2021年2月14日日曜日

論語雑感 公冶長第五(その14)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。

【原文】
子貢問曰。孔文子何以謂之文也。子曰。敏而好學。不恥下問。是以謂之文也。
【読み下し】
子(し)貢(こう)問(と)いて曰(いわ)く、孔(こう)文(ぶん)子(し)は何(なに)を以(もっ)て之(これ)を文(ぶん)と謂(い)うや。子(し)曰(いわ)く、敏(びん)にして学(がく)を好(この)み、下(か)問(もん)を恥(は)じず。是(ここ)を以(もっ)て之(これ)を文(ぶん)と謂(い)うなり。
【訳】
子貢がたずねた。「孔文子はどうして文というりっぱなおくり名をされたのでありましょうか」先師がこたえられた。「天性明敏なうえに学問を好み、目下のものに教えを乞うのを恥としなかった。そういう人だったから文というおくり名をされたのだ」
************************************************************************************

 「文」というおくり名がどれほど立派なのかはわからないが、おくり名が送られるということは、それだけ学問に秀でていたということ、しかもそのレベルが突出していたということなのだろうと思う。どうすればそれだけのレベルに達せられるのだろうか。元々の才能などと言ってしまえば我々凡人には真似しようがない。ただ凡人でもある程度できるとしたら、そのヒントは「好きこそものの上手なれ」かもしれない。

 「好きこそものの上手なれ」とはよく言ったもので、何事につけ上達が早いのは「好きでやっている」ことに他ならない。したがって勉強ができるようになりたいと思うのであれば、好きになることが一番である。好きなことだから何時間も没頭していられる。好きなことについては、常にアンテナが敏感だから何事につけ目についたもののうちそれに関連したものは素早くキャッチできる。普通の人が見逃すものの中にヒントを見いだせるのである。

 私などは一応難関国立大学を卒業しているので、勉強はできた方だと言えるが、勉強が好きだったのは確かである。国語は本を読むのが好きだし、今でもブログをせっせと書いているように書くのも嫌いではない。数学と物理は今でも好きで、関連する本はよく読んでいるし(直近でも『時間は存在しない』を読んだ)、娘が高校を卒業する時、使っていた数学と物理の教科書を譲り受けて今でも暇を見て開いている(なぜか新品同様に真新しい教科書に複雑な思いを抱きながらではあるが・・・)。

 英語はただ映画を字幕なしで観られるようになりたいという一心があったし(今でもある)、歴史はもともと大好きである。それらは「学校でやらなければならない勉強だから」というより、「知りたい、やりたい」という知的好奇心からやっていたものである。もちろん、「知らないものを知りたい」という気持ちもあり、生物や地学や倫理社会といった科目がそれに該当したが、中には化学のように好きになれずに苦痛だったものもある(高校時代、唯一赤点をとった教科である)。まさに「好きこそものの上手なれ」だったと思う。

 そういう好きなものだと、知らない情報に接すると、「詳しく知りたい」という欲望が出て来る。知っている人には「教えてくれ」と言いたくなる。そういう時には相手が誰であろうと素直に「教えて」と言える。もちろん、それが偉い先生などであれば躊躇はしないが、目下の者の場合、人は聞くのにためらうところがあるのだろう。そこを超えられる者こそより多くの知識を得られるし、それによって、あるいはそういう姿勢によって人の尊敬というものを得られるのだと思う。

 我が身を振り返ってみると、「誰にでも聞ける」ことはできていると思う。最初からというよりも、社会人生活の中で身についた姿勢とも言える。今でも仕事であれなんであれ、素直に教えを請うことができている。近年ではラグビーのプレーについて、よく大学生に教えてもらったりしているし、娘や息子に教えてもらうことも多い。仕事でも部下の意見を積極的に聞くようにしている。自分がわからなかったり迷うような時は特に、である。

 聞かれる方の立場に立って見た時、目上の者が聞いてきたのを見て軽蔑するかというとそんなことはない。自分もシニアのラグビーでは年上の人に聞かれることも多い。ラグビーの世界は日進月歩。常に変化しているから古くからやっている人の方が有利ということはない。したがって、「今のラグビー」を学ばないといけない。そんな時、「これどうやるの?」と聞いてくる先輩に対して、「そんなことも知らないのか」とは思わない。逆に積極的に聞こうとするスタンスを素晴らしいと思う。それに人間は本来教え好きだ。教えるのは気持ちがいい。となれば目下の者でもむしろ聞くことで尊敬を得られるかもしれない。

 目上とか目下ではなく、大事なのはその内容。これは私の過去の経験にからも強くそう思う。かつて銀行員時代、私は積極的に意見具申する方だったが、その意見は当然採り上げられないことも多い。それ自体どうとも思わないが、たとえばそれを聞いた課長が私の意見は却下したのに同じことを部長が言うとすぐ動くということがよくあった。サラリーマンであれば上司の指示に従うのは当然であるが、そういう「節操のなさ」には辟易させられたものである。その都度、自分はそんな上司にならないようにしようと意識させられたものである。

 部下の意見でもその通りだと思えば採用し、部長の意見であっても違うと思えばそれをはっきり伝える。それこそかっこいい姿ではないかと思う。仮に部下の意見を却下した後、同じ意見を部長に言われても部下に対するのと同様に反論し、それでも部長に「やれ」と指示されればそれをやるのは仕方ない。部下もそれを見ていれば、少なくとも私に一貫性は見て取れるし、筋は通せるだろう。意見の違いは仕方ないとしても、姿勢は違えてはいけないと思うのである。

 それにしても銀行員時代は、そういう上司に対する不満はあったが、いい勉強になったとつくづく思う。もしも自分が部下につまらない人間に思われていないとしたら、それはかつての反面教師たる上司のおかげだと思う。目下からも学べるし、経験からも学べるというところかもしれない。将来、私が「文」というおくり名を送られることはないだろうが、せめて「悪い見本」にはならないように、これからも背筋だけはまっすぐに伸ばしていきたいと思うのである・・・


Gerd AltmannによるPixabayからの画像 

【今週の読書】

 



0 件のコメント:

コメントを投稿