2021年4月29日木曜日

今抱えている苦悩とそれに対する解決策

船荷のない船は不安定でまっすぐ進まない。
一定量の心配や苦痛、苦労は、いつも、だれにも必要である。
ショーペンハウアー
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 30歳の時に休煙して以来、ほとんどタバコを吸わずにきているし、それゆえにタバコを買うこともなかったが、昨日本当に久しぶりにタバコを購入した。銘柄は以前愛煙していたマルボロである。最近は電子タバコなるものが流行っているが、やはり紙のタバコが1番と感じる。おおよそ四半世紀の間に、いつの間にか一箱570円と、記憶にある値段の2倍以上になっていた。そして吸い込んだ紫煙は肺に染み入るが如くで、体に悪そうなことこの上なかったが、同時にそれが心地よさをもたらしたのも確かである。

 なぜ突然タバコを吸いたくなったのかと言えば、それはやはりストレスかもしれない。ここのところ心を煩わせる問題が頻発していて、精神的にもかなり疲弊していると感じている。泣き言を言うつもりはないが、嗜好品は酒であろうとタバコであろうと精神を弛緩させる作用があるのだろう。なんとなくリラックスした気分になれる。多少体に悪くとも、ストレスだって体には良くないだろうし、薬だって病気には効くかもしれないが体に副作用をもたらすものもあることを考えると、それでストレスが緩和されるのであればいいだろうと思う。

 それにしても、翻ってみると過去10年以上にわたってなんらかの形で悩みや苦悩は絶えなかったように思う。結婚してからは、両親と妻との関係に煩わされたし、子供のアトピーの心配や、いじめや登校難、己の金銭問題や転職問題、会社の業績などなど苦悩が次から次へと現れてきたように思う。もっと心穏やかに暮らせないものかと思うが、そうはならない。どうして自分だけがずっと悩みを抱えて生きなければならないのだろうとグチりたくなるが、考えてみれば自分だけではなく、人は誰でもそうなのだろうと思う。ショーペンハウアーも「生きることは悩むことだ」と語ったと伝えられているくらいだから自分だけではないのであろう。

 どうしたら苦悩など抱えることなく、心穏やかに暮らせるのだろうかと考えてみるもなかなか思い浮かばない。お金があればできるのだろうかと考えてみるも、お金があっても病気を抱え行動を制限されている人を見ればそれは安易な発想なのかもしれないと思う。お金があれば不幸は追い払うことはできても、幸福を手に入れることができるとは確実には言いがたい。「これがあれば大丈夫」というものはどうもありそうな気がしない。結局、どんな立場の人であっても、それなりの苦悩は避けられないのかもしれない。

そう考えると、苦悩を避けるというよりも上手く同居していく方法はないかと考えるより他ないのかもしれない。
「運命がカードを混ぜ、われわれが勝負する」
とは同じくショーペンハウアーの言葉であるが、どんな境遇に生まれ育つのかを人は選べない。金持ちの家に生まれる人もいればそうでない人もいる。まさに配られたカードでなんとかするしかないわけで、であれば歯をくいしばるしかない。

 ショーペンハウアーはまた、「幸せを数えたら、あなたはすぐ幸せになれる」という言葉も残している。苦悩ばかりが脳裏を占めるが、実は恵まれているところは当たり前すぎて意識の中にはない。たとえば私は結婚して子宝にも恵まれた。それが当たり前でない人もいるわけで、妊活に苦悩している人から見たら羨ましがられるだろう。健康診断の数値は危なっかしいが、それでも健康であるし、家には心臓移植を待つ子供もいない。両親はとりあえず健在だから親孝行もまだできる。ショーペンハウアーの言葉は真理である。

 ショーペンハウアーの言葉に救われつつも、現実に己が直面する苦悩がなくなるわけではない。それはそれで上手く折り合いをつけるしかない。なくならないのであれば、あとは心の平穏をどう保つかという問題になる。考えてみれば、今の苦悩も、もしも一年後にハッピーエンドに終われば、なんだったのかということになる。突き詰めていくと、苦悩の正体は「不安」であるとも言える。「将来不幸になるかもしれない可能性に対する恐怖」である。それが自分自身のことだったらまだしも、家族も巻き込むことであれば心穏やかではいられない。

