2025年5月30日金曜日

日本男児の敵

 先日、部下の女性社員と面談していて家族の話になった。曰く、「(ちょっと頼りない)若手社員に息子が似ている」と。母親であるその女性社員が言うには、「何を言っても馬耳東風」、「夜中にいつまでもゲームをやっていて朝起こすのが大変」等々堰を切ったように息子に対する不満を述べ立てる。それを聞いた私はいちいち息子の気持ちがよくわかってしまった。息子にとって母親は口うるさいものである。そもそも母親は(男と比較して)細かいところに気がつくがゆえに指摘も一々細かいし、説教をすれば長いし、くどい。防衛策として馬耳東風は必然なのである(私も妻の小言に対してそうしている)。

 そこで(妻には言えない)持論をその女性社員にぶつけた。「朝、起こしても起きないなら起こさなければいい。遅刻して困るならそれは自分だし、痛い目に遭えば次から自分で起きる工夫をするだろう」と。しかし、やっぱり母親というのはそうもいかないようで、「そうは言っても・・・」と納得しかねる様子。母親としてはどうしても息子の一挙手一投足が気になり、「ちゃんとやっているか」が気になるのだろう。小学校の時も、掃除をちゃんとやるのは女の子で、男の子はいいかげんかサボるかどちらかであったが、そういう男と女の違いが表れるのかもしれない。

 そもそもであるが、「男をダメにするのは母親である」というのが私の信条である。父親にとっては娘がかわいいのと同様、母親にとっては息子がかわいいようで、問題はそのかわいがり方である。女の感覚で育てればそれは女のようになってしまうだろう。私などは娘も息子も高校の卒業式から行かなかったし、大学はなおさらである。もう一々親がついて行くものでもないとの考えである。まぁ、子育ての卒業という意味で、自分のために行くのは良いと思うが「ついて行かないと心配」などという理由ではダメである。

 その昔、私が大学受験をした際、どこかの学生服を着た男が母親と待合室で座っていた。「ママと一緒に受験に来るのかよ」と腹の中でバカにしたが、そういう時に父親は来ないだろう。仕事だからという事もあるが、仕事がなくてもこないだろう。大学のラグビー部の試合を観に行くと最近は父母の観戦が目につく。父親よりも圧倒的に母親が多い。キャーキャー歓声を挙げて応援している。社会人になっても病欠の連絡を親がしてくるという事も耳にするが、それはたいがい母親だろう。そして母親はそれに違和感を覚えない。

 母親の息子離れが遅れればそれだけ息子の乳離れも遅くなる。それはやがて大人となって大人の女性と付き合うようになった時、「マザコン」という形で表れる。そんな男と女性は付き合い、結婚したいと思うだろうか。まず思わないであろう。しかし、間違いなくマザコン男を育て上げるのは100%母親である。子供がかわいいのは当然であるが、高校生くらいになったらもう手取り足取り面倒を見るのはやめるべきなのだ。我が家の妻も大学生の息子のスケジュールを確認して朝起こしている。「いいかげんにしたら」と心の中でつぶやいている。

 母親が子離れするのはいつぐらいがいいだろうかと考えてみると、だいたい高校生になったら始めるべきだろう。大学生なら自立を学ばなければいけない。もう母親が積極的に世話を焼くのはやめるべきである。ましてや社会人になったらなおさらである。ところがいつまで経っても子離れできないと、息子はマザコンになるか、そうではなくても母親を突き放せなくなる。息子が独身のうちはいいが、結婚すれば厄介な事になる。妻は息子のように夫の世話をしない。すると母親はそれに不満を持つ。嫁姑戦争の火種になる。

 「嫁姑」と「婿舅」では圧倒的に「嫁姑」にきな臭さが満ちている。男は互いに干渉しないが、嫁姑は息子を巡って対立する。今まで自分が全力を傾けて世話してきた息子を嫁は適当にあしらう。「夫は子供ではない」から当然であるが、それを母親は理解できない。我が家もこれで嫁姑関係が断裂した。私は高校生の時から親にこずかいをもらわなかったくらい親からは自立していたが、冷たくされても息子は息子であり、自分の代わりに(自分の思う通りに)尽くさない嫁に不満を抱いていたのだろう。

 将来、息子が(結婚したなら)嫁姑戦争勃発の可能性は高いと私は見ている。私は何もできないが、せめて息子に警告はしたいと思っている。私と違って息子はまだ母親に甘えているところがある。そこは大いに不安があるところである。娘には料理を手伝わせるが、息子には手伝わせない。今や女性の社会進出が当たり前で、共働きも普通だが、結婚していきなり家事をやれと言われてもろくにできないだろう。それでいいのか日本の女性たち。夫が家事を手伝わないと不満を言うなら、そういう夫にならないように息子を育てなければならない。そういう意識を持っている母親がどのくらいいるだろうか。

 今のままでは我が息子もそうであるが、日本男児の行く末も大丈夫であろうかと心配になる。愚かな母親たちによって日本の息子たちがダメ男にならないようにと思うのである・・・

Christine SponchiaによるPixabayからの画像


【本日の読書】
 若い読者に贈る美しい生物学講義――感動する生命のはなし - 更科 功  百年の孤独 - G. ガルシア=マルケス, Garc´ia M´arques,Gabriel, 直, 鼓





2025年5月25日日曜日

部下からの評価

 我が社も3月に上半期を終え、現在上期の社員評価を行っているところである。期の初めに立てた目標の達成度から日頃の貢献度にわたって上司と部下とが個人面談を行なう形で実施する。我が総務部では、まず課長が部員と面談を行い、私がそれを踏まえて最終評価を決定する。主たる評価は課長が行い、私はその結果の報告を受けて最終評価を決定するのである。その際、いつも一つだけ課長に注文をつけている。「私に対して不満に思っている事を聞いてほしい」という事である。評価は上司が部下に対して一方的にするものだけでもあるまい。部下も言いたい事があるだろうという思いからである。

