【原文】
子疾病。子路使門人爲臣。病間曰、久矣哉、由之行詐也。無臣而爲有臣。吾誰欺。欺天乎。且予與其死於臣之手也、無寧死於二三子之手乎。且予縦不得大葬、予死於道路乎。
【読み下し】
子、疾病なり。子路、門人をして臣たらしむ。病間なるとき曰く、久しいかな、由の詐りを行うや。臣無くして臣有りと為す。吾誰をか欺かん。天を欺かんや。且つ予其の臣の手に死せんよりは、無寧二三子の手に死せんか。且つ予縦い大葬を得ざるも、予道路に死せんや。
【訳】
先師のご病気が重くなった時、子路は、いざという場合のことを考慮して、門人たちが臣下の礼をとって葬儀をとり行なうように手はずをきめていた。その後、病気がいくらか軽くなった時、先師はそのことを知られて、子路にいわれた。「由よ、お前のこしらえごとも、今にはじまったことではないが、困ったものだ。臣下のない者があるように見せかけて、いったいだれをだまそうとするのだ。天を欺こうとでもいうのか。それに第一、私は、臣下の手で葬ってもらうより、むしろ二、三人の門人の手で葬ってもらいたいと思っているのだ。堂々たる葬儀をしてもらわなくても、まさか道ばたでのたれ死したことにもなるまいではないか」
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孔子と弟子との葬式に対する話である。孔子は謙虚に大層な葬儀など不要と言っている。しかし、弟子は盛大な葬儀を行うことこそが、師に対する礼だと考えている。もっとも日本人の感覚では存命中に葬儀の準備をするのはいささか礼に欠けるように思われるが、中国人の感覚ではそうではないのかもしれない。そもそもであるが、葬儀は誰のためのものかという思いはある。死者のためと言っても、当の本人は死んでいるからわからない。もっとも、霊魂か何かがそこに存在していて、それを成仏させるためというのであれば本人のためと言える。しかし、みんなそういう意識があるかと言えば疑問である。
では葬儀は残された者のためなのだろうか。これはそういう面もあると思う。故人との最後の別れになるので、何もしないより何か形式があった方が締まりがあるというのも事実。何かにつけての「儀式」の重要性はいうまでもない。地位のある人だと参列希望が多く、盛大に執り行われるということも多い。それは「故人とのお別れがしたい」という希望に対する遺族の答えだとすれば納得もいくが、一方で「義理で」葬儀に参列するというケースもある。それだと「故人とのお別れがしたい」わけではないので、どうなんだろうという疑問が湧く。
私は葬儀に行くのが好きではない。好き嫌いで言えば好きな人などいないだろうが、いくら親しい人でもできれば行きたくない。それは故人との最後の別れをしたくないというわけではない。1人静かに故人を思って、葬儀の後もたまに思い出したりして故人を偲ぶという気持ちはある。ただ、葬儀にだけは行きたくない。個人的に親しかったというようなケースは別として、友人のご家族が亡くなったというようなケースでは義理の部分が強い。なんとなく「行かないと悪い」という気持ちであるが、そんな気持ちで参列していいのだろうかと思う。
大勢の人が葬儀に来てくれると、遺族としてはありがたいと思うのであればそれもいいだろう。しかし、日本の場合は葬儀ともなれば葬儀社との打ち合わせや参列者への返礼品の用意など、おちおち悲しんでいられないというケースも多い。そんなことを考えると、行かない方がいいようにも思う。故人に対する思いの表現方法であるが、それは何も葬儀に参列することだけではないと思う。葬儀に行かないというと、何やら非情に思われるかもしれないが、大事なのは形式ではなく心だと信じるので、故人に対する思いがあれば葬儀に参列する必要はないと個人的には思う。
そんな偏屈で天邪鬼な私だから、自分の葬儀は仏教色を廃し、シンプルにと思っている。直接火葬場に身内だけで集まって最後の別れをして焼いてくれればそれでいい。訳のわからないお経もお寺の小遣いになるお布施も不要、お釈迦さまの弟子にしていただかなくて構わないので戒名も不要。ただ、焼いて骨を両親の墓に入れてくれればそれでいい。もちろん、初七日だとか三回忌だとかの儀式も不要である。気持ちがあるなら、時々思い出してくれればそれでいい。生きている人が時々思い出してくれれば、それが続く限りは私の存在感もこの世に残るように思う。
葬儀は故人と残された者との思惑の結果決まってくるのだと思う。ただ、そうは言いつつ、自分の両親の葬儀は多分仏教形式でやるだろう。それは私も「葬儀の主役は故人」と考えるからで、特別な遺言がない限りは「普通」にやるだろう。しかし、順調にいけば私の葬儀は子供たちが喪主になるだろう。その時は戸惑わせるかもしれないが、上記の通りシンプルにやって自分がどういう人間だったを最後の最後に示したいと思う。それが自分たちの父親だと子供たちには改めて思わせることになるだろう。堂々たる葬儀でなくても、そんな自分の葬儀を想像すると頬が緩んでしまう。そのためには遺言を早めに残しておかないとと思うとともに、それによって自分の証を示そうに思うのである・・・
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Carolyn BoothによるPixabayからの画像 |
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