 そうした「不安」に対してどう対処すればいいのだろうか。キルケゴール流に考えれば「可能性を与えれば、絶望者は息を吹き返し生き返る」となるのであろうか。キルケゴールは「絶望」という言葉を使ったが、「不安」と置き換えることもできる。あれこれ考えて不安に思うよりも、「こういう可能性を考えれば克服できる」と無理やり考えるのがいいのかもしれない。過去に心を塞いできたあれこれの問題もそう考えれば少しは緩和されたようにも思う。

 過度の楽観は良くないかもしれないが、過度の悲観もまた同様。悩んでも仕方のないものは、悩むのと同じくらい明るい解決策を考えるのがいいのかもしれない。誰もが逃れられないものであれば、それに対する対応策を考えたい。それがいずれ同じような悩みを抱えるであろう子供達に対する手本になるかもしれない。それに当たっては、やはり他人を踏みにじるようなことはしないようにしたいと思う。今、ある意味信頼していた人による裏切にあったところであるがゆえに余計にそう思う。

 「神に祈れ。だが岸に向かって漕ぐ手は休めるな」(ロシアの格言)ではないが、泥沼でもがき嘆きつつも、岸に向かってそれ以上に泳ぐ気概を持っていたいと思うのである・・・



【今週の読書】
 



2021年4月25日日曜日

経営道

 人は誰でもお金を出して会社を設立すれば経営者になれる。今は昔と違って資本金のルールも緩いので、まとまったお金がなくても会社は設立できるから、誰でも簡単に社長になれる時代である。しかし、簡単にはなれても真の経営者と言えるような社長になれるかと言えばそうではない。武士に武士道があったように、経営者にも守るべき道というのがあるように思う。そういういわば「経営道」のようなものを身につけた人物こそが真の経営者と言えるのだと思う。

 そうした経営者が守るべき「経営道」(それはこういうものと決まったものなどはないのだが)を守れているかどうかは、危機に際して、あるいは最後の時に本性がわかるものである。普段は立派な社長も、いざ倒産の危機となった場合に変貌するというのは、私も銀行員時代に多く見てきた。そうした危機にあって、あるいは最後まで変わらず人徳を保ち続けることができる人物こそ真の経営者と言えるのだと思う。

 企業においては、「お客様」「従業員」そして経営者自身の利益が絡み合う。理想的な優先順位は、「お客様→従業員→社長」である。この順番が最後まで守れるかどうかが、1つの試金石と言える。例えば数年前、韓国でセウォル号事件というのがあった。フェリーが沈没して大勢の犠牲者が出た事件だが、注目を浴びた1つが、船長がいち早く避難してしまったことである。この事故では、乗務員による適切な避難指示がなかったことが大勢の犠牲者を出した一因でもある。

 会社の社長は船で言えば船長である。船長は乗員・乗客の安全には責任を負い、危機にあっては「最後に船を降りる人」でなければならないわけである。それを放棄して真っ先に避難してしまったセウォル号の船長が非難を浴びたのは当然である。何も旧帝国海軍の艦長のように「艦とともに運命をともにする」までいかなくてもいいだろうが、少なくともギリギリまでその努力はすべきであろう。

 船も突然沈没するわけではなく、ある程度時間の余裕はある。であればできることも多いはずである。企業も突然死ばかりではなく、ある程度時間の余裕があったりする。環境の悪化で売上が落ちたりする場合は、経営者であれば「まずい」というのは真っ先にわかる。その時、自分の財産だけ隠したり、あるいは自分だけ夜逃げをしたりというのはいただけない。よく、朝出社したら会社が倒産したと知らされたなんて従業員の話を聞いたりするが、それなど船長が真っ先に避難してしまう例である。

 数年前に成人式に予約していたレンタルの着物が借りられなかったという事件があった。ユッケを食べた小学生が亡くなったという事件もあった。いずれも社会的に大きな問題になり、経営者も矢面に立たされたが、危機に至る過程や、危機が実現した時に「お客様→従業員→社長」という優先順位を守れるかが、経営者の大きな試練であると思う(両社の経営者がどう行動したかはよくわからないのでコメントはしない)。また、倒産とまではいかなくても、高齢等によって事業継続が困難になった時の会社の畳み方などにもそれは表れるかもしれない。

 例えば、会社を畳めば従業員は職を失う。お客様はその会社のサービスを受けられなくなる。それに対してどういう手当をするか。他社で代替できるサービスであればその案内でいいだろう。従業員に対しては、就職先を斡旋したり、あるいは当面必要な資金をまかなえるように十分な退職金を支給したりすることができるだろう。時間的な余裕も必要だから、一年くらい前から計画を話しておくことも必要だろう。最後の営業の日に、従業員から花束をもらって感謝の言葉を得られたら、それがその人の経営者としての成績表と言えるだろう。