 世の中には部下が上司を評価する「360度評価」というものがある。我が社は取り入れていないが、個人的に興味があるし、内心自分はいい上司であるつもりでいるので、批判などされないだろうという思いもあった。そして課長との面談でその内容を聞いた。そうしたところ、思いもかけず結構な批判が寄せられた。

  1. 自分で指示したことを忘れるので仕事がやりずらい
  2. 部の新人に対する指導が厳しく、部の空気が悪くなる
  3. 電話等との会話も厳しい時があり、聞いていて不快
  4. 部下の仕事をもっと把握してほしい
  5. 部下の意見が通らないのは仕方がないが、せめて聞くふりくらいしてほしい
聞いていったい誰の事だろうと思わず思ってしまった。

 1に関しては自覚もあって大いに反省しているところである。3も忙しい時にセールスの電話がかかってくると、ぞんざいな対応になる事があるのも事実である。しかし、それ以外はまったく身に覚えがない。新人の指導については、このご時世であり、パワハラには注意しているし、心の病に罹られても困るので穏やかに指導しているつもりであった。部下の仕事も把握しているつもりだし、意見もきちんと聞いているつもりであった。「何で?」という反論が心の中に湧き上がってきた。

 しかし、「評価は他人が下したものが正しい」という故野村監督の言葉を日頃から信奉している身としては、自らの思いをグッと抑えないといけない。実際、身近にいる部下がそう感じているとしたら、それは自分の思いよりもより事実に近いのであろう。自分に対する批判というのは誠にこたえるものである。自分が正しいと思っていて、その通りに行動しているのに、そう捉えてもらえない。なぜなのかと考えてみても、それが他人にはそう見えていないという事は、どちらが正しいかは考えるまでもない。

 人は自分の顔を見る事はできない。見ようと思えば鏡を見るしかない。その鏡に向かって、自分はこんな顔ではないと言ったところで始まらない。それが自分の顔なのである。鏡がおかしいというのも的外れ。であれば部下の意見も事実として受け止めねばならない。今回改めて思ったのは、自分は意外とクヨクヨするタチであるということ。思いもかけない部下からの批判に心は凹む。これを見る限り、自分はいい上司であるという幻想は捨てないといけない。それにしても遠慮なく言ってほしいと言ったからでもあるが、遠慮ないなぁと思ってしまった。

 しかし、クヨクヨしても反発しても仕方がない。いい空気の中でみんなに仕事をしてもらうには自分も指摘されたことを直さないといけない。多分、それは家庭内で私に対して妻が不満を感じているところでもあるのかもしれない。人には自分ではわからない「外から見た自分」というのがある。内から見た自分は有能で思いやりがあって、部下思いのいい上司なのであるが、外からはそうは見えないという事も大いにあるだろう。そこは真摯に受け止めようと思う。

 それにしても自分にもいい面はあると思うのだが、それはそうでもないのだろうかと思ってみる。しかし、振り返ってみれば、普段言いたくても言えない批判を言ってくれとお願いしたのは自分であるが、批判だけではなくいい面も挙げてと言えば良かったと今更ながら思う。きっとよく見えている部分もあるはずである(たぶん・・・)。それも合わせて聞けていたら、少しは慰められたかもしれない。部下からの指摘は半年後の評価で少しでも減るようにこれから心掛けようと思う。現時点ではいい上司になれていなくても、これからなれる可能性はまだまだある。

 会社の業績も大事だが、足元をもう一度見つめ直し、みんなが気持ち良く働けるような環境づくりに努めようと思う。それと合わせて、今度は「良い点も挙げて」というのを忘れないようにしようと思う。昔から私は「褒められて伸びるタイプ」と自認しているがゆえに、それがあれば励みにもなる。これからも部下からの評価を大事にしたいと思うのである・・・


Gerd AltmannによるPixabayからの画像

【今週の読書】
 存在と思惟 中世哲学論集 (講談社学術文庫) - クラウス・リーゼンフーバー, 村井則夫, 矢玉俊彦, 山本芳久 手紙屋~僕の就職活動を変えた十通の手紙~ - 喜多川泰 日本とユダヤの古代史&世界史 - 縄文・神話から続く日本建国の真実 - - 田中 英道, 茂木 誠 ブラック・ショーマンと覚醒する女たち - 東野 圭吾




2025年5月21日水曜日

認知症

 先日、認知症の生涯リスクが60歳以上で55%だというネット記事を読んだ。米国の調査では75歳以上で4%、80歳以上で20%が認知症になると言う。年を取れば取るほどその比率は高まるのであろう。楽観的な私としてはどこまでも他人事であり、自分が認知症になるなんて思ってもいない。しかし、そんな事は誰もがそう思っているように思う。少なくとも認知症になりたいなんて思っている者は1人もいないであろう。しかし、人間の脳細胞も年齢とともに劣化していくのは間違いない。自分で意識しようとしまいと、細胞が劣化すれば必然的にそうなっていくのは自然の摂理であるようにも思う。

 我が両親は2人とも今年で88歳である。2人ともやはり認知能力は衰えてきている。特に短期記憶に関する衰えは顕著である。先日、四万温泉に行ったが、父は参加しなかった。はじめ、父の認知能力の衰えもあり、心配した母が「父を1人残しては行けない」と言うので、私は3人分で宿を予約した。あまり早く言ってもと思い、1週間前に父に意思確認したところ、「行く」という。念のため父が毎日見る引き出しにその旨のメモを書いて貼り付けておいた。「来週温泉に行く」と。そして前日、電話で意思確認した。その時点でも「わかった」との事であった。そして当日、迎えに行くと、「聞いていない」、「突然言われても困る」、「行きたくない」である。

