2021年2月28日日曜日

「知ってるワイフ」に見る結婚の理想と現実(その2)

 映画やドラマを観ていると、そこには現実によくある出来事が描かれていたりする。それが身につまされるものだったりすると、他人事とは思えず主人公に感情移入してしまったりする。韓国版ドラマの「知ってるワイフ」を観始めたが、そんな身につまされる思いに駆られることしばしばである。

 ある日、不思議な料金所を通過したジュヒョク。折しも地球に接近しているという天体のせいであろうか、気がつけば学生時代の自分に戻っている。未来を知っているジュヒョクは、妻となるウジンとの出会いを回避し、憧れのマドンナ・ヘウォンに接近する。気持ちを知っているだけに大胆に行動できる。そして目が覚めた時、現代のジュヒョクのベッドの横で寝ている妻はヘウォンになっている。狂喜乱舞するジュヒョク。

 もしも、現実に自分の身に起こったとしたら、これほどのことはない。もしも神様がいて同じ奇跡を起こしてくれるのなら、差し出せるものは何でも差し出したいと思う。おまけにヘウォンは美人なだけでなく、父親が大企業の社長であり、そのおかげで豪邸に暮らし、高級車を愛車としている。まさに劇的な変化である。ところが、次第に隠れた現実にジュヒョクは気がついていく。

 喜びに溢れてスタートしたジュヒョクの新しい生活は妻の実家が中心。その週末も妻の実家に行くことになっている。一方で、ジュヒョクには母親から「どうしているか」と電話がかかってくる。ジュヒョクの実家にはほとんど顔を出していないらしく、ジュヒョクが実家に行きたいとヘウォンに告げるも、ヘウォンはあまり良い顔をしない。嫁姑戦争こそ起こっていないが、嫁は姑を本能的に避けたがるものなのであろうか。

 決定的なのは、突然ジュヒョクの両親が上京してきたシーン。ジュヒョクは歓迎して家に泊めようとするが、ヘウォンは笑顔でホテルのスイートルームを予約する。豪邸だから寝る部屋は十分にあるはずだが、朝食の用意とかが大変だと考えたヘウォンは、ホテルのスイートルームを取ろうとする。確かにホテルのスイートルームの方がサービスは良い。しかし、当然ながらジュヒョクもジュヒョクの両親も求めているのはそんなものではない。

 男の目から見ると、ヘウォンの態度はひどいものにしか見えない。ヘウォンも自分の両親だったらホテルのスイートルームを取るようなことはしないだろう。結婚すれば相手の両親に対しては、自分の両親と同等に接するものだと私は思うが、ヘウォンは(私の妻もだが)そうは思わないらしい。結局、気兼ねした両親はジュヒョクの勧めを断って帰って行く。その後ろ姿とそれを見送るジュヒョクを観ていたら、涙が溢れる思いがした。

 実は、私も結婚して以来、両親を家に泊めたことはただの一度もない。同じ都内に住んでいるということもあるだろうが、それだけではない。私の妻もヘウォンと同様、露骨には態度に表さなくても私の両親に対しては距離を置きたがる。来るなら来るで準備が必要なので前もって予告しないといけないし(予告すれば露骨に機嫌が悪くなる)、ましてや「近くまで来たから」なんて突然やってきた日には後で何を言われるかわからない。決してヘウォンの態度がドラマ用にデフォルメされたものではないのである。

 もちろん、妻には妻の理屈があるだろう。男は女と違って、家の中が散らかっていても気にはならないが、女は(特に義理の両親に対しては)そうはいかないと感じるのだろう。ダメな嫁と思われるのを避けたいと思うのかもしれない。それはそれでわからなくもないが、その代わりに「冷たい嫁」と思われることはなんとも思わないようなのが不思議である。何にも増して「もてなす心」があれば、みんながハッピーになれると思うのにヘウォンも私の妻もそんな思いには至らないようである。

 「娘は嫁にやるもの」というのは過去の話。今や息子の家庭は妻を中心に動き、結婚して住むところも妻の実家の近くという例が少なくはない。さらに男はマメに実家に顔を出すなんてしないから、親からすれば「婿に取られたようなもの」となるだろう。孫が生まれても入り浸るのは妻の実家。夫の実家は蚊帳の外になる。我が家の嫁姑戦争は38度線状態。自分の結婚は失敗だったと断言できる所以である。

 理想の妻との結婚生活を手に入れたジュヒョク。しかし、あれほど歓喜した理想の結婚にこうした予想外の苦悩があるとは思いもしない。直面して初めて気づく現実である。そしてもう1つ気づくのは、ウジンとの間に生まれた我が子と会えないこと。当然ながら、歴史が変われば現実も変わる。ウジンとの間に生まれた子供はヘウォンとの生活には存在しない。結婚生活に失敗したと思っているが、では私がもし過去に戻って結婚をやり直せるとしたら本当にやり直すだろうかとなるとわからない。そんなチャンスが巡ってきたとしても、悩むとしたら唯一の点が今の子供たちと会えなくなることである。おいそれとは戻れない。

 ドラマは全16話中、第4話まで観たところであるが、ここまででいろいろと考えさせられてしまった。とても無邪気にドラマを楽しめないのは、そんなことを考えてしまうからである。これから先、ジュヒョクにはどんな運命が待っているのだろうか。どんな展開であろうと、ジュヒョクには幸せになってもらいたいと、我が身と重ね合わせながらつくづく思うのである・・・