 そうした最後の姿でなくても、日頃からお客様優先、従業員優先の経営ができているかも重要だろう。クレームに真摯に向き合わなかったり、気に入らない社員を辞めさせたり、減給したりということもあるかもしれない。おおよそ、経営者としてふさわしくない人物の経営は日頃からその言動の端々に現れているものである。残念ながら、経営道を気にしなくても経営はできるわけであり、だからこそ自分の預金通帳の数字が増えるのだけが楽しみという経営者も多い。

 武士は武士道に反した行動をとればそれは恥とされた。そういう不名誉を武士は恐れたが、経営者にはそれがない。もう少しそれが広まれば、世の中(特に中小企業では)働きやすくなったりするのかもしれない。そうした「経営者教育」が広まればとも思う。自分は経営者ではないが、それに近い立場にいる。せめて自分は、「経営道」を意識し、身を正していたいと思うのである・・・



【今週の読書】
 




2021年4月18日日曜日

論語雑感 公冶長第五(その18)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。

【原文】
子張問曰。令尹子文。三仕爲令尹。無喜色。三已之。無慍色。舊令尹之政。必以告新令尹。何如。子曰。忠矣。曰。仁矣乎。曰。未知。焉得仁。崔子弑齊君。陳文子有馬十乘。棄而違之。至於他邦。則曰。猶吾大夫崔子也。違之。之一邦。則又曰。猶吾大夫崔子也。違之。何如。子曰。清矣。曰。仁矣乎。曰。未知。焉得仁。
【読み下し】
子(し)張(ちょう)、問(と)うて曰(いわ)く、令尹(れいいん)子(し)文(ぶん)は三(み)たび仕(つか)えて令尹(れいいん)と為(な)りて喜色(きしょく)無(な)し。三(み)たび之(これ)を已(や)めて慍(いか)る色(いろ)無(な)し。旧(きゅう)令尹(れいいん)の政(まつりごと)は必(かなら)ず以(もっ)て新令尹(しんれいいん)に告(つ)ぐ。何如(いかん)ぞや。子(し)曰(いわ)く、忠(ちゅう)なり。曰(いわ)く、仁(じん)なるか。曰(いわ)く、未(いま)だ知(ち)ならず、焉(いずく)んぞ仁(じん)なるを得(え)ん。崔(さい)子(し)、斉君(せいくん)を弑(しい)す。陳文子(ちんぶんし)、馬(うま)十乗(じゅうじょう)有(あ)り。棄(す)てて之(これ)を違(さ)り、他(た)邦(ほう)に至(いた)る。則(すなわ)ち曰(いわ)く、猶(な)お吾(わ)が大(たい)夫(ふ)崔(さい)子(し)のごときなり、と。之(これ)を違(さ)る。一邦(いっぽう)に之(ゆ)く。則(すなわ)ち又(また)曰(いわ)く、猶(な)お吾(わ)が大(たい)夫(ふ)崔(さい)子(し)のごときなり、と。之(これ)を違(さ)る。何如(いかん)ぞや。子(し)曰(いわ)く、清(せい)なり。曰(いわ)く、仁(じん)なるか。曰(いわ)く、未(いま)だ知(ち)ならず、焉(いずく)んぞ仁(じん)なるを得(え)ん。
【訳】
子張が先師にたずねた。
「子文は三度令尹の職にあげられましたが、別にうれしそうな顔もせず、三度その職をやめられましたが、別に不平そうな顔もしなかったそうです。そして、やめる時には、気持よく政務を新任の令尹に引きついだということです。こういう人を先生はどうお考えでございましょうか」
先師はいわれた。
「忠実な人だ」
子張がたずねた。
「仁者だとは申されますまいか」
先師がこたえられた。
「どうかわからないが、それだけきいただけでは仁者だとは断言できない」
子張がさらにたずねた。
「崔子が斉の荘公を弑したときに、陳文子は馬十乗もあるほどの大財産を捨てて国を去りました。ところが他の国に行ってみると、そこの大夫もよろしくないので、『ここにも崔子と同様の大夫がいる』といって、またそこを去りました。それからさらに他の国に行きましたが、そこでも、やはり同じようなことをいって、去ったというのです。かような人物はいかがでしょう」
先師がこたえられた。
「純潔な人だ」
子張がたずねた。
「仁者だとは申されますまいか」
先師がいわれた。
「どうかわからないが、それだけきいただけでは、仁者だとは断言できない」

