論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感
【原文】何をやってもうまくいかないという時はよくあるように思う。私生活でも仕事でも今の私はそういう時期にあるように思う。トーストを床に落とした時、バターを塗った方が下になるという時である。意図せざる結果が出てしまうという事がこのところ続いている。自分の意思だけで済むのであれば簡単であるが、他人が絡むと自分の思ってもいない方向に物事が進んでしまうというのもよくある事である。そんな事が続くと気持ちも凹むというもの。「なぜ自分ばかりが貧乏くじを引くのだろうか」と嘆きたくなるものである。
部下から文句を言われた。自分たちに仕事を押し付けすぎだというものである。我々は総務部であり、何かと細かい仕事が多い。それでもみんな定時に帰っているのだが、他の部署では残業が発生している。私としては全社的な観点から引き受けられるものは総務で引き受けるように変更したのである。営業事務の一部を持ってきたり、本来総務でやるべき仕事であるものの、他の部署が担当していたりしていたものである。それが「負担増」と感じた部下からのクレームになったものである。
仕事は誰かがやらなければならないものであり、やる人間には負担増となり、やらない人間には負担軽減となる。そこをどう線引きするか。全体的に見て他部の担当者の仕事量の方が総務部の担当者よりも多かったので、仕事の平準化という意味で総務部へ移管したのである。そもそも本来的にどこが担当するのが適当かと考えたら総務部という答えになるという事もある。ところが、負担増となる担当者からクレームになったのである。クレームは遠慮知らずで、「部長は私たちを守ってくれない」とまで言われてしまった。
確かに私は部長ではあるが役員でもあり、全社的な観点から見て物事を判断している。間違っているとは思わないが、「あちらを立てればこちらが立たず」で改めて難しいなと思わされる。さすがの孔子様にも不遇の時があったのだろう、いろいろとうまくいかない事を嘆いているような今回の言葉であるが、孔子のような偉人でもそうなのだから私のような凡人にはよけいなのであろう。そう思って自らを慰めるのであるが、他にも気持ちが凹む問題があって、どうしても暗くなる。「我が社はこの先この有様で大丈夫なのだろうか」と。
こういう状況下で、孔子はどう自分を慰め、奮い立たせていたのだろうか。できればこの後の言葉を知りたかったところである。しかし、考えてみれば仕事上の悩みは「仕事があればこそ」の悩みである。それを実感したのが最初に銀行を辞めた時であり、転職した不動産会社で社長の裏切りで放り出される事になった時である。この先大丈夫なのだろうかという不安に比べれば、まだ仕事はあるわけであり、収入もあるわけであり、このくらいの悩みはその対価であると考えれば耐えられないものではない。
やった事が裏目に出たという事ではなく、やった事に対して想定外の問題が生じてきたという事であり、それはそれで解決していくしかない。仕事は「問題のモグラ叩き」であり、叩いても叩いてもモグラは次々に出てきてゲーム終了まで途切れる事はない。それで虚しく感じる必要はなく、叩いたモグラの数はカウントされ、評価される。たくさん評価されるためにはたくさんのモグラを叩く必要がある。出てくるモグラを嘆く必要はないと考えている。むしろモグラ叩きに参加できることに感謝しないといけない。
時に気が滅入ってやる気がなくなる事もあるが、それも仕事があるからこそであり、仕事がない悩みから比べればはるかにいいと思う。結婚すればしたなりの問題が発生するが、だからしない方がいいとは思わない。たとえ終わったとしても、始まりがあったからこそであり、結婚しなければ良かったとは思わない。何事もそうなのかもしれない。この先も「鳳鳥も飛んでこい、河からは図も出ない」という状況はあるだろうが(そういう状況しかないかもしれない)、悪い面ではなく、良い面だけを見て乗り越えていきたいと思うのである・・・
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micapapillon95によるPixabayからの画像 |
【本日の読書】






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