【今週の読書】
  



2021年2月25日木曜日

「知ってるワイフ」に見る結婚の理想と現実(その1)

 ドラマで「知ってるワイフ」を放映中である。と言っても、普段ドラマを見ない私は、家族の「ドラマの輪」には入れず、日本版は観ていない。代わりに観ているのは、Netflixの韓国版である。これは主人公が過去に戻って人生をやり直すという誰もが抱く願望を描いたSFコメディードラマである。

 主人公は銀行員のジュヒョク。学生時代から付き合っていたウジンと結婚するが、甘い新婚生活は過去のもの。今や毎日ウジンにあたられ、好きなゲームも夜中にみんなが寝静まってからこっそりやるような日々を送っている。と言っても妻ウジンが悪妻というわけではなく、ウジンはウジンで、幼い子供の面倒を見ながらエステティシャンとして働き、家事をもこなしている。それは過酷な日常で、そのストレスのはけ口が家事にあまり役立たない夫ジュヒョクに向かっているのである。

 甘い恋愛を経て結婚をしたとしても、子供が生まれ、「恋人」から「家族」に変われば夫婦の関係も変わる。ちょっとしたことでキレたウジンがジュヒョクに当たり散らす様は、とても他人事には思えない。ジュヒョクにとって、家庭は安らぎの場ではなく、苦痛とストレスの巣窟になっている。一方、ウジンの気持ちもわからなくもない。同じように仕事をしながら、子育てと家事の負担は、ウジンだけにのしかかっているのである。

 何で夫が家事をやらないかと言えば、それは母親に愛情たっぷりに育てられるからである。母親は娘に対しては早くから料理をはじめとした家事を手伝わせて教え込むが、息子には甘くこれをさせない。よってできないまま大人になるから、結婚してもできるわけがない。掃除洗濯はそれでも何とかなるが、赤ん坊の面倒や料理はできるわけがない。私もオムツを替えたり風呂に入れたり、ミルクをあげたりと母乳をあげる以外のことはすべて(妻の指導のもと)やったが、料理だけは今だにできない。

 ドラマの前半ではウジンが(ジュヒョクから見れば)悪妻に描かれる。ジュヒョクは決してズボラな旦那ではなく、可能な限り妻に協力している。ただ、妻の要求レベルに満たないだけである。子供が熱を出して迎えに行かなければならない状況下、ウジンも大事な顧客を相手にしていて動けない。その頃ジュヒョクもトラブル対応で抜けられない。ウジンが必死に電話をするが、運転中のジュヒョクは電話が取れず、さらにはそれに気を取られて事故を起こしてしまう。

 私はたまたま妻が専業主婦を希望していたので、共働きの苦労は経験していない。私の頃は、女性は短大を出て寿退社が目当ての腰掛けOLが全盛だった時代である。今は女性も高学歴で、仕事を続けるのが当たり前、夫婦別姓とまでいかなくても女性は旧姓で仕事を継続できる。家事も当然分担するのが当たり前であり、「できない」などとは言っていられない。今や、男も結婚前に「花婿修行」が必要かもしれない。それはそれで面白かったかもしれないと個人的には思うが、踏ん反り返っていられない男は大変である。

 しかしながら、男と女には決定的な差がある。それは「感度」と言えるかもしれない。男は一週間や二週間、掃除などしなくても平気であるが、女はそうはいかない。私も食器洗いなど料理以外の家事をすることもあるが、ダメ出しされることしばしばである。出かけて帰ってきて食器洗いをするのも大変だろうと気をきかせてやっておくと、「洗い残しがある」とか「しまうところが違う」とかダメ出しされる。すると「もうやるもんか」と思ってしまう。余計なことをして怒られれば余計なことはしなくなる。私も家庭では言われないことはやらない「指示待ち族」である。

 仕事をしている上で、指示待ち族ほど神経を逆なでられるものはない。「言われなくてもやれよ」といつも心の中で嘆いている。きっと妻も私に対してそう思っているのかもしれないが、良かれと思って下手に手を出すと怒られるのでは割に合わない。指示待ち族を生み出しているのは妻である。なので逆に職場ではどうだろうかと胸に手を当ててみるが、幸い職場の指示待ち族は、私のせいではなくその人の長年の習慣である。

 「知ってるワイフ」の2人の関係を改善するには、夫も仕事と同様に家事と子育てに身を入れることが必要で、かつ(ドラマでは描かれていないが)妻も夫のブサイクな家事に文句を言わないことが肝要である。やり方なら優しく指導すれば良い。少なくとも新婚時代にはなんでも許していたはずである。自分目線での仕上がりを要求せず、やったことに対して(その気持ちに)感謝すれば、男は単純に喜んでもっともっととやるようになるだろう。

 そして男の子が生まれたら、母となった妻は息子をネコっかわいがりするのではなく、娘にするのと同様、家事をさせるのである。娘に対しては将来困らないようにと心を鬼にするのだから、同じように息子にもするのである。それが将来の息子の幸せに繋がるのだから。今の世は、「かわいい(息)子には(旅ではなく)家事をさせろ」なのである。妻には直接言えないが、息子には「家事(特に料理)をやれ」としっかり伝えたいと思う。

 ドラマはそんな理想とはかけ離れ、現実にどこにでもあるように進んでいく。ある日、ジュンヒョクは、学生時代にみんなの憧れだったマドンナ・へウォンに再会し、実はヘウォンがジュンヒョクに気があったと知らされる。これほど、絶望的に過去の自分の行動を後悔する瞬間はないだろうと実感を持って感じる。そしてそんなジュヒョクに不思議な現象が起こるのである・・・