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 孔子と子張の前後の状況がよくわからない会話であるが、子文と陳分子という2人の人物の行動が問われている。子文は令尹という何か要職に就いたが、その職に固執することなく、淡々と職務をこなしたようである。おそらく、名誉か報酬かわからないが、かなり美味しい職務だったのだろう。普通の人はその職を手にするために汲々とし、またその職にしがみつこうとするものだったのだろう。

 一方、陳分子という人物も同様で、仕える君子が人物的に問題があってそれを良しとしない場合は、その地位を捨てることに頓着しない人物だったのだろう。どちらも金銭的な価値よりも自らの信条を優先して行動する人物だったようである。現代社会でも「好きなことを仕事にする」のが理想的とされつつも、多くの人が目の前の仕事を好き嫌いで選んではいないのではないかと思う。

 仕事はもちろん報酬のためが第一であろう。生活に困ることはなく、ただ世の中との接点を持ちたいというだけで報酬目当てではなく働いている人もいるかもしれないが、ほとんどは生活のためにまずは働いているのだと思う。かく言う私もその1人であり、働く目的は生活のためが第一で、それがゆえに多少の不自由不満があっても簡単に辞めるというわけにはいかない。ただ、それがなければ、割と地位には固執しない人間であると思う。

 以前、高校の同窓会と同期会と関連する団体の役員を務めていたが、いずれも報酬には関係のないボランティアであった。中にはずっと務めている者もいるが、私はそういうものには固執しないので、「必要がなくなれば自ら去る」という道を選んでいた。どれも辞めたのは人間関係と仕事の内容に魅力を感じなくなったことによる。長年、変化を避けて同じようなことをして満足していたり、意見が合わなくなって辞めたというパターンである。

 「生活のため」という要素が加わると、人は簡単に辞めるという選択肢は取れない。「辞めたあとどうする」という問題があるからである。しかし、それがなければ純粋にやり甲斐などが動機となってくる。子文も陳分子もいずれも生活には困らなかったのか、あるいはなんとでもなる人物だったのであろう。そして地位に固執しないという部分にも美学を感じる。

 ボランティア組織では、それが生き甲斐になっている人もいる。そういう生き甲斐は悪くはないが、報酬が絡むとそこには欲が出てくる。職を去れば失うのはやり甲斐だけではなく報酬もである。となれば、欲深きはこれに固執しようとする。そして普通は、欲が出るものである。だからこそ、子張は2人をして「仁者では?」と尋ねたのであろう。欲に動かされない人間は、やはり尊敬に値するものだからである。

 自分は果たして今の仕事を報酬を無視して離れられるだろうかと考えてみると、それは難しい。次の仕事を確保してからでないとできないし、次の仕事が少なくとも同じ給料でとか条件を考えてしまうとさらに壁は高くなる。なかなか職に固執せず、理想の働き方を追求するというのは、私にとっては難しい。子文も陳分子もどんな人物だったのかはわからないが、たとえ孔子のいう通り「仁者」ではなかったとしても、やはり尊敬すべき孤高の人物であったことは間違いないのだろうと思う。

 辞めても引く手数多であれば、気に入らなければ去るという選択肢も容易に取れるであろう。そんな働き方ができるようになったら理想的だろうなと思うのである・・・


Jose Antonio AlbaによるPixabayからの画像

【今週の読書】
 



2021年4月14日水曜日

情報開示が何より

福島第一原発の処理水、海洋放出を政府が決定

2021年4月13日BBCニュース

日本政府は13日、東日本大震災で破壊された東京電力福島第一原子力発電所から排出されている放射性物質を含む100万トン以上の処理済みの汚染水を、福島県沖の太平洋に放出する計画を承認した。この水は、同原発の核燃料を冷却するために使用されているもの。飲料水と同じ放射能レベルまで希釈してから放出する予定。放出は2年後に始まるという。数年にわたる議論の末に最終決定が下された。放出計画は完了までに数十年がかかるとみられている。しかし地元の漁業団体に加え、中国や韓国などがこの計画に反対している。

