先日あるお客さんと雑談をしている時、「我々は電話の過渡期世代だ」ということで意見が一致した。それは使ってきた電話機の変遷史でもある。もういつの頃だったか覚えていないが、最初に記憶のあるアパートにはもちろん電話などなかった。4歳になって引っ越しし、しばらく経って黒電話が入ったのを覚えている。2階に伯父夫妻が住んでおり、その黒電話は共用であった。ダイヤルを回す方式のその黒電話はかなり使っていたと思うが、その次はプッシュボタンの電話であった。
高校生になってまた引越しをした。今度は自宅兼工場。親父は個人で印刷業を営んでいたが、その工場にプッシュボタンの電話が導入された。ダイヤルが戻るのを待って次の番号を回すことがないからとにかく早いのに感激した。家庭用よりも仕事用の方が進化が早いのは、「仕事」という大義名分があるからかもしれない。家庭用は贅沢、我慢という雰囲気がどうしてもある。仕事用だからファックス付きになるのも早かった。
街の電話は赤い色の公衆電話。10円玉が必須であったし、その10円玉がガチャリと落ちる音がするので、急かされる気分を味わわされた。それがダイヤル式の緑色になり、100円玉が使えるようになった。お釣りが出てきたかどうかはあまり記憶にない。それが間もなくテレフォンカードになったのも画期的だと感じたのを覚えている。テレフォンカードも趣味で集める人がいたが、私は実用一点張りであった。
もっとも考えてみればそれほど電話をしただろうかとも思う。公衆電話などは純粋連絡用であったし、家庭の電話は男だったからだろうか、こちらも連絡用ぐらいでおしゃべりなんかしなかったと思う。それに長電話をすれば「電話代がもったいない」と言って怒られたものである。長距離電話も然りである。長電話をするようになったのは女の子と付き合うようになってからであった。
社会人になってからは寮生活。電話は共用の公衆電話。数が少ないので寮生間で争奪戦。長電話していると周りからのプレッシャーが痛かった。かかってくれば館内放送で呼び出された。自室に電話を敷いても良いと許可が出たのは社会人になって5、6年経ってからだったと思う。確か7万円くらいの保証金を取られたと思うが、そのお金は、会計的には資産計上するので使わなくなれば返してもらえるような気がするが、今はどういう仕組みになっているのだろう。固定電話も子機が登場してコードレスの時代に入る。
職場の銀行でも支店長車に電話がつくようになった。車に乗りながら電話ができるというのもすごいなぁと思ったものである。まだ支店長までの道のりは長く、早く使える身分になりたいものだと思ったものである。そして間もなく個人でも念願の携帯電話を手に入れた。携帯電話が登場した時は、これからは携帯の時代だと思ったし、早く使ってみたいと思ったが、結婚するとなかなかそうもいかない。結局、何事にも保守的な妻を説得したのは、「仕事で使う」という大義名分だった。1998年くらいだったと思う。
携帯電話ももっと早く普及していれば、女性の家に電話をするときにあれほどドキドキする必要もなかったのにと思う(相手が持っていれば、だが)。今は食事中かもしれないからもう少し後にしようと思い、後になればこんな時間に電話をかけたら悪いかもしれないと思い直して電話ができない。いよいよ意を決して「家族(特に父親)が出たらどうしよう」と心配しながらダイヤルし、心臓の音をBGMにコール音を数え、早く出てくれと願う一方、出なくてもいいと思う。今となっては懐かしい経験である。
携帯電話はスマホにするまで5台使った。携帯電話の良さは電話機能だけでなくショートメッセージも送れるところだった。今からすると短い文しか送れなかったが、それでもメールを送れるというのは、コミュニケーションという意味では画期的だ。携帯電話も最初はドコモだったが、J-PHONEに切り替えた。ちょうど写メールが流行り始めた頃で、写真が送れるというのも、これはすごいと思ったのを覚えている。やがてそれがボーダフォンになり買収を経て今のソフトバンクに至っている。
子供たちはと言えば、ある程度の年齢になったらキッズフォンを持たせた。連絡用でもあるが、どちらかと言えば安全面の意味合いが強かったが、次はもうスマホである。固定電話もあるがほとんど使っていない。もちろん、これからもスマホは進化していくだろう。そういう意味では、「過渡期」と言っても終わりのない過渡期と言えるかもしれない。果たして10年後にはどんなデバイスを使用しているのだろうかと思う。
雑談は、電話の古き良き時代を知るのは我々が最後の世代かもしれないという感想で終わった。モノには歴史があるものだし、まだその歴史は続いているし、電話の変遷の生き字引世代として、孫には面白い昔話をしてやれると思うのである・・・
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