【本日の読書】
  



2021年2月21日日曜日

過渡期の世代

 先日あるお客さんと雑談をしている時、「我々は電話の過渡期世代だ」ということで意見が一致した。それは使ってきた電話機の変遷史でもある。もういつの頃だったか覚えていないが、最初に記憶のあるアパートにはもちろん電話などなかった。4歳になって引っ越しし、しばらく経って黒電話が入ったのを覚えている。2階に伯父夫妻が住んでおり、その黒電話は共用であった。ダイヤルを回す方式のその黒電話はかなり使っていたと思うが、その次はプッシュボタンの電話であった。

 高校生になってまた引越しをした。今度は自宅兼工場。親父は個人で印刷業を営んでいたが、その工場にプッシュボタンの電話が導入された。ダイヤルが戻るのを待って次の番号を回すことがないからとにかく早いのに感激した。家庭用よりも仕事用の方が進化が早いのは、「仕事」という大義名分があるからかもしれない。家庭用は贅沢、我慢という雰囲気がどうしてもある。仕事用だからファックス付きになるのも早かった。

 街の電話は赤い色の公衆電話。10円玉が必須であったし、その10円玉がガチャリと落ちる音がするので、急かされる気分を味わわされた。それがダイヤル式の緑色になり、100円玉が使えるようになった。お釣りが出てきたかどうかはあまり記憶にない。それが間もなくテレフォンカードになったのも画期的だと感じたのを覚えている。テレフォンカードも趣味で集める人がいたが、私は実用一点張りであった。

 もっとも考えてみればそれほど電話をしただろうかとも思う。公衆電話などは純粋連絡用であったし、家庭の電話は男だったからだろうか、こちらも連絡用ぐらいでおしゃべりなんかしなかったと思う。それに長電話をすれば「電話代がもったいない」と言って怒られたものである。長距離電話も然りである。長電話をするようになったのは女の子と付き合うようになってからであった。

 社会人になってからは寮生活。電話は共用の公衆電話。数が少ないので寮生間で争奪戦。長電話していると周りからのプレッシャーが痛かった。かかってくれば館内放送で呼び出された。自室に電話を敷いても良いと許可が出たのは社会人になって5、6年経ってからだったと思う。確か7万円くらいの保証金を取られたと思うが、そのお金は、会計的には資産計上するので使わなくなれば返してもらえるような気がするが、今はどういう仕組みになっているのだろう。固定電話も子機が登場してコードレスの時代に入る。

 職場の銀行でも支店長車に電話がつくようになった。車に乗りながら電話ができるというのもすごいなぁと思ったものである。まだ支店長までの道のりは長く、早く使える身分になりたいものだと思ったものである。そして間もなく個人でも念願の携帯電話を手に入れた。携帯電話が登場した時は、これからは携帯の時代だと思ったし、早く使ってみたいと思ったが、結婚するとなかなかそうもいかない。結局、何事にも保守的な妻を説得したのは、「仕事で使う」という大義名分だった。1998年くらいだったと思う。

 携帯電話ももっと早く普及していれば、女性の家に電話をするときにあれほどドキドキする必要もなかったのにと思う(相手が持っていれば、だが)。今は食事中かもしれないからもう少し後にしようと思い、後になればこんな時間に電話をかけたら悪いかもしれないと思い直して電話ができない。いよいよ意を決して「家族(特に父親)が出たらどうしよう」と心配しながらダイヤルし、心臓の音をBGMにコール音を数え、早く出てくれと願う一方、出なくてもいいと思う。今となっては懐かしい経験である。

 携帯電話はスマホにするまで5台使った。携帯電話の良さは電話機能だけでなくショートメッセージも送れるところだった。今からすると短い文しか送れなかったが、それでもメールを送れるというのは、コミュニケーションという意味では画期的だ。携帯電話も最初はドコモだったが、J-PHONEに切り替えた。ちょうど写メールが流行り始めた頃で、写真が送れるというのも、これはすごいと思ったのを覚えている。やがてそれがボーダフォンになり買収を経て今のソフトバンクに至っている。

 子供たちはと言えば、ある程度の年齢になったらキッズフォンを持たせた。連絡用でもあるが、どちらかと言えば安全面の意味合いが強かったが、次はもうスマホである。固定電話もあるがほとんど使っていない。もちろん、これからもスマホは進化していくだろう。そういう意味では、「過渡期」と言っても終わりのない過渡期と言えるかもしれない。果たして10年後にはどんなデバイスを使用しているのだろうかと思う。

 雑談は、電話の古き良き時代を知るのは我々が最後の世代かもしれないという感想で終わった。モノには歴史があるものだし、まだその歴史は続いているし、電話の変遷の生き字引世代として、孫には面白い昔話をしてやれると思うのである・・・



【今週の読書】
 



2021年2月18日木曜日

ガラケーを使う人

 毎日の通勤電車。私はほとんど本を読んで過ごしているが、今は多くの人がスマホを見ている。チラホラと目につく限りでは、FacebookやLINE、ニュース系、ゲーム等内容は様々である。今やスマホには本当に多くの機能が入っているので、スマホを眺めている人を見ても何をしているのかは本当にわからない。つくづく、便利で凄い製品だと実感する。そんな人たちに交じって、いまだにガラケーを使用している人もいる。その多くは(と言ってもあまり見かけないが)高齢者である。