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 原発事故から10年。発電所から排出される処理水がタンクに貯められているのは知っていたが、それがここにきて貯めておくのも限界ということになったのであろう。100万トンと言われてもちょっと想像できない量である。詳しいことはわからないが、たぶん燃料棒等の核物質を冷やすのに使われた水という理解でいいのだろうと思うが、それを安全なレベルにまで戻して海に捨てようということなのだろう。

 この計画に対し、「大丈夫なのか」という疑問は当然出てくるわけであり、中韓や地元の漁業関係者、「何でも反対」野党の人たちなどが反対しているようである。その安全性に関しては、国際原子力機関(IAEA)が、「各国のほかの原発で行われている排水放出に似ている」として「問題ない」と発表しているようであり、おそらく大丈夫なのだろう。さすがに内外の注目を浴びることだから、ごまかしてやってしまおうということはないと思う。

 こういう意見に反対する人については、どういう根拠なのかというのが気になるところ。「何でも反対」野党の人たちなら(根拠などなくてもとにかく反対だから)わかるが、その他はどうだろう。地元の漁業関係者が反対するのはたぶん「風評被害」を気にするのだと思う。これはいくら安全と言われても「何となく不安」と言われればそれまで。菅総理がパフォーマンスで処理水を飲んでみたところで、起こる時は起こるだろう。

 この風評被害を防ぐには、何より信頼されることが第一だろうと思う。「何となく不安」ならばその不安を解消してあげればいいわけで、それには徹底した情報開示が一番だろうと思う。これは何も風評被害にとどまらず、およそ信頼関係を維持するには共通していることのように思われる。会社の経営にもそれは当てはまると思う。たとえば、業績が好調だとわかれば社員はボーナスが増えると期待する。ところがそうならない場合はなぜなのか、きちんと説明しないと不信感を抱かれることになるだろう。

 すこし前の話になるが、我が社は取引先の不祥事に巻き込まれてしまった。検察が捜査に来るという異常な事態となったが、その時にやったのが「状況説明」である。幸い我が社は何もやましいところがなかったので、疑いをかけられたと思われる理由や、経営陣が把握している状況をすべて説明した。従業員に対し、「あなた方には関係ない」というスタンスはあらぬ不信感を持たれるだろうと思ったのである。その効果があったかどうかはわからないが、疑惑が完全に晴れるまでの何か月間は、少なくとも社員に動揺はなかったと思う。

 我が社では年に一回業績の報告を全員に対して行っている。賞与は当然業績連動なので、全社レベルの業績はその参考になる。「今期はいい」「今期は悪い」で済ますのではなく、実績を示して「どのくらいいい」のか「どのくらい悪い」のか具体的にしているのである。各人の理解の程度はそれぞれかもしれないが、少なくとも開示姿勢は明らかにしているし、今でも何かあればきちんと全員に状況説明をしている。やっぱり「何考えているのかわからない」というのが、一番の不信につながると思うからである。

 冒頭の処理水の問題においても、徹底して情報開示するに限るのではないかと思う。なんなら処理水の水槽で魚でも飼って展示してみせたらどうかとも思う。それより素人的には「再使用できないのか」とも思う。排水して問題ないならそれを再使用しても良いように思う。循環利用すれば排水しなくても半永久的に利用し続けられるわけであり、いいアイディアのようにも思うが、どうなのだろう。まぁ、素人でも思いつくくらいだからきっと既に検討済みで、実現できないなんらかの理由があるのだと思う。

 自分は福島水揚の魚を食べるだろうかと考えてみるに、たぶん気にしないで食べるだろう。漁業関係者の方には安心していただきたいと東京の一消費者として思うのである・・・



【本日の読書】
 



2021年4月11日日曜日

三種の神器だけでなく

仕事で何事かを成し遂げるためには、「三種の神器」が必要であると思う。しかし、実はそれだけではない。それどころか「三種の神器」以上に必要なものがあると思う。それは「人間関係構築力」である。世の中は、やはり人と人との関係で成り立っている。1人で生きているわけではない。当然といえば当然であるが、ゆえにその中で他の人といかに関わるかが大事である。

 この「人間関係構築力」が私は大の苦手。それで随分損をしてきたと思う。銀行員時代、結果的にそれほど出世できなかったのは、はっきり言って能力の差ではなく、この「人間関係構築力」の差であると自覚している。要は相手の気分をいかに害さずに物事を進めるか、なのである。組織の中では上司がいて、同僚がいて、部下がいる。部下に関してはまだ良いとしても、上司と同僚とうまくやっていくことは、仕事の成果や出世に大きく関わることである。