 旅行の用意をしていた母は一生懸命説得を試みる。「私も行くとは思わなくて言わなかったのは悪かったけど・・・」。いやいや、「1人で置いていけない」って言ったのは誰?駄々っ子のように行かないと言い張る父。「もっと早く言ってもらわないとこっちにも都合がある!」とのたまう。やむなく諦めて父を残して温泉に向かう。一泊の温泉旅行であり、腰の悪い母は歩き回れないので車で少し周辺を回る程度で帰ってくるのに、母は3日分くらいの荷物を用意し、飲み薬に至っては10日分を鞄に入れている。宿に着けば30分以上鞄の中身を出したり入れたりしている。母は複雑な宿の中では自力で部屋へ帰る事ができず、私がすべて付き添う。

 そのうち私が誰だかわからなくなったりするのだろうかと思う。父は最近、物がなくなり、近所の人が盗んだと言い始めている。父は現役時代、印刷工場を経営していて、実家には今も当時の倉庫が残っている。その倉庫にしまっておいたものがなくなるそうなのである。財布を無くしたというので、銀行のキャッシュカードやクレジットカードの再発行手続きを代行した。免許証も入っていたと言うが、それはもう必要ないので仕方がないとした。ところが、しばらくして行ってみると、免許証を持っていてクレジットカードも同じものが2枚ある。どうやらどこかから出てきたらしい。問い詰めると財布をなくした事実はないと言う。

 細かく挙げればきりがない。そんな両親に対しては、もう腹を立てずに温かい心で接するしかない。幾度か銀行に行って手続きをするのを手伝ったら、窓口の行員さんに顔を覚えられてしまった。そして先日、またキャッシュカードをなくしたと父が銀行に行ったところ、「息子さんに相談してくれ」と言われて追い返されたと憤慨していた。もちろん、そのキャッシュカードはその後ちゃんとどこかから出てきた。いずれ自分もそうなるのだろうか。どうしたら防げるのであろうか。両親ともそれぞれの祖父なり祖母なりが認知症になった姿を見ている。自分が同じようになりたいとは思っていない。

 自分が自分でなくなるというのは、実に怖い事である。たとえ手足が不自由になろうと、病気になろうと、意識だけは最後まで自分自身でいたいと思う。しかしながら、最近仕事でも部下に物忘れを指摘される事がしばしばある。同じ話を2度したり、同じ事象に対して違う指示をしたり。今は半分笑って済まされているが、そうなると自分は大丈夫と根拠のない楽観はできないように思う。以前はよく読んでいた本も、父は覚えられなくて読むのをやめてしまっている。自分もそうなるのだろうかと考えると恐ろしくなる。最後は病院のベッドであっても、本を手元に置き、タブレットで映画を観続けられるなら、構わないのであるが・・・

 「頭を使っていれば大丈夫」という話を聞き、脳トレなんかもいいという話がある。しかし、イギリスのサッチャー元首相も認知症になったと聞くと、大丈夫とも言えないと思う(レーガン元大統領が認知症になったのにはあまりショックを受けないが・・・)。敬愛する祖父は89歳で亡くなるまで頭はしっかりしていた。いつまでも元気でいられるのが一番であるが、そうでなくてもせめて頭と目だけは最後までしっかり維持していたいと心から思う。「抜け殻」となってしまうことは避けたい。両親にも長生きしてほしいと思うが、抜け殻になってまでとは思わない。

 祖父のように最後まで自分自身でいられるであろうか。医学の進歩に期待するだけではなく、自分自身も面倒がらずにできる事があるならやろうと思う。このブログも何かの役に立つのであれば続けよう。願わくば最後の日まで雑感をつぶやきたいと思うのである・・・

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【本日の読書】
 存在と思惟 中世哲学論集 (講談社学術文庫) - クラウス・リーゼンフーバー, 村井則夫, 矢玉俊彦, 山本芳久 日本とユダヤの古代史&世界史 - 縄文・神話から続く日本建国の真実 - - 田中 英道, 茂木 誠 ブラック・ショーマンと覚醒する女たち - 東野 圭吾





2025年5月18日日曜日

論語雑感 子罕第九 (その3)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感
【原文】
子曰、麻冕禮也。今也純儉。吾從衆。拜下禮也。今拜乎上泰也。雖違衆、吾從下。
【読み下し】
子(し)曰(いわ)く、麻(ま)冕(べん)は礼(れい)なり。今(いま)や純(じゅん)なるは倹(けん)なり。吾(われ)は衆(しゅう)に従(したが)わん。下(しも)に拝(はい)するは礼(れい)なり。今(いま)、上(かみ)に拝(はい)するは泰(たい)なり。衆(しゅう)に違(たが)うと雖(いえど)も、吾(われ)は下(しも)に従(したが)わん。
【訳】
先師がいわれた。「麻の冠をかぶるのが古礼だが、今では絹糸の冠をかぶる風習になった。これは節約のためだ。私はみんなのやり方に従おう。臣下は堂下で君主を拝するのが古礼だが、今では堂上で拝する風習になった。これは臣下の増長だ。私は、みんなのやり方とはちがうが、やはり堂下で拝することにしよう」
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 世の中には「変えていいもの(変えるべきもの)」と「変えてはいけないもの(変えるべきではないもの)」とがある。孔子は倹約のため麻の冠を絹糸の冠に変えるのは構わないが、君子を拝する方法は変えないと主張している。自分で使うものはその時々の都合に合わせて変えるのは差し支えないが、君子を拝するという相手に対する礼儀の部分は変えたくないと言っている。自分に関するものは変えても、相手に対する礼儀の部分は変えたくないという基準があるのだろう。