 一般的に高齢者は新しいものを嫌う。一昔前は、銀行のATMはわからないと言って頑なに窓口を利用していたお年寄りがいた。さすがにATM普及後の世代が高齢化するにつれ、そういうお年寄りは少なくなっているのかもしれないが、スマホに抵抗感を示すのは同じ理屈だろうと思う。ただ、80を超えたお年寄りでもスマホを抵抗なく利用している人もいる。私の実家の両親もスマホを利用しているが、積極的に切り替えた父と壊れてやむなく切り替えた母との使い方にその違いが現れている。

 父親はスムーズに使いこなしている。利用しているアプリの数はそれほど多くないが、それでも気になったものは私に使い方を聞いて覚えていっている。ところが母はいまだにメールと電話しか使えていない。写真やLINEなども教えるが、教えたそばから忘れていく。したがって毎回使い方を教えないといけない。両親は同じ年だが、その差はどこから出てくるのだろうかと言えば、それは「好奇心」だろう。「知りたい」「覚えたい」と思う気持ちである。

 ちょっと前までは、私の知り合いにも頑なにガラケーを使い続けている人がいた。私と同年代でも、である(それをFacebookで主張していたり・・・)。ガラケーが悪いとは思わないし、バカにするつもりもない。ただ、1つだけ言えるのは、そうしてガラケーを使い続けている人には、決定的に「好奇心」が欠けていると思う。世の中に普及しているスマホに対して、「使ってみよう」という好奇心がないということである。この好奇心の欠如に関しては、ビジネスマンとしてはいかがなものかと思わざるを得ない。

 ビジネスマンとしては、世の中の動きはすなわち顧客の動きであり、自分がどうこうではなく、お客さんはどう動いているかである。私のような不動産業界でいけば、お客さんはスマホで物件を検索しているわけであり、であればお客さんがから見てどのように見えるかは自分で使ってみないとわからない。そうした直接的なものだけではなく、ちょっとした世の中の変化に気づくのは、「あれ?これはなんだろう?」という好奇心である。ビジネスでは、「鈍感は罪」である。

 私はと言えば、好奇心は強い方だと思う。初めてパソコンを購入して使い始めた時は20代後半の1990年代前半の頃だったが、叔父に「パソコンで何をするんだ?」と半分バカにされたように問われたことがある。その時は何をするかというより、「何ができるんだろう」と考えて買ったのである(東芝のDynabook、まだMS-DOSの時代である)。その叔父はその後パソコンを得意気に使い回し、スマホも使っている。父はパソコンもスマホも私が勧めると素直に手を出したから、やはり好奇心は強い方なのだと思う。「やってみよう」というチャレンジ・スピリットもある。

 ガラケーにこだわり、「スマホなんて必要ない」と言っている人は、この好奇心とチャレンジ・スピリットの乏しい人だろうと思う。「ガラケーだからダメ」ではなく、「好奇心(とチャレンジ・スピリット)がないからダメ」なのである。もちろん、人それぞれだからダメと言ってしまうのも問題だとは思うが、その人を判断するにあたり1つの参考にはなるだろう。少なくとも我が社に採用面接でやってきた場合、ガラケーしか使っていなかったらまず一緒に仕事をするのは無理だろう。

 好奇心は、人間(の進歩)にとっては必要不可欠なものであると思う。好奇心から人間は知識を広めてきたのだし、今日の繁栄を築いたわけである。それは人類ベースだけの話ではなく、個人ベースの話でもある。それがないということは、個人としても進歩が期待できないということになる。世の中がどのように動いていようとも、昨日と同じ今日を過ごすことに抵抗がなく、明日も明後日も同じ一日を過ごすことに安堵する精神は、老人のものである。

 サミュエル・ウルマンは、「青春とは人生の或る期間を言うのではなく心の様相を言う」という詩を残した。その詩にあるが如く、精神の老化は年齢とは関係ない。若くとも精神の老人である人は実際いる。その重要なポイントは何かと言えば、好奇心だろうと私は思う。「なんだろう?」「どうなっているのだろう?」「どうやってやるのだろう?」そういう好奇心から、人間は進歩・成長していくものであると思う。

 とは言え、スマホを持っていればいいというものでもないのは確かである。スマホで何をやっているのかとよく見ればゲームばかりしている、あるいはマンガばかり読んでいたりテレビドラマを見てばかりというのもいかがなものかと思う。使っているだけマシではあるが、メールがLINEになっただけというように、単に「携帯の延長」だったら同じかもしれない。普及が進めば好奇心というよりも自然の流れという意味合いが強くなる。ただ、それでも抵抗する人は好奇心という点からいけば周回遅れと言える。

 自分もこれから60代、70代と確実に歳をとっていく。それでもなお今の好奇心は失わないでいたいと思う。何ができるかわからなかったにも関わらず、ボーナスをはたいてDynabookを買ったあの時の気持ちをずっと持ち続けていたいと思うのである・・・



