) - 三島 由紀夫  万物の黎明~人類史を根本からくつがえす~ - デヴィッド・グレーバー, デヴィッド・ウェングロウ, 酒井 隆史