 上司とうまくやっていくと言っても「おべっか」を使うわけではない。意見が一致している場合はいいが、問題は意見が一致していない時。どうしても私には「なぜわからない」という思いが出てきてしまう。銀行であれば、つまらない保身から消極的になる上司も多い。そういう時、どうしても腹のどこかで相手を馬鹿にしてしまうのである。そういう気持ちは当然相手に伝わるし、結果としていい印象は与えない。そうなれば当然、評価もいい評価は期待できなくなる。

 私が新入行員だった1988年は、まだ滅私奉公の時代。休みの日も支店行事に駆り出されることがしばしばあった。私はこれが苦痛で苦痛で仕方がなかった。何が悲しくて休みの日までわざわざ職場の人たちと過ごさなければならないのかと。ある時、レクレーション担当の課長と喧嘩になってしまったことがある。「休みの日までできません」と言ったところ、「これも仕事だ!」と言われ、「なら休日出勤手当は出るんですね」と返したのだ。今あの時に戻ったならば、そんなことは絶対言わないだろう。

 ちなみに、当時はどこも会社で運動会をやるのが一般的であった。私のいた銀行も例外ではなかったが、私はこれも嫌で仕方がなく、これは断固拒否して行かなかった。しかし、次第にそこはうまく説明するようになって、毎年運動会の日には友人の結婚式に出ていることになっていた。はっきりと「休みの日に行きたくない」と言うよりも、「友人の結婚式があって・・・」と言った方が角が立たない。精神的にも穏やかでいられる。

 また、若い頃はそんな具合だったからアフターファイブのお付き合いも避けていた。誘われて断ることもしばしば。アフターファイブのお付き合いは、いわゆる「飲みニケーション」と言われるくらい大事である。職場を離れてリラックスした状態で、先輩あるいは上司は後輩または部下に仕事の心得をいろいろと語って聞かせるのである。これが私には苦痛であった。なにが悲しくて仕事の後も自慢話を聞かなければならないのかと。今であれば、進んでお供をして話を聞くだろう。それはおべっかというよりも、何か自分に得るものがないかという考えである。

 議論になって意見が食い違う時、私は相手の議論を封じ込める傾向がある。どうしても問題点を指摘されればその解決策を提示する。それが繰り返されれば、相手も反論の材料がなくなる。ならばそれが相手の満足につながるかと言えば決してそうではない。これはなかなかわかっていても変えられない。今でも「社長を立てる」ということを常に意識するようにはしているが、何かあればすぐ論理的にやり込めてしまうところがある。なかなか難しいところである。

 上司に対して何か物言いを入れたい場合、最近では一呼吸置くようにしている。その場ですぐに言うのではなく、グッとこらえて最低でも一晩置く。これによって冷静に言うべきかどうかを考えるようにするのである。それで完璧と言うわけではないが、ある程度は言葉の棘を取り除く効果はあると思う。やはり相手には相手の考えがあるわけで、いくらこちらの意見が正しいと思っていても、相手に考えを変えさせるためには配慮が必要だろう。

 ちなみに議論となった時になるべく断定的に話さないのも1つのコツである。「〜であればどうしましょうか」と言う疑問形にするのである。すると相手も考える。そうしてこちらの考える結論にうまく誘導できれば(冷静に考えれば結論には簡単にたどりつけたりするのである)、相手は自分の意見として私と同じ意見にたどり着ける。そうなれば話は簡単で、苦労は少ない。ストレートに投げ込むだけがすべてではない。うまく変化球を使いこなすことも必要だろう。

 もう一度、大学を卒業した時点に戻って社会人生活をやり直すことができたなら、私は今度はうまくやれそうな気がする。無用な対立を招くのではなく、うまく自分の心と折り合いをつけながら相手の立場・考えを尊重して対応できるような気がする。ひょっとしたらその時は頭取も夢ではないかもしれない。妄想の世界であるのは残念であるが、現実の世界も明日からやろうと思えばできることである。

 明日からやれることであるなら明日から意識して心がけようと思う。これからそう言う事の1つ1つが息子にしてやれるアドバイスになる。そう考えて、前向きにやりたいと思うのである・・・



【今週の読書】
 



2021年4月8日木曜日

三種の神器

 仕事でもスポーツでもうまくやる秘訣は、「考え方(考える事)」「情熱」「創意工夫」であるというのが私の信条である。仕事(スポーツ)に対して、「どんな考え方をもってあたるのか」、「どれほどの情熱を込めて取り組めるのか」、「どのようにしたらうまくいくのか徹底的に工夫する」ことである。それは仕事でもスポーツでも同様であり、真理であると考えている。