【本日の読書】
 



2021年2月14日日曜日

論語雑感 公冶長第五(その14)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。

【原文】
子貢問曰。孔文子何以謂之文也。子曰。敏而好學。不恥下問。是以謂之文也。
【読み下し】
子(し)貢(こう)問(と)いて曰(いわ)く、孔(こう)文(ぶん)子(し)は何(なに)を以(もっ)て之(これ)を文(ぶん)と謂(い)うや。子(し)曰(いわ)く、敏(びん)にして学(がく)を好(この)み、下(か)問(もん)を恥(は)じず。是(ここ)を以(もっ)て之(これ)を文(ぶん)と謂(い)うなり。
【訳】
子貢がたずねた。「孔文子はどうして文というりっぱなおくり名をされたのでありましょうか」先師がこたえられた。「天性明敏なうえに学問を好み、目下のものに教えを乞うのを恥としなかった。そういう人だったから文というおくり名をされたのだ」
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 「文」というおくり名がどれほど立派なのかはわからないが、おくり名が送られるということは、それだけ学問に秀でていたということ、しかもそのレベルが突出していたということなのだろうと思う。どうすればそれだけのレベルに達せられるのだろうか。元々の才能などと言ってしまえば我々凡人には真似しようがない。ただ凡人でもある程度できるとしたら、そのヒントは「好きこそものの上手なれ」かもしれない。

 「好きこそものの上手なれ」とはよく言ったもので、何事につけ上達が早いのは「好きでやっている」ことに他ならない。したがって勉強ができるようになりたいと思うのであれば、好きになることが一番である。好きなことだから何時間も没頭していられる。好きなことについては、常にアンテナが敏感だから何事につけ目についたもののうちそれに関連したものは素早くキャッチできる。普通の人が見逃すものの中にヒントを見いだせるのである。

 私などは一応難関国立大学を卒業しているので、勉強はできた方だと言えるが、勉強が好きだったのは確かである。国語は本を読むのが好きだし、今でもブログをせっせと書いているように書くのも嫌いではない。数学と物理は今でも好きで、関連する本はよく読んでいるし(直近でも『時間は存在しない』を読んだ)、娘が高校を卒業する時、使っていた数学と物理の教科書を譲り受けて今でも暇を見て開いている(なぜか新品同様に真新しい教科書に複雑な思いを抱きながらではあるが・・・)。

 英語はただ映画を字幕なしで観られるようになりたいという一心があったし(今でもある)、歴史はもともと大好きである。それらは「学校でやらなければならない勉強だから」というより、「知りたい、やりたい」という知的好奇心からやっていたものである。もちろん、「知らないものを知りたい」という気持ちもあり、生物や地学や倫理社会といった科目がそれに該当したが、中には化学のように好きになれずに苦痛だったものもある(高校時代、唯一赤点をとった教科である)。まさに「好きこそものの上手なれ」だったと思う。

 そういう好きなものだと、知らない情報に接すると、「詳しく知りたい」という欲望が出て来る。知っている人には「教えてくれ」と言いたくなる。そういう時には相手が誰であろうと素直に「教えて」と言える。もちろん、それが偉い先生などであれば躊躇はしないが、目下の者の場合、人は聞くのにためらうところがあるのだろう。そこを超えられる者こそより多くの知識を得られるし、それによって、あるいはそういう姿勢によって人の尊敬というものを得られるのだと思う。

 我が身を振り返ってみると、「誰にでも聞ける」ことはできていると思う。最初からというよりも、社会人生活の中で身についた姿勢とも言える。今でも仕事であれなんであれ、素直に教えを請うことができている。近年ではラグビーのプレーについて、よく大学生に教えてもらったりしているし、娘や息子に教えてもらうことも多い。仕事でも部下の意見を積極的に聞くようにしている。自分がわからなかったり迷うような時は特に、である。

 聞かれる方の立場に立って見た時、目上の者が聞いてきたのを見て軽蔑するかというとそんなことはない。自分もシニアのラグビーでは年上の人に聞かれることも多い。ラグビーの世界は日進月歩。常に変化しているから古くからやっている人の方が有利ということはない。したがって、「今のラグビー」を学ばないといけない。そんな時、「これどうやるの?」と聞いてくる先輩に対して、「そんなことも知らないのか」とは思わない。逆に積極的に聞こうとするスタンスを素晴らしいと思う。それに人間は本来教え好きだ。教えるのは気持ちがいい。となれば目下の者でもむしろ聞くことで尊敬を得られるかもしれない。

 目上とか目下ではなく、大事なのはその内容。これは私の過去の経験にからも強くそう思う。かつて銀行員時代、私は積極的に意見具申する方だったが、その意見は当然採り上げられないことも多い。それ自体どうとも思わないが、たとえばそれを聞いた課長が私の意見は却下したのに同じことを部長が言うとすぐ動くということがよくあった。サラリーマンであれば上司の指示に従うのは当然であるが、そういう「節操のなさ」には辟易させられたものである。その都度、自分はそんな上司にならないようにしようと意識させられたものである。

 部下の意見でもその通りだと思えば採用し、部長の意見であっても違うと思えばそれをはっきり伝える。それこそかっこいい姿ではないかと思う。仮に部下の意見を却下した後、同じ意見を部長に言われても部下に対するのと同様に反論し、それでも部長に「やれ」と指示されればそれをやるのは仕方ない。部下もそれを見ていれば、少なくとも私に一貫性は見て取れるし、筋は通せるだろう。意見の違いは仕方ないとしても、姿勢は違えてはいけないと思うのである。

 それにしても銀行員時代は、そういう上司に対する不満はあったが、いい勉強になったとつくづく思う。もしも自分が部下につまらない人間に思われていないとしたら、それはかつての反面教師たる上司のおかげだと思う。目下からも学べるし、経験からも学べるというところかもしれない。将来、私が「文」というおくり名を送られることはないだろうが、せめて「悪い見本」にはならないように、これからも背筋だけはまっすぐに伸ばしていきたいと思うのである・・・


