2021年5月19日水曜日

働くこと

天国は、ある家の主人が、自分のぶどう園に労働者を雇うために、夜が明けると同時に、出かけて行くようなものである。
彼は労働者たちと、1日1デナリの約束をして、彼らをぶどう園に送った。それから9時ごろに出て行って、他の人々が市場で何もせずに立っているのを見た。そして、その人たちに言った、『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当な賃銀を払うから』。そこで、彼らは出かけて行った。
主人はまた、12時ごろと3時ごろとに出て行って、同じようにした。5時ごろまた出て行くと、まだ立っている人々を見たので、彼らに言った、『なぜ、何もしないで、1日中ここに立っていたのか』。彼らが『だれもわたしたちを雇ってくれませんから』と答えたので、その人々に言った、『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい』。
さて、夕方になって、ぶどう園の主人は管理人に言った、『労働者たちを呼びなさい。そして、最後にきた人々からはじめて順々に最初にきた人々にわたるように、賃銀を払ってやりなさい』。そこで、5時ごろに雇われた人々がきて、それぞれ1デナリずつもらった。
ところが、最初の人々がきて、もっと多くもらえるだろうと思っていたのに、彼らも1デナリずつもらっただけであった。もらったとき、家の主人にむかって不平をもらして言った、『この最後の者たちは1時間しか働かなかったのに、あなたは1日じゅう、労苦と暑さを辛抱したわたしたちと同じ扱いをなさいました』。
そこで彼はそのひとりに答えて言った、『友よ、わたしはあなたに対して不正をしてはいない。あなたはわたしと1デナリの約束をしたではないか。自分の賃銀をもらって行きなさい。わたしは、この最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ。自分の物を自分がしたいようにするのは、当りまえではないか。それともわたしが気前よくしているので、ねたましく思うのか』。
このように、あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう。

(マタイの福音書20)

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 天国と言えば、誰にでも公平・平等で幸せに満ちているところというイメージがある。しかし、この公平・平等というのもよく考えてみれば難しいところがある。それは、「基準」の話である。

 上記のマタイの福音書のエピソードによれば、朝9時から汗水たらして働いた者と夕方の5時に来て同じ報酬をもらうのではあまりにも不公平である。方や1日汗水たらして働いているのに対し、片方はただ来ただけで同じ報酬をもらっているわけで、どちらを選ぶかと問われれば、みんな後者を選ぶだろう。しかし、この物語の主人が語っているように、彼は不正は働いていない。どの人とも同じ条件で約束をしてその通りに履行しているわけで、不公平を訴えているのは朝から働いている人である。ただ、誰もが納得した上で募集に応じているわけで、なかったとすれば「横の情報共有」だけである。

 朝の9時から働いている人が、もし5時に来ても同じ報酬がもらえるとわかっていれば朝の9時の時点では募集に応じないであろう。今回のようなケースが明らかになれば、翌日からは誰も朝の募集には応じないであろう。そうすると、働き手がいなくなるので、次の朝はこういう募集の仕方はやらなくなるだろう。朝から働いた人に1デナリだとしたら、12時に来た人は0.5デナリ、3時からの人は0.2デナリという具合に差をつけるだろう。これこそが資本主義、実績主義である。

 よくスーパーで閉店間際に割引シールが貼られることがある。スーパーとしては売れ残りは避けたいので、割引してでも売ってしまおうと考えるのである。そしてこれを知っている人は、この時間を狙って買い物に行く。同じ買うなら安い方がいいわけである。ただ、これにはリスクがある。その日、その商品がよく売れて割引せずとも売り切れてしまった場合は買えなくなるのである。するとその日の献立にも影響する事態となるわけで、臨機応変が効くなら問題ないが、そうでなければ大変である。

 私が今の自宅を購入した時のこと、そこは全7区画の土地が売り出されており、私が問い合わせた時はあと1区画だけが残っている状態であった。売主の不動産屋も早く売却を決めたかったのであろう、買っていただけるなら「ディスカウントをする」と提案してきた。よくマンションでも最後の1戸を安くしてもらって買ったという話を聞くが、その気持ちはよくわかる。そして我々夫婦はそれに応じたが、おそらくご近所の他の6軒の中で割引を受けたのは我々だけである。

 ただ、狙ってそれができるかというと、そうではない。我が家は偶然の賜物である。もう少し遅ければもしかしたら買い損なっていたかもしれないし、もう少し早ければ(業者も余裕があって)正常価格でしか買えなかったかもしれない。我々だけ割引を受けるのは不公平かと言うと、そう言われても困惑するだけである。それはすべて結果が判明した時点で初めてわかることであり、その時々の時点においてはわかるものではない。逆に言えば、プロセスにおいては公平なのである。

 先日読んだ本に、「労働なくして余暇はない」という言葉を目にした。「労働のない」とは、つまり「失業」ということであり、なるほど失業状態では余暇もない。天国に労働があるかどうかはわからないが、あったとしてもたぶんそれは辛いものではないだろう。それは理想的なものなのであろうか。もしも、上記のぶどう園に誘われたらどうするだろうかと考えてみる。5時に行っても1デナリもらえるとしても、その間どうするか。きっと余暇は余暇でありえないように思うし、たぶん自分だったら朝から働きに行くことを選ぶだろうと思う。それは損得ではなく、労働という報酬を得るためである。

 学生時代、ある水道工事の会社でアルバイトをした。好きな1日を選んで出勤し、報酬はその日の最後に現金でもらえた。確か1日7,000円だったと思う。1日働いて手にした現金7,000円には、何者にも代えがたい喜びがあった。5時に行って7,000円だけもらってもたぶんあの爽快感は得られなかったと思う。そこに価値を見いだすのであれば、両者は公平である。そこには労働を「苦痛」と見るかどうかがあるだろう。「苦痛」と見るなら不公平であるが、それ以外の価値を見出せればそうではない。

 働くことはただ生活の糧を得るための苦行ではなく、生活の糧を得ることにプラスαの価値を得たいと思う。経営の楽ではない中小企業ではなかなか難しいが、それでも何もせずに今の給料をもらうのよりはいいと思う。同じ給料をもらうのであれば、朝の9時から働く事を選びたいと思うし、どうせだったら5時に同じ報酬をもらいに来るだけの人よりもより多くの何かを強引にでも得るようにしたいと思う。それが私という人間である。

 マタイの福音書は、自分の労働観を見直してみるのにいい題材だと思うのである・・・


【本日の読書】
 



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