 ある野球チームにA君とB君がいて、コーチがそれぞれ半年後にはレギュラーに育てたいと考えたが、2人とも打撃が弱い。そこでコーチは2人に「毎日素振りを100回やれ」と指示を出した。A君は真面目に毎日素振りを100回やった。B君はまず自分の打撃は何が悪いのだろうと「考え」た。ストレートは比較的打てるが、変化球に弱い。そこで変化球を打つにはどうしたらよいかコーチにアドバイスを求めた。

 適切なスイングを教えてもらった上で、足腰を鍛えることも必要だと打撃の上手い先輩にアドバイスをもらい、朝起きてランニングをすることにした(熱意)。さらに週末には素振りの様子をビデオで撮影し、安定したスイングができているかどうかをチェックした(創意工夫)。2人とも真面目に毎日素振りを100回し続けたが、半年後にレギュラーに選ばれたのはどちらだろうかと予想すると、それは間違いなくB君だろう。

 2人が実施した素振り100回という行為は同じである。しかし、その結果には雲泥の差が出るであろう。「好きこそ物の上手なれ」という言葉があるが、まさに「情熱」を持って取り組めば、並以上の結果を得られるものである。一生懸命「考える」し、あれこれと「工夫」も生み出される。「ただやる」のではなく「どうやる」のか。その結果は大きな成果となって現れる。そういうものだろうと思う。

 サラリーマンの中には指示待ち族の人がいる。言われればやるが、言われないとやらない。言われて一応やってみせるが、どこか物足りない。A君も真面目に100回素振りをしているが、それだけである。指示された仕事はやるが、どうせだったらもっと効率的にやろうとか、効果的にやろうとか考えて欲しいと思うが、本人にその気はないようで、言われたことを言われた範囲内でやるのみである。

 もっとも、本人にしてみれば、言われたことはきちんとやっており、何が問題なのかと訝しむかもしれない。嫌な事(気乗りしない事)はさっさと終えてしまった方がいいというのは人の心理である。仕事だって生きていくためにはやらなければならないわけであるからやっているわけで、指示された事をきちんとやっているのだからそれ以上求められても困るという反論があるかもしれない。

 それはそれで、おかしくはない。仕事に何を求めるかは人それぞれの考え方である。野球はある程度好きだからチームに入っているが、そこそこ楽しめれば十分で、無理してレギュラーにならなくてもいいという考え方もある。A君の例だって、本人が満足していれば別に問題はない。ただ、レギュラーになったり、仕事で多くの給料をもらいたいと思えば、当然そんなスタンスではいけない。

 では、そうしたことに気がついていない場合はどうか。レギュラーにはなりたい。だからコーチの指導には忠実に従う。毎日素振りを100回きちんとやる。そういう場合は、きちんと認識させないといけない。「言われた事だけでは足りない」と。「自分で考えろ」と。そうして自分で考えられる人はいいが、そこで戸惑う人もいる。「自分なりに考えているし・・・」とか、「考えてもわからない」とか。

 かつて私もそうであった時期があった。突然、「今のままでいいのか」「おまえは何がやりたいんだ」と言われて戸惑ったのである。20代後半の時であった。そうは言われても仕事はきちんとやっているし、何がいけないのかわからなかったのである。たぶん、誰よりもそつなく素振りを100回こなして満足していたのだと思う。「仕事は仕事、やる事だけきちんとやっていればいい」という考え方であったと今では思う。

 それが変わり始めたのは、このままではレギュラーになれないという現実である。ならどうするか。諦めるか自分なりに足掻くか。もともと自分はレギュラーになれると思っていたから、諦めるという選択肢はない。そうして足掻き始めた次第である。それでもいきなり変化したわけではなく、熱心に指導していただいた方に内心反発していたりという時期もあったのは事実である。こうした「コーチ」の存在も重要であろうと思うのである。

 長年かけての気付きではあるが、こうした気付きをどこかで誰かに伝えたいと思う。いずれは子供たちにと考えているが、仕事やスポーツに限らず、勉強にも当てはまる。高校生になった息子にも形を変えて教えてみようかと思うのである・・・