Gerd AltmannによるPixabayからの画像 

【今週の読書】

 



2021年2月11日木曜日

抑止力

 近年、子供に対する虐待がニュースになることが多い。私など自分の子供が可愛くて仕方なかったので、虐待などする親の気が知れない。それは自分の血を分けた子供だからというわけではなく、たとえ自分の血が繋がっていなくても、だ。自分の子供に手を上げたのは、娘に一回、息子に数回。それも教育的な観点から、自分は冷静な状況で利き腕ではなく左手で引っ叩いており、感情的なものではない。

 奥さんに対するDVも同様で、私は結婚以来妻に手を上げたことなどないし(逆に引っ叩かれたことは2度もある)、それは別に威張ることでもないのだが、そういう感覚からすると家庭内DVなどを起こす男は知能レベルが低いとつくづく思う。そもそもそういう男は、相手が弱いからこそ暴力を振るうというずるいところがある。「勝てる」と思うから暴力に訴えるわけである。当然、勝てない相手には暴力など振るわない。

 熱力学の第二法則(熱は高い方から低い方へ移動する)と同様、暴力にも「暴力の法則」とも言うべき「強い方から弱い方へ向けられる」という力学がある。決してその逆はない。立派なことを言う私も、相手が男で、喧嘩をしても勝てるとわかればけんかになるのを厭わず対峙するのにためらうことはないが、勝てないと判断すればそんなことはしない。それは「喧嘩はよくないこと」といったきれいごとが理由ではなく、ただ単に「負けるから」である。

 この「負けるから」という理由は重要である。「負ける」あるいは「こちらも相応の被害を受ける」と思うから力の行使を思いとどまるわけである。別の言葉で言えば「抑止力」である。これは国際政治でも生きている力学である。第三次世界大戦が(今のところ)起こらないのも、かつての米ソを始め核大国が核兵器を充実させ、結果として発射ボタンを押すのを躊躇わせてきたからである。それは今も、多分これからも生き続ける力であろう。

 米ソに続いて中国やインド、パキスタン、イスラエルなどの国が核保有してきたのは、自国を防衛しようという意図だが、核の抑止力はかなり効果があるわけで、「持つだけ」で相手が手を出してこないわけで、それは下手な軍備よりもずっと効率的なわけである。パキスタンのような最貧国やイスラエルのような小国が核兵器を持ったのも、通常の軍備を揃えるにしては数に勝る相手(インドとアラブ諸国)に対して効率的だからだろう。

 翻って我が国はと言えば、日米安保があってそれが中国などの国に対する抑止力になっている。近年、中国の台頭とアメリカの衰えもあって抑止力が抑止力足り得るかという問題が出てきている。中には「日本も核武装すべき」という意見があるのは、この「抑止力として」である。核兵器はもはや「使う兵器」ではなく「脅す兵器」であり、そういう意味では「日本の核武装」も真面目に考える選択肢になると言える。

 日本の核武装などと言えば血相を変えて反対する人がいるだろうが、その人はこの「抑止力」の考え方が理解できていない人だと言える。とは言え、私も積極的に核武装すべきだというわけではない。持てば管理も大変だろうし、持たないに越したことはないと思うが、では無策でいいかと言うとそれも問題だと思う。日米安保はアメリカの理不尽なわがままに耐えなければならないという問題もある。それに変わる抑止力がないと黙って耐えるしかない。

 それに変わる抑止力は何かと言えば、それはやはり経済力しかないと思う。尖閣諸島に手を出したら経済交流をシャットダウンさせて中国に経済的なダメージを与えられるというのがベストであるが、これも相互依存関係を考慮すると今のコロナ対策どころではない国内手当が必要になるだろうし、現実的ではなさそうである。それに中国の経済力がもっと向上したらそれも意味がなくなるかも知れない。

 一国だけで強い相手に対抗するのはやはり難しいだろう。もっと一枚岩の強力な国際協力が必要だが、それを目指して設立された国連も抑止力という点では弱いし、やはり核兵器のような抑止力が効果的なのかもしれない。世界的に戦争が起こりにくくなっているのは、今のところ人類の理性の力というより、核を中心とした抑止力の力であろう。願わくばもっと人類の叡智が高まり、理性で制御できるようになればというところである。

 それに対し、家庭内では今のところDVを抑えるのは男の理性のみであろう。それしかないのかと思うも、本来それで十分でないといけない。「近所に通報されるから控える」なんて抑止力が働くようであれば(それでも働けばまだマシなのだが)、「情けない」という感情を持たないといけない。かつてあった武士道のようなモラルが世の男全員に行き渡ればいいのかも知れない。あるいは女性がもっと力をつけて力の抑止力を持つべきなのだろうか。それもいかがなものかというところである。

 やはり抑止力に頼らざるを得ない平和よりも理性に頼る平和が理想的なのは、家庭内も世界も同じであると思うのである・・・


2allmankindによるPixabayからの画像 

【今週の読書】

2021年2月7日日曜日

コロナ雑感2021

 東京都に再び緊急事態宣言が出されて1ヶ月。自分自身の生活を振り返ってみて何か変わったかと言うとそれほどでもない。平日は会社と家との往復で、たまに買い物をするくらいで寄り道もしない。あえて言えば、月に一度あるかないかくらいに減っていた外食は完全にやめているのと週末のシニアラグビーの練習をやめたことくらいである。もともとかなり自粛を意識していた生活を送っていたので、もう「乾いた雑巾」状態だったこともある。