 「最も強いものが生き残るのでなく、最も賢いものが生き残るのでもない。唯一生き残るのは変化できるものである」というのは、ダーウィンが言ったとされる言葉であるが、私も常に変化し続けなければいけないと思う1人である。考え方も柔軟にしたいと考えている。自分の意見に固執するのではなく、相手の意見にも耳を傾けるべきところはないかと考え、もしもそういうところがあるのであれば自分の考えを変えるのに躊躇しない。そういうスタンスでいたいと常に思っている。

 それは何も良い子ちゃんぶるのではなく、もしも間違った意見に固執していて、後でその間違いが明らかになった時は何よりも「カッコ悪い」からである。過去にそういうカッコ悪い上司を見てきているから、自分はその二の轍を踏まないようにしたいのである。「そうか、それもいいね!」と言って意見を変えてしまえば良いのである。上司は常に正しいなんて思う必要はなく、「上司は常に正しい意見を採用する」というスタンスでいた方が本当の意味での保身になる。私にとっては自分の意見は変えても良いものなのである。

 基本的に何事に対しても柔軟に、と考える。だから割と変える事には抵抗はないように思う。食べ物の好みのようなものは変えたくても変えられないところがある。寿司が好きなのは変えられない。ただ、食わず嫌いだけはしないようにしている。人に勧められたものは、たとえ自分の好みでないと思ったとしても、まず食べてみる。それでやっぱり好きになれなければそれで仕方がない。食べ物に限らず、好みの問題はなかなか柔軟にとはいかないところがある。どんなにサッカーが面白いと言われても、ラグビーが一番という気持ちはおそらく一生変わらない。

 柔軟にとは言っても、神様への畏怖は大事にしたい。初詣には欠かさずに行きたいし、神社の類に対しては、それがどこであろうと崇敬の念は持っておきたい。両親や兄妹や親戚や友人は大事にしたい。ただ、これは相手との相性があるから、合わない人とは無理に合わせるよりも距離を置きたい。私も義理の叔父に合わない人がいるが、無理に合わせる事もなく、距離を置くようにしている。そのあたりの考え方は、変えたくないところになるかもしれない。

 仕事でも、社内には意見の合わない人はいるが、いたずらに批判するのではなく、きちんとコミュニケーションを取って、相手の意見を聞きながらも自分の意見は遠慮なく言うというスタンスも変えずにおきたいと思う。批判もきちんと伝えているので、もしかしたら内心反発されているかもしれない。ただ、それでも自分が正しいと思う意見はきちんと伝えたいと思う。それに対して相手がどう反応しようと、それはその相手の考え方なので、私はそれをきちんと受け入れようと思う。

 総じて好みのように自然発生的なものは変え難いし、無理に変えるのもストレスになる。それは自然のあるがままに任せ、ただ自分で変えられる考え方の部分には柔軟性を持たせておきたいと思う。自分よりも大事にすべきものは大事に敬い、それ以外の自分に関するものは柔軟に変える。歳を取ると体も硬くなり、思考も固くなる。思考が固くなれば頑固ジジイに一直線である。それもまたカッコ悪いように思うし、思考も軟体生物のように常に柔軟に保っていけるようにしたいと思うのである・・・


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【今週の読書】
 存在と思惟 中世哲学論集 (講談社学術文庫) - クラウス・リーゼンフーバー, 村井則夫, 矢玉俊彦, 山本芳久  手紙屋~僕の就職活動を変えた十通の手紙~ - 喜多川泰  日本とユダヤの古代史&世界史 - 縄文・神話から続く日本建国の真実 - - 田中 英道, 茂木 誠 風に立つ - 柚月裕子





2025年5月15日木曜日

プレゼントの意味するもの

 先週末、四万温泉に母を連れて行ってきたが、時節柄それを母の日のプレゼントとした。プレゼントは昔から苦手であり、苦労している分野である。ましてや我が母は私を上回る天邪鬼なところがあり、「何か欲しいものがあるか?」と聞くと「ない」と言い、それではと勝手に選ぶと文句を言うという難しいところがある。かつて結婚当初、お中元、お歳暮と両親に送ったが、ビールを送れば「お父さんは最近あまり飲まない」と言われ、コーヒーを送ると「このところ胃の調子が悪くて飲めない」と言われるという事が続いた。新婚の妻からは「何をやっているの」と責められたものである。

 それに対して父は希望も文句も言わない。いつからか父の日と誕生日には梅酒かワインを送るようにしているが、単純に感謝してくれる。送るものが決まっていると実に楽である。妻と付き合い始めて面食らった事の一つは、「プレゼントして欲しいものを事前に聞く」という事である。「気に入らないものをもらうよりも欲しいものをもらった方が嬉しい」という合理的な考え方で、いわゆるサプライズ的な要素はない。それが良いか悪いかは個人の好みであるが、プレゼントで悩んだ結果、失敗することが多い私としてはいいのかもしれないと思ってみる。それでも失敗したとしても、サプライズ的な方がいいような気がするのは素直な気持ちである。

 プレゼントは、相手の事を思いながら何が喜ばれるだろうと想像しながら選ぶものであるというイメージが私にはある。私の場合、失敗する事が多いから偉そうな事は言えないが、相手のために悩んで選ぶ時間が相手に対する気持ちそのもので、そういうものであるからこそ、私は自分がもらう立場の場合、それがどんなものであろうと感謝して受け取る事にしている。プレゼントそのものよりも、プレゼントしてくれた相手の気持ちが嬉しいと思う。それゆえに、「相手に事前に欲しいものを聞いて、それをプレゼントする」という事にはどうしても抵抗を感じるのである。

 我が母はそんな事と対極にある。あろう事かプレゼントにケチをつけるのである。相手を嫌な気持ちにさせるというのはもっとも最悪な対応である。しかし、母の気持ちの根底には喜びがあるのではないかと思う。一種の照れ隠しである。ただ、たとえ照れ隠しであろうと、やはりケチをつけるというのは最悪であるとしか言いようがない。勝手に選んでプレゼントすれば文句を言われ、「何か欲しいものがある?」と聞くと「いらない」と言う。自分の母親でなければ絶縁するところであるが、そういうわけにもいかない。サプライズであげたものが母の心にヒットしないと難しい。そう言えば実家には私が高校生の時にプレゼントしたアジサイがいまだに季節になると咲いている。それは数少ない成功事例である。