Keith JohnstonによるPixabayからの画像 

【本日の読書】
  


2021年4月4日日曜日

論語雑感 公冶長第五(その17)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。

【原文】
子曰。臧文仲。居蔡山節藻梲。何如其知也。
【読み下し】
子(し)曰(いわ)く、臧(ぞう)文(ぶん)仲(ちゅう)、蔡(さい)を居(お)き、節(せつ)を山(やま)にし、梲(せつ)に藻(そう)す。何如(いかん)ぞ其(そ)れ知(ち)ならんや。
【訳】
先師がいわれた。―
「臧文仲は、諸侯でもないのに、国の吉凶を占う蔡をもっている。しかもそれを置く節には山の形をきざみ、梲には水草の模様を描いているが、それは天子の廟の装飾だ。世間では彼を知者だといっているが、こんな身のほど知らずが、なんで知者といえよう」
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 論語の中には、全体のイメージからはちょっと外れるように感じられる言葉が出てきたりする。今回の言葉もその典型。要は「分不相応」を責める内容であるが、「身の程をわきまえよ」という言葉は、孔子のイメージとはなんとなく合わない気がする。これは、『八佾第三(その1)』でも同じようなことが語られていたが、孔子は思いの外、「身の程」というものを大事にしたのかもしれない。

 人間は金や権威を手に入れると、それを誇示したくなるものなのだろう。ここに出てくる臧文仲という人物のことはよくわからないが、「諸侯でもない」というところを見ると商人なのか武人なのか何れにせよ新興勢力に当たる人なのだろう。要は「成金」であるが、力をつければ、もっともっととなる。金で買えるものは簡単に買えるので興味もやがて少なくなり、そうなると今度は名誉が欲しくなる。そこで蔡をもち天子の廟の装飾をしたのであろう。

 現在でも、スポーツやビジネスで成功した人が、選挙に出たりするようなものなのであろうか。そうした「勢い」に対して、人が反発するのは「秩序」を重んじる考えと「妬み」があるのではないかと思う。天子、すなわち皇帝の威光は他の者が簡単に犯すべからざるものであり、誰もが簡単に真似していたら、威光が地に落ちると感じるものである。したがってそうした「不届き者」を批判するのは、ある意味当然である。また、自分にはやりたくてもできないことであれば、妬みから批判するというのもあるだろう。

 「分不相応」というのは、私からすると、「どうでもいいじゃないか」と考える。仮に成金が蔡をもち天子の廟の装飾をしたとしても、それでその成金をすごいなと思えるかと言えばそうではない。所詮、形だけ真似てみても尊敬の念など湧くわけがない。それどころか、金に余せてそんな行為をするのはなんて軽薄なんだろうと思ってしまうだろう。金で尊敬は買えないのは当たり前である。

 また、妬みについては人それぞれだからなんとも言えないが、私個人に限って言えばそういう妬みは起こらないと思う。そもそも妬みというのは、自分の力の及ばないところに生ずるものだと思うが、それが金の場合は、もう悟りの境地に到達したようにも思う。外資系で羽振りのいい友人が高級車に乗っていてもなんとも思わないし(もともと高級車に興味がないというのもあるだろう)、(お金は)あればあった方がいいが、なければ自分でなんとかしようという方向に考えられるので、妬みの思考回路が働かない。

 金以外で言えば、かつて銀行員時代に人事評価を巡って不公平だと感じたことがしばしばあった。実力的には自分の方が上だと思っていたのに、自分より劣ると思われる同僚が評価された時などはなおさらであった。しかし、そういう評価というものは、実力だけで評価されるものではなく、人間関係構築力の巧拙があったりする。自分には決定的にできない部分であり、それはそれで適切な評価だったのだろうと(今では)思う。「悔しい」という気持ちに嘘はつけないが、それでも妬む気持ちにはならない。

 若い頃であればともかく、人もそれなりの年齢になってくれば妬みなどという感情が薄れてくるのではないかと思う(そうではない人も多いかもしれないが)。孔子が感じた怒りの正体はわからない。もしかしたら、何か天子(皇帝)に無礼に当たることがあって看過できなかったのかもしれない。そのあたりはこの文章だけではわからないが、人生に達観した感のある孔子のこと故、もしかしたら違う事情があったのかもしれない。

 何れにせよ、自分には関係のない人の行為にいちいち感情を乱されていたくはないと思う。人は人。自分は自分。これからもそんな他人のことに気持ちをかき乱されることなく生きていきたいと思うのである・・・



【今週の読書】