 それでもちょっとしたストレスを感じているのは、やはり飲みに行ったり走って体を動かしたりするのは「体に良い」ということなのだろうと思う。改めて何事も制限なくできる平穏な日々が一番だと実感する次第である。シニアのラグビーの練習は、実はチームとしては行われているが、私が個人的に「自粛」しているのである。それは感染リスクを恐れてというより(実際、戸外のグラウンドでの練習はそれほど感染リスクは高くないと思う)、気持ちの問題である。

 ラグビーの練習が、自粛を求められている「不要不急」の外出に当たるかどうかと考えてみると、それはもう考えるまでもない。参加している人は、「そんなの関係ない、自分は感染対策をとっているので大丈夫」と思っているのだろうと思うが、私は不要不急の外出を求められている以上はそれに従いたいと考える。政治家が自ら禁を破っているのだとかを理由にして外出している人もいるようだが、人がどう思おうと自分はそう考えるということである。

 考えてみれば、昔から私にはそういうところがあったように思う。小学校の時の掃除当番もきちんとやっていた記憶がある。男の子は大概サボってしまうものだったが、私はサボらずにやっていた(もうほとんど忘れてしまったが、なんとなくサボらなかった時のことを覚えているのである)。また、中学一年の時、国語の最後の授業で出された宿題もきちんと提出した。最後の授業だから出さなくても怒られる機会はもうないので、やはり出さない奴がかなりいたが、私はあえてきちんと提出したのである(先生から丁寧なコメント付きで返ってきた)。

 自分でも別に練習に行ったところでどうということはないとは思うし、むしろ他人が聞いたら変だと思われるかもしれないとは思う。ただ、これは個人の心地の良い考え方なので仕方がない。他人がどうしようと自分は自分の心地良い行動を取るだけである。ただ、だからと言って自粛警察になるつもりはなく、むしろそういうものには嫌悪感を覚えるくらいである。人は人でいいじゃないかと思うし、正義感ぶって自粛を強制するのは、それこそ「なんの権限があって」と疑問に思う。たとえば街中でマスクをしていない人がいたからといって、わざわざ注意しに行くのはお門違いである。

 そんな中、日本オリンピック委員会(JOC)の森会長の発言が物議を醸し出している。なんでも女性理事を40%以上にするという目標に関して質問を受けた際に、「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる。(中略)女性の理事を増やしていく場合は、発言時間をある程度、規制をしないとなかなか終わらないので困る」と発言したという。炎上するのも当然の内容だとは思うが、森会長自身は本音がポロリと出てしまったのであろう。問題だとは思うが、それは「事実誤認」という意味である。会議で時間がかかるのは別の要因であることが圧倒的だと思う。

 我が家の所属する町内会では7年に一度「班長」が回ってくる。班長になると町内会の月に一度の会合に出席しないといけない。初めて班長になった時には、その会合の長さに辟易したのを覚えている。夜、集まっての会議だが、A4一枚の紙に書かれている活動内容を理事のおじいさんが説明していく。読めば5分もかからない内容であるが、そのおじいさんはあちこちと脱線しながら長々と話をする。なのでいつも会合は1時間はかかっていた。要は「余計な話」が多いのである。ちなみに2回目の班長になった時、この役はもっと若い人に変わり、会議は30分もかからずに終わるようになったのでホッとしたものである。

 女性は一般的に男から比べると圧倒的におしゃべりなのは間違いない。ただ、会議となるとどうだろうかと思う。会社の会議でも長くなるのは、「余計な話」である。議案から「そう言えば」で始まる脱線や本筋とは外れたところの議論、昔話の類である。その犯人はと言えば、女性ではなく「おじさん」だ。女性は「おしゃべり」は得意でも「議論」は苦手ではないかと思っている(とまともに言えば炎上するだろう)。JOCの理事会がどれほど効率的に議論されているのかわからないが、女性を増やさなくてもたぶん森会長をはじめとしてお年寄りが多そうだからかなり非効率なような気がする。昔話のオンパレードではないだろうか。

 逆に女性はおしゃべりではあるものの、論理的な話は苦手な傾向が高いと思う。これは専門家も指摘(『妻のトリセツ』ほか)している通りである。つまり、とりとめもなくペチャクチャ喋るのは得意でも、問題に対しアレコレと解決策を筋道立てて説明したり議論するのは苦手だろうということである。だから会議などはむしろ女性の参加比率を上げた方がスムーズに早く終わると私は思う。森会長が本音をポロリと漏らしたとしても、根本的な認識が間違っているし、そもそもたぶん自分の「昔話」は棚に上げているのだろう。私は会議に年配の重鎮がいるほどやり難いものはないと思う。

 およそ会議においては、よほど議長などがしっかりコントロールしないとどんどん本筋から外れていくものである。時間配分を頭に入れ、議論の内容をチェックし、本筋から外れたら元に戻す。停滞すれば発言を促し、結論が出るように持っていく。この役目の人がしっかりしていないと、特に高齢化の進んだ会議では危険である。女性を擁護するつもりはないが、会議でのおしゃべりの犯人はおじさんであるというのが私の意見である。女性のおしゃべりが危険なのは、むしろ仕事中の職場内の方だろうと思う(女性比率が高い場合は特に危険であろう)。

 自粛で家に居ると、いろいろとくだらないことを考える。しかし、ステイホームは世のため人のため。世の中をいろいろと眺めながら、週末はステイホームで社会貢献をしたいと思うのである・・・