 一方、父には年に2回、プレゼントを贈っているが、母と違ってすなおにお礼を言ってくれる。ただ、その場限りのお礼で、嬉しいのかどうなのかイマイチよくわからないところがある。梅酒もワインも味が気になるところで、次に行った時に「どうだった?」と聞いても「おいしかった」というだけである。それはそれで何となく物足りないところがある。本当に気に入ったのか、それともそうではないが、とりあえずこちらに合わせてくれているのか。そう考えてみると、贈る方としては、実は「喜んでもらいたい」のだと思う。相手の事を考えて贈るのは、相手に喜んでもらいたいのだと。

 当たり前と言えば当たり前。人はなぜプレゼントをするのかというと、それは相手を喜ばせたいからと言える。それが純粋なものであろうと、そうでないもの(例えば下心付きの女性へのプレゼントなど)であろうと、そこは変わらない。ただ、それは贈る者の勝手であり、相手に何かを要求するものではない。たとえ相手が喜ばなくても、それで不満を言うのは正しくない。相手の反応が気に入らないのであれば、次回からやめればいいだけである。そして受け取る方も、相手の勝手なプレゼントにどう反応しようが自由である。ただ、大事な事は、相手の気持ちにどう反応するか、であろう。

 「プレゼントには感想という情報のお返しが一番相手に喜ばれる」という言葉がある。それはそうだと思い、以来私も心掛けている。プレゼント以外にも本や映画などを紹介された時にも当てはまるので、必ず心掛けている。やはり、相手を喜ばせたいという気持ちが根底にある以上、その気持ちに応えるにはやはり相手を喜ばせる事を考えないといけない。それにはたとえもらったものが気に入らなくても、気に入ったように振る舞うのがいいと思う。それは相手を偽る事ではなく、自分を喜ばせようとしてくれた相手の気持ちに応えるものである。そこには感想も添えたいところである。

 プレゼントというと、どうしても「モノ」に目が行く。しかし、本当は「相手の気持ち」なのであり、そこに目を向けたい。わざわざ自分に何かを贈ってくれるのであり、もらった「モノ」がどうこうではなく、贈ってくれた「相手の気持ち」に対して応えたいと思う。天邪鬼な我が母にモノを贈って喜ばせるのは難事であるが、温泉に連れて行くのは確実に喜ばれる。喜んでいる顔を見るのはこちらも嬉しいし、そういう意味ではプレゼントは贈る相手だけでなく、自分自身をも喜ばせるものなのかもしれない。

 プレゼントを贈る相手がいるというのも考えてみればありがたいもの。プレゼントはどんな角度から見ても嬉しいものであると思うのである・・・


Bob DmytによるPixabayからの画像

【本日の読書】

 ガダルカナル[新書版] - 辻政信  風に立つ - 柚月裕子  存在と思惟 中世哲学論集 (講談社学術文庫) - クラウス・リーゼンフーバー, 村井則夫, 矢玉俊彦, 山本芳久




2025年5月12日月曜日

四万温泉旅行記

四万たむら
 ほぼ1年ぶりに母を連れて温泉に行ってきた。もう家族で旅行する事もほとんどなく、せめて年老いた母親を温泉にでもと始めてもう何年経つだろう。今回は、なんとなく耳に入ってきた四万温泉を選択した。母も腰が悪く、あまり長距離の移動は難しいので、東京から近く、それほど負担もなく行けるところという観点で選んだのである。母を温泉に連れて行くというのが当初の目的であったが、最近では私も温泉+美味しい食事という組み合わせにいつしか心を奪われているところもある。

 関越自動車道渋川伊香保インターで高速を降りてひたすら田舎道を走る。この時期、暑くもなく、寒くもない。昨日まで降っていた雨もいつしかやみ、時折日もさしてくる。窓を開けて走ると気持ちがいいことこの上ない。「いいなぁ」と思うも、それは東京から来ているからであり、このあたりに住んだら風景にはすぐ飽きるだろうし、買い物にしても何にしても不便さばかりがあって堪らないのかもしれないと思ってみたりする。こういう田舎の風景は、故郷と同様、「遠きにありて思うもの」なのかもしれない。

 そんな奥まった山の中に四万温泉はある。川沿いというのも温泉郷の特徴かもしれない。そうした四万温泉の「四万たむら」に宿を取る。室町時代創業というから相当な歴史がある。旅館の裏手には田村家の墓があり、代々受け継がれてきているのだろう。隣に四万グランドホテルがある。部屋に備え付けの浴衣には「四万グランドホテル」の刻印があり、どうやら経営は同じであると想像した。おそらく、室町時代創業の由緒あるレトロチックな温泉宿だけではなく、客層拡大のために現代的なホテルを建設したのかなと想像してみる。社員旅行華やかなりし時代にはさぞ賑わったのではないかと想像する。

週末でも寂しい温泉街
 近隣にはかろうじて生き延びているような温泉街がある。宿の女中さんは外国の方が混じっていたし、社員旅行の敬遠、少子高齢化などの時代の波の影響を受けているのかもしれない。宿に着くと食事の前に1人周辺の散策を常としている。腰の悪い母は部屋でくつろぐ。1時間ほどで散策を終えて夕食前に最初の湯に浸かる。温泉に行くと、だいたい3度湯に浸かる。夕食前、就寝前、そして朝風呂である。宿の中は複雑で、7つの湯は館内に分散し、エレベーターを乗り継ぎ、4階で降りて連絡通路を歩いて隣の建物の入るとそこは5階という具合に複雑である。普通の人にはなんでもないが、老齢の母はもう1人で館内を移動できない。

