【原文】
冉有曰、「夫子爲衞君乎。」子貢曰、「諾、吾將問之」。入曰、「伯夷叔齊、何人也。」曰、「古之賢人也。」曰、「怨乎。」曰、「求仁而得仁、又何怨。」出曰、「夫子不爲也。」
【読み下し】
冉有曰く、夫子は衞君を爲けむ乎。子貢曰く、若、吾將に之を問はむと。入りて曰く、伯夷叔齊は何人ぞ也。子曰く、古之賢人なる者ぞ。曰く、怨みたる乎。曰く、仁を求め而仁を得たり、又何ぞ怨みむと。出でて曰く、夫子は爲け弗る也。
【訳】
冉有が言った。「先生は衛国の君主を補佐するつもりがあるか?」
子貢が言った。「ああ、私が行って聞いてみよう。」
子貢は進み出て、言った。「伯夷叔斉とはどんな人ですか。」
答えた。「古代の賢者だな。」
問うた。「彼らは後悔しましたか?」
答えた。「仁を求めて仁を得た。後悔するか?」
子貢は出てきて言った。「先生は決して行かない。」
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これも現代語の訳になるとよく意味がわからない。まぁ仕方がないだろう。孔子はよほどの賢者であったのだろう。諸国の君主の補佐をすることについては選べる立場にあった様である。私も今の会社では取締役として社長の補佐をする立場である。そして前職でも同様であった。選り取り見取りの中から選んだというわけではなく、縁があって紹介されたというだけである。「受けるか、断るか」の選択肢しかなかったので、孔子とは大違いである。
前職では一択、今職では二択の選択肢であったが、どれを選ぼうと私の基本的なスタンスとしては「相手を選ばない」ということであろうか。社長が優秀であろうがなかろうが、それに合わせて全力を尽くすだけであり、「優秀な社長だから選ぶ」というものではない。そうでない社長であっても、それならそれに合わせて自分の力を尽くすだけである。逆に、あまり優秀でない社長であれば、自分の力がそれだけ発揮できるという考え方もある。
実際、前職はまさにそのパターンであった。当時、会社は赤字を重ねており、債務超過一歩手前、メインバンクからは新規の融資を見合わせられている状態であった。社長自身も迷走しており、早急に手を打たないとすぐに再就職の活動を始めなければならないほどであった。そこで中期経営計画を策定し、会社の在り方を決め、何で稼ぐかを明確にし、社名まで変更して再スタートを切った。幸い、社長がすべて任せてくれたので思う通りできたということもある。
その結果、信用金庫を中心に融資に応じてくれる金融機関がいくつか現れ、業績は少しずつ改善し、6年間で累積損失は一掃して業績は機動に乗った。そしてこれからという時に、突如社長は会社をM&Aで売却して我々は路頭に迷うことになった。人を見る目がないという意味ではその通り。まさか最後にそんな裏切りにあうとは思わなかったが、それでも赤字会社を自分が中心になって建て直したというのはいい経験になったし、自信にもなった。「恨み半分」といったところだろうか。
現職でも同様で、「今度は裏切られることはなさそうだ」という感覚で選ばせていただいたが、二択だったので孔子のように余裕で選ぶというわけではなかった。それでもやれることはあるもので、自然と実力を評価していただいて役員にしていただいたので、役には立っているのだろう。孔子の様に自由に選べる立場であればいいが、そうでないのであれば、「置かれた場所で咲く」気構えが必要になるのではないかと思う。そしてそういう気構えと実力があれば、どこへ行ってもやっていけるだろう。
現代においては、孔子のような「選べる」立場の人は少ないだろう。であれば「誰であっても」という事は必要な事であると思う。少なくとも自分はそうである。まぁ、年齢的にも現職をもって骨を埋めるところにしたいと思うのである・・・
MarlaによるPixabayからの画像 |
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