Christine SponchiaによるPixabayからの画像 

【今週の読書】
 




2021年2月4日木曜日

梨泰院クラス

 Netflixで配信されている『梨泰院クラス』がなかなか面白い。昨年のコロナ禍での自粛を受けて人気が出たということをなんとなく知っていたのであるが、「韓流ドラマ」に抵抗があって見送ってきていたのである。しかしながら、あまりにもオススメされるので、「人の勧めるものは素直に試す」という信念に基づいて観始めた次第。ところがこれが面白い。「韓流ドラマ」に対するイメージを変えないといけないと思うくらいである。

 ストーリーは、正義感が強く、曲がったことが許せない主人公のパク・セロイの復讐物語。始まりは高校時代。転校したその日にいじめを目撃し、いじめていた男を殴るのだが、殴った相手が悪かった。飲食業界のトップの大企業「長家(チャンガ)」会長の息子で、校長も教師も逆らうことができない。会長はセロイに土下座をすれば穏便に事を済ませると提案するが、セロイは拒否し退学になってしまう。さらに長家で働いていた父も辞職を余儀なくされ、さらにその後ある事件が起こり、父は亡くなりセロイは会長とその息子に復讐を誓うことになる。

 セロイは飲食業界でのし上がる計画を立て、刑務所から出所後、過酷な肉体労働で金を溜め、どうやら韓国の六本木とも言える繁華街「梨泰院」で自分の店「タンバム」を出店する。復讐に燃えると言ってもドラマを通じて流れる空気は復讐という感じがしない。「タンバム」も苦戦するが、それを支える仲間たちとの交流に心が温まる。セロイを慕い、「タンバム」を人気店に押し上げるマネージャーのイソは、徹底した合理主義。長家の会長と相通じるものがあるが、この合理主義とセロイの考え方は対極的。

 イソはタンバム苦戦の原因はまずい料理だとし、料理担当を辞めさせろとセロイに迫る。全スタッフとの話し合いの中、セロイは料理担当のヒョニに給料を2ヶ月分渡す。てっきり手切れ金かと思いきや、「この店が好きなら2倍努力しろ、お前ならできる」と告げる。セロイの行動は、何より仲間重視。利益の前に仲間を大事にする。長家の妨害で人通りの寂しい通りに移転を余儀なくされるが、近隣の店のテコ入れを手伝い、通り全体に客を呼び込もうと考える。

 また、刑務所に収監されている時から憎き会長の自伝を読み、その優れたるところは素直に学び取ろうとする。また、長家の腹違いの次男もスタッフとして店に受け入れる。トランスジェンダーがいると店のイメージに良くないという意見も気にしない。とにかく年齢、性別、国籍にかかわらず広く公平に接する。韓国人がみんなセロイのようであったら、日韓関係もぐっと良くなるだろうと思ってしまう。日頃、「経済合理性」という足枷を課せられているビジネスマンが観たら、こんなふうに働きたいと思わされるシーンが溢れている。

 セロイにはオ・スアというヒロインがいる。家庭の経済的な事情から長家の世話になり、やがて長家でその手腕を発揮していくが、セロイは仇の会社で働くスアに思いを寄せつつも、その立場を理解し自分と敵対する行動でも受け入れる。こうしたドラマのヨコ糸も巧みだと思う。憎き会長も屋台1つから身を起こした立身出世の人物であり、「バカ息子」に対する対応を間違えなければ、復讐劇の敵役にならずに済んでいただろう。自分だったらどうするだろうかと考えて観ていると、また別の楽しさがある。

 ビジネスには経済合理性が必要であるが、人間関係に冷たい経済合理性は持ち込みたくない。温かい人間関係の中で理想的に商売ができればそれが一番であるが、それでは利益が上げられないのがビジネスの世界。プロ野球でもドラフトで獲得した選手を育ててチームを組めればいいが、現実的には多額の報酬を払って助っ人やFAで選手を補強する。現実には料理の腕が上がるまで待てずに料理人を他からスカウトしてくるだろう。何より利益を上げることが優先であり、その上での和気藹々だろう。

 さらに力関係がこれに加わる。第1話でも、頭を下げれば穏便に済むものを自らの信念を貫いたことでセロイは退学となり、父も職を失う。現実的には我々は唇を噛み締めながら渋々頭を下げる方を選ぶものであり、心の中の声は黙殺するだろう。あえて信念を曲げずに、辞表を出すという行為は普通は難しい。セロイの父も父一人息子一人の家族だったからできたことで、幼子を抱えていたら果たして同じ行動を取れたであろうか。実際、それで事件担当の刑事は真実を闇に葬っている。

 所詮、ドラマの世界の話で現実にはありえないと言ってしまえばその通りであるが、しかし、観ていて心惹かれるのは、やはり自分もセロイのように行動したいと思うからかもしれない。経済合理性なんかに縛られて、仕方がないんだと自らを慰めるような行動はとりたくはない。そう思うと、現実の世界でもどこまで理想に近い行動が取れるだろうかと考えてみたいと思うのである。

 ドラマは全16話で、現在10話まで見終わったところ。本筋の復讐劇でも激しい攻防戦は観ていて手に汗握る感じがする。何より、復讐を成し遂げる過程は蜜の味。いろいろな角度から楽しめるところがあり、だからこそ人気も出たのであろう。この後、後半戦。どんな展開になるのか。楽しみながら鑑賞したいと思うのである・・・



【今週の読書】