 したがって、部屋から風呂まで送り迎えをしないといけないという手間がある。食堂はいいが、風呂は一緒に入るわけにもいかないし、毎回悩ましい思いをする。今回、とうとう母は迷子になって館内電話でフロントを呼び出して迷子の訴えをしてしまった。普通の感覚ではなんでもないが、年を取るとみんなそうなるのだろうかと思ってみる。部屋も食事も7つの風呂も良かったが、個人的には硫黄臭漂う温泉が好きという事もあり、四万温泉はちょっと物足りなさがあった。この近辺では、今のところ万座温泉がベストである。

 翌日、11時チェックアウトの利点を活かし、母は朝風呂に朝食を挟んで2度入り、温泉を満喫して宿を後にする。そのまま帰ると早すぎるので、近くの奥四万ダムを見学。川を堰き止めてできた人工湖をぐるりと一周する。水がきれいであり、晴天の下、あたりの新緑と相まっての眺めに自然の中で心身がリフレッシュしていく気がする。iPhoneで写真を撮るが、風景というものはどんなに高性能のカメラでも目で見たものを写し撮ることはできないものだと改めて思う。百聞は一見に如かずではないが、自然の景色は自分の目で見ないとダメである。

 名残り惜しみながら四万を後にする。東京にはあっという間に帰ってくる。窓から流れ込んでくる空気は明らかに違う。手軽に往復できるし、毎週末行くという贅沢もしてみたいと思う。ネックは自分で運転すると(特に渋滞なんかがあったりすると)疲れるというところだろうか。海外旅行もいいが、週末は温泉で過ごすという贅沢もありかもしれないと思う。今後の人生の楽しみ方の一つとして候補に挙げたいと思うのである・・・

新緑と濃いグリーンの湖水をたたえた人造湖
下から眺めると迫力ある四万ダム

【本日の読書】
 存在と思惟 中世哲学論集 (講談社学術文庫) - クラウス・リーゼンフーバー, 村井則夫, 矢玉俊彦, 山本芳久 ガダルカナル[新書版] - 辻政信 風に立つ - 柚月裕子




2025年5月8日木曜日

AIは人類を幸福にするのだろうか?

 先日、読んだ『いま世界の哲学者が考えていること』の中で、「AIは人類を幸せにするのだろうか」という項目があった。興味深いテーマである。AIは一部の領域では既に人間を凌駕している。チェスや碁でも既に人間に勝つAIが登場しているし、医療分野や自動運転ではかなりの期待がされている。お掃除ロボットなど家電にも搭載されており、我々の日常生活にAIは欠かせないものになっている。それなのになぜ「AIは人類を幸福にするのだろうか」という疑問が付されるのであろうか。

 その疑問に対しては、根底に「AIによって人間が不幸になる可能性もある」という考えがあると思う。その筆頭は映画『ターミネーター』だろう。このSF映画では、近未来に進化したAIが、地球にとって人類は害悪をもたらすと判断し、人類抹殺を決定して実行に移すというストーリーであった。しかし、人類の抵抗にあって苦戦するAIは、過去にさかのぼり人類の指導者であるジョン・コナーをまだ子供のうちに抹殺しようとターミネーターを過去(映画では現在)に送り込んでくるというストーリーである。

 確かに、人類の発展によって現在は地球温暖化という問題が起こっており(これについては同書でも反対意見が紹介され議論を提示している)、人間が地球にとって有害な存在であるという意見も成立しなくもない。SF映画とは言え、AIが人類を有害と判断して排除しようとしても不思議ではない。そんな事は起こりえないと断言できるかと言われると、素人の私としては「断言できないのではないか」と思うしかない。あらかじめそんな事にならないようにプログラムすればいいように思うが、シンギュラリティを超えたらどうなるかわからないのではないかと思う。

 シンギュラリティを超えると、AIが自己改善を繰り返し、人間の知能を超える、あるいは、人間の知能を超えるようなAI自身が生まれるらしい。そうなるといくら事前に人間に害をなさないようにプログラムしていても、そのプログラムをAI自体が書き換えるのではないかと思う。さらにそんな書き換えができないようにプログラムしておいても、そのプログラム自体を書き換えるかもしれない。そんな歯止めを考えたとしても、その歯止め自体を越えられないようにできなければ意味はないし、人間に作れるものであればAIにも作れるはずであるし、結局は歯止めは機能しないように思う。

 人間には善人と悪人がいる。果たしてAIには善なるAIと悪のAIはできるのであろうか。できるとしたら悪のAIはどんな悪事をするのだろうか。そもそも悪事は人間の欲望に基づいていると思うが、AIには欲望がないはずであるし(そう考えてもいいのかと考えると眠れなくなる)、そうするとAIが独自にどんな悪事を働けるのか疑問に思う。仮に善なるAIしかできないとして、その善の定義はどうなるのだろうか。「人間にとっての善」か「地球にとっての善」か、それによって「善だから安心」とは言えなくなる。

 人類と大げさに掲げなくても、AIがすべて判断し、人間はそれに従うだけという世界もあり得そうに思う。しかし、それとて現在の支配者がAIに代わるだけと言えなくもない。我が家では妻が独裁政権を築いているので、私はその決定に同意するだけである。それがAIに代わったとしても何か変わるものでもない。会社の社長も側近の意見を聞いて決定している場合、側近がAIに代わったとしても何か変わるわけでもない。指示待ち族のサラリーマンにしてみれば指示するのが人間かAIかの違いだけで、「AIに従っていれば責任は問われない」とすれば、何の疑問もなくAIの指示を受け入れるだろう。

 そんなところで何の根拠もなく思うのだが、人類を排除するようなAIは出現しないように思う。私の性格として楽観的なところもあるが、AIは賢いので人類を滅ぼすような方向には働かないのではないかと根拠なく思う。ただ、では安心かと言うとそうではない。滅ぼす代わりに支配する方向にはいくかもしれない。支配と言っても欲望にまみれた人間の支配とは違い、人類に苦役を課す事はないが、「すべてAIの指示通りに生活しなさい」という形でのコントロールである。「人間の幸福はすべてAIが考えるので、人間はただそれに従っていれば良い」という事になったら、それは果たして幸福と言えるのだろうか。

 指示待ち族の人にとっては、誰をデートに誘い、どこのレストランに行き、どのメニューを注文し、どんな言葉を耳元でささやくのかすべてAIが指示してくれたら楽でいいだろう。そういう人にとってはAIは幸福をもたらしてくれるものと言えるだろう。指示待ち族でなくても、いつも誰かに助言を求めたり、自分で調べるにしてもネットで調べたりするのであればその手段がAIになるだけであり、同じであると言える。私ならsiriがもっとスムーズに人間のように回答してくれるなら、「新宿でお勧めのレストラン教えて!」など頻繁に使うだろう。ただ、さすがに耳元でささやく言葉は自分の脳みそで考えるだろうが・・・

 デートならまだしも、進路相談や結婚相談などするようになれば、それはもう支配と同じように思う。「支配」と考えれば抵抗があるが、「アシスタント」と考えれば抵抗はない。何事につけ、アシスタントに助言を求め、その通りに行動するのであれば「支配」と「アシスト」は同義になるように思う。果たしてそれは幸福なのだろうか。それは次世代の問題という気もするが、私としては自分の存命中にそういう時代が来てほしいと思う。そしてその答えを自分で出したいと思うのである・・・


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【本日の読書】

 なぜか人生がうまくいく「優しい人」の科学 - 和田秀樹 シャーロック ホームズの凱旋 森見登美彦 単行本 存在と思惟 中世哲学論集 (講談社学術文庫) - クラウス・リーゼンフーバー, 村井則夫, 矢玉俊彦, 山本芳久  手紙屋~僕の就職活動を変えた十通の手紙~ - 喜多川泰







2025年5月5日月曜日

論語雑感 子罕第九 (その2)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感
【原文】
達巷黨人曰、大哉孔子。博學而無所成名。子聞之、謂門弟子曰、吾何執。執御乎、執射乎。吾執御矣。
【読み下し】
達巷党(たっこうとう)の人(ひと)曰(いわ)く、大(だい)なるかな孔(こう)子(し)。博(ひろ)く学(まな)びて名(な)を成(な)す所(ところ)無(な)し。子(し)、之(これ)を聞(き)き、門弟(もんてい)子(し)に謂(い)いて曰(いわ)く、吾(われ)何(なに)をか執(と)らん。御(ぎょ)を執(と)らんか、射(しゃ)を執(と)らんか。吾(われ)は御(ぎょ)を執(と)らん。
【訳】
達巷という村のある人がいった。「孔先生はすばらしい先生だ。博学で何ごとにも通じておいでなので、これという特長が目立たず、そのために、かえって有名におなりになることがない」先師はこれを聞かれ、門人たちにたわむれていわれた。「さあ、何で有名になってやろう。御にするかな、射にするかな。やっぱり一番たやすい御ぐらいにしておこう」
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 世の中には天才とも言うべき人がいて、なかなか凡人にはどうやったら真似のできるものなのか想像もつかない事が平気でできたりするものである。孔子は博学で何ごとにも通じていたとのことで、多分何を聞いても見事な回答を返していたのだろう。学校の成績で言えば「オール5」といったところなのだろう。私はと言えば、学校の成績で例えれば「オール3」といったところであった。「何をやらせてもそこそこできるが、秀でて人より何かできるわけでもない」と言う感じである。実際の小中学校時代の成績もそんな感じであった。

 何でもそこそこできるというのもそれなりにいいように思うが、それはそれで悩みのようなものは常にあった。勉強だけではなく、スポーツでも割と器用に何でもこなした方である。学校の体育の時間はいろいろなスポーツをやる。バスケットボール、バレーボール、水泳、サッカー、鉄棒、走り幅跳び、走り高跳び等々であるが、私はそれなりに器用にこなした。球技大会ともなればチームの中心選手であったし、例えば水泳大会では水泳部の部員は出場できないのでいい成績を収めた。しかし、水泳部の部員と比べればそれは大した成績ではなかったといった。

 高校の時はスポーツ大会があって、クラスの有志とともにハンドボールの部に出場した。何となくキーパーをやり、相手チームにいた経験者のゴールを何度も阻止して驚かれた。ただ、それは所詮、未経験者の集まりの中での話だし、専門にやっている者の中では目立たなかっただろう。ラグビーは専門にやっていたが、やはり割と器用でどこのポジションでもそこそここなせたが、専門のポジションであっても飛び抜けていい選手だったとは思えない。上には上がいるのは当たり前だが、それがゴロゴロいるとさすがに自惚れ心も起こらなくなる。

 20歳くらいまでは、自分は何か特別な存在であるような気でいたが、社会人になって銀行に入ってその自信は打ち砕かれてしまった。組織の中でうまくやっていくには、仕事の能力だけではなくコミュニケーション力も必要である。それを軽視していたということもあるが、自分がごく普通の人間であるという事を嫌というほど味わされたものである。それでも大企業を離れ、中小企業に入ればそこそこ力はあるのだと、ここ10年は実感していて、ようやく少し自信回復してきた感はある。しかし、もちろん「評価5」などと自惚れるほど愚かではない。

 世の中にはオール5が平気で取れる人がいる。「何で有名になろうか」と戯れに言える人はいいが、たいていの人はたった一つでも有名になれるのは難しい。ただ、それを嘆く必要はないと思う。そもそもたとえあるところで5を取れたとしても。別のところへ行けばそのレベルでは4にしかならないということもある。また、その逆に、あるところでは3であったとしても、別のところでは5になれるかもしれない。孔子のようにトップ中のトップはほとんど稀で、大半の人は上には上がいるのである。であればその前提で考えるしかない。

 私は銀行では大して出世はできなかった。自分では実力はあると思っていたが、同じような実力の人間がたくさんいる組織では、コミュニケーション能力も必要であり、幅広く能力が必要なのだろう。しかし、銀行を飛び出して中小企業へ移ってみれば、思っていた通り実力を発揮して活躍できている(コミュニケーション力も改善している)。己の実力が認められなくて嘆くのであるならば、ステージを変えるのも一つの方法である。セカンドステージの方でうまく活躍できるかもしれない。

 孔子のようにあれこれ選べるほど力のない一般人は、ステージを変えて有名になれるところを探すのもいいかもしれない。10,000人の中では凡人でも10人の中では有名人になれるかもしれない。己の不運を嘆く前に一般人には一般人なりの人生戦略があり、自分をうまく活かせるばに活躍の場を場を移すのもひとつの手であるだろう。「オール3」であっても、ある分野に関して狭いステージに移れば「5」を取れる。凡人の戦略としてはそれでいいのだと思うのである・・・

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【今週の読書】
 いま世界の哲学者が考えていること - 岡本 裕一朗 シャーロック ホームズの凱旋 森見登美彦 単行本 猪木のためなら死ねる! 最も信頼された弟子が告白するアントニオ猪木の真実 - 藤原喜明, 佐山聡, 前田日明




2025年5月1日木曜日

あぁ、初任給!

 世間では物価が上昇し、就職戦線では初任給が話題になっている。大手企業の中には「初任給40万円超」を謳う企業が登場し、高給ランキングには30万円超の企業がずらりと並ぶ。中小企業の我々はそれを遠くで呆然と眺めているだけである。それだけの初任給を払えるという事は、それだけ儲けているという事であるが、それだけ儲けられていない我々としては忸怩たる思いがする。日本政府が日本経済の復活のために「デフレ脱却」を唱えていたが、実は私はそれを疑惑の目で見ていた。デフレ脱却が果たして日本経済のためになるのか、と。そして仮に日本経済のためになるとして、それが個人の生活に好影響を与えるのか、と。

 だいぶ物価も上昇してデフレ脱却の言葉は聞かなくなっている。その結果はというと、日本経済にはいいのかもしれないが、個人的には昼食代が上がっていたりして支出は増えている。もちろん、給料は増えていないのでこずかいも増えていない。妻に秘密の収入を増やして何とか凌いでいるが、事前に予想していた通りデフレ脱却は悪い方向に動いている。それは会社にしても同様で、物価の上昇を売上に転嫁できていない。なかなか売上は伸びず、一方で給料は据え置きというわけにはいかず、もちろん初任給30万円なんて雲の上のお花畑の話である。

 それでも競合他社は水準を上げてきている。当社も新卒採用の場でここのところ苦戦しており、それは初任給の水準だけの問題だとは思わないが、それも大事な要素であると考え、見直しに着手することにした。しかし、初任給をいじれば既存社員の給与にも影響を与える。新入社員より2年目の社員の方が給料が安いという事態になってもまずい。それが連鎖的につながれば、最大で全社員の給料を見直す事態につながる。そのインパクトは会社の決算にも影響を与えるので、それをも加味しなければならない。なかなか簡単には判断できないものである。

 そもそも社員に対する給与は会社の決算から見ると「経費」である。我が社の場合、エンジニアに対する給与は「売上原価」に計上しており、役員報酬、総務、営業等の社員の給与については販管費に計上している。ともに「経費」であることは変わらない。「売上-経費=利益」であり、経費が増えれば利益が減る。当社は非上場なので株主の意向を気にする必要はないが、銀行からお金を借りる必要があるので利益水準は維持しないといけない。当社には不動産等の担保に提出できるものがないので、銀行からの借り入れには利益を出す事が信用につながる。利益が減れば死活問題になる。

 会社が上げた売上を経費に配分するか利益に配分するかは難しいところ。社員の給料、福利厚生を手厚くすれば利益は薄くなる。減らせば利益が厚くなる。我が社は創業者の考えによりなるべく社員に還元するという方針でやって来ている。そのため創業から50年を迎える割に蓄積された利益は少ない。自社ビルの一つもあっておかしくないと思うが、そこまでのものはない。なかなか難しい問題である。望ましいのは売上を上げ続けて高い給料を払いつつ利益も蓄積する事。だが、理想は遠い。

 37年前、社会人デビューした私の初任給は確か125,000円であった。時代が違うのでそれだけでは何とも言えないが、遊びたい盛りの若者には厳しい給料であった。しかしながら、寮費が3万円程度(水道光熱費込み)であったので、手取りのこずかいとしては、(妻に秘密の収入がなければ)今よりも多かったと思う。独身と家族持ちとでは自ずと違うが、なんだか複雑な気分がする。初任給で30万円もらえる今の若者は、ほとんどがまだ独身だろうからかなり贅沢ができるように思う。

 我が社の新入社員の初任給は、高専卒と大卒とで違いがあるが、20万円前後である。昨年、大卒で公務員になった娘が20万円ちょっとなのでほぼ同じである。昼休みにカップ麺を食べている我が社の若手社員を見ると、もう少し収益を上げて給料も上げてあげたいと思う。「中小企業だから(払えない)」ではなく、「中小企業でも(払える)」を目指したいと思う。一朝一夕にいくことではないが、そういう気概を持って仕事をしたいと思うのである・・・


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【本日の読書】

 いま世界の哲学者が考えていること - 岡本 裕一朗  シャーロック ホームズの凱旋 森見登美彦 単行本